林 志行の「現代リスクの基礎知識」
チャイナリスクとアジア戦略
民主党が政権を奪取し、一年超が経過したが、マニフェストの見直し、小沢元幹事長の証人喚問、円高対策、事業仕分けでのパフォーマンスなど、野党からの攻撃は強まるばかりである。そのすき間を縫って、中国が尖閣諸島問題で強気の対応を見せ、民主党政権の実力を試している。
さらに11月4日の深夜から5日の早朝にかけ、公開が控えられていた衝突時のビデオらしき映像がYouTubeに流出。影響はこれから明らかになるが、まだまだ日中関係はくすぶり続けている。
そこで今回は、APEC横浜での首脳会議を前に、日本と中国の間の外交や経済通商、ビジネスリスクにおける日本の立ち位置を整理しておきたい。
■チャイナリスク
尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件やその後のレアアースの輸出制限、通関手続きの強化など、中国側からの菅政権への揺さぶりには、いくつかの理由が考えられる。
一つは、中国がこれから新しいリーダーを選ぶ過程で、強硬派を含め、政治的指導力を見せる必然性があったこと。二つ目は、中国国内の貧富の差や蟻族(大卒でありながら良い職に就けず過酷な生活を強いられる若者層)に対するガス抜き。三つ目は、普天間基地移設問題や日米同盟関係での沖縄や尖閣諸島に対する米軍の姿勢の確認。さらに四つ目は、民主党政権が領海のグレーゾーンにどのように対応するかの確認である。
中国がこうした強気な姿勢を見せる背景としては、中国経済が好調であることに加え、製造業の現場における技術指導や高等教育などで一定の成果を得たことで、日本の技術をさほど必要としなくなってきたことが挙げられる。また、中国と台湾が蜜月関係にあり、尖閣周辺で日本ともめても、香港などから横やりが入らない安心感も考えられる。
こうした中国からのチャレンジに対し、民主党は当事者意識に乏しい。自民党が長年リスクを先送りにしてきたためであり、その尻拭いをさせられているようなもの、という感覚だろう。確かに、グレーゾーンを設け、お互いに踏み込まないという点では、長い歴史が両国間にあった。これに対し、民主党は右と左がくっついた形であり、相手が強気の態度に出て猛然と抗議すると、今度は弱気の部分が出る。結局、足元を見られ、陣地にどんどん入り込まれる状態が続く。
必要に応じて政権交代が可能な二大政党を望んだのは有権者だが、冒頭に列挙したような様々な課題を前に、民主党自身が分裂しそうな状況にある。より強力な政権運営には、保保連合やパーシャル連合が不可欠ではないかという見方もある。
中国国内でのデモや労働者らによるストは進出企業や駐在員、その家族らを不安に陥れる。一部企業では、製品や部品の輸出入において、貨物検査率の引き上げにより通関手続きに時間がかかり、貨物に遅れが生じているとの報道もある。
こうしたチャイナリスクの顕在化とそれらへのリスクヘッジでは、二つのことが求められる。一つは、製造拠点の分散であり、もう一つはサプライチェーンを含むビジネスモデルの再定義である。
製造業の加工拠点については、日本国内はマザー工場として先端技術あるいは知財など自社が確保すべきものに特化し、実際のものづくりは中国に移行して久しい。安く・早く・大量かつ確実にものを作れる場所に製造拠点が移行する「フラット化」はますます加速する。世界の製造工場を自負する中国には、この10年間、ありとあらゆる国々からアプローチがあり、その都度、格安で製品を作るかわりに、研究開発や技術教育の面で「発展途上の中国の支援」を約束させ、確実にスキルアップを図ってきた。
新幹線でいえば、日本やフランス、ドイツの製品・技術を導入し、それらを「改良」し、今ではアジアや第三国(中南米)などへの高速鉄道の売り込みを図ろうとしている。電気自動車でも、やがてミドルテクの車種が完成しそうな勢いだ。なにしろ、中国という独自の国内市場だけでもビジネスとして十分に成立するので、製品化を進めながら研究開発を重ね、さらに先を目指すこともできる。
ただし、中国は自らの国内市場のために、さらに経営資源を必要とする。レアアースの希少性に気が付き、海外に出す量を制限し始めるのも、中国側のスタンスからは理にかなう。もちろん、中国側が勝手に絞ることはできないし、中国が必要とする精密機械は日本がレアアースを使い磨き上げたものであったりする。つまり、中国と日本は一方的に切り離せるほど単純ではない関係にあるのも実情だ。
■日本からの切り返し
そうは言っても、チャイナリスクが顕在化し、懸念していた「事態」が浮上したら、関係者の動きは速い。特に、企業はリスクヘッジとして次なる拠点を考えることになる。そうでなくても、中国での加工が単純加工から複雑な作業のものに向かうなか、台湾企業はいち早くベトナムなどへと動いている。水先案内人としての華僑ネットワークがあり、簡易加工なので、工場はたたみやすく、立ち上げやすい。スピード経営が命の世界である。
日本は、ここ数年、対中ビジネスにおいてバブルの崩壊や人民元の為替レベルの調整などに若干の懸念材料を有していた。しかし、靖国参拝などに対する小泉政権当時の揺さぶりとは異なり、友愛外交を旗印とし、戦略的互恵を主張する民主党政権がここまで揺さぶられると、企業経営、事業戦略、国際戦略の立場からは、拠点の再検討が不可避となる。
日本政府は、2008年9月のベトナムとの経済連携協定(EPA)合意(2009年10月1日発効)に続き、今年10月25日にはインドとのEPA締結に成功した。ベトナム、インド両国とも、領土問題で中国との懸念材料を抱えている。また両国とも、インフラ整備、特に高速旅客鉄道や貨物鉄道、原子力発電などエネルギー設備の整備に日本の技術や資金を必要としている。
こうした中、ベトナムとは原子力発電所の建設のほか、レアアースの共同開発でも合意した(10月31日)。インドとも、EPAの締結以外に、レアアースについて代替資源の研究開発や再利用での協力方針が打ち出された。また、ハイブリッドカー用に、インド東部オリッサ州でレアアースの精製工場建設を発表(10月15日)した豊田通商のように、リスクヘッジに向けた動きはすでに始まっている。
日本は新幹線や原子力発電、水処理施設などのインフラ事業において海外輸出の実績を作る時期にある。国際入札で勝ち抜くためには、トータルコストで多少割高になったとしても、メンテナンスコストやマシンの性能、稼働率などを考慮したり、あるいは完成までのスケジュール、それらインフラの稼働に向けたマネジメント、引き継ぎでは安全安心を提供できることを証明すれば良い。
通信施設を含め、こうした大規模インフラはライフラインとなる。プロジェクトの遅延や、大きな事故の発生は、相手国の政権自体に大打撃を及ぼすことになるので、単に価格だけで決まらない世界でもあり、そういう点をアピールすることが必要だ。これらがビジネスモデルの再定義である。
製品とサービス提供というパッケージ一体となった進出で総取りを狙う日本と、部分最適でより安く現地にもスキルが残せるようにしたい発注元の間でせめぎ合いが生じ、その落しどころへの知恵やスキームの確立が模索されている。多くの成功事例が蓄積されるまでが我慢どころであり、政府からの支援、トップセールスは欠かせない。
日本に期待されるODAなどの資金援助、あるいは入札に向けた現地(地方政府)からの要求水準は、競合相手となる中国や韓国の台頭によって、さらに厳しいものとなっている。自由貿易協定(FTA)やEPA、さらにはAPEC直前にクローズアップされた環太平洋経済連携協定(TPP)を結ぶ相手国は、日本への人的サービス(特に医療や介護分野での看護士や介護福祉士)の受け入れを要請している。インドとのEPAでも継続協議とされた案件であるが、受け入れる方向に向かわざるを得ないだろう。
■2015年に向けたのりしろ
こうしたFTAやEPAの締結合意で、日本はいつまでにどの程度の変革が求められるのか。戦略的グローバル・パートナーシップでは、10年をめどに、二国間や地域内の関係を強化することになる。ASEANは、90年代後半に2020年までの域内経済統合を決めていたが、その期限は2015年まで前倒しされており、TPPはその仕上げへの担保のようなものである。
日本のTPPへの参加の意志表明は、その2015年にTPPが稼働するからである。TPPは環太平洋の拠点となる4国(シンガポール、ニュージーランド、チリ、ブルネイ)が最初に経済圏としての成立を目指したもので、むしろフレームを作り、その中に米国も含めた主要国が入ってくるように仕組みを整えた形になっている。
ASEAN10カ国での経済統合は次第に広範な協力を推進するようになり、ASEAN+3(日中韓)の枠組みがスタート。2000年以降、ネットワークの普及による経済のグローバル化の進展に伴って、より大きな市場を包含し、自由貿易によって効率良い市場取引を目指すことが参加国それぞれのメリットとなってきた。
日本は資源を持たない国なので、本来、シンガポールのような立ち位置で、ものを加工する技術での優位性を強みとしなければならない。そのためには、英語によるコミュニケーションを活発化させる必要がある。前回の本コラム「チリ鉱山落盤事故の救出と日本の貢献」でも伝えたが、いざ善意の貢献をしたくても、その前に具体的な経験や成果があるのか、資材やマンパワーを含め、災害地の近くに駆けつけることができるのか、さらにはコミュニケーションスキルを有するのかが問われてくる。このコミュニケーションスキルには、世界で共通の言語となりつつある英語をいかに操るかということと、国際貢献(あるいはリスクマネジメント)の専門家としてのブランドづくり、情報発信力、ネットワーク構築力も含まれる。
■フットワークの軽い企業組織を目指し
より小回りの利く企業組織を目指す上では、スキルを確保したエキスパートが起業や独立しやすくすることと、中小企業を含め、アジア諸国など新たな市場を創造し、連携する国や地域との相互利益を確立することが重要である。
優秀な人材が企業内に留まり数少ないトップのポストを目指すのではなく、体力のあるうちに外に出てグローバル感覚を学ぶ。そうしたチャンス、起業直後のブランドの保証、あるいは万が一うまくいかなかったときに再チャレンジを保証する仕組みをどう作るかがキーとなろう。才能があるにもかかわらず十分に職を得られていない若者が、EPAやFTAで連携する相手国の先端部分で活躍し、あるいは国内で影響を受ける産業や企業、自治体をサポートするマンパワーとしてのポジションを確立するためには、政府が積極的にこうした市場を作り、仕事を作り出す工夫をすることである。
一方で、日本が自ら出ていくのではなく、人材教育の場としてアジアなどから人を迎え入れる環境づくりも考慮すべきであろう。EPAやFTAは、ヒトやサービスの交流、行き来を保証するものだが、「アウェイ」で右も左も分からない中で努力するより、「ホーム」で自らに足りないスキルをサポートし合うチームとともに各種サービスを提供するのも一計だ。滞在者が日本での観光や生活を通し、内需へと貢献することが望ましい。
そうした働き方を考えた場合、国全体をマザー工場化し、日本的サービスやサポート、保守などを学ぶための各種ツールを整備することが求められよう。情報通信技術(ICT)の活用により、日本国内ですべてを構成する必要はないが、欧米を中心とした英語文化圏でのMBA的管理技術とは一味違う日本の安全安心が、諸外国で注目されようとしている。海外では英語でのコミュニケーションが不可欠だが、国内では他言語と日本語の間の自動翻訳が高度化されれば、より多くの伝承を日本国内で行うことが容易となる。
2010年11月5日 日経BP
林志行(りん・しこう)
早稲田大学大学院教授。外交官の父と各地を転々。日中英台・4カ国語を操る。専門は、リスクマネジメント、アジア情勢分析、国際ものづくり戦略。シンクタンクにおいて、調査研究、企業コンサルティングに従事。2003年1月、国際戦略デザイン研究所を設立、代表取締役に就任。2004年より美ら島沖縄大使。沖縄金融特区(キャプティブ導入)の発案者、ITリゾートの提唱者として知られる。2006年より東京農工大学大学院教授を兼務。2010年より、早稲田大学大学院経営デザイン専攻教授に着任。政府の各種委員を務める。経済誌、新聞各紙にて連載を持つ。近著に「マザー工場戦略」(日本能率協会マネジメントセンター)「事例で学ぶリスクリテラシー入門」(日経BP)など。日々の活動は、ツイッタ-「linsbar」に詳しい。