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大和へやってきた信綱一行が宝蔵院胤栄・柳生宗厳と出会い信綱が新陰流の道統を継がせるに至った。

2011-06-09 23:58:14 | 足軽の階級

柳生宗厳との出会い


ここでは大和へやってきた信綱一行が宝蔵院胤栄・柳生宗厳と出会い、やがて宗厳の人品を認めた信綱が新陰流の道統を継がせるに至ったいきさつをご紹介します。


宝蔵院胤栄との出会い

 伊勢を後にした信綱一行は、まず宝蔵院胤栄を訪ねるべく大和にやって来た。胤栄は丁重に彼をもてなし、やがて立ち会い、ということになった。胤栄は槍を手に、信綱は袋韜(ふくろしない)を手に向き合った。
 この信綱の持つ「袋韜」なるものは彼の発案によるもので、竹をいくつかに裂いたものを数本束ね合わせ、なめし革で固めたものという。当時は立ち会いにおいては木刀を使用するのが一般的で、ややもすれば相手を不具の身にしたり、最悪の場合死に至らしめることも多かった。そこで信綱は門人達が打ち合って落命したりせぬよう、またそれを気にせず思い切って打ち合いが出来るよう、これを発明したと伝えられている。つまり、信綱は現代の剣道における竹刀の発明者ということになる。

 勝負はあっけなくついた。後に宝蔵院流の祖といわれ、独自に十文字鎌槍を発明したと伝えられる荒法師胤栄ほどの遣い手が、ほとんど何もできないままに信綱の袋韜に詰められたという。胤栄は聞きしにまさる上手と感服して即座に信綱に入門を請い、さらに使いの者を剣友柳生宗厳のもとへ書状を持たせて呼びに走らせた。胤栄からの書を受け取った柳生宗厳は、「運命の立ち会い」となる宝蔵院道場へと向かう。


柳生宗厳との出会い

 さて、宝蔵院道場に到着した宗厳は、早速丁寧な口調で立ち会いを所望した。しかし、返ってきた答えは宗厳をまさかと疑わせるものであった。「ではまずこの疋田文五郎と立ち会いなされ」。一瞬宗厳は耳を疑ったに違いない。「畿内随一」とその実力を評価されている自分に対して、弟子を立ち会わせるとは・・・。内心面白いはずはなかったろうが、それを怺えて宗厳は承知した。しかし・・・
 勝負はこれまたあっけなかった。宗厳と向かい合った疋田文五郎が「それは悪しゅうござる」と言うたびに一本ずつ取られ、三本中三本とも彼の完敗であったという。弟子に敗れた者がその師匠に挑むなど、当時では考えられないことであったらしいが、宗厳は信綱に立ち会いを求め、信綱も快く許したという。

 宝蔵院胤栄ひとりを傍らに、信綱と宗厳の間で三日三晩の試合が行われたという。そして試合を終えた宗厳は信綱に入門を請い、一行を柳生の郷へ招待した。信綱は請われるままに柳生の郷へ向かい、その美しい郷の佇まいが非常に気に入ったようだ。加えて柳生家は宗厳の父家厳をはじめ一族総出で歓待に尽くしたという。

  柳生の郷が気に入って居着いた信綱は、惜しげもなくその技を柳生一族に伝授した。特に宗厳には厳しく教導し、そのまま柳生の郷で永禄七(1564)年の正月を迎える。しかし戦国の世は非常であった。信綱のもとにひとつの悲報が舞い込んできた。
 それは正月七日、北条氏康が下総国府台で里見義弘・太田資正連合軍を撃破した際、信綱の子秀胤が戦死したことを知らせるものであった。信綱は柳生一族にこのことを悟られたくなかったのか、宗厳に宿題を残して柳生の地を去る。その宿題とは「無刀取り」、つまり身に寸鉄も帯びずに敵を圧倒して勝利を収める方法を考えよという難題である。宗厳はかしこまってこれを受け、信綱は疋田文五郎を柳生に留め、神後伊豆をつれて旅立っていった。


軍法軍配天下一

 信綱は関東方面へは戻らず、京へと上っていった。おそらくまずは山科言継を訪問したのではないか。そして京に滞在中に、その存在を耳にした将軍足利義輝からの招待状が届く。彼は正に天にも昇る気持ちではなかったろうか。悪く言えば、評判の実力とはいえ、片田舎の一剣豪の武芸が、将軍家の目に留まるのである。弘流を目指す彼にはこの上ない栄誉であった。おそらくこの蔭には北畠具教や山科言継らの後押しもあったことだろうが、それはともあれ、永禄七(1564)年6月18日、彼は晴舞台である京都二条御所へと参上した。

 この時の上覧演武の際、信綱の打太刀を務めたのは神後伊豆ではなく、25歳の青年剣士であった。名を丸目蔵人佐長恵という。彼は肥後相良家の家臣で、当時九州一の兵法者と言われた天草伊豆守に剣を学び、その技量は師を凌ぐと言われたほどの麒麟児である。彼は上洛時に信綱の世評を聞きつけ、立ち会いを所望したのだが、結果は宗厳らと同じであった。いとも簡単にあしらわれ、その場で入門を請うたという。信綱もこの青年のひたむきさを可愛がったようで、だからこそ神後伊豆を差し置いて上覧演武の相手に選んだのであろう。
 結果は大成功であった。感服した義輝から「兵法新陰、軍法軍配天下一」の栄えある称号を賜ったのである。そして信綱の推挙により、打太刀には選ばれなかった神後伊豆もまた、将軍義輝の兵法師範として取り立てられたのだ。この時期が信綱の人生の中でも、最も充実した時期であったろうと思われる。

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2011-06-06 21:27:32 | 足軽の階級
大垣城の戦い
~福原長堯の関ヶ原~
石田三成は九月十四日夜、大垣城から関ヶ原へと向かいます。間もなく東軍が攻め寄せますが、留守を務めた福原長堯らはよく防戦に務め、城を守ります。しかし、その後に思わぬ結末が・・・。


両軍、関ヶ原へ

  写真は家康の本陣から見た大垣城方向の様子である。さて東軍方はというと、多少の兵を損じはしたが、さして気にはかけてはいなかった。一説に、家康は敵情偵察をさせた上で軍議を開き、大垣城へは多少の兵を押さえとして残し、主力は明朝佐和山攻めに向かい、引き続き大坂へ進むことを決定したという。家康は元来野戦は得意だが攻城戦は不得手といわれ、もし敵勢が大垣城に籠もると、たとえ勝てたにせよ相応の犠牲は払わねばならず、何より時間がかかりすぎるのである。もし膠着状態になっている間に大坂の毛利輝元が秀頼を担いで参陣するようなことになれば、東軍に参加している豊臣恩顧の武将の動向はどうなるかわからないという不安があった。そこで家康は野戦に持ち込もうと謀り、この情報を大垣城に聞こえるように流したというのである。

 家康が野戦に持ち込みたかった他の理由として、かねてからの調略(内応させること)が進んでいたこともあるかもしれない。家康は九月十四日のこの時点までに、小早川秀秋・脇坂安治らの内応に確かな手応えを感じていた。小身の脇坂はともかく、秀秋は一万五千余の大兵力を持っている。彼はこの日までに黒田長政のもとへ人質を送り内応を約束していたが、家康はさらにこの日に念を押した。井伊直政・本多忠勝の名において、上方で二カ国を宛う旨の誓書を、秀秋の家老平岡頼勝・稲葉正成に送っているのである。もちろん三成方も負けてはおらず、一説に秀秋には秀頼成人までの関白職と播磨一国の加増、両家老には十万石の所領と黄金三百枚という破格の条件を提示したという。

 西軍は連日の敗報続きの中、この日は島左近らの働きにより、ささやかながらも初めて一矢を報いて士気を高め、三成らは大垣城で軍議を開いた。島津惟新は斥候に出していた押川公近から「東軍は長旅で疲れている模様」との報告を受け、絶好の夜襲の機会と甥の豊久を通じて三成に献策した。しかし、結局この策は採用されず、豊久は無言で帰陣する。宇喜多秀家は毛利輝元の出馬を待った上での決戦を主張、これに賛同する将もあったが、三成は煮え切らず時間だけが経過していった。
 『浮田秀家記』によると、この時東軍の中で事前に三成に通じていた宮部兵部(長熙・ながひろ)が、事が露見しそうになったため赤坂から脱走して大垣城に逃げ込み、前述の家康の計画を伝えたとし、これを聞いた三成は、急遽軍議をやり直して関ヶ原へ進出を決めたとある。原文は以下の通りである。
 「関東ノ御談合ニハ大垣ヲバ人数ヲ以テ押ヘ付治部ガ居城ヲ始メ上方勢■■ヲ攻メ京都ニ直ニ御登リ可有之ニ相極リケルヲ宮部具ニ咄シケル故治部大ニ了見違ヒ(以下略)

 これが事実とすれば、家康が故意に宮部長熙を大垣へ走らせた可能性も考えられるが、旧参謀本部編『日本戦史 関ヶ原役』には、後の佐和山城攻めの際の水之手口の部署に田中吉政とともに彼の名が見えるので、この時点で彼が西軍に走ったとは考えにくい。ところで宮部長熙の行動は今ひとつはっきりしておらず、伏見・大津城攻めにも彼の名が見えることから混乱する。しかしこれには少々複雑な事情があるようだ。長熙は家康に従って会津征伐に赴くが、小山で反転して西上中に家臣団が分裂、因幡若桜城主木下重賢・浦住城主垣屋光成ら与力衆が配下の兵ごと脱走し、大坂に走って西軍に投じるという事態が起こる。したがって『家忠日記』には伏見・大津城攻めに長熙の名が見えるようだが、参加したのは木下・垣屋であり彼自身は参加していないのである。ただ長熙も西軍に加担したかったらしく、これを田中吉政に止められ渋々東軍に参加していたようだ。一説に彼の態度に愛想を尽かした家老等が井伊・本多の陣へ赴き、主君が乱心したので別の大将の下で働きたいと申し出たため、友田左近右衛門ら多くの家人が藤堂高虎の隊に組み入れられるという一幕があったという。
 事の真偽はともあれ、こういう話が伝わったこと自体、家康が三成を城外に出したかったことの裏返しとも取れる。
 このあたりには色々な説があり、近年「家康の西軍おびき出し説」は後の西軍の奮闘ぶりなどから否定されつつある。つまり西軍の関ヶ原移動は、家康の謀略ではなく三成らの自発的行動だったというわけである。決定的な新根拠があるわけではないが、少しだけ考えてみた。

 家康にとって一番困ることは「時間の浪費」であろう。前述の通り、もたもたしていると毛利輝元が秀頼を擁して出馬してこないとも限らず、また事実そうなってしまってはたとえ秀忠軍と合流できたとしても、家康にとって困るのである。実際家康は、竹中重門が自分の居城・菩提山城への移動を提案すると、これを良しとしてその準備を命じているようだ。実現こそしなかったが、これはやはり西軍を大垣城から引きずり出すための一方策(この場合、戦場は青野ヶ原一帯を想定か)であった公算が大きい。ただ、家康としては一日も早く西軍を大垣城外に、というほどせっぱ詰まっていたわけではなく、とりあえずは秀忠との合流を果たしてからと考えていたのであろう。
 ところが、三成にとっては小早川・毛利の動向が何より気がかりであり、『慶長記』にも「此時備前中納言殿・小西摂津守・石田治部少輔、大柿を出て関原へまいられ候由。子細は筑前中納言殿むほんと風聞候。仕置いたすべきとて出られ候由」とあるように、この時点で小早川の挙動はすでに傍目(大谷吉継)からもはっきり不審であり、これは一日も早く対処する必要があった。大軍を擁する小早川秀秋への対策を確実なものにしておかないと、万一の際には大変なことになるのである(実際にはその「万一」が起こってしまうのだが)。従って三成は大垣城にいると大谷吉継との連絡や小早川への対応などに何かと不便で、それは吉継にもよく解っていたと思われ、おそらく吉継が三成等を呼び寄せたのであろう。
 さらに、大垣城の西にある長松城に入っていた東軍方一柳直盛が、変装した西軍方の八人の諜者を捕らえて処刑した旨の記録が残されていることも注目に値しよう(『一柳家記』)。詳細は省くが、諜報戦において西軍方は東軍方に遠く及ばず、三成や吉継も薄々これに感づいていたのではないだろうか。だから西軍は関ヶ原で一丸となって東軍に当たろうとし、もはやそれは出来る限り一日でも早い方が良かった。そして、それを行動に移した日がたまたま九月十四日夜だったのである。

 話を赤坂の家康に戻してまとめる。つまり家康は西軍に探りを入れた。「佐和山進撃」という「虚報」を流すことによって西軍方がどう動くか見極めようとしたのである。動けば良し、動かずば次の手を、といったところであろう。家康は真田信之に大垣城を水攻め云々と九月一日付の書状で伝えているが、これは西軍方に探知される事を見越した上で書いたものではないだろうか。現地に行って地形を見るとわかるが、大垣城の水攻めなど事実上手間暇が掛かりすぎて不可能に近い。確かに大垣城は低湿地帯にあるため、足場を悪くする程度のことは出来るだろう。しかし秀吉の備中高松城攻めなどと同じように「水没」させることなどまず不可能で、そんなことをしようものなら莫大な時間と労力が掛かってしまうのである。
 そこで、家康は三成に下駄を預けた。もし三成が動けば西軍方の体制(布陣)が整わないうちに追撃して打撃を与える。布陣の定まっていない軍勢や移動中の軍勢はたやすく討てるからである。また三成等が動かなければ、菩提山城に移った後に相手の出方を見ようとしたのかもしれない。

 そして、三成は家康の真意を知ってか知らずか、注文通りの行動を起こした。しかしこれは家康に「はめられた」わけではない。上記の通り、三成には三成の事情があり、一日も早い対処を迫られたからである。そこで西軍勢は大垣城守備として本丸に福原長堯・熊谷直盛、二の丸に垣見家純・木村勝正・同豊統・相良頼房(長毎)、三の丸に秋月種長・高橋元種ら七千五百(実数は四千八百ともいう)の兵を残し、折から降りしきる雨の中、関ヶ原へと午後七時頃に大垣城を後にした。
 家康は三成を大垣城から退去させたく、三成は自軍の連繋上関ヶ原に移動するのがベターと判断した。移動に当たっては、なるべくなら敵方に探知されにくい雨の夜が良い。十四日夜はまさに打ってつけであり、三成は意を決して移動したのである。家康はこれをキャッチして直ちに深夜関ヶ原へと向かうが、いざ翌朝深い霧が晴れてみると、西軍は既に迎撃体勢を整えていた。


大垣城の戦い

  大垣城(=写真)は大垣市郭町(JR大垣駅の南約500m)にあり、現在は郷土資料館として利用されている。赤坂との距離は約一里である。
 家康は堀尾忠氏・中村一栄・西尾光教・水野勝成ら約一万一千を大垣城の押さえとして残し、残りの兵はそれぞれ部署を定めて佐和山(関ヶ原)へと向かわせた。左翼東山道筋の先鋒は福島正則で、以下藤堂・京極・寺沢らの計一万五千。右翼中山道筋の先鋒は黒田長政・竹中重門で、以下細川・加藤・田中らの計一万六千。松平・井伊勢六千は中堅、筒井・生駒らの九千は後詰となった。また浅野勢は垂井と野上の間にある一里塚に、池田勢は垂井付近の御所野にそれぞれ布陣して南宮山方面の敵に備え、中村・有馬勢は予備軍として野上付近に布陣し、これも主として南宮山の敵に備えたが、この方面の兵は計一万七千である。そして家康自身は三万の兵を率いて最後に関ヶ原へと進む。軍監は本多忠勝である。
 三成らが出陣して間もない十五日早暁、水野・西尾・松平(康長)・津軽(為信)勢が大垣城へ攻め寄せた。その様子が『改正三河後風土記』にこう書かれている(要約のみ)

 西尾光教が真っ先に東大手に攻めかかった。城兵は城内に引き取って門を閉じる。そこへ水野兄弟が駆けつけ、西尾勢とともに門を破り、三の丸へ突入した。城兵も必死に防戦に務め、水野勝成は自ら鎗を振り回して暴れ回る。東軍勢はやがて三の丸を攻め落とし、町屋を焼き払った後に関ヶ原にいる家康へ報告した。家康はちょうど合戦の最中だったが、これらの将の戦功を讃えた上で、「三成らが敗れた上は、大垣は攻めずとも落ちる。焦って火急に攻めかかれば味方の戦傷も多いだろうから、ただ遠巻きにして陣を張るように」との命令を伝えた。

 さて、関ヶ原ではこの日の昼過ぎ、早々に大勢は決してしまう。こちらは大垣城の留守勢であるが、西軍の敗報をそれとなく知り当然動揺し始めた。水野勝成はたまたま秋月種長と知り合いだったので、城将を暗殺して内応の実を示すならば旧領安堵の労をとろうと伝えたところ、秋月は相良・高橋らに計り「我々は行きがかり上仕方なく石田三成に応じたが、今は後悔している。もし罪を許されるなら、主将福原を始め垣見・熊谷・木村らを悉く誅殺してその証とする」という旨の返書を直ちに認め、内応を承諾した。これを受けた水野・松平康長は早速家康のもとへ知らせ、「康長・勝成両人の判断でよきに計らえ」という返答を得てこれを城内の三将に伝えた。そして、三将は行動を起こした。

 翌十八日、相良ら三将は「軍議」という名目で福原・熊谷らを三の丸に招いた。福原は何か怪しく感じたかして来なかったが、やって来た熊谷・垣見・木村父子はすべて秋月らの手によって殺され、三の丸と二の丸の門が開けられた。同時に水野・松平勢が城内になだれ込み、内応勢とともに激しく本丸に攻めかかる。福原は必死の防戦をして持ちこたえるが、その夜三成の郎党日野七郎左衛門が関ヶ原から逃げてきて城内に入り、敗戦の顛末と三成ら諸将が行方不明になっていることを伝えた。これを聞いた城兵等は力を落とし、一人減り二人減りして、わずかに雑兵ら二、三十人のみを残すだけの有様となってしまった。
 この状況を見て西尾光教は本丸内へ矢文を射込み、福原に降伏を勧告した。ここに至ってはさすがの福原もどうすることもできず、ついに意を決して城兵助命の誓書をもらえるならば開城しようと返答した。西尾はこれを約したため福原は剃髪して道蘊と改名し、城外へ出て伊勢朝熊(あさま)山へと向かった。九月二十三日のことであった。ここに美濃国内における「関ヶ原」関連の主立った戦いは終息する。福原はその後伊勢朝熊山で赦免の沙汰を待つが、三成の義弟ということもあって家康は遂にこれを許さず、彼は十月二日(日時は異説あり)に自害した。同地永松寺(現伊勢市朝熊町)には彼の墓があるという。

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2011-06-06 21:09:55 | 足軽の階級

杭瀬川の戦い
~島左近の関ヶ原~


いわゆる「決戦」前日の九月十四日、東軍の総帥・徳川家康が赤坂に着陣しました。石田三成の家老島左近は、一策を秘めて蒲生郷舎・明石全登らと東軍へ小戦を挑みます。  



家康、赤坂へ着陣

  左の写真は大垣城(現大垣市郭町)の天守閣から美濃赤坂方向を望んだものである。赤坂は大垣城の北西約一里(4km)の地にあり、九月十四日までに東軍諸将がすでに集結していた。
 さて家康はというと、八月二十八日に江戸にいた家康のもとに河渡川の戦いの捷報が届き、頃はよしと九月一日に出陣することが決まった。家康は弟の松平康元・五男の武田信吉らを江戸城の留守に残し、同日三万二千七百余の兵を率いて江戸を出陣した。家康本隊はこの後、神奈川・藤沢・小田原・三島・清見寺・島田・中泉・白須賀・岡崎・熱田と泊を重ね、十一日に清洲城に到着した。
 さらに十三日には岐阜城へ入り、その日の夜のうちに馬印・旗・幟と銃隊・使番などを密かに赤坂へ向かわせ、自身は翌十四日夜明け前に岐阜を出陣、稲葉貞通・加藤貞泰らの案内で長良川を越え、神戸・池尻を経て正午前に赤坂に着陣した。

  この家康の赤坂本陣は当時岡山と呼ばれたが、関ヶ原合戦の後に勝利を記念して「勝山」と改称され、現在に至っている。場所はJR美濃赤坂駅の南西300m程のところにある小高い丘で、現在では頂上部分に「史蹟 関ヶ原合戦岡山本陣址」の碑が建っているのみ(=写真右)である。
 これにより、赤坂に勢揃いした東軍勢の陣所を家康の本陣から見てみると、以下の通りである。なお、各武将の陣所記述は『関原合戦図志』(神谷道一著 小林新兵衛発行)より引用した。

徳川家康:岡山(勝山)
筒井定次:大久保

杭瀬川の戦い

 九月十四日正午頃、西軍の斥候が大垣城へ駆け戻ってきた。東軍の赤坂本陣のそこかしこに白旗が翻って俄に活気を呈し、幟の数なども一気に増えたので、家康が着陣したのではないかという報である。これを聞いた西軍方の兵は少なからず動揺し、浮き足だった様相を呈し始めた。そこで三成の家老島左近や蒲生郷舎らは「家康は上杉景勝と戦っているはずなので、こんなに早く着陣する事はあり得ない。白旗は金森法印(長近)のものである」と触れ、兵たちの動揺を鎮めようとした。しかし三成は宇喜多秀家・小西行長とはかり、改めて偵察をさせたところ、家康の持筒頭・渡辺半蔵の姿を認めたことから家康の着陣は事実であると報告されたので、兵たちは一層動揺の色を濃くしていった。
 左近はこれ以上動揺が広がるとまずいと考え、「もはやこの動揺を鎮めるには、まず一戦におよんでこちらの戦力を示す他ありますまい。敵を誘い出して攻め、状況を打診してみてもよいのでは」と三成に献策、了承を得た。そこで左近は蒲生郷舎とともに五百の兵を率いて大垣城を出陣、宇喜多秀家は明石全登・本多但馬らに八百の兵を与えて後陣に備えさせた。

  左近は一隊を笠木村付近の草むらに隠しておき、自身は池尻口から杭瀬川を渡り、東軍の中村一栄隊の前で刈田をして敵を誘った。なお、中村隊は本来は駿河府中城主の式部少輔一氏が出陣するところだったが、七月十七日に病没したため、代わって弟の一栄が指揮をとり参陣していた。
 左の写真は杭瀬川の左近が渡ったのではないかと思われる場所(推定)で、対岸から少し行ったところに中村隊、その左手(南側)に有馬玄蕃頭豊氏隊が布陣していた。中央遠方に小高く見える丘が家康の本陣岡山(現勝山)である。

 さて、陣前で刈田をされた中村隊は面白かろう筈もなく、「人もなげな振る舞い」とばかりに柵から一人の兵が飛び出して左近方の三人の兵を撃ち殺した。これに応戦して左近方もこの中村兵を射殺すると、柵内から中村一栄の家老・野一色頼母(たのも)助義が薮内匠とともに出撃してきた。左近は暫く応戦し、頼母らの猛攻撃を支えきれずと見せて川を渡り退却する。むろん、計略である。そして頼母らは勢いに乗じて川を渡って追撃してきた。
 ここで伏兵が草むらから現れて中村勢の退路を断ち、さらに敗走と見せかけた兵も急に反転して挟撃、乱戦となった。そして野一色頼母は乱戦中に戦死してしまう。中村隊の苦戦を見た有馬豊氏は、急ぎ救援に向かうべく柵を越えて出陣、迎え撃った左近・蒲生勢と激戦を展開した。乱戦の中、有馬隊の稲次右近は蒲生郷舎の士横山監物を討ち取るなど力戦するが、そのとき迂回してきた明石全登隊から集中射撃を浴びせられ、これまた苦戦に陥ってしまう。この一部始終を岡山から望見していた家康は、優勢だった初めのうち(左近の計略だが)は褒め称えるなど上機嫌であったが、左近の計略に見事にはめられたことを知ると機嫌を損じ、「大事の前に、かかる小戦をなし、兵を損じるとは何事ぞ」と怒り、井伊直政・本多忠勝に命じて兵を撤収させた。

  中村勢の指揮官で家老職を務める野一色頼母助義は近江野一色村の出身で、中村家中で八千石を領していた人物である。この日の出で立ちは「金の三幣の指物に馬印は鳥毛の二ツ団子」という颯爽たるものであったという。しかし、頼母は乱戦の中、深田に足を取られたところを宇喜多家中の浅賀三左衛門(浅香左馬助)に組みつかれ、ついに討ち取られた。後れて追いついた家臣の奮闘によってその首は敵(左近方)に渡さずに済み、赤坂の西麓に葬られたという(注①)。写真は彼の鎧兜が埋められたと伝えられる通称「かぶと塚」で、大垣市赤坂西町の旧中山道沿いのJR昼飯貨物線踏切東側にあり、御覧のように立派な碑が建てられている。
【注①】一説に、石田方海北市右衛門の鉄砲に撃たれ落命したともいう。

 目的を果たした左近は、強いて深追いはせずに軍を撤収させた。殿軍は三成の士・林半助と宇喜多の士・稲葉助之允が見事に務め、これを見ていた家康は「敵ながら天晴れ見事な働きぶり」と称賛したという。これが小戦ながら西軍の唯一の勝ち戦となった「杭瀬川の戦い」である。三成は牛屋村遮那院の門前(現大垣市本町・近年まで「首実検橋」があったという)にて挙げた敵の首実験を行い、一時的ではあったが、西軍は大いに士気を高めた。古記録にこうある。

「大垣方よき首三十二取り、また雑兵首は石田の手へ八十四、浮田の手へ六十四取りたり、これを杭瀬川の戦という云々」

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2011-06-05 17:58:10 | 足軽の階級

八幡城の戦い
~稲葉貞通の関ヶ原~


さて、今度は当時の郡上八幡城主・稲葉貞通の動きを追ってみます。彼の留守中に旧領主遠藤慶隆が、金森勢とともに八幡城へ侵攻してきました。急を聞いた彼は即座に軍を返し、八幡城救援に向かいます。



稲葉一族

 稲葉一族は伊予守通富(通貞)に始まる。彼は伊予国守護河野刑部大輔通教(通直)の六男で、故あって伊予を追われたが、美濃国守護土岐左京大夫成頼に遇された事が縁で、彼の妹を娶って稲葉姓に改姓し美濃に住み着いたと伝えられる。

  「頑固一徹」で有名な西美濃三人衆の一人・稲葉一鉄良通は、この伊予守通富の長男備中守(初め右京亮)通則の六男、すなわち孫である。この稿とは直接関係ないが、大永五(1525)年八月二日、美濃土岐氏に属していた稲葉通則父子一党は、美濃牧田の戦いにおいて近江の浅井亮政と大激戦を演じ、父子六人全てが討死という悲劇に遭っている。このため六男の一鉄良通が家督を嗣いだのだが、わずか十一歳の時の出来事であったという。写真はその牧田合戦の行われた場所(養老郡養老町)に建つ碑で、南宮山の南東麓、牧田川左岸の田園地帯にひっそりと建っている。

  この稿の主人公で、美濃曾根城主から天正十六年に郡上八幡城主となった右京亮貞通は、この一鉄良通の二男である。貞通は初め西軍に属し、岐阜城主織田秀信の命により石川貞清の守る犬山城救援に出陣、八幡城は末子の美濃中山城主・修理亮通孝にわずかの兵を与えて守らせていた。これを聞きつけた元八幡城主で旧領奪回を切望していた東軍の遠藤慶隆は、千載一遇のチャンスとばかり、まず井伊直政・本多忠勝両将の許可を取り付け(後に家康の許可も得ている)、娘婿の高山城主金森可重の援助を得て八幡城攻めに踏み切ったのである。写真は貞通の旧居城・美濃曾根城跡の華渓寺で、この裏手は 曽根城公園 として整備されている。

 さて、遠藤慶隆の娘婿金森可重は法印長近の養子となっており、この時家康の会津征伐に従軍していた。江戸で家康から慶隆の郡上八幡攻略への加勢を命じられた可重は、急ぎ飛騨高山へと戻り、途中で慶隆に使を送って侵攻経路を指示した。すなわち可重は坂本口より、金森家臣池田図書は白川口より攻め込むので、慶隆は益田口から攻め込んで合流しようというものである。


八幡城の戦い

  八月二十八日、慶隆は四百の兵を率いて佐見吉田を出陣、飛騨街道を田島へと向かった。翌日金森勢と合流、途中口洞峠で稲葉勢の伏兵に銃撃を受けたが、進路を変えて城の南・阿久田(現郡上市八幡町安久田)へ到着した。金森勢は可重隊が城の東・小野の滝山へ、池田隊は城の西にある五町山に登ってそれぞれ布陣、三方からの攻撃態勢を構築した。そして九月一日、八幡城攻めが一斉に開始された。
 一方、犬山城にいた貞通はと言えば、実はこの時点で知己の福島正則の勧めにより東軍に転じることを決めていたのである。これを受けて福島正則は井伊直政と相談し、直政は慶隆宛に八幡城攻撃を中止するよう書状を発したが、慶隆は「もはや手はずも整っている上、貞通父子は今なお犬山城にいて向背の程が知れない」と拒否した。これが八月三十日のことである。子の通孝からの急使により慶隆らの侵攻を知らされた貞通は、驚きまた怒って急ぎ八幡城へと戻っていった。 写真は八幡城の天守閣で、前述「上ヶ根の戦い」にも八幡城の遠景のカットを入れたが、実に美しい城である。

 さて、再び八幡城。可重隊は激しい銃撃戦の末に二ノ丸を占拠、慶隆は一ノ門を突破して金森勢と合流、本丸を攻撃して城方の老臣林惣右衛門父子を生け捕った。両軍は激闘を交えたが日が暮れたため寄せ手は一旦引き揚げ、降伏を勧告した。翌二日、城内から笠を竿先に掲げた僧(安養寺の末寺福寿坊の僧という)が慶隆の陣にやってきて、貞通がすでに東軍に属したことを告げて和平を申し込んだ。慶隆はこれを受け入れ、人質を取った上で和議を結び、ひとまずこの日は赤谷山の愛宕に陣を移した。しかし、戦いはこれで終わってはいなかった。翌三日の未明、皆がまだ寝静まっている時刻に、貞通勢が目と鼻の先の所まで来ていたのである。

 こちらは怒りに燃えて八幡城へと急行していた貞通だが、彼は強行軍を重ねて九月三日未明に八幡城下に到着した。彼の近臣は攻撃をしないよう諫言したが、貞通はこれをはねつけてこう言ったそうである。
「たとえ款を送ったとしても、目前に敵を見て戦わないということは武名を汚す。敵を討ち破って城を取り戻し、その上で和議を結んでも遅くはない」
 さすがは一鉄良通の子、いやはや何ともすさまじい言葉である。そしてその通りに事を運んでしまうのには恐れ入る。貞通は慶隆の本陣愛宕を急襲した。

 そんなことは夢にも知らない慶隆はこの急襲に慌て驚き、本陣は大混乱となった。慶隆はかろうじて家中の勇士の活躍で逃れ、ほうほうの体で可重の陣へたどりついた。一方の貞通は深追いはせず、意気揚々と八幡城に入城した。そして翌九月四日、改めて和議の使が貞通から慶隆のもとへ遣わされ、ここに正式に和議が成立して両軍は兵を収めた。慶隆はただちに兵を東濃上ヶ根へ向け、前述の「上ヶ根の戦い」の後半へとドラマは続く。
 貞通は家康に初め西軍に加担して東軍の兵を殺傷したことを詫び、薙髪して謹慎した。竹を割ったような性格できっちり自己の意地を通した彼は、家康から罰せられることもなく、程なく豊後臼杵五万石の主となる。

 なんと、一万石の加増であった。