3校目に着任した小学校は、東京都中央区の月島にあった。
この町で、実質的には6年間を過ごした。
今もそのようだが、1年1年町の様相は、
変わっていった。
私の頃は、交通網が整備され、
通勤経路が3回も変更になった。
おかげで、通勤時間は30分も短縮された。
そんな変わりゆく町なのだが、
下町のよさが、いたるところで継承されていた。
さて、月島と言えば、「もんじゃ焼」が有名だ。
はるか昔は、子ども達がお遣い銭片手に寄り集まり、
おやつ替わりにしたソールフードだったらしい。
それが今では、東京の名所・名物になってしまった。
当時、私もたびたび足を運び、
先輩や同僚達と、もんじゃ焼やお好み焼にビール片手で、
「美味い」「美味い」を連呼していた。
しかし、月島のB級グルメはこれに限らない。
最近は徐々に、もんじゃ焼店のメニューにも載っているらしいが、
『レバフライ』がその一つである。
豚のレバーを叩いて薄くしたものに、衣をつけフライにする。
それを特製のソースに浸したものである。
実は、それまでレバーなど大嫌いで、
絶対に口にしなかった。
ところが、出張帰りの先生が、
「丁度売っていたから。」
と、10数枚をおみやげに持ってきた。
その味を知っている先生たちから歓声が上がった。
忙しい職員室の手が止まり、
ソースの香りいっぱいの、薄いフライに次々と手が伸びた。
レバーと聞いて、私は敬遠したが、
「残してもいいから。」と差し出された。
その匂いに誘われ、思い切って口に運んでみた。
ソースのいい匂い、サクサクとしたフライの食感、
そして何よりも、レバとは思えない歯ごたえ。
小さな1枚は、あっという間に口から消えていった。
「これ、美味しいね。」
思わず声が出た。
「そうでしょう。」
先生方が、口をそろえて応じた。
当時、このレバフライは『レバカツ』とも言われ、
某専門店で時間を区切って販売されていた。
決して高価ではないが、中々手に入らないテイクアウトだ。
地元だけが知る、月島名物だったと思う。
同じく、地元限定のB級グルメをもう一つ紹介する。
これまた、私が大嫌いなものだった。
居酒屋の暖簾をくぐると、真っ先に注文する品に、
「もつ煮込み」がある。
牛などの内臓を時間をかけて煮込み、
それに、主にはみそ味をつけたものである。
私は、もつと聞いただけで、その器を遠ざけていた。
そのもつ煮込みが、地元で大評判の店があった。
ここもテイクアウトが専門で、
地元では、鍋や蓋付きの広口ビン等をもって、買いに行った。
4月、ある土曜日の午後、
花見と称して、学校近くの公園で酒を囲んだ。
その席に、小さな鍋に入ったもつ煮込みがでた。
それまで私が知っていた物とは違っていた。
煮込まれたもつは、串に3切れずつささり並んでいた。
ねぎもなければ、コンニャクもなかった。
他にもいろんな酒のつまみが用意されていた。
しかし、誰もが乾杯のあと、真っ先に手を伸ばしたのが、
この串刺しのもつ煮込みだった。
先生方のそれへの勢いと、
「だまされたと思って、食べてみて。」
に誘われて、串のもつを一切れ口に運んだ。
しっかりと煮込まれたそれは、口でとろけた。
先入観だった臭みは見事に消えていた。
翌年の花見から、
「あのもつ煮込みがいい。」と、リクエストした。
大きな鉄鍋に、秘伝のたれで煮込むのだとか。
子ども達が、小銭で1本ずつ買い、
おやつ替わりにしたそうだ。
今、その店はもうない。
それでも、その味を慕う人たちがいると聞いた。
この月島に、私が魅せられたのは、
食べ物だけではない。
そこで暮らす人々や子どもが、これまたいい。
▼ 着任した年、1年生を担任した。
入学した翌日からしばらくは、下校指導が行われた。
新1年生を地域別のグループに分け、
担任と主事さんが先頭になり、自宅近くまで送り届けるのだ。
まだ、地域実態が分からないまま、
私も子どもの先頭に立った。
自宅近くまで行くと、一人また一人と子どもが少なくなった。
そして、ついに男の子Bチャンだけが残った。
いつの間にか、手をつないで歩いていた。
「Bチャンのお家、こっちなの。」
「うん。」
そう言って、春の日差しが降る広い歩道を進んだ。
でも、私の知る限り、その先には民家もマンションもないはずだった。
確か埠頭公園があるだけなのだ。
「ねえ、お家はこっち。」
もう一度訊いた。
私の手を握ったまま、しっかりと前方を見て、
Bチャンは首をたてに振り、揺るぎなかった。
私は、その反面、半信半疑になっていった。
このままBチャンを信じていいのか、不安が増した。
その時、「大丈夫」と言うように、
Bチャンが私の手を強く握った。
口数の少ない子だった。
でも、その表情と対応は心強かった。
黙ってBチャンに従うことにした。
どっちが大人なのか、分からなくなった。
やがて、管理棟らしい平屋の建物が見えた。
「あれ、Bチャンの家?」
「そう。」
Bチャンは、それまでと同じ表情だった。
月島で最初に出会った子であった。
「頼もしい。」
見習いたいと、心が揺れた。
▼5年生を担任した時だ。
春の学年遠足があった。
子ども達が、「先生、お願いします。」「頼みます。」
と、何度も何度も言ってきた。
しかたなく、先生方と相談して、
「弁当の他に、200円分のおやつを持って行っていい。」
ことにした。
遠足の前日、男子も女子も、そのおやつの相談に夢中になり、
いつもより生き生きと下校した。
思い思いのグループに分かれ、200円片手にめざすは、
この町唯一の駄菓子店S屋だった。
それぞれプランをたて、
200円のおやつを買い求めようとワクワクしていた。
ところが、S屋に着くと、
『本日休業』の札が下がっていた。
店先に、いくつものグループが集まった。
みんな落胆の声を上げ、その場から離れられなかった。
その時、一人の男の子が、店のガラス戸を叩きだした。
「おばさん、お願い。店開けて。」と、叫んだ。
みんなは静まりかえった。
何回かくり返すと、S屋のおばさんが顔を出してくれた。
「体調が悪いから、休みにした。」と分かった。
子ども達は、「明日の遠足のおやつがほしい。」
と、口々に訴えた。
おばさんは、無理を押して1時間だけ店を開けることにした。
当然、子ども達は大喜びだった。
しかし、それだけではなかった。
自転車で来た数人が手分けをして、学区内を走り回った。
「S屋が1時間だけ店を開いてくれる。」
そうふれて回った。
翌日、目的地でおやつを頰張りながら、子ども達が口々に言った。
「あのおばさん、優しいよね。」
「体、大丈夫かな。」
そして、
「知らせが来たから、助かったよ。」とも。
「下町の人情や強さは、こうして育まれんだ。すごい。」
私は、目を丸くするばかりだった。
▼地下鉄を降り、学校までの道路沿いに、
さほど広くない間口の青果物店があった。
夫婦二人で店を切り盛りしていた。
朝は、まだ店が閉まっているが、
退勤時は、いつも後片付けで、二人とも忙しそうだった。
それでも、私たちを見かけると、
「こんばんは。先生、お疲れさま。」と元気な声が飛んできた。
高学年担任の時、そのお子さんを受け持った。
年度初め、早速家庭訪問をした。
さほど忙しくない時間を見計らって、店先にうかがった。
来店者の合間をぬって、言葉を交わした。
特に私から尋ねた訳ではないが、ご夫妻は、大の祭り好きだと言う。
二人の馴れ初めも、祭りが縁なのだとか。
「だから、この商売も、毎日の暮らしも祭りのためさ。」
と、ご主人は胸を張った。
「そう、そう。」
そばで奥さんが、うなずいていた。
言葉の端々から、気っぷのよさが伝わった。
受け継がれてきた下町の空気を感じた。
何となくネチネチしている自分を、どこかに隠してしまいたかった。

畑のすみに咲く 待宵草(月見草)
この町で、実質的には6年間を過ごした。
今もそのようだが、1年1年町の様相は、
変わっていった。
私の頃は、交通網が整備され、
通勤経路が3回も変更になった。
おかげで、通勤時間は30分も短縮された。
そんな変わりゆく町なのだが、
下町のよさが、いたるところで継承されていた。
さて、月島と言えば、「もんじゃ焼」が有名だ。
はるか昔は、子ども達がお遣い銭片手に寄り集まり、
おやつ替わりにしたソールフードだったらしい。
それが今では、東京の名所・名物になってしまった。
当時、私もたびたび足を運び、
先輩や同僚達と、もんじゃ焼やお好み焼にビール片手で、
「美味い」「美味い」を連呼していた。
しかし、月島のB級グルメはこれに限らない。
最近は徐々に、もんじゃ焼店のメニューにも載っているらしいが、
『レバフライ』がその一つである。
豚のレバーを叩いて薄くしたものに、衣をつけフライにする。
それを特製のソースに浸したものである。
実は、それまでレバーなど大嫌いで、
絶対に口にしなかった。
ところが、出張帰りの先生が、
「丁度売っていたから。」
と、10数枚をおみやげに持ってきた。
その味を知っている先生たちから歓声が上がった。
忙しい職員室の手が止まり、
ソースの香りいっぱいの、薄いフライに次々と手が伸びた。
レバーと聞いて、私は敬遠したが、
「残してもいいから。」と差し出された。
その匂いに誘われ、思い切って口に運んでみた。
ソースのいい匂い、サクサクとしたフライの食感、
そして何よりも、レバとは思えない歯ごたえ。
小さな1枚は、あっという間に口から消えていった。
「これ、美味しいね。」
思わず声が出た。
「そうでしょう。」
先生方が、口をそろえて応じた。
当時、このレバフライは『レバカツ』とも言われ、
某専門店で時間を区切って販売されていた。
決して高価ではないが、中々手に入らないテイクアウトだ。
地元だけが知る、月島名物だったと思う。
同じく、地元限定のB級グルメをもう一つ紹介する。
これまた、私が大嫌いなものだった。
居酒屋の暖簾をくぐると、真っ先に注文する品に、
「もつ煮込み」がある。
牛などの内臓を時間をかけて煮込み、
それに、主にはみそ味をつけたものである。
私は、もつと聞いただけで、その器を遠ざけていた。
そのもつ煮込みが、地元で大評判の店があった。
ここもテイクアウトが専門で、
地元では、鍋や蓋付きの広口ビン等をもって、買いに行った。
4月、ある土曜日の午後、
花見と称して、学校近くの公園で酒を囲んだ。
その席に、小さな鍋に入ったもつ煮込みがでた。
それまで私が知っていた物とは違っていた。
煮込まれたもつは、串に3切れずつささり並んでいた。
ねぎもなければ、コンニャクもなかった。
他にもいろんな酒のつまみが用意されていた。
しかし、誰もが乾杯のあと、真っ先に手を伸ばしたのが、
この串刺しのもつ煮込みだった。
先生方のそれへの勢いと、
「だまされたと思って、食べてみて。」
に誘われて、串のもつを一切れ口に運んだ。
しっかりと煮込まれたそれは、口でとろけた。
先入観だった臭みは見事に消えていた。
翌年の花見から、
「あのもつ煮込みがいい。」と、リクエストした。
大きな鉄鍋に、秘伝のたれで煮込むのだとか。
子ども達が、小銭で1本ずつ買い、
おやつ替わりにしたそうだ。
今、その店はもうない。
それでも、その味を慕う人たちがいると聞いた。
この月島に、私が魅せられたのは、
食べ物だけではない。
そこで暮らす人々や子どもが、これまたいい。
▼ 着任した年、1年生を担任した。
入学した翌日からしばらくは、下校指導が行われた。
新1年生を地域別のグループに分け、
担任と主事さんが先頭になり、自宅近くまで送り届けるのだ。
まだ、地域実態が分からないまま、
私も子どもの先頭に立った。
自宅近くまで行くと、一人また一人と子どもが少なくなった。
そして、ついに男の子Bチャンだけが残った。
いつの間にか、手をつないで歩いていた。
「Bチャンのお家、こっちなの。」
「うん。」
そう言って、春の日差しが降る広い歩道を進んだ。
でも、私の知る限り、その先には民家もマンションもないはずだった。
確か埠頭公園があるだけなのだ。
「ねえ、お家はこっち。」
もう一度訊いた。
私の手を握ったまま、しっかりと前方を見て、
Bチャンは首をたてに振り、揺るぎなかった。
私は、その反面、半信半疑になっていった。
このままBチャンを信じていいのか、不安が増した。
その時、「大丈夫」と言うように、
Bチャンが私の手を強く握った。
口数の少ない子だった。
でも、その表情と対応は心強かった。
黙ってBチャンに従うことにした。
どっちが大人なのか、分からなくなった。
やがて、管理棟らしい平屋の建物が見えた。
「あれ、Bチャンの家?」
「そう。」
Bチャンは、それまでと同じ表情だった。
月島で最初に出会った子であった。
「頼もしい。」
見習いたいと、心が揺れた。
▼5年生を担任した時だ。
春の学年遠足があった。
子ども達が、「先生、お願いします。」「頼みます。」
と、何度も何度も言ってきた。
しかたなく、先生方と相談して、
「弁当の他に、200円分のおやつを持って行っていい。」
ことにした。
遠足の前日、男子も女子も、そのおやつの相談に夢中になり、
いつもより生き生きと下校した。
思い思いのグループに分かれ、200円片手にめざすは、
この町唯一の駄菓子店S屋だった。
それぞれプランをたて、
200円のおやつを買い求めようとワクワクしていた。
ところが、S屋に着くと、
『本日休業』の札が下がっていた。
店先に、いくつものグループが集まった。
みんな落胆の声を上げ、その場から離れられなかった。
その時、一人の男の子が、店のガラス戸を叩きだした。
「おばさん、お願い。店開けて。」と、叫んだ。
みんなは静まりかえった。
何回かくり返すと、S屋のおばさんが顔を出してくれた。
「体調が悪いから、休みにした。」と分かった。
子ども達は、「明日の遠足のおやつがほしい。」
と、口々に訴えた。
おばさんは、無理を押して1時間だけ店を開けることにした。
当然、子ども達は大喜びだった。
しかし、それだけではなかった。
自転車で来た数人が手分けをして、学区内を走り回った。
「S屋が1時間だけ店を開いてくれる。」
そうふれて回った。
翌日、目的地でおやつを頰張りながら、子ども達が口々に言った。
「あのおばさん、優しいよね。」
「体、大丈夫かな。」
そして、
「知らせが来たから、助かったよ。」とも。
「下町の人情や強さは、こうして育まれんだ。すごい。」
私は、目を丸くするばかりだった。
▼地下鉄を降り、学校までの道路沿いに、
さほど広くない間口の青果物店があった。
夫婦二人で店を切り盛りしていた。
朝は、まだ店が閉まっているが、
退勤時は、いつも後片付けで、二人とも忙しそうだった。
それでも、私たちを見かけると、
「こんばんは。先生、お疲れさま。」と元気な声が飛んできた。
高学年担任の時、そのお子さんを受け持った。
年度初め、早速家庭訪問をした。
さほど忙しくない時間を見計らって、店先にうかがった。
来店者の合間をぬって、言葉を交わした。
特に私から尋ねた訳ではないが、ご夫妻は、大の祭り好きだと言う。
二人の馴れ初めも、祭りが縁なのだとか。
「だから、この商売も、毎日の暮らしも祭りのためさ。」
と、ご主人は胸を張った。
「そう、そう。」
そばで奥さんが、うなずいていた。
言葉の端々から、気っぷのよさが伝わった。
受け継がれてきた下町の空気を感じた。
何となくネチネチしている自分を、どこかに隠してしまいたかった。

畑のすみに咲く 待宵草(月見草)