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落書き帳(旧「皇居の落書き」)

皇室評論家に騙されるな

皇室の将来(その2)

2004-09-20 12:48:25 | 皇室の話
○ 皇室の存在意義の捉え方
皇室に対しては、否定的な立場もあり、肯定的な立場もある。
最近は、否定的な立場というのは、昔よりは、減ってきたようにも思われる。
かつて、皇室を敬わないことが進歩的であるかのような雰囲気が、多分にあったのだ。

さて、このような否定的な立場が減ってきたことはいいのだけれど、肯定的な立場といってもいろいろある。
肯定的な立場においても、どうやら、筆者は、かなり少数派なのではないかと、実は、そんなことを思うようになった。
筆者の考えは、日本における皇室の存在意義というものは、皇室の方々の個々のご活動のすばらしさ、それも重要であるが、どちらかというと、皇室は国民の幸福を祈り、国民はそのような皇室を敬うという、そのような皇室と国民との心の絆にこそあるというものだ。

皇室は、125代も続いており、皇室の方々は自然人であるから、人間らしいドラマもあり、抽象的な神様とばかりは言えないところもある。
ただ、改めて考えてみるに、抽象的な理念、神の概念を共同体の価値観とするよりも、そのような、自然人たる皇室との心のつながりを、共同体の理念とするというのは、なかなか現実的であり、健全であるようにも思われる。

少なくとも、人と人との情を大切にする日本人には、ぴったり来るのではないか。
筆者としては、皇室と国民との心のつながりにこそ、皇室の存在意義があったと考えるのだ。

○ 皇室の個人的側面の賛美者
しかるに、皇室についての肯定派において、まず多いのは、皇室の方々の個人としてのすばらしさを褒め称えようとする者たちである。

もちろん、褒め称えること自体は、悪いことではない。

ただ、皇室の存在意義を、皇室の方々の個人としてのすばらしさのみと捉えると、それは、際限のない、ご公務の拡大の要求へとつながると思われる。
また、皇室の方々の在り方について、枠をはめることにもなってしまうだろう。

自然人である以上、様々な得手不得手があるはずであり、対外的なお付き合いで活躍する方もおられれば、静かに国民の幸福を祈られ、それがじんわりとした癒しの効果をもたらされる方もおられるだろう。また、病気やけがで、ご公務ができない場合だってあるかもしれない。

しかし、皇室の存在意義を、個人としてのすばらしさに求めてしまうと、やはり、目に見える形での存在感が必要になるであろうし、病気になれば、存在意義がないというような議論になってしまうのである。

また、皇室の個人としてのすばらしさに着目する場合に問題となるのは、皇室を紹介する人間のエゴである。皇室の無私なるお姿を紹介するに際しては、紹介する者も無私でなければならないだろう。

しかるに、皇室の個人としてのすばらしさを紹介しようとする者は、皇室と直接ふれあう機会を有するものが多いということもあり、どうしても、皇室の方々からよく見てもらいたいという気持ちも働くであろうし、また、皇室と直接ふれあうことのできない多くの国民にとっては、しらけさせることにもなりかねないのである。
 
○ 皇室の政治利用の問題
また、皇室についての肯定的な立場でも、要するに、何か団体のようなものを作って威張ることが目的であるかのような者もいる。
これは、否定派よりも、むしろ問題であると思う。

団体を作って権力を振りかざすというときに、自分自身の能力、資質のみを根拠とすることは、至難の業である。
しかし、皇室など、既存の価値を利用する場合には、それがごく簡単になる。
単に、自分は、皇室の素晴らしいことを理解しているのだと、声高に叫べばいいからである。皇室のことをよく理解している者と、理解が不十分である者との序列を作り上げ、支配しようというやり方である。宗教団体に多く見られる構造である。
筆者としては、政治家が皇室の大事であることを主張し始める場合には、警戒が必要であると、どうしても思ってしまう。

本当に、皇室の存在意義を理解してでのことか、それとも自らの権威を高めるためなのか、それを見分けるためには、皇室を、何か政治的問題の解決に持ち出そうとしているか、また、自らの考えが皇室の考えと異なることが明らかとなった場合に、素直に間違いを認めることができるか、といったところであろうか。

皇室のことを考えていると、特に現在は、皇室の存在意義が不当に没却されている時代であるから、自分こそが理解しているのだという陶酔に、ついつい陥りがちであるが、皇室を利用しての自らの権威付けは、皇室の方々の嫌うところであり、注意が必要である。

また、皇室のお気持ちというのも、実に計りがたいところがあって、これがお気持ちだろうと勝手に想像すると、実は違っていたということが、しばしばある。後から考えればなるほどと思うのだが、安易に、皇室のお気持ち云々を述べると、恥をかいてしまう可能性大である。

○ 課題
皇室が日本の象徴であるということから、皇室に対して、帝王学の必要性を主張する人は多い。
しかし、「象徴」が、皇室と国民との関係性の上に成り立つ概念であるとすれば、皇室の側にだけ帝王学を要求するというのは、片面的である。
やはり、皇室という存在をどのように捉えるかということの基礎的な教養が、国民の側にも必要ではないだろうか。
それは、日本人という存在を、歴史、文化という面から、捉え直すということになると思う。

現在において、歴史、文化というものは、どうも、人畜無害なイメージがあるように思われる。
しかし、歴史、文化というものは、今現在の自分というものを、まさに形作っているものであり、本来、非常に影響力のある、生き生きとしたものなのである。
あたかも死んでしまったものという思いこみを脱ぎ捨てて、自らの中に息づいている歴史、文化に目覚めれば、日本人としての自分がはっきりしてくるであろうと、また、日本としての本来あるべき姿もあきらかになるかもしれない。
そして、そうなれば、政治家が本物であるか、ニセモノであるか、すぐに見分けがつくようになるはずである。

日本と日本人とが幸せになるためには、自らの淵源というものを知り、目覚めることが大事なのだと思うのである。
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皇室の将来

2004-09-20 01:19:14 | 皇室の話
皇室の将来は、いったい、どうなってしまうのだろう。
何だか、弱気になってしまう。

日本は、古い古い国で、そういう古い国ができたときの神話を、今でも伝えていて、そういう神話に描かれている皇室というものを、ずっと保ってきた。
だから、皇室というものは、今の日本と古い神話時代の日本とを結びつけ、今の日本人に対して、日本という国の始まりを想起せしめ、日本人としての一体感を醸成することができる。
これは、なかなか、すごいことなのではないかと思う。

一つの国として存在するということは、本来、大変なことである。
単なる個人の集合ではなく、一つの国として存在するには、理念、価値観の共通性が必要であろうし、共同体としての一体感が必要であろう。
それを考えると、実に奇跡的な条件がととのって、初めて、一つの国として存在できるのではないかと思う。
国が国として存在しているのは、決して当たり前の話ではないのである。
このことをよく自覚してみれば、皇室の大事であることは、自ずから明らかである。

しかし、国が国として存在していることを、当たり前のこととしてしまうと、皇室の存在意義は、よく分からなくなるのかもしれない。
現在の、多くの日本人の意識は、このような状態にあるのではないだろうか。

その原因はとしては、戦後の個人主義の思想の影響が大きいのではないかと思う。
それも、国家を個人と対立するものとして設定し、国家に対して何を要求するかという側面ばかりの個人主義がはびこっているからである。
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妃殿下の苦しみ

2004-09-16 23:25:24 | 皇室の話
雅子さまの外出報道に配慮要請 (読売新聞) - goo ニュース

 筆者は、皇太子妃殿下には、ご回復の傾向におられるのかと思い、安心していたのであるが、驚くべきニュースが流れることになった。
 このニュースによると、皇太子妃殿下が、妹さんのお宅に私的にお出かけされた際、記者の姿を目にされて、ショックを受けられたのだという。
 そして、東宮大夫により私的外出の際は一切の取材・報道を控えるよう改めての要請が示され、皇太子殿下からもお願いがあったとのことである。
 このニュースについて、筆者として、まず不安になったのは、国民の気持ちが、妃殿下から離れていってしまうのではないかということである。
 妃殿下においては、現在、適応障害とのことであるが、このような心の不調については、本人の苦しみが、周囲にはなかなか理解してもらえないからである。
 そこで、保守的な立場から、妃殿下としてなっていないとか、妙な声が生じることが、大変心配である。
 ただ、そのような批判的な考えが生じる場合には、今一度、顧みていただきたい問題があるのである。
 それは、皇室と日本人との関係である。
 皇室の存在意義が、本来、その日本人との歴史的な絆にあるということについては、たびたび触れてきた。
 そして、現在の状況としては、戦後の特殊事情により、皇室と日本人との歴史的な絆というものが忘却され、国民の側に、皇室という存在を理解するための基礎的な土台がない。そのような土台がない中で、皇室は、積極的にご公務に励まれ、国民の中にとけ込み、目に見える存在を示すことによって、国民との絆を保っている。
 今は、そういう状況である。
 しかし、これは、皇室にとっては、ものすごいご負担を強いるものである。
 例えるならば、大海原を飛び続けなければならない、渡り鳥のようなものではないだろうか。
 しかも、どういうわけか、いくら飛び続けても、陸地は一向に見えないのである。
 筆者もその一人であるが、日本にとって、皇室の存在が大事であると思う人間としては、いよいよ、皇室と国民との絆の、確固たる土台を、皇室と日本人との歴史的な絆の想起を図るための行動を、起こさなければならないと、実感するのである。
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皇室の大事であること

2004-09-09 01:22:44 | 皇室の話
 しばしば、皇室についての議論については、論者の皇室に対する主観、好きか嫌いかのぶつけ合いになり平行線をたどってしまうと言われることがある。
 また、筆者も何度か経験するが、皇室について特に反感を抱いていない者に対しても、皇室の大事であることを説明するのは、なかなかやっかいである。
 皇室については、どうせ暇なんだろうと思っている人も多いので、具体的に、いろいろなご公務をされていることを説明すると、それはそれで納得を得られる場合もある。
 ただ、「ご公務」については、儀礼的なものが多いので、そもそもの皇室の存在意義が分からないと、ご公務そのものの価値についても納得を得がたい。
 そんな時に、指摘するのは、なぜ必要なのかを、理屈っぽい損得勘定からいちいち考えるまでもなく、大事なものは大事なものとして存在している、そういうものが実は世の中には多くあるということである。
 例えば、親と子の関係である。
 子が幼いときは、親の保護がなければ子は生きることができないので、親が必要であることは、損得勘定からでも説明できよう。
 しかし、子が成長し、親が年老いたとき、その親の存在は、子にとって、どのような意味を持つであろうか。
 もはや不要の存在として、捨ててしまうのが、正しい在り方だろうか。
 それは、誰しも違うと言うはずである。
 長い時間を共に過ごした親子には、深い絆があるのであって、いつまでも親の長生きを願うものである。
 このような絆を大切にしたいという人間の心については、理屈っぽい損得勘定では推し量ることはできないが、厳としてそれは存在するのである。
 皇室と日本人との関係についても、損得勘定を超えたそのような歴史的な絆があるのである。
 そこで、歴史的な絆について、いくつか語ってみる。
 まぁ、納得しない人はそれでも納得しないのであるが、その場合でも考えてもらいたいのが、文化とか精神的な財産とかそういったものについては、だいたい無意識的に(いちいちなぜ必要なのかを考えずに)その恩恵を享するというのが普通なのではないか。しかるに、皇室については、なぜ執拗なまでに懐疑を行うのか。そのような懐疑の癖について、特定の意図によって刷り込まれたものという可能性はないのか、ということである。
 筆者については、子供時代、かなり日教組色の強い教育を受けたものである。思い返せば、「天皇」については、非常におかしなものであり批判的に考えなければならないとか、旧憲法時代は暗黒の時代であるとか、そのような雰囲気が濃厚であった。
 ただ、筆者にとっては、それがかえって皇室に対する子供なりの同情心(今考えるとかなり不遜であるが)を有することにつながったのである。
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天皇陛下の靖国神社参拝問題2

2004-09-08 00:56:38 | 皇室の話
 天皇陛下の靖国神社参拝を求めた石原知事の発言について、宮内庁次長から、慎重論が示された。
 この話については、あまりしつこく取り上げるのもどうかと思うのだが、一部において、宮内庁が靖国神社を軽視し、陛下の参拝を中止させているのだとか、相変わらず知事の発言に共感してしまう傾向が見られるので、一言述べることとした。
 おそらくは、知事としても、英霊たちの名誉がいい加減に扱われている現状を問題とし、ふさわしい扱い方ができないかどうかという一心から、このような発言をしてしまったのであろう。
 そして、このことは、確かにもっともなこととも思われる。
 しかし、改めて考えるに、そのようなお気持ちは、陛下としても当然に、むしろ誰よりも有しておられるのである。
 しかしながら、皇室は、政治からは超然とした立場になければならず、政治家のふがいなさにより、靖国神社参拝が過剰な政治問題となってしまっている現状においては、参拝したくてもできないのである。
 さらに、思いを致すべきは、英霊たちの高い志である。
 彼らが何よりも望んだのは、日本国の安からであることを願う天皇陛下のお気持ちにこたえることであり、天皇陛下は、手段ではなく、目的なのである。
 自分たちの名誉のために、その手段として陛下の参拝を望むなどということは、絶対にあり得ないのである。
 陛下のお気持ちを察せず、英霊たちの志に思いを致すこともできないというのは、いったいどういうことであろうか。
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皇室典範改正について

2004-08-29 23:28:56 | 皇室の話
○皇室典範改正について、その大前提条件
日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であるところの天皇の地位について、とても大切なものであることは言うまでもない。

しかしながら、その地位の存続も、自然人が担うものである以上、断絶の危機を完全に払拭するということは不可能であり、現在、いよいよその危機が近づきつつあると言える。

筆者としては、現在の皇室典範そのものに、システムとしての欠陥があると見ているが、具体的にどのような改正を行うべきかについては、まだ検討中である。

ただ、そのような具体的な改正の前に、以下に述べるような重大な前提条件のあることを、忘れないようにしなければならない。

○皇室の方々のお気持ちへの配慮
皇室典範の改正については、国会の議決の対象であり(憲法第2条)、国政に関する事項であって、皇室は関与することができない。

しかしながら、皇室典範の、特に皇位継承に関する条項の改正は、皇室の方々のご人生について、重大な影響を及ぼす。

皇室の方々が、直接意見を述べることができない以上、ここは、皇室の方々のお気持ちについて、慎重な配慮が絶対に必要である。
この点については、皇室会議の審議事項とするといった工夫はどうかという意見もある。

傾聴に値する指摘である。

○国民の意見の統合
実は、この条件がもっとも困難である。

天皇という地位について、機能的に説明すれば、様々な利害の対立、紛争である政治の世界を離れ、そのような意見の衝突の世界を超えて、日本の国を一つの共同体として統合するという役割がある。
ところが、その地位の継承について定めた皇室典範は、現行憲法では国会の議決の対象とされ、要するに法律であると解釈されている。

ここに、重大な落とし穴があると思う。本当に単なる法律か。

法律ということであれば、与野党の対立が大きく、辛うじて与党の多数で可決されても、すぐさま廃止法案が提出される場合だってある。
そのような場合、何とか改正することができたとしても、多くの日本人の中に、納得できない気持ちが残存してしまう危険性がある。
特に、政党の状況を見てみるがいい。与野党の対立は、対立のための対立であるかのような様相を呈している。

これでは、天皇という地位の機能にかんがみたときに、非常に具合が悪い。

皇位継承の在り方が改められたとして、その新たな在り方に基づいた天皇という地位につき、すべての国民が納得できるような意見の統合というものが、絶対に必要である。

○皇位継承の在り方を改めるについての心構え
皇位継承の在り方を改めるということは、日本という国が始まって以来の、日本の国柄と直接結びつく皇統の在り方を改めるということである。
このことは、たかだか60年前にできた現行憲法の改正よりも、遙かに重大な問題なのではないか。

もちろん、法律論としては、憲法の最高法規性は否定のしようがなく、憲法によって、皇室典範は国会の議決の対象とされており、形式的には憲法の下位に置かれた法律として、国会で審議されるのであろう。

しかし、心構えとしては、憲法よりも重要な、日本という国始まって以来の一大事であり、過去の無数の日本人に対して、また、将来の無数の日本人に対しても、責任を負わなければならない事柄であるとの覚悟が必要であろう。

政府側において、法律論に携わる人間においては、皇室典範を単なる法律といってすますような態度は、絶対にとって欲しくないのである。
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品川区「ねむの木の庭」について

2004-08-27 23:55:42 | 皇室の話
○「ねむの木の庭」と皇室の政治利用
皇后陛下のご生家だった東京都品川区の旧正田邸跡地に完成した公園「ねむの木の庭」で、8月26日、開園式が行われた。

なかなか素敵な公園ができたと思うのであるが、公園ができる前、旧正田邸の解体については、気になる騒動があったところである。

騒動というのは、皇后陛下のご生家であった正田邸が、国に物納され(これ以後、旧正田邸となる。)、財務省において、国有財産の合理的な処理という観点から、旧正田邸の建物を撤去して更地として競売にかけようとしたところ、撤去に反対し建物の保存を求める住民運動が起きたのである。

住民の感情として、皇后陛下ゆかりの建物を保存したいという気持ちは、よく分かるところである。皇室を思う、素朴な感情として、不思議なところはない。
問題は、住民運動に政治家が関与し、また、その主張の仕方として、皇后陛下が望まれていないはずであるとか、皇室ゆかりであるということを殊更に持ち出したことだ。

旧正田邸については、物納の時点で、本来自由なる処分に委ねられたはずである。また、皇后陛下、正田家の方々の立場に立って考えてみればいい。
自分たちの大切な思い出が詰まっていればこそ、他人に踏み込まれるような保存の仕方はして欲しくないと思うことだってあろう。

それを、皇室ゆかりであることや、保存を望まれているといった勝手な推測を持ち出してきて、あくまでも保存を要求することは、我が侭というべきであり、皇室の政治利用である。

そして、ついに、皇后陛下も何らかの意思表示をすることが必要になることとなり、宮内庁を通じて、保存を固辞されるご意向が示されることとなった。
皇后陛下が、この騒動に巻き込まれてしまったのである。

いやな話はこれからである。

なんと、宮内庁による皇后陛下のご意向の表示について、皇室の政治利用であるとかみついた政治家(西村眞悟)が出てきたのである。

あべこべである。

皇后陛下のご意向が自分たちにとって都合が悪いとなると、そのようなご意向の表示は、皇室の政治利用であるとかみつき、あくまでも自らの正当性を主張する。
そこには、皇室の方々のお気持ちへの配慮や、謙虚さ、反省といったものは、まったく見られないのである。
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天皇陛下の靖国神社参拝問題

2004-08-26 00:49:16 | 皇室の話
○ 天皇陛下の靖国神社参拝を求める石原知事の発言について
 8月15日の産経新聞によると、石原東京都知事が、報道陣に「恐れ多い言い方だけど、天皇が靖国に(来年の)敗戦60年に参拝いただければ、天皇にしか果たせない国家に対する大きな責任を果たしていただくことになると思う」と語ったとのことである。
 こういう発言を見ると、この方は、少々思い上がりすぎではないかという気がしてならない。
 日本のために戦い、亡くなっていった方々を大事にすることは、日本人として当然のことである。陛下におかれても、毎年8月15日の全国戦没者追悼式において、全国民と共に,戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し,追悼の意を表されておられるところである。  しかし、靖国神社については、未だに中国などの反発、一部の日本人による頑固な反対などがあり、国家の安寧を大事にされる陛下としては、参拝したくてもできないのである。
 ご心中をお察しするに、とてもやるせないものがあるのではないか。
 そして、このような、中国の干渉だとか、一部の日本人の反対とかいった問題は、政治で片づけるべき筋合いのものである。
 本来であれば、まずは政治家の立場としてそういった問題をきれいに片づけ、陛下が、くだらない議論の渦中に置かれることのないようにすることが、先決のはずである。
 政治の世界において、そのような務めが果たされていないような段階で、陛下の参拝を求めるような発言を行うということは、本末転倒である。
 天皇にしか果たせない責任という言い方であるが、その責任を論じることができるのは、陛下御自身のみなのであり、他の者は、単にお願いができるだけなのであって、そのお願いについても、まずは自らのすべきことをした上でなければ資格はあるまい。
 だいたい、この方は、陛下に関する不用意な発言が多すぎる。今回も、誠に威勢のいい発言であり、陛下に関しても堂々と発言できるのだと胸を張っているつもりなのかもしれないが、大間違いである。
 心配になるのが、このような発言を聞いて、感激してしまうような者がいるのではないかということである。
 純粋な愛国心が、野心ある者に利用されないよう、祈るばかりである。 
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AERA批判

2004-08-24 23:47:40 | 皇室の話
○ AERA(2004.8.16,23号)の岩井氏の記事について
 皇室に関する記事を読んでいると,客観的な評論を装っているような場合でも、皇室に対するスタンスによって,既に内容が決まってしまっていることが多い。
 このことは,決しておかしいというわけではない。
 象徴という地位にある皇室については,その存在意義は,主観的な価値観で考えざるをえないからだ。
 ただ,AERA(2004.8.16,23号)の岩井氏の記事については,一見して,その意図がつかみにくい。一つには「無媒介」という,よく分からない概念を用いていることであり,また,全体のトーンとしては,皇太子殿下に対して,敢えて愛の鞭をふるっているようにも見えるからだ。
 しかし,じっくりと読んでみると,独特な戦略的意図を伺うことができ,うっかり,なかなか深みのある記事だなと思ってしまうと,妙な方向に誘導されるかのような恐れがなくもない。これは危ないのではないか。そこで,若干の批判を述べることとする。
 まず,記事中の「無媒介」という概念は,例えばAという事実はAという事実を裏付ける関係性(Aの世界)において存在しており,Bという事実はBという事実を裏付ける関係性(Bの世界)において存在しているのであって,AとBとを単純に並べ,Aの世界とBの世界とを同一視するのはおかしいということのようである。そして,皇太子殿下に対しては,要するに公の世界と私の世界とを混在させてしまっており,どちらかというと「私」に手一杯である。公の世界についての自覚がなく,公的存在としては,何だかよく分からない人であるということを言いたいらしい。
 しかし,このような批判は,フェアではないであろう。
 記事中にも,芹沢俊介氏の「しかし,象徴化されて存在そのものが『私』であるとともに『公』である皇室の人たちや外交官にはリアリティーがある」という文章が引用されているが,開かれた皇室論をやかましく言い,本来私的な領域についてまでも,公的存在の論理で土足で踏み込んでいったのは,メディアである。そして,一方でまた,「天皇ご夫妻」という表現にみられるように,皇室に対して用いられるべき敬語を避け,公的存在感を薄めていったのもメディアである。朝日新聞などは,その代表格である。
 そのような状況にある中で,公の世界と私の世界との区別,公的存在としての自覚の必要性を主張し,殿下を一方的に評価するのはフェアではない。少なくとも,メディアにその資格はないのではないだろうか。
 また,この記事においては,「皇太子の登山には十数回ついて行った。印象に残っているのは,いつも山頂で,ヒマラヤの高峰について語る時の,はるか高く遠くを見る目だ」という記述があり,その直後の記述と合わせて,いかにも地に足のついていないような,理想を夢見てばかりいるかのような印象を与えているのであるが,山頂に登れば誰でも遠くを眺めるのは当たり前ではないだろうか。明らかに作為的なイメージ作りである。また,数多くの業績を上げながらも身軽な警備のシリントン王女と物々しい警備に囲まれた皇太子殿下とを対比させ,お金がかかっていながら何もできない無能な存在という印象を作り出しているが,身軽に移動できないということは,殿下に責任のある話ではなく,殿下の能力とも関係がないはずである。
 こうして見てみると,決して愛の鞭なのではなく,かなり意図的に,皇太子殿下を攻撃するものであるということが,明らかになってくる。
 5月10日の皇太子殿下の記者会見以来,皇太子殿下については,様々な批判も行われるようになってきた。そのような状況の中,将来天皇となられる存在である皇太子殿下の支持をなくさせるように図ることは,皇室の消滅を図る上では極めて効果的であると,そのような戦略的意図が垣間見えるような気がしてならない。
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皇太子発言と国民と日本の国柄

2004-08-24 23:45:47 | 皇室の話
○ 「人格を否定するような動き」
 5月10日の皇太子殿下の記者会見以来、皇室について、様々なことが話題になっている。話題の中心となっているのは、まず、「人格を否定するような動き」とは何か、ということだ。これについては、いろいろなことが言われているが、どれも、いまいちしっくりこない。
一番多いのが、宮内庁が、伝統やしきたりを押しつけたり、男子の出産を迫ったりすることによって、妃殿下を虐めているという見方だ。
 しかし、宮内庁は確かに前例主義の役所ではあるけれど、コチコチの保守的な信念に基づいた前例主義というよりも、責任を取らされることを怖れるばかりの、事なかれ主義的前例主義というのが正解である。
 だいたい、幹部のほとんど全部が出向組なのだから、皇室に対して、これが伝統なんだとかしきたりなんだとか、偉そうに主張できる人がいるはずもない。それに、東宮大夫の顔を見ていても、とても誰かをいじめるようなキャラクターには思えない。むしろ、マスコミ行脚なども行っており、元文化庁長官であったことを考えれば、皇室を守るためにお気の毒なくらい苦労をなさっている。
男子の出産を迫ったということについても、お世継ぎ問題は、殿下にしても妃殿下にしても、最初から認識しているものだし、また、宮内庁としても、迫ったからといってどうにかなる問題ではないということは、十分心得ているのではないか。今は失脚されてしまったが、堤教授の起用など、合理的な対応も行っていたわけであり、何か理不尽なプレッシャーを与えて妃殿下が潰れてしまったとかいうのは、いまいちピンとこない。
 宮内庁のプレッシャーということに関しては、湯浅長官の第3子発言が、テレビでこれでもかと紹介されたが、この発言は、実は、会見において、記者から、秋篠宮家にもう1人お子様ができた方がいいかどうかと聞かれて、それならもう1人欲しいと答えただけのこと。至極、当たり前の答えなのであって、特に妃殿下に対して悪意があったとか、そういう話ではなかったのである。

○ 天皇陛下が犯人?
 とんでもない話であるが、妃殿下いじめの背後の存在として、天皇皇后両陛下を示唆する見方もある。一部の女性週刊誌だ。確かに、美智子妃殿下の時代には、嫁姑問題という問題もあったようであり、そのような構図であれば、読者は引き込まれるだろう。
しかし、かつて美智子妃殿下(当時)がつらい目にあったのは、美智子妃殿下が民間出身であったことから、香淳皇后と上手くいかなったというところが大きい。そうすると、同じ民間出身ということで共通であるお二人に、そのような問題が生じているとは考えにくい。また、お世継ぎ問題へのご心配から、天皇陛下が外国訪問を控えさせたという見方があるけれども、そもそも、外国訪問と不妊とは関係がない。むしろ、なかなか子供ができない場合には、違う環境に身を置いた方が上手くいく場合だってある。海外に行くのが苦手でストレスになってしまうとか、そういう場合であればともかくとして、妃殿下の場合には、自信回復とリラックスの機会にもなったはずである。この点については、天皇陛下は、すぐれた生物学者であり、きわめて合理的な精神をお持ちの方なのであるから、分からないはずがないのである。それ故、こういう見方には、説得力がないように思えてならない。

○ 無責任な皇室批判者
 それでは、いったい誰が犯人なのかということが問題となる。殿下が、6月8日に発表されたご説明の中でも、改めて「記者会見では雅子がこれまでに積み上げてきた経歴と、その経歴も生かした人格の大切な部分を否定するような動きがあった」ということをお示しになった以上、確かにそのような存在は、実在するのであろう。ただ、殿下としては、「対象を特定して公表することが有益とは思いませんし、今ここで細かいことを言うことは差し控えたいと思います。」ともおっしゃっている。だから、筆者としても、本来は、あまり詮索してはいけないのかもしれない。ただ、敢えて推測すれば、自らは皇室の在り方に責任を負わない立場でありながら、好き勝手に皇室の伝統とかを口やかましく述べる存在のことを指すのであろう。最近の保守系の雑誌などにおいて、殿下の発言を露骨に批判し、皇太子としての資質をあれこれと述べる者を見かけるが、そのような者も、そういった存在の一部なのではないか。そのような者が、無責任に妃殿下を批判し、妃殿下の心を傷つけた、そういうことであれば、殿下としてもお怒りになるのは当然だし、会見において、対外的にメッセージを発信するというのもうなずける。
ただ、殿下には、お立場上、具体的すぎる批判はできないという制約がある。そのため、大変なご心痛がおありだということは分かっても、具体的にどういうことなのかについては、とても曖昧になってしまい、予想もしなかったような混乱も招くことになってしまった。
 この点をとらえて、そうなるくらいなら、御発言しない方がよかったなどと言う批判もある。ただ、それは、殿下にはあまりに酷であると思うし、少なくとも、同情せざるを得ないのだ。そのような批判をするくらいであるならば、言論の自由とは、対等に主張・反論ができるということを前提にしているところ、一方で皇室には重い制約を課しておきながら、他方で、皇室について言いたい放題である昨今の社会状況を、もう少し問題視するべきではなかろうか。殿下の立場に立ってみれば、まったく、やるせない状況にある。

○ 殿下のご心中
 さて、「人格を否定するような動き」とは何であるかという話題から、次の話題に移ることにしよう。
「人格を否定するような動き」と並んで、メディアで話題となったのは、そのような御発言をなさった皇太子殿下のご心中についてである。この点については、妻の不調を目の当たりにして、公的存在としての自らの立場を忘れてしまうほど動揺されたのであるとか、新しい公務を目指していく上で、古くさい宮内庁と戦っているのであるとか、天皇皇后両陛下への対抗心といった見方がある。そして、この見方の帰結として、公より私にべったりであるとか、伝統的な公務を軽視しているとか、そういった批判が生まれてくる。この点については、殿下のおっしゃる新しい公務の方向性が明らかでないということもあり、相当な説得力がある。
 しかし、改めて考えてみるに、殿下は、本当に、自らの立場にそこまで無自覚なのであろうか、伝統的な役割を軽視しているのだろうか。そういうことであれば、今回の騒動の解釈としては、簡単である。しかし、殿下のお人柄に思いを致すとき、筆者には、どうしても納得できないのだ。
 殿下は、幼き頃より、愛情に包まれながらも、将来天皇になる存在として、厳しく育てられてきた。帝王学という無私の道を、我が侭に自己主張するのが当たり前の幼年時代から、仕込まれてきたのだ。大変なことだと思う。ただ、殿下は、あくまでも誠実に、じっくりと、真剣に生きてこられ、将来天皇になる者としての覚悟を深められてこられた。このことを伝えるエピソードは多い。個人的に好きなエピソードとしては、掃除当番をきちんと守られ、お一人になってしまっても、黙々と掃除をされたりとか、難しい漢字を書くときに、正確にきちんと書こうとするあまり、字が大きくなってしまうとか、本当に不器用なくらいに誠実である。
 皇太子となられてからの言動を拝見していても、そこには、公的存在としての自覚と誠実さがあふれている。美しいほどの自覚と誠実さ、筆者としては、どうやら、そこに、皇太子殿下のご心中を解き明かす鍵があるのではないかと見ている。
 殿下としては、天皇としてどうあるべきかということを、常に考え、悩まれてきたに違いない。そして、この問題は、簡単に答が出るようなものではない。皇室の歴史において、天皇という地位に即くことになる者が、自らの在り方をどう考えるべきかということについて、これほど分かりにくくなった時代はないのではなかろうか。明治憲法の時代においては、きっちりと国家機構に組み込まれていたし、現行憲法になってからも、昭和天皇の時代は、従来の皇室の在り方を変えるという方向性があり、今上天皇の時代にも、負の遺産の精算という方向性がある。難しいのが、皇太子殿下の時代において、何を方向性とするかである。そもそも、日本国及び日本国民統合の象徴とは、一体何なのか。規定自体は、空っぽに近く、制度の中に答えはない。このような空虚な地位に、全人生を閉じこめられるのは何とも残酷な話であるが、そこに、殿下のお人柄である。答えが出ないからといって、あきらめるわけにはいかず、悩み続けられておられるのであろう。そして、真剣に悩まれる中で、日本の国の将来のことにも、お考えが及ばれたはずである。日本の国の将来。いったい、どれほどの日本人が、真剣に考えているであろうか。個人のレベルで、自分の将来を悩む人は多いが、将来の日本の国、日本国民全体のことを考えている人は、ほとんどおるまい。しかし、殿下は、このような苦しい思索を続けられ、その中で、大変な危機感を持たれることになったに違いない。
 日本の国の将来の危機については、一つ一つは改めて述べるまでもないが、国内においても、また、世界の国々とどのように付き合うかということについても、深刻な危機が山積みである。
 こういった危機については、政治家、役人が取り組まなければならないものであるが、殿下としても、誰よりも高い視点から、日本の国、日本国民全体の幸福に関わる問題について、自らが責任を負わなければならない問題であると認識されたに違いない。そして、このような危機の時代において、単に伝統的なご公務を続けるのみでは、自分自身の責任を果たすことにはならないのだと、強く思い詰められたのだろう。このように考えることは、贔屓のしすぎであろうか。しかし、天皇の立場というものは、突き詰めて考えればそういうものではないだろうか。

○ 殿下と妃殿下のパートナーシップ
 ここで、妃殿下の存在にも触れておかなければなるまい。妃殿下については、素晴らしい学歴と元外交官というキャリアから、非常に華やかなイメージがある。しかし、生まれ持った才能があったとしても、いずれも大変な努力を要するものであり、地道な人生を歩んでこられたのではないだろうか。また、先日、適応障害であるとの発表があったが、このことから察するに、間違いなく、大変責任感の強いご性格である。努力家にして強い責任感の持ち主。これは、殿下とも非常に共通していると思われる。きっと、お二人は、真のパートナーシップで結ばれておられるのだろう。そして、一体となって、困難な象徴としての道を手探りなさっておられるのだろう。ただ、そこには筆者の想像も及ばないような焦燥感があるはずである。昨今、妃殿下について、外国にばかり目が向いているとかそのような批判が見受けられるが、妃殿下としては、自らの才能を少しでも役立てたい、そういうお気持ちがあったということではなかろうか。また、殿下が、妃殿下のことばかりをコメントなさるという批判があるが、殿下にとって、妃殿下は、妻として単に私的なパートナーであるのみならず、共に象徴としての困難な道に立ち向かう、この世にたった一人のパートナーなのである。そのように考えれば、公の場でコメントしても、何も不自然なことではあるまい。

○ 両殿下の資質
 以上、甚だ不遜であったかもしれないが、殿下のご心中について、私見を述べた。それでは、今回の騒動をふまえて、国民としては、皇太子同妃両殿下について、どのように考えるべきであろうか。
 もちろん、皇室についてどのように考えるべきかは、本来、国民一人一人が行うべきところであるが、メディアにおける評論においては、重要な要素が欠落しているように思えてならない。それは、象徴たる存在が、国と国民の幸せを祈る存在であるということの認識である。
 今回の騒動については、国民の立場としても、決して同情ばかりではなく、いささかうんざりしたようなムードも見受けられるかもしれない。しかし、改めて考えてみてもらいたいのだが、例えば、自らの立場についての問題意識が低いような者が、皇室の環境に適応するに際して、苦労知らずでいられるような鈍感な感性の持ち主が、皇室の立場に即いたとして、国と国民の幸せにどれほど意味があるだろうか。象徴たる存在について、全くのお飾りであると考えれば、むしろ、思い悩む知性や感性は邪魔である。しかし、象徴たる存在は、決してお飾りではないのである。象徴たる存在は、国と国民の幸せを祈る存在である。そこに私心はなく、純粋に祈る存在である。このことは、一見すれば、ばかばかしいような奇麗事であるかもしれない。いかにも、世間は、適者生存の世の中であり、正直者が馬鹿をみるのもしばしばである。しかし、世の中に、純粋な誠実さとか、他者肯定の精神は、不要であろうか、ばかばかしいものであろうか。強い者が生き残ればいいということだけで、割り切ってしまっていいものであろうか。現在の社会の危機は、人間の生き方として、何が大切かということを、あまりに見失ってきたことに起因するものが、ほとんどではないだろうか。筆者としても、他人に対する優しさとか誠実さとかを忘れるときがあるが、そんなとき、どこまでも誠実に御公務をこなされている皇室を仰ぎ見ると、心を洗われたような気持ちになるのである。人間の生き方として、大切なものを大切なものとして守られているお姿を見ることにより、何だかほっとするのである。象徴が人間であることの意味は、そこにあるのではないかと思う。筆者としては、今回の騒動を通して、殿下と妃殿下には、象徴たる存在としての、十分な資質がおありであるということを、改めて実感したところである。

○ これらからの課題
 もちろん、現在の状況について課題は大きい。それを次に述べることとする。
 まず、両殿下においては、自らの思いをもう少しオープンにすることが必要であろう。象徴としての在り方には、絶対的な正解というものはない。であるから、思いを打ち明けることに躊躇があるのかもしれない。しかし、国と国民のためを思ってのことであれば、それはどのような内容でも、限りない価値があるはずである。もとより、国の在り方も、一人一人の人間の在り方も、絶対的な正解はなく、精一杯悩みながら進んでいくしかないのだ。
 そして、国民としては、それぞれに、国と国民の将来を考え、あるべき皇室の在り方についても考えを深めるべきだろう。両殿下の思いを受け止め、場合によっては、意見を述べることも有意義だろう。
 肝心なのは、皇室という立場、国民という立場、それぞれの立場において、国の将来のこと、幸福のことを考えるということである。一緒に考えるということである。批判も時には必要であるかもしれないが、国の将来のこと、幸福のことにつながらないのであれば、意味がない。日本人の伝統的な価値観として、おおらかさというものが、もっと見直されてもいいと思う。おおらかな気持ちで、皇室と国民とが、共に国の将来のこと、幸福のことに思いを巡らす。これは、なかなか素敵な国柄ではないだろうか。
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