ルアンパバーンの風景

ラオスの世界遺産『ルアンパバーン』(Luang Phabang)の静かな風景を載せていきます。
実際は暑かった。

(無題)

2006-11-27 | ヤプログ!のログ
第一印象を、第二印象、第三印象に変えてしまう、その変換方式が歪な場合、パーソナリティ障害が疑われ、その変換方式を解体し、形成過程を辿る
まがつひ培養器をなおび形成器に作り替えるには高度なテクネと本人の自覚が必要になるので一般的には墓の中に封じ込めることになる



(無題)

2006-11-23 | ヤプログ!のログ
職業(Beruf)は一種の運命(Schicksal)と見られるが、一定の職業については、一般にそれにくっついた外的必然性の形式はすてなければならない。職業は自由に選び、自由に續け、また果たさなければならない。
説明。人間は、運命がもついろいろの外的な事情や一般に人間が直接的にもっているようなすべての外的な事情に關して、それを自分のものとし、それから外的定在の形式を取り除くようにしなければならない。人間が自分の使命に忠實であるなら、すなわち人間が自分の職業を全面的に果すなら、自分が運命によってどんな外的状態におかれているかは重大なことではない。或る地位にある職業(或る地位に召されていること Beruf zu einem Stande)は、一個の多面的な實體である。職業は云わば素材(シュトッフ)であり、材料(マテリアール)であって、不純な點や欠け易い面や地につかない部分が少しもないように、あらゆる面を隅々まで磨き上げなければならない。私がそれを完全に自分のものとするかぎり、私はその中にあって自由である。人間は自分の職業を果たさないときは何よりも充たされない。ところが、人間は眞實に自分のものと思えないような關係におかれることがある。しかもこれは同時に、その人間の身分である。人間はこの身分から自分を解放することはできない。すると、人間は自分自身の意に反した關係の中に生活し、行為することになる。


(無題)

2006-11-23 | ヤプログ!のログ
人間は知的教養と道徳的教養とによって、他人に對する義務を果す能力を身につける。他人に對する義務は實在的(レアール)な義務と名付けられてよい。これに對して、教養に關する義務はむしろ形式的(フォルメル)なものである。


(無題)

2006-11-23 | ヤプログ!のログ
人間の職務における忠實と服従、並びに運命に對する服従と人間の行為における自己忘却は、絶對的で必然的なもののために虚栄心、自惚、利己心を放棄することを根本條件とする。
説明。職務は普遍的なものであり、必然的なものであって、人間の共同生活の一面をなしている。従って人間の全事業の一部分である。人間は職務をもつとき、普遍的なものに参與することになる。人間はそれによって客観的なものとなる。職務はもとよりそれぞれ限られた領域ではあるが、それにもかかわらず全體の必然的な一項を形成するものであり、またそれ自身一個の全體でもある。人間がものになるためには、自分を制限することを知らねばならない。すなわち、自分の職務を全く自分の事とせねばならない。すると、職務は彼にとって何の拘束でもなくなる。その時には人間は自分自身と、その外面性、すなわちその職域と一體になる。ここでは職務はすなわち普遍的なものであり、全體である。人間が――空虚なもの、すなわち非本質的なもの、無価値なものを自分の目的にする時には、事柄そのものに對する關心でなく、自分のこと〔事柄〕についての關心が元になる。空虚なものは何らそれ自身で存在するものではなくて、主觀によって支えられているものにすぎない。人間はそこではただ自分自身を見るのみである。例えば、人間が一般に自分の行為において自分の卓越さを意識するとき、従って事柄についてではなくて、むしろ自身に關心をもつときのように、道徳的な虚栄もあり得る。―― 一寸した仕事を忠實に果す人間は更に大きな仕事に對しても能力のあることが分る。と云うのは、それで彼の従順の精神が分り、自分の願望とか傾向とか妄念を捨てるものであることが分るからである。Hegel


ガス形態

2006-11-23 | 宗教
神のいない教会での神の=語り口=ヒューマニスム。神との脈をつなぐにそれだけではいけない。信仰必要。ガス形体のようなものに審理されている。關與してくるのは身の潔白性。独我論に身を包めばもはや本来の宗教としての實現は厳しくなる。向かうべき。ガス形体は登るまで待っているが、その前に寿命が尽きてはいけない。


逢着する

2006-11-22 | ヤプログ!のログ
当たり前のものを当たり前と認知できなければ、機能障害となる。宗教はその当たり前の認知から始まる。哲学の場合は主に懐疑や否定から始まる。もちろん最終的には同じところに逢着するが。ただ誤った信仰・自負があると長引く。


(無題)

2006-11-16 | ヤプログ!のログ
あの世でまた会おうね
といえばあの世でもうまく会える、が、当然この世のようには会えない、しかし、そういう意識がないからこそ、崩れずに会えるのである
それを純粋自然な信仰[=交点]だという


(無題)

2006-11-15 | 宗教
それを「宗とする教え」とすればそれは宗教になる。基本的には感情的・嘲笑的になる時点で無宗教はありえないだろう。アルツハイマー以外は濃かれ薄かれ宗教を持っているものである。灰色の人にとっては松坂の入札額も宗教と映るだろう。「宗教は全てカルトである」と見做しても普遍的ではない。宗教とはすべて、カルト化する要素を孕んでいるというものである。経済の教えでは「神は商品で宗教団体はシステムである」。心理学の教えでは「神は心の支え」。それは自分を保護する役割もあるが、思考基盤の硬直化が進めば、神や宗教をそのように見なさない思想をタブーとして異質排除することにもなる。それが反社会的な攻撃性に至ったときに、破壞カルトと呼ばれることとなる。また、仏教とか神道など、ほとんどの宗教の本質が思考基盤をより普遍的なものに移行さすもの,または思考基盤を抜けようとする反宗教的なものなのだが、宗教を音楽のように「語り得ぬもの」と捉えることをしないのはなぜだろう。心の支えになると知って信仰しないのはなぜだろう。保身だろうか。単にアニミズム的な傾向に基づくところであろうか。自己矛盾でもありメビウスの輪なところでもある。


(無題)

2006-11-09 | ヤプログ!のログ
昨日の夢は面白かったなぁ。クリスチャンの怨念を買ったのか知らないが、もののけ姫を痛烈に批判していた。Chopinの子犬のワルツに団体意識を感じるのは日本人ぐらいらしい。Tchaikovskyのくるみ割り人形がBGMに使われていて、それに団体意識を感じることを馬鹿にしていた。その表現は「滑稽さ」ではないのか?と思うのであった。


(無題)

2006-11-06 | ヤプログ!のログ
確かに殆どの人が語る神は「想定」である。でも肌のすべすべになるかの崇高な神の気については必ずスルーされている。現人神も、現人ゴッドか現人ガミかではありえなさ度はまるで違う。そもそも人が神を思考していることについては一体何が悪いのか…それこそまさに思想問題であろうが。あってはならない信じてはならないという潔癖症の境界が設けられているかのよう。
旅行スポーツふつう感動を共有する場面
それをみて馬鹿にした顔をする奴がいる。卑屈者にとってはここぞという場面なのだろうが。たまに本当に狷介な人がいる。
もちろん一概に狷介というのではないのかもしれない。サルトル的には神というから神が生まれるらしい。洗脳というから洗脳が生まれる。純物理的に。死なない作家は二流。語りえぬものを語ろうとするやつは究極には自殺となる。あの鼠色の人も恣意的な感覚排除を極めた人だったのかもしれない。(ただそこで死にきれてないから迷惑千万なのだが。二分間息を止めてみろ)。物理学者のほうが言葉ではなく自分の感覚と経験を主体にするのでその点健全で''Einstein''は「そうなったら死んだも同然です」と言いきる。
自然は死んでいない。自然に合一するにはただ言葉をなくすだけでいい。動物のほうが動き回るので面白いが、本当に無私のひとは自然が相手になる。無償とはそこにある。屋久杉が精神に与える影響は怪奇だが(恣意的)やはり霊性は高かったらしい。国津カミぐらいに威力がなければ自分にはほとんど何も感じ取れないけれど。