日暮らし通信


その日暮らしの生活でも、感謝しています

日頃、見た事・聞いた事・感じた事・そして言いたい事などを発信します

バスで不思議発見

2014年12月23日 13時58分33秒 | 街角から

日暮らし通信

■□ 写真タイトル と 撮影場所 □■

中央線・武蔵小金井駅北口

北口バス停にて



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先日、運転免許証更新の時、帰りは中央線・武蔵小金井駅北口から西武池袋線・清瀬駅南口行きのバスに乗ることにした

バスに乗るのは久しぶりのことで、空いていたので左側最前列の椅子に座ることができた

この席だと景色もよく眺めることも出来るし、運転手さんの操作なども間近かで見ることもできる

私はこの九年間、あまり外出しないので、世間では様々なことが進歩しているはずでも判らないことだらけだ

このバスに乗って二つ、”そうかあ~、こんなこともあるんだ” と感じたことがあった


● その一: このバスはAT車でした ●

運転手さんの足は降りるまで、両足を広げたままだったが左足は何も動かしていない

両手と右足はいつも動かしているので、それでこのバスがAT (Automatic Transmission) 車であることに気づいた

 ”へえ~、バスもオートマチック車なんだ” と、思った

路線バスのAT化は都会だけでしょうか? 地方のバスはどうなのでしょうか?

観光バスなどもAT化されているのでしょうか?


● その二: アイドリングストップ ●

信号で一時停止すると、エンジン音が停まったように静かになったのでこれが ”アイドリングストップ” かと実感した

信号が青になるとまたエンジンが始動したが、その間全く何事もなかったようにバスは動きだした

このアイドリングストップはどのようなシークエンスでエンジンを停めているのだろうか?

ネットで調べてもあまりいい答えは見つからなかったが、ATのバスはブレーキを踏んだ状態で完全停止すれば作動するものもあり、手動でキーを動かしたりするものも多いとのことだった

またMT (Manual Transmission) のバスはシフトがニュートラル (N) + クラッチペダルを踏んでいない状態でアイドリングストップが作動するとのことです

そんな答えではまだ納得できないでいるが、最近では乗用車でもアイドリングストップ機能を備えているらしい

でもこのアイドリングストップはどのようなメリットがあるのだろうか?

始動時の燃費は良くない、また始動をアシストするスターターなどに過度の負担が掛らないのだろうか?


そんな事を考えながらバスの動きに揺られていたら、早々(はやばや)と終点に着いてしまいました

あまり世間に飛び出せない私が選んだ二つの関心事だが、もっと調べてみたくなりました






追伸 (全生園を歩く)

2014年12月11日 15時07分18秒 | 街角から

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■□ 写真タイトル と 撮影場所 □■

母娘遍路像・碑文

国立ハンセン病資料館前にて



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先ほど 「全生園を歩く」 のタイトルで投稿しましたが、 「母娘遍路像」 での 「説明の碑」 は画像サイズを下げたために、読みにくいと思われます

画像サイズを変更して再度投稿しました





全生園を歩く

2014年12月11日 14時29分40秒 | 街角から

8時半過ぎ、DSから妻を迎えに来た車が着いた時、ポツリポツリと雨が落ちてきたが、今日もその車が見えなくなるまで見送った

その後、私は歩きで隣町内である青葉町を経由して全生園に向かった

いつかこのプログでご紹介したが、東京都東村山市 にある 「国立療養所多磨全生園(たまぜんしょうえん)」 は全国にある国立ハンセン病療養所の一つで、現在も過去に収容されたハンセン病患者の治療・看護等を行っている施設である

全生園の敷地は広大であり、私が歩いたのはほんの一部で、それは園の北側だけの区域だった

まず驚いたのはまだ紅葉・黄葉が色濃く残っていたことだ

いつも歩いている所沢航空記念公園ではもう終わってしまった色合いがここではまだ見ることができた

いくつかをご紹介しよう














少し歩き始めて出逢ったのがこの桜街道 (と、私は勝手に呼んだ) 

見事な大樹ぶりである

ソメイヨシノの寿命は約80年と聞いているが、ここの桜はもうそんな領域の樹齢かもしれない

 「全生園の桜は綺麗だよ」 と知人から聞いてはいたが、この街道が満開になると見事な繚乱ぶりであろう

来年は必ずここの桜花を見ることにしよう








園内の地理を理解しないままに歩いていたら 「国立ハンセン病資料館」 が見えてきた

この資料館についても先のプログでご紹介したが、書き忘れたのは資料館入口にある 「母娘遍路像」 のこと

私がこの由来を語るより銅像の傍にある 「説明の碑」 をご覧ください






この園内を全て見るのはたっぷり時間がかかりそうだ

だが我が市内でもここは有数の自然が現有する貴重な場所だ

よく見ると、これから冬本番を迎えるというのに 「木蓮」 の花芽はもう咲く準備をしているかのようだ




帰り道、ある商店の店頭に鉢植えのツツジの木があった

紅葉しながら花を咲かせていた

 ”こんな寒さの中でも” と、少し時期はずれかとも思うピンクの花は、小雨が降る今日の天気には似合わない鮮やかさだった





    写真説明: 園内を歩く
    撮影場所: 国立療養所多磨全生園(たまぜんしょうえん)にて



私の選んだ 「珍百景」

2014年10月11日 19時58分51秒 | 街角から

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■□ 写真タイトル と 撮影場所 □■

私の見つけた珍百景

スーパーの駐車場にて



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妻を介護するようになって、私の生活上では様々な変化が起きた

その一つが ”テレビをよく見るようになった” こと

それまで私は朝と晩くらいしかテレビを見なかったが、妻の傍にいつも居るようになってからは ”テレビは友達” のようにお世話になってしまった

テレビは妻が持っているたっぷりの時間を過ごすのに最適だったから、当然私もそれに従った結果だった

だが見る番組はだいたい固定化していて、お笑い芸人さんたちが大笑いさせるような番組はあまり見たことはない

妻が演歌が好きだから 「歌謡番組」 は必ず見るが、その他に録画した 「歌謡番組」 を見ることも多い

好きな番組の中に 「ナニコレ珍百景」 という、世の中に存在する可笑しな、珍しい光景を紹介する番組がある

世の中にはたくさんの珍百景があるものだと感心しながら見ているが、そのような珍しい光景をよく見つけるものだと、それも同時に感心している

さて、私が生活している範囲内で珍百景は無いか? 

と、探してみたが、どうも私のテリトリー内では常識的な物質で構成されているようだった

ところが、ふとこの写真の構造物を見た時 「これは珍百景」 ではないだろうか? と思った

この写真は近くの食品スーパーの駐車場から撮った光景だが、中央の建物上部・赤丸内の緑色の突起した構造物は一体何だろうか?

これは正しく 「珍百景」 だと、私は決めた

私の選んだ 「ナニコレ珍百景」 、果たして登録なるでしょうか?





村山貯水池に行ってきました

2014年07月17日 21時23分21秒 | 街角から
歩きにしようか? それとも自転車か? と悩んだ私の短い外出
でも午後からは天気が不安定との予報に、では自転車でと9時過ぎに家を出た
目的はいつかは行ってみたいと考えていた場所? 人間はいつかは古い想い出の中できっとまた行ってみたいと願っている場所を持っているものです
その目的地とは東京都の水瓶(みずがめ)でもある 「村山貯水池」 、今では 「多摩湖」 と呼ばれている人造湖だ

家を出て約50分走ってやっとここに着いた
でも何でこんな場所へ来てしまったのか?

この辺りに来るのは何十年振りのことだから、街の様子が一変、全く過去の記憶が役立たず、道を間違えてしまった
予定では堰堤から下に降りるつもりだったが、下から堰堤に上ることになってしまった
堤高は約二十メートル以上、自転車で遊歩道を登ることになったが、本日最高の重労働になってしまった



やっと堰堤へ。いいなあ~ 水の色も、空の色も



さあ~、長さ300メートルの堰堤を渡ってみよう



あっ、取水塔が見えてきた



堰堤から左を見ると当市が一望に納まっている
我が家は何処か? 
左側にちょこっと煙突のようなのが見えるが、その後でしょうか



この貯水池のシンボルはこの取水塔
左が第一取水塔、右が第二取水塔

この第一取水塔は 「日本で一番美しい取水塔」 と言われる
ネオルネサンス様式で煉瓦造りの円筒にドーム状の屋根が特徴だ
完成したのは大正17年7月とのこと、その通り、見ていると歴史の重みを感じる



取水塔は落ち着いた造りで素晴らしい構造物です
遥か前方を見ると何やら白い膨らみが見えます
西武ドーム? 私は西武球場と呼んでいますが



堰堤を見ると懐かしい建物が?
左側に見える建物は長男夫婦の披露宴をしたホテルです



さて、もう帰らなくては、と最後に撮ったのがこの写真
もうこんなに(さびれ)れてしまったと、感無量です
かつてはここから貯水池の水を流して沢山の田んぼに水を供給していました
私たちはここを ”十二段” と呼んで親しんできたのです



今日訪れた 「村山貯水池」、父のかつての実家はこの湖の下に沈んでいます
今のように個人の権利が認められなかった時代、この貯水地にはそれなりの悲劇もあったようです

昔は姑さんが嫁さんを(いじめ)めた
そのため嫁さんの何人かがこの貯水池で身を投げたとの悲しい話しを何回も聞きました

湖面を見ていたらおもわず 「合掌」 と身が引き締まりました



スズメの数が減りました

2014年07月13日 17時03分32秒 | 街角から
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■□ 写真タイトル と 撮影場所 □■

空港の雀

第二ターミナル展望デッキにて

 (羽田空港)



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最近、気になることがある。

それは私が住んでいる付近では(すずめ)の姿をあまり見かけなくなったことだ。

全く見ないわけではないが、飛んできても一羽とか二羽とかで、とにかく数が少ない。

以前は集団で飛んでいるのが雀の姿だと思っていたので、その様変わりに驚くばかりだ。

この現象は私の住んでいる多摩地域だけではなく、東京全体に見られるとの情報もある。

その原因はいろいろと推理されるが、建物の構造が変わったことが多いに影響しているとの説もある。

それは瓦の下の隙間や、屋根と外壁の隙間などが無い建物が増えた為、巣作りの空間が減ったと、発表した学者もいた。

確かに私の家を含めた今風建物の屋根を見ると、日本瓦のように隙間が無い。

かつて私が住んでいた旧家では日本瓦だったので、いつも雀が出たり入ったりで賑やかだったことを憶えている。

雀もそうだが(つばめ)もあまり見なくなった。

それと雀や燕の減少はカラスが増えたのが原因だとの一説もある。

地方では雀と燕は減っていないでしょうか?





我が母校は 「化成小学校」

2014年06月27日 16時41分56秒 | 街角から

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■□ 写真タイトル と 撮影場所 □■

東村山市立化成小学校

母校の門前にて



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昨日は私の通院日だった。

終わった後は駅前のスーパーで買い物の予定だが、懐かしい場所を見たくなって道を迂回して訪れてみた。

その場所とは 「東村山市立化成小学校」 、私の母校だ。

まず目に入ったのは広い北側の校庭。丁度休み時間なのか多くの後輩が思い思いの動きをしていた。

だが昔は校庭の北側には二階建の校舎があったが、今は無く広々としている。

それとこの学校のシンボルのような存在だったのがその校舎と本校舎を繋いだ50メートルもあったと思われる通称 「長廊下(ながろうか)」 があったのだが今はそれもない。

また本校舎がある場所より校庭は低い場所にあったので階段とスロープ状の坂があったが、今はその高低差はあまり感じられない。

その後正門前でこの写真を撮ったが、もう昔の面影は全く無い。

当時は正門から入ると、目の前は広い校庭があり、左側には講堂、着き当たりには職員室、右側には本校舎があった。

今は正門から右側の近い距離に校舎、着き当たりにあるのは体育館だろうか?

当時は門扉などは無かったが、今は突発的な事故に備えて鉄の扉が閉まっているのは寂しいような正門の姿だった。

この 「化成小学校」 が開校したのは明治8年 (1875年) 1月、多摩地区では最も古い学校らしい。

私が卒業したのが昭和27年 (1952年) 3月だから77期生になるだろうか?

在校中の想い出はたくさんあるのだが、今でも忘れないのは講堂で行われた寒い日での卒業式のこと。

司会の先生から私の名前を呼ばれて直立不動の姿勢で立っているこの私、小学校の時は意外と成績が良かったのです。

 「成績優秀者」 として貰ったのは当時誰も持っていなかった長めの算盤(そろばん)でした。

想い出すと懐かしい。あの頃は先生には威厳があって怖かったけど、優しさを生徒に分かち合う気遣いも忘れてはいなかった。

特に忘れられないのは5、6年時の担任の先生、本が好きでよくシェークスピアの 「ハムレット」 などを読んで聞かせてくれた。

その先生の影響で私も読書が趣味になりました。

私が小学生の頃は物質的に貧しい時代でしたが、振り返るといい時代でした。

食べる物が無くても人々の温もりが感じられた時代でしたから。

久しぶりに母校の門前に立つと、昭和と言う時代はそれなりに価値のある時代だった、と私は想った





ある民家の物語

2014年06月24日 16時13分43秒 | 街角から

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■□ 写真タイトル と 撮影場所 □■

左岸の住宅地を望む

空堀川右岸にて



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散歩しているとたくさんの民家の庭を見る機会が多い。

興味深いのは各民家ともその家特有の雰囲気があるが、私は庭の手入れが整っていると垣間(かいま)見るように中を覗いてしまう。

だが最近は充分に庭の手入れをする家は少なくなったようで寂しくなった。

昔はどの家も大家族だったから、年寄り (高齢者) の仕事といえば庭の樹木の剪定や草むしりを時間が経つのを気にせずにすることだったから、どの家でも庭の(おもむき)はすっきりとしていた。

ところが今はその良き風潮が(すた)れて、樹木は延び放題、庭は雑草に占領されて荒れ模様となっている家が多い。

そんな中で私が絶賛したくなる一戸建ての民家が空堀川沿いにある。

この家を見るととにかく庭がよく手入れされていて、数本ある樹木もいつもさっぱりと立ち並んでいる。

勿論私はこの民家のことは全く知らないが、推測できるのはまだ50代と思われるご夫婦が小まめに庭の手入れを怠らないことだ。

奥さんは時々日中に刈り込み(バサミ)を使って器用に樹木の剪定などをしている姿を見たことがある。

土、日曜日になるとご主人がこれまた小まめに庭の手入れを続けているが、誠に良い夫婦だと私は陰ながら感心している。

そしてこの家の手入れの良さを証明する事実があるが、それは市の 「燃えるゴミ収集日」 を見ると判る。

その収集日、この家では必ず落葉や剪定後の枝などが入った大きなビニール袋が三個必ず門前に用意されているが、この三個のごみ出しはほぼ毎回続いてる。

 「お前はよくそんなことが判るなあ~」 とお叱りを受けるかもしれないが、実は我が家の二階ベランダからこの民家の一部がよく見えるのです。

でも気持ちいいですよ。いつもこの家の整った庭を見ながら私の散歩が始まります。






北山公園菖蒲苑

2014年06月18日 20時56分18秒 | 街角から
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■□ 写真タイトル と 撮影場所 □■

菖蒲まつり

北山公園菖蒲苑



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今朝自転車で家を出たのは8時50分、今日の行き先は 「北山公園菖蒲苑」 と決めていた。

予定では歩いて行くつもりだったが、天気予報だと昼過ぎからは雨マーク、どうするか? と考えたが、「それなら降りだす前に帰る」 ことにして自転車となった。

25分ほどで菖蒲苑に到着。まだ人の入りは少ないがここに来るのは何年振りだろうか?

それとここに来るとやはり子供の頃を想い出す。

今ではこの菖蒲苑の南側を流れる北川 (私が子供のころは後川(うしろがわ)と言っていたようだが?) を見ると両側から鬱蒼(うっそう)と木々が繁って昼間でも暗い空間が続いているが、昔はもっと明るくて視界も良かった。

そして菖蒲苑の入り口にある 「善行橋」 のすぐ下の上手には小さな関があって夏には土地っ子の泳ぎ場でもあった。

 「ここで泳いでいました」 と言っても誰も信じられないだろが、昔の北川を知る者にとってはいささか残念な環境変化でもある。

菖蒲苑のキャッチフレーズには 「170種類、7千株、10万本の花菖蒲が咲き乱れ」 とあるが、その通りで私には特に絶賛する形容詞も浮かんでこない見事な花模様だ。

だが菖蒲は手間暇のかかる管理が必要で、経費削減などで手を抜くとすぐにそれなりの結果になってしまうそうだ。

この菖蒲苑が開園した当時は今のように商売っ気のテント村も無い、静かな雰囲気だったが今はその面影もない。

それと近所の農家の売店も商売っ気充分で、少しも安くない。むしろ、巷より高く売っている光景を見ると菖蒲をだしに使って金儲けか? と ”その商魂に異議あり” と文句を言いたくなる。





梅雨 と 紫陽花 (アジサイ)

2014年06月08日 14時00分41秒 | 街角から
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■□ 写真タイトル と 撮影場所 □■

梅雨紫陽花

都営住宅花壇にて



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私たち夫婦はこの連続の雨で足止め状態、日課の散歩もまたお預けとなっている。

そんな梅雨が降りしきる中で、やっぱり活き活きとしているのが紫陽花の花だ。

11時前、私は雨の中を独りで家を出た。といっても遠出するのではなく、都営住宅2号棟裏側花壇にある紫陽花を撮るのが目的ですぐ帰らなければならない。

ここの花壇にはいろいろな花が植えられているが、今は何と言っても紫陽花がひと際目だって咲いている。

 「紫陽花は雨に似合う」 と言われているが、全くその通りだ。

紫陽花のDNAと雨の精とは昔からの友達のようで、雨のシャワーが降り注ぐと、紫陽花は一気に輝きを増して鮮やかさが見違えるように変化する。

雨の(つゆ)たちと紫陽花の花が一体となって一つの構図を作り上げているようだ。

私のデジカメ液晶画面は2.5インチなので、撮った画像はあまり確認できないが、パソコンで拡大表示 (1,280×960ピクセル) するとその鮮やかさが(よみがえ)ってくる。

今日もまた雨降りの一日で終わりそうだ。





郵便差出箱

2014年06月05日 13時59分08秒 | 街角から


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■□ 写真タイトル と 撮影場所 □■

郵便差出箱

空堀川沿いにて



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空堀川右岸沿いを久米川橋に向かって歩いていたら第二天王橋近くの対岸で珍しい物を見つけた。

赤い郵便ポストだ。勿論、現役ポストですよね。

今ポストは全てが金属製角型だと思っていたのだが、まだこのような円筒状の 「丸型ポスト」 が残っているなんて驚きだった。

でも一般的にはポストと呼んでいるが、日本の郵便法による正式名称は 「郵便差出箱(ゆうびんさしだしばこ)
」 と言うそうです。

 「郵便差出箱」 の方が何となくレトロな感じがしてこの赤いポストに似合っているようです。

その姿に引き寄せられるように近付いて見ると ”おやっ” と思うことが幾つかありました。

まずはシャッターのあまりにも近い距離にこのポストが立っているのは何故でしょうか?

この商店はもう閉店状態のようですが、それを証明するのが入口の雑草です。
人の出入りの気配があれば店主は必ず雑草をむしるでしょうからね。

私の推察ですが、このポストを設置した頃は、ここは人の往来のある賑やかな街の要所で、このシャッターの商店もまだ建っていなかったのではないでしょうか?

この赤いポストはここでいろいろな出来事、歴史を見てきたでしょうが、今はこの地のあまりにも変わった環境に戸惑いながら立っているのかもしれません。

世の中が変化して、携帯電話、パソコンなどが普及して手紙を投函する数も減ったことでしょうが、この赤いポストはいつまでもこの地で
 「郵便差出箱」 として居て欲しいですね。




栄町陸橋人道橋

2014年05月28日 16時48分44秒 | 街角から



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■□ 写真タイトル と 撮影場所 □■

頂上から久米川駅を望む

栄町陸橋人道橋にて



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今日も9時前、妻がディサービスへ行った後、家を出て空堀川・右岸を上流に向かって歩いた。

40分ほど歩くと新青梅街道と交差する久米川橋に至る。

いつもだとここで左折して久米川駅に向かうのだが、今日はここから右折して新青梅街道沿いに半円のように架かっている 「栄町陸橋人道橋」 を渡って空堀川左岸へ行くことにした。

この人道橋の最も高い場所で一息入れた。

その場から西側を見渡すと街の景観がまた違った角度で望めるが、また昭和30年代を想い出すとその環境変化に驚くばかりだ。

当時この付近で人が住むこと自体が冒険のように想われていたことがあるなんて想像も付かないだろう。

だが、高さのある人道橋頂上からの眺めは抜群だと思ったが、もしかしたら今日は曇り空だから見えないが、天候によっては富士山がよく見えるかもしれない。

この人道橋を渡ったのは始めてだが、街中にはまだまだ私の知らない景観がたっぷり隠されているようだ。