▼ この地に居を構えたのは、2012年6月だ。
指を折って何度数えても、それから11回目の春になる。
64才だった私は、とうとう75才になろうとしている。
当初は、毎日欠かさなかったジョギングも、
膝のケガもあって、今は月2,3回止まり。
マラソン大会へのエントリーなんて、
「夢のまた夢」になった。
そして、家内との会話に至っては、
「あれ、どこに置いたっけ?」
「あれって、なに?」
「あれさ、さっき使っていたあれ」
「あっ、あれね。そのへんで見たけど」
「そのへんって、どのへん?」。
リアルに老化が始まっている。
人ごとのように笑ってなんかいられない。
▼ それどころか、老け込んでいられないことが始まる。
まずは、移住を決めた時の長男とのやりとりから書き始める。
「もともと北海道の人だから、
東京に執着心がないことは、僕ら2人(長男と二男)とは違う。
でも、今更、わざわざと思うけど・・・」
「そう思うのは 当然だよ。
だけどね、ここにいると退職した後の自分の先々が分かるんだ。
きっとこんなことをして、こんなことがあって、
こんなことを思って、こんなことをするだろう。
この先がだいたい想像できるんだ。
それを変えようとしても、さほど期待できない。
つまらないんだよね」。
「だから、ここを離れるっていうこと!?
別のところで暮らしたら、なにか違う先があるかもって!
それを期待しているの?」。
「そんな感じ。
知人も友人もいない土地で、
どんな生き方ができるのか、見当もつかない。
何をしようとするのか、何に目が向くのか、
想像もできない。
どんなプランも今は描けない。
先々どうなるか、何も分からない。
だから、このままここで暮らすより、断然惹かれるんだ。
もしかしたら、とんだ期待外れになるかも知れないけれど、
でも・・・」。
やや呆れ顔になっていたが、
長男は最後まで私の話に付き合ってくれた。
▼ それから11回目の春が来た。
先日、東京に1週間程滞在した時だ。
早咲きの「高遠コヒガン桜」が満開を迎えた
世田谷区の蘆花恒春園まで、長男が案内してくれた。
その桜道を歩きながら長男に、
機会をみて話そうと思っていたことを口にした。
「4月から、地元の自治会長をやることになったんだ」。
一瞬、間をおいて長男は、桜を見上げながら、
「10年が過ぎて、自治会長か。
やはり、どこへ行っても変わらなかったのと違う?
こっちにいても同じようなことをしていたんじゃない!」。
何かで後頭部を一撃されたような、強い衝撃だった。
思わず「そうかも!」と言いながら、
この10年が脳裏をかけ巡った。
そして、
「自らの意思で、自治会長への階段を上った覚えはないけどなあ・・」
と言い、ゆっくりと歩を進めながら、この10年を語った。
▼ 高速道の有珠山サービスエリアからは、
伊達の市街地が一望できた。
初めてその高台に立った時の景色は、
ここを終の棲家にしてもいいと思わせるものだった。
それから2年をかけ、転居した。
新しい環境は、刺激的だった。
四季の移ろいに、毎日心を奪われた。
人とのつながりも、少しずつ広がった
そして、6年前の春、
私1人の午後に、インターホンが鳴った。
私たちをパークゴルフの会へ仲間入りさせてくれた方だった。
「自治会の総務をお願いできないか」と頭を下げられた。
急のことで、お断りする適当な理由が思いつかなかった。
2年間、総務の任を引き受けた。
その仕事の合間に、
3・11の夜に校長として帰宅難民の避難所を、
切り盛りした経験を口にした。
そんな経験があるならと、防災の仕事が舞い込んできた。
4年前、「自治会の防災リーダーに」と電話がきた。
「他に適任者がいないから」と言われ、拒めなかった。
そして2年前、長年自治会副会長を務めた方が、
高齢のため退任することに・・・。
私に「副会長を」と自宅までやってきた。
防災の仕事を理由にためらった。
「私はもうできない。今後はあなたに」。
ついに押し切られた。
そして、今春だ。
会長が、体調不安のため退くことになった。
会長を続けることに家族が同意しなかったようだ。
「私の次は、あんたがやることに決まっているから」。
それ一辺倒だった。
▼ 長い長い私の話だった。
それを聞き終えた長男は静かに言った。
「そんな展開は、特別なことじゃないよ。
伊達でなくても、ありえたことでしょう。
そう思って、やるしかないよね」。
人により励まし方も様々だ。
我が子らしさが、じわりと染みた。
麦畑だけは 青々
指を折って何度数えても、それから11回目の春になる。
64才だった私は、とうとう75才になろうとしている。
当初は、毎日欠かさなかったジョギングも、
膝のケガもあって、今は月2,3回止まり。
マラソン大会へのエントリーなんて、
「夢のまた夢」になった。
そして、家内との会話に至っては、
「あれ、どこに置いたっけ?」
「あれって、なに?」
「あれさ、さっき使っていたあれ」
「あっ、あれね。そのへんで見たけど」
「そのへんって、どのへん?」。
リアルに老化が始まっている。
人ごとのように笑ってなんかいられない。
▼ それどころか、老け込んでいられないことが始まる。
まずは、移住を決めた時の長男とのやりとりから書き始める。
「もともと北海道の人だから、
東京に執着心がないことは、僕ら2人(長男と二男)とは違う。
でも、今更、わざわざと思うけど・・・」
「そう思うのは 当然だよ。
だけどね、ここにいると退職した後の自分の先々が分かるんだ。
きっとこんなことをして、こんなことがあって、
こんなことを思って、こんなことをするだろう。
この先がだいたい想像できるんだ。
それを変えようとしても、さほど期待できない。
つまらないんだよね」。
「だから、ここを離れるっていうこと!?
別のところで暮らしたら、なにか違う先があるかもって!
それを期待しているの?」。
「そんな感じ。
知人も友人もいない土地で、
どんな生き方ができるのか、見当もつかない。
何をしようとするのか、何に目が向くのか、
想像もできない。
どんなプランも今は描けない。
先々どうなるか、何も分からない。
だから、このままここで暮らすより、断然惹かれるんだ。
もしかしたら、とんだ期待外れになるかも知れないけれど、
でも・・・」。
やや呆れ顔になっていたが、
長男は最後まで私の話に付き合ってくれた。
▼ それから11回目の春が来た。
先日、東京に1週間程滞在した時だ。
早咲きの「高遠コヒガン桜」が満開を迎えた
世田谷区の蘆花恒春園まで、長男が案内してくれた。
その桜道を歩きながら長男に、
機会をみて話そうと思っていたことを口にした。
「4月から、地元の自治会長をやることになったんだ」。
一瞬、間をおいて長男は、桜を見上げながら、
「10年が過ぎて、自治会長か。
やはり、どこへ行っても変わらなかったのと違う?
こっちにいても同じようなことをしていたんじゃない!」。
何かで後頭部を一撃されたような、強い衝撃だった。
思わず「そうかも!」と言いながら、
この10年が脳裏をかけ巡った。
そして、
「自らの意思で、自治会長への階段を上った覚えはないけどなあ・・」
と言い、ゆっくりと歩を進めながら、この10年を語った。
▼ 高速道の有珠山サービスエリアからは、
伊達の市街地が一望できた。
初めてその高台に立った時の景色は、
ここを終の棲家にしてもいいと思わせるものだった。
それから2年をかけ、転居した。
新しい環境は、刺激的だった。
四季の移ろいに、毎日心を奪われた。
人とのつながりも、少しずつ広がった
そして、6年前の春、
私1人の午後に、インターホンが鳴った。
私たちをパークゴルフの会へ仲間入りさせてくれた方だった。
「自治会の総務をお願いできないか」と頭を下げられた。
急のことで、お断りする適当な理由が思いつかなかった。
2年間、総務の任を引き受けた。
その仕事の合間に、
3・11の夜に校長として帰宅難民の避難所を、
切り盛りした経験を口にした。
そんな経験があるならと、防災の仕事が舞い込んできた。
4年前、「自治会の防災リーダーに」と電話がきた。
「他に適任者がいないから」と言われ、拒めなかった。
そして2年前、長年自治会副会長を務めた方が、
高齢のため退任することに・・・。
私に「副会長を」と自宅までやってきた。
防災の仕事を理由にためらった。
「私はもうできない。今後はあなたに」。
ついに押し切られた。
そして、今春だ。
会長が、体調不安のため退くことになった。
会長を続けることに家族が同意しなかったようだ。
「私の次は、あんたがやることに決まっているから」。
それ一辺倒だった。
▼ 長い長い私の話だった。
それを聞き終えた長男は静かに言った。
「そんな展開は、特別なことじゃないよ。
伊達でなくても、ありえたことでしょう。
そう思って、やるしかないよね」。
人により励まし方も様々だ。
我が子らしさが、じわりと染みた。
麦畑だけは 青々
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