皇居の落書き

乱臣賊子の戯言

次の皇位継承の問題

2024-05-17 12:11:50 | 皇室の話(3)
「皇位継承の問題とは切り離し」とした上で、皇族数の確保を図るというのは大嘘で、

男系男子の継承原理の固定化のための方策なのだろうけれど、

この方策を支持する者たちというのは、次の皇位継承のことについて、

真剣に考えているのだろうか。

男系男子の継承原理によれば、次の皇位継承者は秋篠宮殿下であるが、

天皇陛下のご誕生は昭和35年2月23日、秋篠宮殿下のご誕生は昭和40年11月30日。

5年9ヶ月しか、歳が離れていないのである。

したがって、秋篠宮殿下が即位するとして、その在位期間は短い期間となるか、

あるいは、

こういう話はなかなか口にしにくいことではあるが、

即位されないということもあり得るかもしれない。

これは、象徴天皇制度の運用上、大きな問題であるはずだが、

愛子天皇という選択肢を排除しようとする男系派において、

この問題について議論しているといった様子はまったく見られない。


秋篠宮殿下の即位がこのような状態であるとすると、

悠仁親王殿下の運命も厳しいものとなりそうである。

天皇としての在り方を身につけることが果たして可能なのか。


また、それ以前の問題として、

あまり週刊誌の記事に依拠した議論は適切でないと思うのだが、

お仕えする職員の扱いが随分と非道いといった記事は気になるものである。

記事の内容は間違いや脚色が含まれているであろうけれども、

宮務官の異動といったことは外部からでも分かるものである。

弱い立場にある人間を粗末にする。

君主として、象徴天皇として、あってはならないことだ。


皇族数の確保どうこうの前に、もう日本に「天皇」は要らないという時代が来てしまうかもしれない。
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有識者会議の報告の違和感

2024-05-14 22:21:14 | 皇室の話(3)
令和3年12月22日付け「「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議」の報告を読んでみた。


この手の報告を読んだ場合の感想というのは、読み手のもともとの考え方に基づく見方が反映されがちであろうし、筆者はこれまでの記事でも明らかにしているとおり男系継承の重視に反対の立場であるので、筆者の感想というものが、ある程度偏見に基づくものであるということは、予め認めておくことといたしたい。

ただ、その上でなお、以下に述べる事柄については、中立的な立場の方々においても、違和感を生じることとなるのではないだろうか。

1 政治家の名前が何回も登場
この報告を読み始めて、最初に感じたのは政治家の名前が目に付くなということである。
1ページ目に「菅義偉内閣において、・・・設置されました。」、「岸田文雄内閣において会議は再開され」とあり、4ページ目に「菅義偉内閣総理大臣・加藤勝信内閣官房長官御出席の下、議論をスタート」、5ページ目に「岸田文雄内閣総理大臣・松野博一内閣官房長官御出席の下、・・・議論を再開し」といった具合である。

会議の性格を明らかにするために、内閣総理大臣決裁で開催といった説明をする必要はあると思うのだが、なぜこんなに名前を記載するのであろうか。

とりわけ、この議論が皇室制度に関わるものであるということで、党派性を超えて行われるべきものという考えに立つのであれば、個々の政治家の名前を出さない方がよいのではないかと思われる。

このことについての説明としては、責任の所在を明確にするため、といった理屈になるのかもしれないが、そうであるとすると、今回の報告の内容は、有識者主導で取りまとめられたものではなく、これらの政治家主導で取りまとめられたということなのだろうか。

報告の概要には、「今上陛下から秋篠宮皇嗣殿下、次世代の悠仁親王殿下という皇位継承の流れをゆるがせにしてはならない。」ということが書いてあるが、あるいは、「ゆるがせにはしない」ということの保証人として名前を列挙しているということなのだろうか。

2 皇位継承について議論について「機が熟しておらず」という認識でよいのか
6ページ目の最後の方に、「悠仁親王殿下の次代以降の皇位の継承について具体的に議論するには現状は機が熟しておらず、かえって皇位継承を不安定化させるとも考えられます。」とある。

この表現には、巧妙な不誠実さというものを感じさせられてしまう。
皇位継承の在り方の議論というのは、「機が熟しておらず」どころか、むしろ反対で、あまりに遅く時機を逸しつつあるというのが実態なのではないだろか。

平成の一桁の時代において、このままでは皇位継承資格者の確保が厳しくなりそうだという感覚はあったはずであるから、できれば、今の天皇皇后両陛下の御結婚前に議論を済ませておくのが理想であり、遅くとも次の世代の方々が幼少であるうちに済ませておくべき議論であったろうと思う。

それを「機が熟しておらず」とは何事かという気になるのであるが、よく読むと「悠仁親王殿下の次代以降の皇位の継承について」という言い方で、悠仁親王殿下までの皇位継承は確保されているのだから緊急性はないという主張であるようにも解される。
なかなか功名である。

ただ、そうだとすると、続く「かえって皇位継承を不安定化させるとも考えられます」とはどういうことなのだろうか。

本当に悠仁親王殿下までの皇位継承が確保されており、皇位継承の在り方については、悠仁親王殿下の次の代についての問題として考えればいいと認識しているのであれば、今から議論を行うことに何の問題があるのだろうか。

この議論についてある程度の年数を要するとした場合、悠仁親王殿下は現在17歳でおられるのだから、早めに議論の決着をつけておかないと、悠仁親王殿下の御結婚の時期に間に合わない可能性もあるのではないだろうか。

悠仁親王殿下の御結婚相手にとって、男系男子維持のために男子を産まなければならないのか、それともそういった産み分けは不要なのかといったことは、大きな問題であると思われる。

御結婚はなかなかハードルが高いと思うのだが、その実現のために、決着をつけないままで良いことは何もないのではないか。

それで、結局のところ、この文章における「かえって皇位継承を不安定化させるとも考えられます」の箇所というのは、現時点で皇位継承の議論に手を付けると、愛子内親王殿下に皇位継承させるべきという意見が抑えられなくなり、悠仁親王殿下への継承という道筋が危うくなるという意味であるようにしか考えられない。

そうであるとすると、文章の趣旨、切り口が途中で変わっているということであり、筆者としては不誠実さを感じてしまうのである。

3 悠仁親王殿下とその御結婚相手のプレッシャーは大変なことになる
7ページ目の最初に「悠仁親王殿下の次代以降の皇位の継承については、将来において悠仁親王殿下の御年齢や御結婚等をめぐる状況を踏まえた上で議論を深めていくべきではないかと考えます」とある。

続く段落において「まずは、皇位継承の問題と切り離して、皇族数の確保を図ることが喫緊の課題であります」とあるので、今回の報告で示された方策が実現したとして、皇族数の増にはなるとしても、皇位継承資格者の増にはならないということのようである。

であるとすれば、将来の悠仁親王殿下とその御結婚相手のプレッシャーは大変なものであろう。
「御結婚等をめぐる状況を踏まえた上で」という言い方というのもどうなのだろうか。
御結婚できなかったから仕方がない、御結婚しても男子を産めなかったから仕方ないという認定の上に議論を開始するというのは、あまりにも残酷な責任の負わせ方なのではないだろうか。

4 皇位継承の問題と切り離すというのは本心なのか
7ページ目のところで「まずは、皇位継承の問題と切り離して、皇族数の確保を図ることが喫緊の課題であります」とあり、「皇族数の確保」について議論したものであるという前提の下で具体策の話になっていくのであるが、9ページ目において、以下の三つの方策が示されている。

① 内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することとすること
② 皇族には認められていない養子縁組を可能とし、皇統に属する男系の男子を皇族とすること
③ 皇統に属する男系の男子を法律により直接皇族とすること
これらを読んで最初の違和感は、②と③について、皇位継承の問題と切り離してということであれば、なぜ「皇統に属する者」ではなく「皇統に属する男系の男子」という限定を付しているのだろうか、ということである。

このことの説明は11ページ目に「皇族が男系による継承を積み重ねてきたことを踏まえると、養子となり皇族となる者も、皇統に属する男系の男子に該当する者に限ることが適切であると考えます」とあり、11ページから12ページ目にかけて「皇室を存続させていくため、直系の子、特に男子を得なければならないというプレッシャーを緩和することにもつながるのではないかと考えます。」とあり、要するに、男系による皇位継承をも視野に入れた方策であるということのようである。

より明確に、この後の箇所に「また、皇位継承に関しては、養子となって皇族となられた方は皇位継承資格を持たないこととすることが考えられます。」とある。
これは少し分かりにくいのだが、これは養子となった方自身には皇位継承資格を持たないことともあるかもしれないということで、その方の子については皇族として生まれた方なので当然に皇位継承資格を持たせるということであろう。

明らかに男系男子の皇位継承資格者の確保策である。

筆者としては、現状で、皇位継承資格者の確保は重要な課題であると認識しており、男系継承の維持というのも、現行の皇室典範で採用されている制度ではあるのだから、その観点に立っての議論というのもあるべきだと思っている。
ただ、議論をするのであれば、「皇位継承の問題と切り離して」と言って誤魔化したりせず、正々堂々とした議論を行うべきなのではないだろうか。

5 当事者の人生についてどこまで思いをめぐらした方策なのだろうか
順番が逆になってしまったが、①についても、何ともなぁという感じである。

10ページ目のところで、「和宮として歴史上も有名な親子内親王(第120 代仁孝天皇の皇女)は、徳川第14 代将軍家茂との婚姻後も皇族のままでありましたし、家茂が皇族となることもありませんでした。」とあり、女性皇族は婚姻後も皇族のまま、かつ、相手方は皇族としないという方策のようなのだが、その家庭生活は、一体どのようなものになってしまうのだろうか。

徳川第14 代将軍家茂との婚姻の話を持ち出されても、現代日本における家庭生活の在り方のイメージにはつながってこない。

そもそも、この例における親子内親王は、婚姻後も皇族のままではあったとしても、将軍家に嫁入りしたということには変わりはなく、嫁入り後は将軍家の流儀にのっとって生活をされたのではないだろうか。
そしてこのことは、皇族としての身分を保持し続けても、将軍家の流儀にのっとって生活をする上で支障がないという条件の下で、可能だったのではないか。

①の方策というのは、女性皇族に結婚後も「皇族として様々な活動を行っていただく」ためのものであるから、皇族としての身分を保持しつつ嫁ぎ先の流儀にのっとって生活するというのではなく、むしろ逆のようである。

親子内親王の例とは逆に、結婚の相手方(民間男性)に皇室としての流儀にのっとって生活をしてもらうという場合、民間男性の身分、すなわち、政治、経済、表現等に関わる自由が保障された身分というのは、皇室としての流儀に衝突するのではないか。

そのような自由の制約を迫るというのであれば、結婚の相手方(民間男性)に皇族としての身分を持たせるというのが筋なのではないか。

あるいは、どちらかの流儀に合わせるということはせず、それぞれ結婚前の身分に基づく生活を維持するというのであれば、そもそも結婚とは何なのだろうか。

この方策について、まず気になるのは、異なる身分の夫婦の家庭生活がどのようなものになるであろうかということなのであるが、10ページ目の中ほどに「ただし、この方策に反対する考え方もあります。その代表的なものは、女性皇族が婚姻後も皇族の身分を保持することが皇位継承資格を女系に拡大することにつながるのではないか、というものです。」とある。

正直、あきれてしまう。

「代表的なもの」とあるのだが、このような思考を巡らせるのは、男系維持に凝り固まった一部の少数派だけなのではないか。

6 元女性皇族の役割について
13ページ目に、「婚姻により皇族の身分を離れた元女性皇族」に、皇室の活動を支援していただくという方策について言及があり、この報告における結論では採用しないということになっているが、改めて読んでみると、元女性皇族に必要な役割を果たしていただくというのは、選択肢として十分にあり得るものと思われる。

とりわけ、13ページから14ページ目にかけて、「摂政や国事行為の臨時代行や皇室会議の議員という法制度上の役割は、「元皇族」では果たすことはできません。」とあるのだが、このうち「皇室会議の議員」については、立法論まで含めて考えるのであれば、「元皇族」に役割を果たしてもらうというのは、可能なのではないだろうか。

7 誰に向けた言葉なのだろう
15ページ目から、締めくくりの文章となっている。
会議のメンバーが真摯に、慎重に議論したということは、その通りであろうと思う。

問題は、それらの議論のまとめ方である。

この箇所でも、「皇位継承の問題とは切り離した上で皇族数の減少が喫緊の課題であるという共通認識の下に、皇族数の確保に向けてできるだけ多様な選択肢を提示するという考え方に立って」と述べているが、そのすぐ後に、「これらの方策を実現することは、悠仁親王殿下の後の皇位継承について考える際も、極めて大事なことであると考えます。」とあり、将来の皇位継承のことも念頭に置いているということであろう。

皇位継承の議論をするならするで正面から取り組むべきであると思うのだが、それを避けようとしつつ、男系維持の方策を盛り込もうとするので、何とも不誠実な感じがしてしまう。

福沢諭吉の「帝室論」の「帝室は政治社外のものなり」を引用しているが、それならなぜ、最初の方であんなに政治家の名前を記すのであろうか。

この報告は、男系継承ということに凝り固まり、それ以外の方策については何も考えたくないというような、化石化した脳の持ち主には違和感を生じさせないのかもしれないが、まじめに考えようとする人間の心には、あまり響かないものとなっている。
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高森明勅氏の説はもっと注目されるべき

2024-05-13 21:19:27 | 皇室の話(3)
高森明勅氏の説はもっと注目されるべき

皇位継承の在り方をめぐる問題については、高森明勅氏の説が明解であり、また、皇室に対する敬意に基づいた説でもあるので、同氏の説がもっと注目され、支持されることを願いたい。

令和6年5月9日配信のSmartFLASH「「90%が容認」世論調査も進まぬ「女性天皇」実現への道 識者が本誌に語っていた「4つの理由」と「解決策」」と題する記事がある。

この中に、以下の記載がある。
----引用開始----
「それは政治家の問題です。国会内にある『男系男子』への根拠のない思い込みによる固執ですね。

 彼らは『男系男子』が明治になって初めて採用されたルールであることさえ知らない。推古天皇以来、後桜町天皇まで10代・8人の女性天皇が実在したわけです。明治になって排除されただけですから、男子限定というルールはなかったということです。

 古代の大宝令、養老令は『女帝の子』に女系で『親王』の身分を認めており、そういう意味でも、男系に限定したのは明治からということがわかる。『男系男子』が、神武天皇以来の皇室の伝統だという錯覚に基づいて思考停止している。それが、政治家として、いちばん楽だからです」
----引用終了----

これは、高森氏が一貫して主張されてきた内容であるが、筆者としてどのように消化して理解したかということを述べると、以下のようになる。

「彼らは『男系男子』が明治になって初めて採用されたルールである」ということについては、
・明治になるまでは皇位継承順位を法定したものはなかった。
・明治なり皇位継承順位を法定することになった。その際、それまでの継承の在り方から「男系」というルールがあるものとして読み取り、明治の時代状況(男尊女卑)も踏まえて、「男系男子」という規定を作成した。
・これはすなわち、「男系」継承を原理として認めたということである。

しかし、
・「男系」継承が原理として、本当に歴史上に存在していたと言えるのか。
歴代の皇位継承は、本当に「男系」継承を守るべき原理として、執り行われてきたのか
仮にそうでなるならば、何らかの文献で確認できそうなものであるが、それがまったく無いのはどういうわけなのか。

ここで、「古代の大宝令、養老令は『女帝の子』に女系で『親王』の身分を認めており、」という話になるわけであるが、
・これは高森氏が早くから着目している「『養老令』「継嗣令」皇兄弟子条の『女帝子亦同(女帝の子も亦〔また〕同じ)』といふ記述」のことである。
むしろ、「男系」継承の原理があったということとは逆の証拠が古来の法令に存在していたということである。
歴代の「男系」継承ということは、結果としてそうであったということであり、原理として歴史上存在していたわけではないということの決定的な証拠である。

明治時代になり、皇位継承順位を法定しようという場面において、何らかの原理があるはずだと考え、それを条文に盛り込みたいというのは、法制業務を担当する者の自然な発想ではあろう。
また、現在でも、法学部出身の者は、だいたいこういう発想をするものではないだろうか。
筆者にしても、男系継承が影のようなものである考えるに至ったのは数年前であり、それまでは原理として捉えていたのである。
これは、近代的な法制業務的発想の罠であったと言えるだろう。

歴史上の男系継承が影であり原理ではないと分かったとして、後は、それではなぜ男系継承が結果として続いてきたのかについて、解き明かすことができれば、全体像は完成すると思う。

女性天皇の後に女性天皇が続いた場面をとらえて歴史上女系継承が存在したという風に言えなくはないけれども、女性天皇が即位した後に男性と結婚し、生まれてきた子が皇位を継承したという例がないことについてどう説明するか。

このことについては、歴史的な夫婦観というものが、これを言うと怒られそうであるが、妻は夫の従属物、所用物であるような考え方があったということで説明可能であろう。

昭和時代のドラマなどで、今はアウトのようだけれども、結婚をしようという男が相手方の父親に、「娘さんを僕にください」と挨拶するシーンがよく見られたけれども、これなどは、そういった考え方の残滓だったのではないか。

このような考え方を、我が国の皇位の在り方の根本に据えてしまっていいのかは、やはり大きな問題である。

国会・政府で議論されている方策は、男系継承を損なわない範囲での皇族数確保策となっているが、それは要するに、男系継承を最重要の原理として認定するということを意味している。
歴史上の原理でなかったものと原理として認定してよいのか。
将来にわたって、日本の在り方として望ましい原理というのならばともかく、その背後に事実上あったのが妻は夫の従属物、所用物であるような考え方であるとすれば、そんなものを皇位の在り方の根本に据えてしまっていいのか。
それはすごく恥ずかしいことなのではないか。

この問題に関心を有する多くの方々が、高森氏の説に着目し、考えを深めてもらうことを願いたい。

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皇位継承の問題について(試論・皇位継承者の選定は、本来天皇陛下の専権事項ではないか)

2024-05-11 00:28:07 | 皇室の話(3)
1 はじめに
政策・施策の議論をする際、実現可能かどうかという視点は重要なものであると思うのだが、それにとらわれ過ぎると、既存の政策・施策の延長、修正的なものにとどまることとなって、物事の根本的な解決にならないということもあるのではないだろうか。

そういうわけで、実現可能性ということにはあまりとらわれずに、このあたりで筆者としての試論を述べようと思うのであるが、書いてみようと思う。

2 法定決定は適切なのか
まず、一つ目は、これまでに述べた「領域」、「法定継承順位」の問題にかかわる事柄であるが、そもそも、国会制定の法律において、皇位継承資格者の順位、次期皇位継承者を決定してしまうということが適切であるのか否かという問題である。

これらは、皇室の方々の人生を大きく左右してしまうものであり、国民の側からすると、どこまで踏み込んで決めてしまってよいのかについては、躊躇があるであろう。

他方、法律事項ということになると、皇室の方々は何も言えなくなってしまう。

踏み込んで者を言えるのは、自らの信念は天皇陛下のお考えよりも正しいとか、皇室をマネジメントの対象ととらえているような勢力ぐらいであり、そういった勢力の考え方というのは国民の多数と合致していないので、いつまでも結論にたどり着かない。

現状は、そんな状況なのではないだろうか。

3 天皇陛下の専権事項とすることの可能性
現行の憲法第2条においては「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」と定めており、この条文作成に関わった関係者の念頭にあったのは、旧皇室典範をベースに同様の内容を法律で作り直すということであったのかもしれない。

ただ、現行の同条の解釈として、皇室典範を国会制定の法律で定めることは必須であるとしても、具体的にどこまで決定するべきかについては、再考の必要があるのではないか。

何が言いたいかというと、同条において「国会の議決した皇室典範の定めるところにより」としている趣旨は、国民主権原理ということになるであろうから、皇室の構成員の範囲、構成員としての身分の得喪、皇位継承資格者の要件(血統に連なる皇族であること)までは皇室典範で決めるのが適切であると思うのだが、皇位継承資格者の順位をすべて決定するところまでは必須ではないのであって、皇位継承資格者のうち次期皇位継承者を誰にするかについては天皇陛下の専権事項とすること(そういう旨の規定を皇室典範に設けること)も、可能なのではないか、ということである。

4 天皇陛下の専権事項とするべき理由(本人の意欲、資質、国民からの支持の重視)
旧皇室典範にしても、現行の皇室典範にしても、皇位継承資格者の順位が全て決定することとなっているので、次期皇位継承者が自動的に決まることとなっている。

自動的に決まるが故に、選定にかかる混乱が生じないというのが、このことのメリットなのであろうか。

ただし、このような在り方が本当によいのかについては、改めて考えてみる必要があるのではないだろうか。

このように自動的に決まる仕組みというのは、本人の意欲、資質、国民からの支持がどうであるかについてはお構いなしということを意味する。

これは、天皇という存在が、形式的・儀礼的な存在にすぎず、誰がなってもよいという思想の下においては、問題は生じないのかもしれない。

しかしながら、戦後、平成、令和における天皇と国民との関係に着目したとき、到底このような天皇観というものは、通用するものではあり得ないであろう。

憲法に定める国事行為のほかの公的御活動が広く認められ、支持され、そういう御活動に対する国民の敬意こそが、皇室制度を支える根幹となっているのではないか。

すなわち、象徴天皇制とは、皇位にある方の人格的な要素に、極めて依存しているのである。

昭和、平成、令和においては、この点、非常に恵まれていたと言えるわけであるが、将来にわたって、当然に同じように恵まれるとは限らないであろう。

現行の皇室典範において、皇位継承の順序を変えることを認める規定(第3条)も設けられているが、それは「精神若しくは身体の不治の重患があり、又は重大な事故があるとき」を要件としており、その要件が無ければ変更できない仕組みとなっている。

したがって、将来、皇位につく意欲がなく、その資質もなく、国民からの支持もない方が次期皇位継承者となったような場合でも、結局、そのままその方に皇位に即いていただくしか道はないことになり、それはその方にとっても不幸なことであるし、国民にとっても不幸なことであり、制度としてあまりに醜悪というしかないのではないだろうか。

現在の女系拡大支持派の議論にしても、次期皇位継承者が自動的に決まるということについての問題意識はないようである。

5 天皇陛下の専権事項とするべき理由(適切に判断できるのは天皇陛下以外におられない)
天皇というお立場は唯一無二であるということにつき、異論のある者はいないであろう。

そのお立場における人生というものがどのようなものであるかにつき、とても想像できるものではないということについても、異論のある者はいないのではないか。

であれば、次期皇位継承者として誰がふさわしいか、選定することができるのは、天皇陛下以外にはおられないというのが、当然の帰結であろうと思う。

しかしながら、現行の制度では、そのような選定ができない仕組みとなっている。

現行の制度では、天皇に男子が生まれた場合であれば、将来、皇位に即くのにふさわしい人物となるよう養育に努めることができる。

ただ、それでも、親としていくら養育に努めても、必ずしもそのように育つとは限らない。
また、男子が複数生まれた場合において、長男に最も優れた資質があれば良いだろうけれども、長男に資質がなく、次男、三男に優れた資質があるような場合はどうなるのだろうか。

やはり、次期皇位継承者を選定できないという仕組みというのは、あまりに不合理というべきなのではないか。

6 次期皇位継承者選定制度を導入するべき理由(皇位継承資格者確保の責任の分散)
次期皇位継承者が自動的に決まる仕組みにおいては、皇位継承資格者確保の責任が、天皇皇后に集中しすぎてしまうという問題がある。

このことは、男系男子を維持した場合にも、女系拡大を実施した場合にも変わらない。

むしろ、女系拡大をした場合には、「男子」を生まなければならないというプレッシャーは無くなるとしても、皇位継承の流れが宮家に移る可能性が低くなるのと裏腹に、天皇皇后が子を生まなければならないというプレッシャーは高まることとなるかもしれない。

次期皇位継承者につき、皇室全体(皇族のうち皇統に連なる血統の方)を対象とする場合には、皇位継承資格者確保の責任が分散されることとなり、プレッシャーを減じることはできるのではないか。

7 次期皇位継承者選定制度を導入するべき理由(順位の呪縛からの解放)
次期皇位継承者が自動的に決まる仕組みというのは、すなわち、皇位継承資格者の順位を全て決めてしまうということなのであるが、この順位というものが、下位の者の上位の者に対する遠慮という効果を生じ、それがあらゆる場面でついて回ることになるとすると、それは皇室の方々の人生を極めて窮屈なものとすることになるのではないか。

順位を全て決めてしまうと、下位の方々は天皇との関係が遠くなり、国事行為の代行、御名代を務めるという機会も生じることがなくなり、中心的役割を果たす機会がなくなってしまう。

一般の国民が享受する権利が制限された人生において、果たすべき役割があまり無いということになってしまうと、自分自身の存在意義を感じられなくなってしまうのではないか。

何等かの志をもって、宮家独自の御公務に取り組むという道も可能ではあろうけれども、天皇からの距離の遠さが固定してしまうのであれば、頑張っても頑張っても、どこまでも寂しい人生ということになってしまうのではないか。

皇室の方々が全員そろうような場面における席次のようなものは決めておく必要があるかもしれないが、あまり固定的なものとはせず、例えば、ある場面においてはそれが得意な皇族に御名代を務めさせ、別な場面においてはその分野に詳しい別の皇族に御名代を務めさせるといった運用を可能とした方が、皇室全体の活力、一体性が向上するのではないだろうか。

皇位継承資格者の順位を全て決めてしまうという制度の下においては、上位の少数の方々に重要な出番が集中し、その他の方々についてはスペアとしての存在意義しかないというような感じになってしまうが、これはあまりに多くの方々の人生を不毛なものとしてしまうことになるのではないか。

8 まとめ
今回の試論については、皇室制度を大胆に変革するものであり、実際のところ実現可能性はないかもしれない。

しかし、皇位継承順位を全て決めてしまうというのは明治の旧皇室典範から始まったものであり、その硬直的な運用は、皇室の方々の人生を必要以上に窮屈で不毛なものとしているのではないか。

犠牲というのも、それが意味のあるものであるならば、そこに美しさがあると言えるのかもしれないが、意味のない犠牲というのは、醜悪というべきなのではないだろうか。

象徴天皇制について価値のあるものと認める人々は多い。

皇室の方々の苦しみについて認識している人々も多い。

それでいながら、どこに制度上の問題があるのか、それを解消するにはどうしたらいいのかといったことにつき、根本的な議論があまり見られないという状況は、何とも寂しいものである。
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皇位継承の問題について(男系継承にこだわることの有害さ)

2024-05-08 22:07:38 | 皇室の話(3)
前回の記事のタイトルにつき、当初「男系継承に重みはあるのか」としていたが、「男系継承に意味はあるのか」の方が直接的であるので、修正を行った。

今回は、さらに一歩進めて、「男系継承にこだわることの無価値さ」としてみた。

男系派の論客においては、なぜ男系によって継承されてきたのかについて説明できるものではないとか、もはや理屈はどうでもいいといったような、非常に知性的とは言いがたい主張が行われる場合がある。

前回の記事を読んでいただいた方には、こういった主張こそが、男系継承というものが本来固有の原理なのではなく、要するに「影」にすぎないということをよく表しているということが分かるのではないだろうか。

男系継承というのは本来固有の原理ではなく、意味もなく、理屈などない。
あくまでも一夫多妻制、妻の従属性ということの結果としての「影」であるに過ぎない。
そうであるが故に、男系継承の意味、理屈が説明できないのである。



さて、このように意味や理屈のない男系継承にこだわることについては、無価値であるどころか、非常に有害であるとも言い得る。

男系継承でなければならないという考え方というのは、父、母、子の関係において、父から子へはその価値ある資質・資格を継承できるのに対し、母から子へは、何も継承することができない、ということを意味しているのである。

かつて渡部昇一氏は、種と畑のたとえを用いて、非常に上手に説明していた。
すなわち、どのような畑であっても、セイタカアワダチソウの種をまけばセイタカアワダチソウが育つ。
何が育つかは、種によって決まるのであり、畑で決まるのではない、といった話である。
そして、この場合の種とは男子、畑とは女子のことなのである。

あまり品のよくないたとえではあるが、男系継承に考え方というものの本質がよく表れている。

このような考え方は、生物学的にも反しているし、世の中に母親似の男の子がたくさんいることは、誰でもよく知っているのではないか。
その上でなお、このような考え方に立つといのは、「女性」につき、原理レベルで否定する考え方なのである。

男系派においては、民間女性は男系皇族と結婚することで皇族となることができるが、民間男系は女性皇族と結婚しても皇族になることはできないので、むしろ男性を差別しているといった、子どもが言いそうな理屈をこねたりもする。

これは、男性である者、女性である者のそれぞれ個人としての扱いのレベルについて論じたものであり、そのレベルにおいてはその通りであるのかもしれないが、より根源的な原理レベルにおける「女性」について、価値のないものとみなす考え方なのである。

我が国の象徴という地位に即く要件の検討において、このような考え方に立脚するというのは、どう考えても有害なのではないだろうか。
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皇位継承の問題について(男系継承に意味はあるのか)

2024-05-08 21:37:21 | 皇室の話(3)
〇 男系継承は歴史的な確信なのか
皇位継承の在り方の議論につき、国会における政府答弁では「皇位継承の問題を検討するに当たっては、男系承継が古来例外なく維持されてきたことの重みなどを踏まえながら、慎重かつ丁寧に検討を行う必要がある」というのが定例のフレーズとなっている。

ただ、皇位継承の在り方の問題を本当に検討するというのであれば、このフレーズを当然の前提としてよいかについては、もっとちゃんと考えてみる必要があるのではないだろうか。

前回の記事において、法定継承順位ということを述べたが、明治時代になり、ヨーロッパの君主国にならって継承順位を法定しようとする際、歴代天皇の継承の在り方を調べ、そこから男系継承という原則を見出し、そこに重みがあるのではないかと考えること自体は、十分に理解できることではある。

しかしながら、産経新聞とか、安倍系保守の勢力のように、それを最重要の原則と位置付けるというのであれば、その重みとして、日本国、皇室制度にとって、どのような積極的意義があるのかについて、まずは明らかにしなければならないのではないだろうか

また、そもそものところ、歴代天皇の即位について、男系継承でなければならないという確信に基づいて積み重ねられたと言えるものだろうか

そのような確信が歴史上に存在していたのであれば、そのことを示す文書が何らかの形で存在してもよさそうなのに、そういうものは見当たらないというのが現実であろう。

歴史的な確信として代々受け継がれてきたということであれば、積極的意義をあまり解明せずに、とりあえず伝統だからという主張も、一つの主張として成り立つように思えなくもない。

しかし、男系派の主張を見ていると、男系継承を2000年以上も守ってきたというような言い方をしており、男系継承でなければならないという確信が歴史上存在していたかのように述べているのだが、根拠なくして述べているのだとしたら、それは欺瞞というべきなのではないだろうか。



〇 男系継承の生じた背景
歴代天皇の即位についての状況を見ていくと、その時々の関係者が最も心を砕いていたのは、どの家系の女性と結婚させるかということであり、その際に、念頭にあったのは一夫多妻制ということである。

后妃の在り方については歴史上の変遷もありなかなか複雑であるが、夫と妻の関係が1対1ではなく、1対複数という非対称性があり、その帰結として、今の時代、こういうことを言うと怒られるかもしれないが、妻は夫に従属するという観念があったのではないか

妻の夫に対する従属性という観念があったが故に、女性皇族が即位して天皇になると、最高位であるはずの天皇が誰かに従属するというわけにはいかないので、即位の後は結婚できなくなったということなのではないだろうか。

歴史上の(特に上位階級における)結婚の在り方としての一夫多妻制、妻の夫に対する従属性ということの方が、歴史上の確信という点で、筆者には遥かにリアリティが感じられるのである。

そして、一夫多妻制、妻の夫に対する従属性ということから継承が行われれば、結果としては男系継承と同じような継承の流れとなるのである。

すなわち、筆者に言わせれば、一夫多妻制、妻の夫に対する従属性ということが歴史上の実体であり、そのことを法定継承順位という平面に投射してできた影のようなものが男系継承なのではないかということである。

〇男系継承に重みはあるのか
皇位継承資格の女系拡大支持派の主張において、「双系」ということが述べられる場合がある。

母方の血筋も重視されたという点では筆者も異論はないけれども、歴史的に「双系」であったとまでは言えず、やはり夫と妻の非対称性ということは否定できないのではないかと思う。

ただ、男系派が思い込んでいるかのように、天皇としての必須の資質が男系継承でなければ受け継がれないというのは、歴史的な確信としては存在していなかったのではないかと思う。

その最大の証拠は、皇室の祖先神が天照大御神であり、天照大御神は女性神であるということである。

このことを持ち出すと、男系派の人たちは、それは神話の話であるだとか、天照大御神は実は男性だったといった主張を展開する。

このブログでも以前、天照大御神について男性神っぽい場面があること(素戔嗚尊との誓約)を述べたことはあるが、それにしても、神話が歴史上の事実ではないということで、要するに創作物であるというならば、なぜ男性神として創作しなかったのだろうか。

天皇としての必須の資質は男系継承でなければ受け継がれないという確信が、歴史上の確信であったとすれば、皇室の祖先神は当然に男性神とするのが一貫するであろう。

男系派の人たちは、この議論を避けるために、初代神武天皇から男系で一貫していると主張し、天照大御神との関係は脇においてしまうのであるが、それでいて、男系派の多くは天皇の役割として最も重要なのは宮中祭祀だと言ったりしており、筆者からすれば、支離滅裂としか言いようがない。

皇位継承の在り方が重大な問題であること、歴史上の皇位継承の在り方を観察すると男系継承ということが読み取れることから、それを変えることについては慎重であるべきということは、筆者としても理解できる。

ただ、現在の状況は、愛子天皇という大きな選択肢を排除するかどうかという分かれ目にあるわけなのである。

男系派の主張に基づく施策を実施し、愛子天皇という選択肢の排除という決断をするのであれば、
・天皇としての必須の資質は男系継承でなければ受け継がれないと言えるのか
・男系継承を維持することにつき、我が国、皇室にとっての積極的な意義は何か
・これらが説明できなければ、一夫多妻制、妻の夫に対する従属性の影を、将来にわたって日本の象徴の必須の要件と位置付けることになるが、それでもいいのか

といった点について、何らかの説明が必須ではないかと思う。

補足
男系継承について、それを維持するためには側室制度が必要といった言い方がされることがあり、そこでは男系継承が目的で側室制度が手段という関係であるかのようである。
しかしながら、側室制度、すなわち、一夫多妻制による継承の結果が男系継承となるのであり、このような目的と手段の関係という捉え方は適切ではないのではないか。

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皇位継承の問題について(戦前と戦後。法定継承順位)

2024-05-06 22:15:57 | 皇室の話(3)
前回、皇位継承の男系男子というルールについて、現行の皇室典範が旧皇室典範から踏襲したということを書いたが、その他にも、継承順位の法定ということも踏襲している。

すなわち、皇室メンバーの皇位継承資格者について、1位、2位、3位・・・という風に、全員の順位を法定するということであるが、このことも、旧皇室典範において始められたことであり、それを現行の皇室典範も踏襲しているのである。

どうも、皇位継承の問題について議論する方々とうのは、この順位の法定自体を当然の前提にしているかのようであるが、果たして当然の前提としてよいか否かについて、もっと注目されるべきではないかと思っている。

明治より前の時代においては、皇位継承資格者全員の順位を法定するなんてことはしていなかったのである。

皇位継承資格者全員の順位を法定することのメリットとしては、皇位継承資格をめぐる争いや混乱が生じるのを回避し、予測可能性を高めるということがあるであろう。

ただ、デメリットとしては、本人の意欲や適性にお構いなしに皇位継承をさせてしまう、ということがある。

このデメリットを抑えるための方策としては、
1 皇位の形式化、観念化
2 皇位継承者の国家的人格形成
3 皇位継承者周辺の階層化
といったことが考えられる。

1については、皇位継承者の属人的な資質とは無関係に天皇という御存在を尊貴あるものとするための方策である。

旧憲法においては、
第三条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第四条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヺ行フ
ということが定められており、天皇の政治的無答責を確保しつつ、皇位の観念化により尊貴あるものであることが確保された。

2については、小さい頃に親元から離してしかるべき養育担当者に育てさせるということがある。このことによって、当時の国家観に基づくふさわしい人格に強制的にはめ込んでしまうのである。

3については、いわゆる貴族制度のことである。
戦前の宮内省も、この役割を果たしていたと言えるだろう。
一般も国民との間に存在し、皇位継承者に対し望ましい在り方を要請するとともに、そのような在り方であるかのように一般国民にイメージを伝え、緩衝材としての役割を果たしことが期待される。

こうしてみると、戦前の皇室制度は、全体とセットになってよく出来ていたものであると感じられる。

また、前々回の記事で述べたが、これらは天皇の制定法によって自律的に定められたものであり、不都合が生じれば皇室の発意によって修正等が可能であったということもある。


しかしながら、戦後はどうであろうか。

1について、現行の憲法では、
第四条 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。
ということが定められ、国事行為の内容も儀式的・形式的なものとされており、政治的無答責が確保されている。
ただ、尊貴という点で、憲法第1条の「象徴」というのは、なかなかつかみ所のない概念であり難しい。
このブログにおいては、この象徴という概念につき、考えれば考えるほど深い意味があるのだといったことを随分と書いてきたところではあるが、その制定過程からしても、観念化による尊貴ということを忌避するというところに本質があるようにも感じられる。

2については、将来の皇位継承者であっても親元で育てることが実施されており、このことは大変に素晴らしいこととして、国民にも支持されている。
ただ、戦後においても、当初は国家的関与がある程度行われていたが、現在はかなり希薄になり、もっぱら、労働力・金銭での支援が中心になってしまっているようだ。

3については、現在は、すっかり解体されたといってよいように思われる。
社会全体において、いわゆるエリートという存在は無くなってしまった。
存在するのは金持ち階層だけである。
高度に貴族的な精神性のある者がいるとしても、それは個人としての存在であり、階層としては無くなってしまったと言えるだろう。

これらを踏まえれば、戦後の皇室制度というものは、皇位継承者にとって極めて厳しいものであると言える。

現行憲法に係る戦後直後の古典的な解釈では、天皇は形式的・儀礼的な存在であり、その資質については、民法上の行為能力が備わっていれば十分ということになるようである。
しかしながら、この解釈は、あまりに実態に当てはまらない。

天皇の行為として、象徴的行為という、国事行為以外のものが幅広く認められ、そして、期待され、要請されているのである。
いわゆる御公務である。

そこでは、皇位継承者の人格がストレートに前面に出てしまう。

国民からの支持につき、皇位継承者の人格に大きく依存しつつ、継承順位を法定するというのは、明らかに制度的欠陥というしかないであろう。


補足
皇位継承者の人格が、国民の求める皇室像に合致すれば、非常に大きな支持を得ることが可能であろう。
しかしながら、大衆の支持を維持するというのは、希有な政治化、芸能人であっても非常に困難なことであり、非人間的な努力を必要とするものであり、そのような努力を積み重ねたとしても、実際に維持しつつけることができない場合もあり得る。
この観点からすれば、配偶者の選択は極めて重大な課題であることは自明であるのだが、そのためのサポート体制は、現状、ほぼ存在していないのではないだろうか。
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皇位継承の問題について(戦前と戦後。男系男子)

2024-05-03 23:16:16 | 皇室の話(3)
皇位継承の男系男子というルールは、現行の皇室典範が旧皇室典範から踏襲したものであるが、旧皇室典範の時代においては旧憲法すなわち大日本帝国憲法においても、要するに男系男子とうことが規定されていたのである。

具体的に条文をあげると以下のとおりである。

旧皇室典範(明治22年)
第一条 大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス

旧憲法〔大日本帝国憲法〕(明治22年)
第二条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス

旧憲法の方では「男系ノ男子」という表現ではなく「皇男子孫」となっているが、制定時の天皇が明治天皇であり、その皇男子孫、その皇男子孫と継承していけば、それは「男系ノ男子」と同じことになるのである。

さて、これらの条文を見ると、皇位継承の在り方が、当時の国家の在り方と不可分のものとして捉えられていたことが分かるのではないだろうか。

まず、旧皇室典範では、「皇位ハ」の修飾語として「大日本国」という文言が付せられている。単に「皇位」ではなく、「大日本国皇位」なのである。

そして、その「大日本国」について定めていたのが旧憲法であるが、旧憲法で定める天皇の在り方というのは、極めて厳つい。

例えば、以下のような条文がある。

旧憲法〔大日本帝国憲法〕(明治22年)
第十一条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第十二条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第十三条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
第十四条 天皇ハ戒厳ヲ宣告ス
 戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム

明治22年、当時は帝国主義の時代であり、生き残るためには国としても厳つくあらねばならず、そのことが天皇の在り方にも反映されていたということであろう。

そして、厳つい役割を担う天皇は男でなけばならず、それ故の旧憲法第2条の「皇男子孫」という要件だったのではないか。

そして、男、男、男による継承につき、継承ルールとして条文化したのが旧皇室典範第1条だったのであろう。

これらは、戦前の我が国においては、必然性の高いものであったと言える。

しかし、果たして戦後においては、どうであろうか。

国の在り方、天皇の在り方、皇位継承の在り方の関係につき、戦前は一環したものがあったと言える。
しかし、現在は、国の在り方と天皇の在り方までは連携しているが、皇位継承の在り方との間には断絶があるように思われる。

現在において、皇位の男系男子に拘る勢力というのは、あるいは、戦前のような厳つい天皇の復活、天皇の名の下の戦争遂行体制の復活を願望しているのだろうか。
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皇位継承の問題について(戦前と戦後。領域の問題)

2024-05-02 23:22:36 | 皇室の話(3)
皇位継承の問題について、この20年近くの状況を見ていると、具体的な選択肢に係る議論がほとんどであるようだ。

結局、最終的には選択肢の選択ということに帰着するのかもしれないが、どうせなかなか集約し難いようであるならば、この際、より根本的で広い観点から考えてみるというのも、意味のあることなのではないかと思う。

そのためのとっかかりとして、まずは、現在の皇室制度とは、そもそも何なのかということがあると思う。

現在の皇室制度は、憲法の第一章、第一章中の第2条に基づく皇室典範、それと皇室経済法によって、ほぼ定められていると言えるであろう。

これらの制定過程については、すでに専門家によって十分な研究がなされているところであり、大雑把に言ってしまえば、戦前の皇室制度をベースにしつつ、GHQの要請する新しい憲法理念に合致するように必要な限度で改変したということになるであろうか。

その典型的な例は、天皇という御存在について、統治権の総覧者から象徴に改めたということがあるであろう。
当時の日本政府の担当者は非常に尽力しており、立派な業績をあげたと思うのだけれども、その際に、十分に採用されなかった視点として、どこからどこまでが国民主権原理に基づき定めるべき領域で、皇室が自律的に定めるべき領域との境界はどうあるべきか、ということがあると思う。

これは、当時としては、敗戦国が占領下で行っている作業なわけだから、皇室が自律的に定めるべき領域といった問題意識を俎上に載せることはできなかったというのも、無理からぬことではある。

そして、結局、全面的に国民主権原理により制定される形式となったが、それでも戦後、昭和時代までは、日本の政治指導者層において、皇室の御意向をくみ取りつつ施策に反映させるという見識があったであろうし、また、実際のところ、皇室制度を大きく変える必要がないままに過ぎていったので、この領域の問題については表面化しなかったのかもしれない。

それが平成時代となり、皇位継承資格者の確保ということが大きな問題として顕在化することとなった。

悠仁親王殿下がお生まれになるまで、皇室には数十年も男子が誕生しておらず、そのままでは皇位継承資格者がいなくなる状況となっていたのである。
このことの制度上の要因は、皇位継承資格を男系男子に限定していることにある。

筆者としては、制度上の問題が明らかとなり、その在り方の検討が必要となった時点で、この領域の問題については、もっと意識されてもよかったのではないかと思うのである。

天皇の地位や権能については、国民主権原理から定めるべきであると考えられ、これらは憲法において基本的なことが定められている。

一般の国民とは異なる身分の皇室の身分、権利、その構成メンバーの範囲なども、国民主権原理から定めるべきものと考えられ、これらは皇室典範において基本的なことが定められている。

さて、問題となるのは、皇位継承資格である。

憲法第2条において、「皇位は、世襲のもの」と定められているので、血統に基づくというのは最低限の要件であろう。

ただ、歴代の天皇の血統に連なる方々に、どのような順位で皇位を継承させるかについて、どこまで国民主権原理に基づかせることが適切であるのだろうか。

天皇の地位や権能、皇室の身分、権利、その構成メンバーの範囲などを国民主権原理で定めるということが確保されているのであれば、皇室の中のどなたをどのような順番で継承させるかといったことについては、国民の権利・利益に関わる話ではないので、国民主権原理から口を出すべき根拠というものがないのではないか。

仮に。国民主権原理から口を出すとなれば、国民主権原理の本質としての自己決定権、個人の尊厳といった観点からの要請なのであって、男女の違いの解消、即位の辞退の承認といった話になるのではないだろうか。

皇位継承資格について、現在の皇室典範は、「皇統に属する男系の男子が、これを継承する。」と定めており、これは旧皇室典範の「皇統ニシテ男系ノ男子之ヺ継承ス」を踏襲したものであるが、旧皇室典範は制定権者が天皇であったので、「皇統ニシテ男系ノ男子之ヺ継承ス」と定めることにつき、領域の問題は生じなかった。

しかし、現在の皇室典範は「法律」であり、制定権者は立法府であるため、領域の問題が生じてしまうのである。

男系男子の維持について、皇室が自律的に定めるべき領域において、それを主張するのであれば、正当性はあるであろう。

しかしながら、国民主権原理の側、要するに立法府で決定権を有する政治家たちが、それを主張することの正当性の根拠はあるのであろうか。
法理的に根拠あるものとは言えないのではないだろうか。

仮に、皇室の側において、男系男子の維持が最優先であるというご意向があったとして、それをくみ取り、実現させるためということであるのなら、法理の問題はともかくとして、政治の営みとしては賢明なものであるのかもしれない。

しかしながら、現在の状況は、とてもそのようなものではない。

まず、皇室の側の意向であるが、例えば、平成17年12月19日、当時の天皇陛下の記者会見において、以下のやり取りがある。

----引用開始----
問3 皇室典範に関する有識者会議が,「女性・女系天皇」容認の方針を打ち出しました。実現すれば皇室の伝統の一大転換となります。陛下は,これまで皇室の中で女性が果たしてきた役割を含め,皇室の伝統とその将来についてどのようにお考えになっているかお聞かせください。
天皇陛下
皇室の中で女性が果たしてきた役割については私は有形無形に大きなものがあったのではないかと思いますが,皇室典範との関係で皇室の伝統とその将来についてという質問に関しては,回答を控えようと思います。
私の皇室に対する考え方は,天皇及び皇族は,国民と苦楽を共にすることに努め,国民の幸せを願いつつ務めを果たしていくことが,皇室の在り方として望ましいということであり,またこの在り方が皇室の伝統ではないかと考えているということです。
女性皇族の存在は,実質的な仕事に加え,公的な場においても私的な場においても,その場の空気に優しさと温かさを与え,人々の善意や勇気に働きかけるという,非常に良い要素を含んでいると感じています。その意味でも皇太子妃の健康が現在徐々に快方に向かっていることは喜ばしく,一層の回復を待ち望んでいます。
----引用終了----

制度改正に直接関わるようなお答えは控えられているが、それでも、男系男子の維持が最優先であるというご意向があったのであれば、このようなお答えにはならないであろう。
皇室における女性皇族が果たしてきた役割、女性皇族の存在に対する肯定的な評価を述べ、また、望ましい皇室の在り方、皇室の伝統についての言及内容は、性差に関わるものとは全く思えないからである。

また、皇室の意向を政治家の側がどの程度くみ取ろうとしているかであるが、どうも安倍系保守勢力というのは、皇室をマネジメントの対象と捉えているようなのである。
「八木秀次氏が明かした憲法改正の方向性」参照

これは、八木秀次氏の記事における表現であり、やや間接的なものであるかもしれないが、平成の時代における天皇皇后両陛下と安倍政権との関係をよく表しているように思われる。
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