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ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

月島は いい

2016-09-17 14:52:18 | 素晴らしい人
 3校目に着任した小学校は、東京都中央区の月島にあった。
この町で、実質的には6年間を過ごした。

 今もそのようだが、1年1年町の様相は、
変わっていった。
 私の頃は、交通網が整備され、
通勤経路が3回も変更になった。
 おかげで、通勤時間は30分も短縮された。

 そんな変わりゆく町なのだが、
下町のよさが、いたるところで継承されていた。

 さて、月島と言えば、「もんじゃ焼」が有名だ。
はるか昔は、子ども達がお遣い銭片手に寄り集まり、
おやつ替わりにしたソールフードだったらしい。
 それが今では、東京の名所・名物になってしまった。

 当時、私もたびたび足を運び、
先輩や同僚達と、もんじゃ焼やお好み焼にビール片手で、
「美味い」「美味い」を連呼していた。

 しかし、月島のB級グルメはこれに限らない。
最近は徐々に、もんじゃ焼店のメニューにも載っているらしいが、
『レバフライ』がその一つである。

 豚のレバーを叩いて薄くしたものに、衣をつけフライにする。
それを特製のソースに浸したものである。

 実は、それまでレバーなど大嫌いで、
絶対に口にしなかった。

 ところが、出張帰りの先生が、
「丁度売っていたから。」
と、10数枚をおみやげに持ってきた。

 その味を知っている先生たちから歓声が上がった。
忙しい職員室の手が止まり、
ソースの香りいっぱいの、薄いフライに次々と手が伸びた。

 レバーと聞いて、私は敬遠したが、
「残してもいいから。」と差し出された。
 その匂いに誘われ、思い切って口に運んでみた。

 ソースのいい匂い、サクサクとしたフライの食感、
そして何よりも、レバとは思えない歯ごたえ。
 小さな1枚は、あっという間に口から消えていった。

 「これ、美味しいね。」
思わず声が出た。
「そうでしょう。」
先生方が、口をそろえて応じた。

 当時、このレバフライは『レバカツ』とも言われ、
某専門店で時間を区切って販売されていた。
 決して高価ではないが、中々手に入らないテイクアウトだ。
地元だけが知る、月島名物だったと思う。

 同じく、地元限定のB級グルメをもう一つ紹介する。
これまた、私が大嫌いなものだった。

 居酒屋の暖簾をくぐると、真っ先に注文する品に、
「もつ煮込み」がある。
 牛などの内臓を時間をかけて煮込み、
それに、主にはみそ味をつけたものである。
 私は、もつと聞いただけで、その器を遠ざけていた。

 そのもつ煮込みが、地元で大評判の店があった。
ここもテイクアウトが専門で、
地元では、鍋や蓋付きの広口ビン等をもって、買いに行った。

 4月、ある土曜日の午後、
花見と称して、学校近くの公園で酒を囲んだ。
 その席に、小さな鍋に入ったもつ煮込みがでた。

 それまで私が知っていた物とは違っていた。
煮込まれたもつは、串に3切れずつささり並んでいた。
ねぎもなければ、コンニャクもなかった。

 他にもいろんな酒のつまみが用意されていた。
しかし、誰もが乾杯のあと、真っ先に手を伸ばしたのが、
この串刺しのもつ煮込みだった。

 先生方のそれへの勢いと、
「だまされたと思って、食べてみて。」
に誘われて、串のもつを一切れ口に運んだ。
 しっかりと煮込まれたそれは、口でとろけた。
先入観だった臭みは見事に消えていた。

 翌年の花見から、
「あのもつ煮込みがいい。」と、リクエストした。

 大きな鉄鍋に、秘伝のたれで煮込むのだとか。
子ども達が、小銭で1本ずつ買い、
おやつ替わりにしたそうだ。

 今、その店はもうない。
それでも、その味を慕う人たちがいると聞いた。 

 この月島に、私が魅せられたのは、
食べ物だけではない。
 そこで暮らす人々や子どもが、これまたいい。


 ▼ 着任した年、1年生を担任した。
 入学した翌日からしばらくは、下校指導が行われた。
新1年生を地域別のグループに分け、
担任と主事さんが先頭になり、自宅近くまで送り届けるのだ。

 まだ、地域実態が分からないまま、
私も子どもの先頭に立った。
 自宅近くまで行くと、一人また一人と子どもが少なくなった。

 そして、ついに男の子Bチャンだけが残った。
いつの間にか、手をつないで歩いていた。
 「Bチャンのお家、こっちなの。」
 「うん。」
そう言って、春の日差しが降る広い歩道を進んだ。

 でも、私の知る限り、その先には民家もマンションもないはずだった。
確か埠頭公園があるだけなのだ。
 「ねえ、お家はこっち。」
もう一度訊いた。
 私の手を握ったまま、しっかりと前方を見て、
Bチャンは首をたてに振り、揺るぎなかった。

 私は、その反面、半信半疑になっていった。
このままBチャンを信じていいのか、不安が増した。
 その時、「大丈夫」と言うように、
Bチャンが私の手を強く握った。

 口数の少ない子だった。
でも、その表情と対応は心強かった。
 黙ってBチャンに従うことにした。
どっちが大人なのか、分からなくなった。

 やがて、管理棟らしい平屋の建物が見えた。
「あれ、Bチャンの家?」
「そう。」
 Bチャンは、それまでと同じ表情だった。

 月島で最初に出会った子であった。
「頼もしい。」
 見習いたいと、心が揺れた。


 ▼5年生を担任した時だ。
春の学年遠足があった。

 子ども達が、「先生、お願いします。」「頼みます。」
と、何度も何度も言ってきた。
 しかたなく、先生方と相談して、
「弁当の他に、200円分のおやつを持って行っていい。」
ことにした。

 遠足の前日、男子も女子も、そのおやつの相談に夢中になり、
いつもより生き生きと下校した。

 思い思いのグループに分かれ、200円片手にめざすは、
この町唯一の駄菓子店S屋だった。
 それぞれプランをたて、
200円のおやつを買い求めようとワクワクしていた。

 ところが、S屋に着くと、
『本日休業』の札が下がっていた。
 店先に、いくつものグループが集まった。
みんな落胆の声を上げ、その場から離れられなかった。

 その時、一人の男の子が、店のガラス戸を叩きだした。
「おばさん、お願い。店開けて。」と、叫んだ。
 みんなは静まりかえった。

 何回かくり返すと、S屋のおばさんが顔を出してくれた。
「体調が悪いから、休みにした。」と分かった。
 子ども達は、「明日の遠足のおやつがほしい。」
と、口々に訴えた。

 おばさんは、無理を押して1時間だけ店を開けることにした。
当然、子ども達は大喜びだった。

 しかし、それだけではなかった。
自転車で来た数人が手分けをして、学区内を走り回った。
 「S屋が1時間だけ店を開いてくれる。」
そうふれて回った。

 翌日、目的地でおやつを頰張りながら、子ども達が口々に言った。
「あのおばさん、優しいよね。」
「体、大丈夫かな。」
そして、
「知らせが来たから、助かったよ。」とも。

 「下町の人情や強さは、こうして育まれんだ。すごい。」
私は、目を丸くするばかりだった。


 ▼地下鉄を降り、学校までの道路沿いに、
さほど広くない間口の青果物店があった。
 夫婦二人で店を切り盛りしていた。

 朝は、まだ店が閉まっているが、
退勤時は、いつも後片付けで、二人とも忙しそうだった。
 それでも、私たちを見かけると、
「こんばんは。先生、お疲れさま。」と元気な声が飛んできた。

 高学年担任の時、そのお子さんを受け持った。
年度初め、早速家庭訪問をした。
 さほど忙しくない時間を見計らって、店先にうかがった。
来店者の合間をぬって、言葉を交わした。

 特に私から尋ねた訳ではないが、ご夫妻は、大の祭り好きだと言う。
二人の馴れ初めも、祭りが縁なのだとか。

 「だから、この商売も、毎日の暮らしも祭りのためさ。」
と、ご主人は胸を張った。
 「そう、そう。」
そばで奥さんが、うなずいていた。

 言葉の端々から、気っぷのよさが伝わった。
受け継がれてきた下町の空気を感じた。
 何となくネチネチしている自分を、どこかに隠してしまいたかった。




  畑のすみに咲く 待宵草(月見草) 
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A  氏  へ  手  紙

2016-06-04 11:06:16 | 素晴らしい人
 拝 啓
 
 北の大地は、春の盛りを迎えました。
それぞれの草花は素敵な色香を競い、
周りの野山は、
木々が若葉を育んだ柔らかい緑で膨らんできました。

 毎年のことですが、
大自然が春に織りなす、こんな鮮やかさに、
今年も、私の心は奪われています。

 いつものことながら、貴兄には、
筆無精のままで、失礼を重ねております。
 どうぞご容赦頂けますようにと付すと
「またまたそんな甘いことを。」
と、きっと笑止されることでしょう。

 さて、5年前の11月末のことを思い出しました。
毎年グループ展の案内をいただいでおりましたが、
その年だけは「何としてでも」の思いで、
銀座の画廊へ足を運びました。

 想像以上に若々しい貴兄の姿に、
一瞬声をかけるのをためらいました。
 貴兄は、どことなくよそよそしい私を見るなり、
10年ぶりの再会など吹き飛ばしてしまうような、
明るい表情に親しみを込め、歓迎してくれました。 

 近況を語り合うこともなく、よく顔を合わせ、
言葉を交わし合っている者同士のような、
そんな振る舞い方で応じてくれました。

 貴兄は、自作の数点と仲間たちの作品に、
ちょっとしたコメントを加えながら、
案内役をしてくださいました。

 変わらない切れ味のよい雄弁さに、
心地よささえ感じました。

 自作の彫刻の前に、再び戻った貴兄は、
思うように進まない創作をなげき、
こんな驚きの言葉を付け加えました。

「彫刻を志した学生時代から今日まで、
ずっとスランプなんだ。今も、脱出できないままさ。」

 長い創作活動の歩みに対する強烈な自己評価に、
私は返す言葉がありませんでした。

 しかし、「スランプ」の言葉から、創作に対する歯がゆさや、
追い求めるものの難しさ、
自己の能力や才能に対する高いプライドが、
伝わってきました。

 そして、貴兄らしい物言いに、
なつかしさと共に、新鮮な感性に触れた思いがしました。

 実は、あの時、私はすでに伊達への移住を決めていました。
これが、貴兄とお会いする最後の機会と思っていました。
 それを伝えるタイミングを探りながらの場と時間でした。。

 私の40年におよぶ教職生活。
その歩み中で、最も強い力で私を引きつけ、
遂には貴兄の数々を、私の目指すものにし、今に至っているのです。
 素直にそのお礼も言いたかった。

 機会は、ようやく別れ際に訪れました。
しかし、万感の想いは、お礼どころか、
私の求めに応じてくださった握手に、
力を込めるのが精一杯でした。

 画廊からの帰り、華やかな銀座の夜道を歩きながら、
貴兄に出会った頃の瑞々しい驚きを思い出しました。

 新米教師だった私は、職員室で初めて見た貴兄の、
あのスッとした立ち姿とセンスのいい服装に、
『都会の人』のオーラを感じたのです。
素敵だと見とれました。

 ちょっとハスに構えたようなものの言い方、
教師でありながら、彫刻に情熱を注ぐ日々、
大人の洒落た気配りができる何気ない立ち振る舞い、
貴兄のそんな一つ一つに、私は憧れました。
 「いつかは私もああなりたい。」
と、思ったのです。

 さらに、「ロダンだ」「ブールデルだ」「マイヨールだ」
と名を上げ、彫刻や芸術を説き、
創作の魅力と自己表現の大切さを、熱く語ってくれました。
 全く知らなかった世界観に、
私は、ただただうっとりと彷徨うばかりでした。

 そう、あの頃から、
何かを創り出すこと、
何かを表現すること、
そしてその元となる、私自身を探し求めることに、
興味を持つようになったのです。
 
 そんな師とも言える貴兄と、久しぶりに再会し、
「ずっとスランプ。」とおっしゃった。
私にはなかった評価の物差しでした。新鮮でした。
 しかし、あれからずっと、
その言葉の周りを、ウロウロしている私です。

 「いや、もっとできる。」
「決して、こんなもんじゃない。」
「必ず大きく開花する時がくる。」
 そんな思いが、その人をさらに高い場所に導く、
その原動力になるのは確かです。
 しかし、それはスランプからの脱出とは違います。

 愚鈍な私は、新美南吉のこんな詩に行き着きました。
どうか、長文の引用をお許し下さい。


 『    寓  話
               新美南吉

  うん、よし。話をしてやろう。
  昔、旅人が旅をしていた。
  なんというさびしいことだろう。
  かれはわけもなく旅をしていた。
  あるいは北にゆき、あるいは西にゆき、
  大きな道や、小さい道をとおっていった。
  行っても行っても、
  かれはとどまらなかった。
  ふっても照っても、かれはひとりだった。
  とある夕暮れのさびしさに
  たえられなくなった。
  あたりは暗くなり、
  だれもかれによびかけなかった。
  そうだ、そのとき、
  行くてに一つの灯を見つけた。
  竹むらのむこうにちらほらしていた。
  旅人は、やれ、うれしや、
  あそこに行けば人がいる。
  なにかやさしいものが待っていそうだ。
  これでたすかると、
  その灯めあてにいそいそいった。
  胸がおどっていた。
  さびしさもわすれてしまった。
  だが、旅人は なににむかえられたとみんなは想う。
  なるほど、そこにはやさしいひとびとがいた。
  灯のもとで旅人は、
  たのしいひとときをすごした。
  だが、外の面をふく風の音を聞いたとき、
  旅人は思った。
  私のいるのはここじゃない。
  私のこころは、もうここにいない。
  さびしい野山をあるいている。
  旅人はそそくさとわらじをはいて、
  自分のこころを追いかけるように、その家をあとにした。
  旅人はまた旅をしていった。
  また別の灯の見えるまで。
  なんとさびしいことだろう。
  かれはとどまることもなく旅をしていった。
  この旅人はだれだと思う。
  かれは今でもそこらじゅうにいる。
  そこらじゅうに、いっぱいいる。
  きみたちも大きくなると、
  ひとりひとりが旅をしなきゃならない。
  旅人にならなきゃならない。』


 私は、この詩に共感します。
いつだって、旅人なのです。
 ようやくたどり着いたそこに、安住しないのです。
次の何かを求め、再び立ち上がるのです。
それが、人のすることだと思います。

 芸術と言う困難な旅も、
私のような愚者の旅も、
同じように旅は旅。
 そして、いつまでも続くのです。

 その旅は、やり方、迫り方はそれぞれでも
その先は、自分探しなのではないでしょうか。
 そう考えるのは、愚かなことでしょうか。

 いつか再びお会いする機会に恵まれたら、
美酒を交え、そんな談論風発はいかがですか。

 これから猛暑へ向かいます。
どうぞ、お身体を大切にお過ごし下さい。

                     敬 具




クロユリをみつけた (好まれない花のようだ)
 
 
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軽はずみな ひと言が

2016-01-22 22:01:26 | 素晴らしい人
 再び、小さい頃の回想録から書き始める。
 確か、5年生の時だ。学芸会があった。

 今は、全員が学芸会に参加し、舞台に立つが、
当時は、選抜された者のみが演じた。
 同学年4学級の中から、各10数名が選ばれ、
何故か私もその一人になった。
 演目は、『アリババと40人の盗賊』だった。

 主にその劇を指導したのは、他の学級の担任で、
笑顔が印象的なAと言う男の先生だった。

 放課後、初めての練習で、配役が発表になった。
私は、盗賊の一人だった。
渡された台本を見ると、セリフが3つあった。
 同じ盗賊でも、「ヒラケー、ゴマー。」と、
唱える役があるが、残念ながらそれではなかった。

 何回かセリフ合わせがあってから、舞台練習が始まった。
 私の役は、盗賊のお頭と二人だけで舞台に登場し、
悪いたくらみを確かめ合うものだった。

 具体的なセリフは、思い出せない。
しかし、その言い回しは、それ程悪人くさい言い方ではなかった。
 だから、練習を重ねるごとに、子どもなりに違和感を強くした。
そして、何回かの練習を通して、
とうとう、もっと悪役らしい言い方を見つけた。
 しかし、みんながみんな、台本通りのセリフを言っていた。
セリフを変えている者は、一人としていなかった。

 言い訳がましくなるが、
当時の私は、物静かで口数の少ない子だった。
 だから、いつも私の行動は、多くの友だちにしたがった。
周囲の雰囲気、今で言う空気感に常に敏感で、
『でる釘』として、打たれることをすごく嫌った。

 その私が、このセリフにだけはこだわった。
 迷いに迷った。何度も足踏みをしたあげく、
思い切って、劇指導のA先生に提案してみることにした。
 それまで、A先生と言葉を交わしたことも、
名前を呼ばれたこともなかった。
 私にとって、大きな大きな行動だった。

 舞台練習が終わり、体育館を出ようとするA先生を呼び止めた。
 “自分のここのセリフを、
こんな言い方にしたんですけど、いいですか”
と、訊いた。
 A先生は、突然の申し出に、若干戸惑ったようだったが、
軽く「ああ、いいよ。」と、言ってくださった。 

 私は、「ありがとうございます。」と頭を下げた。
それまでに経験のない、満たされたものが、体を熱くした。
 言ってよかったと思いながら、A先生から離れた。

 その時、A先生に同じ学年のBという女の先生が近寄った。
 「どうしたんですか。」と、A先生に尋ねた。
「セリフの言い方を変えたいんだって。」とA先生が応じた。
 それを聞いて、B先生は小声で、
「そんな生意気なことを」と。

 その声は、はっきりと私に届いた。

 急に、冷たいものが全身を走った。
 どうやって体育館を後にしたのか、どうやって家に帰ったのか、
覚えがなかった
 ただ、「そんな生意気なこと」という言葉が、
私の体中、そして私の周りを駆け巡っていた。

 「生意気なこと」を、私はしたのだ。
いいことをした。勇気を出した。「いいよ。」と言ってもらえた。
そう思った行動が、「生意気」だった。
 
 『本物の絶望』の欠けらにもならないことだろうが、
私の心を逆なでするひと言だった。
 しばらく私はこの言葉に縛られ、自由を失いながら過ごした。

 B先生に、うらみ節を言うつもりは全くない。
教師の何気ない、軽はずみなひと言なのだから。

 さて、つい先日のことになる。
『植松さん国内外から共感』と題する
新聞の見出しが目に止まった。

 記事の冒頭を引用する。
『分野を問わず、豊かな発想力で活躍する人に
舞台で自身の発想や思いを語ってもらい、
ネット動画で世界に発信する「TED(テッド)」。
その札幌版に出演し、
国内外で強い共感を巻き起こしている人がいる。
町工場でロケット開発を実現した
植松電機(赤平市)専務の植松努さん(49)だ。』

 今は雪深い、旧炭鉱町である北海道赤平市の国道38号線沿い、
そこに鉛筆型の鉄骨塔をもつ工場がある。植松さんの工場である。
 家内の実家が、その隣町なので、年に何回かはその横を通る。

 新聞から得たことだが、
高さ57メートルのこの塔は、「微小重力実験」用の施設で、
世界でもドイツとここにしかないものらしい。
 ドイツでは、1回の使用料が100万円以上するが、
ここは3万円とのことだ。

 会社は社員18人で、本業はリサイクルで使う
特殊なマグネットの開発だそうだ。
 その稼ぎで、『みんなにもできる!宇宙開発』を掲げ、
宇宙事業を続けている。

 植松さんは、火薬を使わない安全なポリエチレンで飛ばす
「カムイロケット」の開発で、一躍有名になった。
 まさに、最近テレビドラマで話題を呼んだ
『下町ロケット』そのままである。

 早速、ネット動画「TED」を見た。
そこで、彼のお話を聞いた。

 彼が最初に語ったのは、
幼少期から少年時代・中学生の時までのことだった。
 3歳の時にアポロ11号の月面着陸を見た。
以来、宇宙への夢を膨らませていった。

 だがら、中学生の時に、
「飛行機やロケットの仕事をしたい。」と言った。
すると、先生から
「よほど頭が良くないと無理だ。
おまえなんかにできるはずがない。」
と、言われた。

 彼は言います。
「今できないことを追いかけることが、
夢って言うんじゃないですか。」
 少年時代の反発と孤独感を、
彼は、いつもの作業着姿で語り続けた。

 そして、涙ぐみながら、
小学校1年生の先生がよく言った
「どうせ無理」という言葉を口にした。

「この言葉は、私たちから自信と可能性を奪ってしまう。」
「どうせ無理という言葉は、とても簡単に遣える言葉で、
やったことのない人が遣う言葉だ。」
「どうせ無理がなくなると、いじめや暴力、戦争、
児童虐待がなくなるかもしれない。」
と、彼は言い続ける。

 私は、植松さんの話に耳をすましながら、
教師の軽はずみなひと言の重罪と、
言葉の持つ無限の重みを思い知らされた。

 「できるはずがない。」、「どうせ無理。」
その言葉への、レジスタンスと反骨心が、
今も彼の中で脈々と息づいていると思った。

 また、今日までの、辛く切ない道々を思った。
教職にあった者として、すごく心が痛んだ。

 そして、「そんな生意気な。」
 教師の軽はずみなひと言。
あの時、傷ついた少年が急に蘇り、目元を熱くした。





 伊達から車で30分 オロフレ峠からの洞爺湖

 
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芸 術 の 秋 2015

2015-11-13 22:14:24 | 素晴らしい人
 北の大地は、晩秋から初冬へと、日ごとにその様相を変えている。
しかし、私はこの2日ほど、『芸術の秋』を過ごした。

 昨日は、伊達から車で約30分の登別市民会館で、
人気落語家さんによる『落語三人噺』があった。
 その3人の落語家さんの1人が、柳家花緑師匠だった。

 もう10年も前のことになる。
当時、校長として勤務していた小学校を会場に、
全国公立小学校児童文化研究発表大会があった。

 その記念講演の講師として、
落語界のサラブレッドと称される花緑師匠をお招きした。
 生意気にも、その講演では40分程度だったが、
私と師匠との対談があった。
 落語の楽しさや話芸。話術、授業での話し方等々について、
意見交換をさせてもらった。

 約500名の参加者を、大笑いに包む師匠のたくみなプレゼン能力に、
私は学ぶところが大きく、貴重な時間だった。

 その師匠が、わざわざ北海道まで、しかも近隣の町まで来られる。
私は、大好きな洞爺湖の月浦ワインをもって、楽屋までお邪魔した。

 楽屋の廊下で出迎えてくれた師匠は、
公演前の慌ただしい時間をぬって、
突然やってきた私と、しばし10年前の思い出に花を咲かせてくれた。

 「1日、わずか30分ほどの高座のために、
後の残り23時間30分をどう過ごすか。
 笑いのために、その時間の全てを使う。
それが落語家だと思うんです。」
 対談での私の問いにそう答えてくれたことが、なつかしく蘇ってきた。

 私の北海道への移住に、師匠はくり返し、
「大きな決断。大きな決断。」と、かみ締めるように声にした。
 私は、恥ずかしさのあまり、
「東京を卒業しただけ。」
と、軽口で応じた。

 短い時間ではあったが、心を通わすことができた。
素敵な宝物のような時間になった。

 久しぶりの師匠の高座は、
やはり玄人受けするレベルの高い笑いだった。
知人から紹介を受け、
初めて師匠の落語を、上野鈴本で聞いたとき、
「この方は落語家さんと言うより、
噺家さんと言う方が相応しい。」と口をついた。
 今回も、そう思った。

 つきなみだが、決して気取ることなく
続く日々の精進が、あの素晴らしい才能を、
開花させているのだと思った。
 別れ際にいただいた師匠の4枚の絵カードには、
こんな言葉が、添えられていた。
 
 『全ては お陰様のおかげ』

 『感謝が増すと 喜びが増える
  感謝が減ると 愚痴が増える』

 『リラックス することの大切さ
  緊張が 意識に壁を作る』

 『人生は
  感謝を見付ける
  旅である』


 続いて、もう一つの『芸術の秋』は、前々日11日であった。
 以前、このブログで記したが、
井上陽水コンサート「UNITED COVER2」である。
 地元も地元、我が家から徒歩10分、
だて歴史の杜カルチャーセンター大ホールが、その会場だった。

 先日日曜日、同じ会場で、『伊達市民音楽祭』が催され、
家内の所属する女性コーラスも、
そのステージで、3曲ほど声を張り上げた。
そんな私の生活圏でのコンサートである
 ファンなら、誰もがうらやむであろう。
私は、自宅で軽い夕食を済ませてから、
ゆっくりと歩いて会場に向かった。

 何かの間違いでもいいと思ったが、
6列目の席にいる私のすぐ近くに、彼は現れた。
 「ダテのみなさん、イブリのみなさん、
初めまして、井上陽水です。」
 コンサートの最初の登場場面が、一番苦手と言う彼は、
若干はにかんだ口調であいさつをした。

 嬉しかった。
伊達で陽水のライブなんて。
誰に何と言われようが、年甲斐もなく、
少しこみ上げるものがあった。すっかり一ファンだった。

 「伊達に、ようこそ。」
後ろの席から、声が飛んだ。
同感だった。
年令が邪魔をし、声にならなかった。

 3曲ほど聞き慣れた曲を歌ってから、
「『そうそう、あのライブで井上さんが、こんなことを言っていた。
こんな言葉が心に残り、5年後の私を支えている。』みたいな、
そんなことは、決して言えない。
でも、今日は、楽しんでいって下さい。」
 彼らしいメッセージに、会場は大きな笑いと拍手だった。

 彼は、10数曲のカバー曲を熱唱した。
そのいくつかで、選曲するに至った想いを語った。
 家内のむこう隣りに座った女性が、
「本物の芸術家だよね。」
と、感嘆しながら話しかけてきた。

 彼が歌う一曲一曲から、その歌に込められた想いが、
私にも伝わってきた。
 彼は、いくつかの曲に、
「若い頃は、そんな曲、そんな歌が
あったなあ程度にしか思わなかった。
 それなのに、それから何十年が過ぎ、
今聴いてみると、全く違って聞こえる。」
 そんな主旨のことを、くり返し言った。
 それは、歌に限ったことではないと思いながら、大きくうなずけた。

 彼は、友人の奥様が他界したことを話題にし、
そして『シルエット・ロマンス』を、
「ああ あなたに恋心 盗まれて」と歌った。
 このフレーズ一つを聴いても、
年令と共に変化する理解の有り様、
そして、彼の表現の非凡さに、私は酔った。
 いつだって、キレイに生きる素晴らしさが、
彼の歌声と演奏にあふれていた。
 『5年後の私を支える言葉』はないが、
彼のサウンドからは、同じようなメッセージを感じることができた

 あるコーナーでは、まどみちおさんの童謡『ぞうさん』を口ずさんだ。
「そうか、かあさんのお鼻も長いんだ。深い話だな。」とも。
 そして、『この愛をもう一度』に至っては、
「なんか、ちょっとと思う歌詞なんだけど、でも、今歌うとこうなる。」
 まさに、一大ラブソング。熱いものが全身を駆け巡った。
 
 コンサートの最後に、
「みなさん、お体に気をつけてください。」と言いながら、
「なんか、校長先生みたいな言い方になってしまいました。」だって。
相変わらずシャイなまま幕が下りた。

 会場を出ると、冬を思わせるような冷たい空気が、
真っ暗な公園の緑をおおっていた。
 私は、その冷たさまで余韻にし、ゆっくりと家路に着いた。

 そろそろ冬タイヤに切り替えよう。
でも、私の秋はまだまだ。
 『食欲の秋』は、きっとエンドレス。冬だってそのまんまかも。
そして、『スポーツの秋』は、
11月末3度目のハーフマラソン挑戦まで続く。





秋の噴火湾 むこうに見えるのは駒ヶ岳
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まどみちおさん

2014-09-04 14:05:36 | 素晴らしい人
 『ぞうさん』や『1年生になったら』の作詞で有名な
まどみちおさんのファンである。
 特に次の2つの詩は、
現職の頃、色々なときに、好んで使わせてもらった。


          チョウチョウ

    チュウチョウは ねむる とき
    はねを たたんで ねむります
    だれの じゃまにも ならない
    あんなに 小さな 虫なのに
    それが また はんぶんになって
    だれだって それを見ますと
    せかいじゅうに しーっ
    と めくばせ したくなります
    どんなに かすかな もの音でも
    チョウチョウの ねむりを
    やぶりはしないかと


          朝がくると

    朝がくると 飛び起きて
    ばくが作ったのでもない
    水道で 顔をあらうと
    ぼくが作ったのでもない
    洋服を 着て
    ぼくが作ったのでもない
    ごはんを むしゃむしゃたべる
    それから ぼくが作ったのでもない
    本やノートを
    ぼくが作ったのでもない
    ランドセルに つめて
    せなかに しょって
    さて ぼくが作ったのでもない
    靴を はくと
    たったか たったか 出かけていく
    ぼくが作ったのでもない
    道路を
    ぼくが作ったのでもない
    学校へと
    ああ なんのために

    いまに おとなになったら
    ぼくだって ぼくだって
    なにかを 作ることが
    できるように なるために


 羽をたたんでねむる「チョウチョウ」の、
静寂の中でひっそりと息づくその様。
そして、世界中にしーと目配せしたくなると言う目線の、
これまた、芯から温かみが伝わってくる想い。

 私は、この詩を朗読し、
「チョウチョウのような、そして、まどみちおさんのような、
優しさ人になりたいね。」
と、よく子どもたちに呼びかけた。
その時、どの子も決まって、パッと明るい顔をした。

 毎朝、ランドセルを重たそうに背負い、
両手をポケットに突っ込み、うつむき加減に登校してくる男の子がいた。
ある日、『朝がくると』の詩を書いた紙片を、プレゼントと称して、
彼の机の中に、そっと入れておいた。

 次の日からも彼のその姿は何も変わらなかったが、
その年度の終わり頃、
彼の日記に
「ぼくも何かを作れるように、頑張る。」
と、あった。
彼の心に、火が灯ったんだと確信した。

 物語や絵本、詩などが子どもの心を豊かにする、
そんな絶大な力を持っていると信じている。
それにしても、まどみちおさんの詩は、この2つに限らず素晴らしい。

 今年2月28日、104歳でお亡くなりになったが、
生前、某社から『全作品集』の出版依頼があったとき、
まどさんは、こんな申し出をしたそうである。

『私は生涯で戦争に賛成する詩を2編書いてしまった。
私がそんな不完全な弱い、ごまかしをする人間だという事を
明らかにする意味でも
必ずその作品を探し当てて、掲載してほしい。』と。

 まどみちおさんのどうしても拭いきれなかった悔恨と、
何よりもその実直さに心打たれた。
そして、だからこそ、
人々の心を揺り動かす作品ができるのだと思った。
 矢っ張り、凄い。
 私の本棚にある『まどみちお詩集』に敬礼。




快晴の日 散歩道から昭和新山の隣に蝦夷富士(羊蹄山)が
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