ルアンパバーンの風景

ラオスの世界遺産『ルアンパバーン』(Luang Phabang)の静かな風景を載せていきます。
実際は暑かった。

(無題)

2006-10-30 | ヤプログ!のログ
抽象的概念のほかに抽象的感覚というものがある。それはその奇妙さに不慣れだからというのもあるが、ウニは奇妙だ。名前、形、味、あらゆる要素で奇妙だった。
神は抽象的表象でそのまま抽象的感覚をもつ。認知の一致によりそれは綜合される。神徳を得ればそれはその形で形而上にゆきわたる。禍津日に於いても。音感に於いても、冨田勲や細野晴臣の音が「単なる機械音」としか聞こえないようでは抽象は理解できてない。行き渡る倍音も、簡素きわまる代物。形而上世界は安物で構成される。


(無題)

2006-10-29 | ヤプログ!のログ
精神の哲学は三つの区分をもつ。その考察の対象は、(1)概念の中にある精神、すなわち心理学、(2)精神の実現、(3)芸術、宗教、哲学における精神の完成である

何事も一番はよいことだと思う



(無題)

2006-10-27 | ヤプログ!のログ
神社やお寺や霊気の強いところへ行き、3日か半年間ほど、そこの霊性の影響で心情やら嗜好やら支持やら思想・美意識とやらに、変化というか慣性というか性質彩われていることに気付けるのなら、上質な肉をしているといえる。変な思想を持った宗教施設に行ったことにより、そのとおり過激な思想に彩られていることに気付けるほど形而上に客観性をもった人は少ない。そのときではなくあとからでも気がつくのなら、感覚のよいほうだろう。縁か偶然かは知らないが、名前も忘れたが、あるお寺か観光地には強欲な感じの人間が集まってくるともいう。


(無題)

2006-10-26 | ヤプログ!のログ
魔境に入りやすい人は霊的に魔を求めている。力に憧れている。キリストも言っているが7つの車輪を乗っ取られる。「穢れた霊は、人から出て行くと砂漠をうろつき休む場所を探すが、見つからず、それで出てきた我が家に戻ろうと言う。戻ってみると家は掃除されていて整えられていた。そこで出かけていき、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで住み着く。そうなるとその人の状態は前よりも悪くなる。」(マタイによる福音書12章43節~45節)
魔性に憧れ心と体がボロボロになった(と推測される)人がいた。聖を求めつつ、それに向かうある種の度胸がないので魔の権力に憧れ魔女ぶった黒い記述法をする女の根暗なのだが、しかしそれは実物の魔女にたいしては冒涜になる。お前みたいなネスアカに虚悪されると自分が舐められる。キリスト教の誤読と同じ扱いにされる。
人の自殺、とくに陰湿なもの、同族嫌悪における女よりも、陵辱されるのは男のほうが芸術にはふさわしいらしい。射精してしまうらしい。いや違うオルガスム。なんでもない。気にしなくていい。反面単なる悦に用いる程度の魔性の宗教的神秘をわかってない奴の魔境は冒涜罪にもなるらしい。赤と黒のマーブルにしてやるわ。やがて本物の世界を見せることになるが、魅せられないで終われば実は無理してる端くれの魔道とされる。せいぜいパンピーをビビらせる程度の存在として定着する。被害妄想で当たり散らすようになったらそういう世評があちらの界隈には既に出来上がっているのかもしれないね。魅入ってしまえばいいのに。その本物という魔女も…昔すぎて消えかかっていて定かではないが、元を辿れば純粋な赤子だったはずだが。でもそれはあってはならないことなので、魔女とは虚悪を実に悪と為しうる才に長けた存在ということにもなる。
話は逸れたが聖/邪どちらにせよ、単なる体面の彩りではその界隈では二流とされる。形而上学的・芸術的理解がなければ一流にはされない。


(無題)

2006-10-25 | ヤプログ!のログ
へいわは、多くの人の我慢によって成り立っている
チキンほど吠えたがるが、その自意識過剰なプライドが単にへいわを汚しているだけであることに気付ける段階に至れば、それを恥じてやめる
恥じてやめた人が、正当化的に未だ吠えたがるやつを見ると、どう思うか
やはりへいわは多くの人の我慢によって成り立っている


(無題)

2006-10-21 | ヤプログ!のログ
多くのものごとに好感をもって生きている人は、幸せである。世の中の大半を薄汚く描いている会合に侮蔑語として形成された「ゴキブリ」も、ゴキブリのことを好ましく思っている人にたいしては、[汚さ][卑怯さ]という象徴は機能しない。象徴の意味するところは多数決では決まらない。侮蔑語というのも主観を強調させたものだから、主として悪い言葉を扱えば、相手より多く自分の世界を滅ぼすこととなり、結果、お前はゴキブリだから、ゴキブリなのだぞ!!とのめし続けることとなる。片側には届き、片側には届かなくなる。こうして洗脳論理は極まってゆく。
さてゴキブリとは… よくよく考えてみると、歩くときや寝返りを打ったとき、あるいはいきなりこっちに飛んできて口に入ってしまったときなどに、潰れる可能性がある、その潰れてしまいそうな不安が、ゴキブリの正確な速さ以上に嫌なだけで、ゴキブリ自体は愛らしいものだと思う。カブトムシやせみのほうがゴキブリよりも人気があるが、外皮の硬いカブトムシはその分動作が鈍いし、死ぬと鎧の中で蛆が湧いている可能性もある。せみの短い一生は人々に尊い教訓を与えるが、寿命の長いゴキブリに比べるとなるといまいち馬鹿で、観察には堪えない。うちのゴキブリは仏様の三方の位置を覚えていて、毎日漁りにくる。塩に研ぎ米、きれいな水と仏様の霊気、健康に恵まれたゴキブリたちは、秋になっても元気にカサコソしている。


進化論と創造論

2006-10-16 | 宗教
創造論も進化論も八百万の概念では矛盾しないでいられる。進化はDNAの構成からの評価で結果論。創造は、指南とも考えられる。神の見えざる力、暗在系の力によって進化する。というか、変化する。寺や神社の気を浴びると表情が良くなる。それと似てる作用で。その小さな進化の積み重ねである究極に長いスパンを一瞬に結論付けて見れば、創造とも云える。論理的な西洋人に語らせると結論のみの解釈になる。それでは中ヌケしてるので、本来なら歴史の敷衍が必要になる。「霊的真理」以上に霊的に大切なものが、日本人にとっては古事記や日本書紀の叙述になる。それらは高天原(宇宙)についてはほとんど書かれていないが、国づくりに関わった天津神や国津神の神話は日本人の魂の規定になり、霊性の彩りにつながる。実際神社で祀られているのは宇宙の抽象的な神ではない。ほとんどが伊邪那岐命・伊邪那美命の国産み以降の神になる。その神気が人間、特に日本人の個性に近く、次第に魂は実相を帯びてゆくのである。


たくさんの仏像

2006-10-06 | ルアンパバーン
WAT VIXUN, MUSEUMにはなんか惹かれる仏像がたくさん並べられている。どれも魅力的だった…。古い仏像郡で、あまり見ない、ときに変な形してて、その当時のルアンパバーンの思い出が宿ってそうだった。反面、今にも崩れてしまいそうなあやうさがある。梶井基次郎の『檸檬』じゃないけど、朽ち果ててるところが、なんか気持ちわる美しい。表情もエキセントリックでたまらない。

問題

2006-10-05 | ルアンパバーン
意味不明の絵がありました。

岸壁から落ちたのであろう男の人が、途中で松の木に引っかかったのか、枝に絡みついた蔓にしがみついています。
ところが、岸壁からは虎が見下ろし、松の枝に絡みついた蔓をねずみがかじり、さらに男の人の頭上には大きな蜂がぶんぶん飛んでいます。
そして極めつけは海の中に龍がいて、男の人が落ちてくるのを待っているようなすさまじい形相。

さてこの絵の意味するところは?