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ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

コロナに向かう 81歳

2020-05-09 15:43:33 | 素晴らしい人
 ▼ ついに私の街に春が来た。
桃も梅も桜も一斉に咲いている。
 白木蓮も紫木蓮も辛夷(コブシ)も、みんな咲いた。
当然、我が家のジューンベリーも。
 そして、柳、ナナカマド、カラマツの新緑が、
柔らかな陽を受け、綺麗だ。

 当然、日の出も早い。
それに誘われ、私の目ざめも早くなる。
 いい天気の日は、しっかりと準備を整え、
6時半にはランニングスタートだ。

 どこを走っても、行きかう人はまばら。
「3密」の心配など要らない。
 でも、この陽気だからか、それとも自粛生活だからか、
ランナーとすれ違うことがある。

 みんな若い。
多くは、イヤホンを耳にしている。
 私が挨拶しても、耳に届かないのか、
視線すら合わせないこともしばしばだ。

 だけど、近づいてきたランナーが
私の左腕にあるオレンジ色の腕章を見た。
 「おっ、ガードランナーズだ。
お疲れっす。」
 さっと一礼して走り去った。

 『走りながら、子どもやお年寄りの見守りを!』。
そんな趣旨に、「私でよければ・・」と、
腕章をつけて走っている。
 それをねぎらう飾らないひと声だ。

 「何もしていないに等しいのに・・」。
それでも、快晴の青空を見上げたくなった。
 誰も見ていないことをいいことに、少し胸を張った。
きっとアカゲラだろう。
 どこかから、ドラミングが空に響いていた。
頬をなでる春風が心地いい。 
 
 そして、自宅まで残り1キロ余りの日だった。
予報よりも早くに、暗い雲が漂った。
 すぐに雨が降り始めた。

 いつもより早足だったからか、
これ以上のスピードアップはきつかった。

 濡れはじめた歩道の先を見た。
上下黒にピンクのシューズのランナーが、向かってきた。
 その距離が、みるみる近づいた。
私が速いのではない。

 明らかに軽快な走りだ。
距離が近づき、雨の中でも、
若い女の子だと分かった。
 ショートカットの頭がすっぽりと湿っていた。

 すれ違う一瞬、目が合った。
「おはようございます」。
私の挨拶に、彼女は、明るい笑顔を作り、
「おはようございます。」と応じた。

 すかさず私は続けた。
「雨だから、足元、気をつけて!」。
 その言葉の最中、
彼女は私の横を走りぬけた。

 だが、背後から明るく弾んだ声が届いた。
「はーーい。ありがとうございまーす!」。

 間もなく自宅だと思いつつ、
その声が氷雨ではなく、春雨だと思わせた。
 急に、足がスイスイと進む。
一瞬、年齢を忘れていた。「春だ!」。

 ▼ そんな春爛漫の朝が、その後一転する。
人と出合うことを避ける現実が強いられている。
 「今日までの努力が水の泡にならないように!」。
殺し文句を聞かされると、
小心者は、ことさらじっと閉じこもっていようと思う。

 だけど、心は真逆。
余計に明るい話題が欲しくなる。

 大先輩が高齢を押して、定期通信を送ってくれる。
ついつい笑いがこぼれる川柳があったりする。
 半年程前、こんな記事が載っていた。

 何年か前の「笑点」でのことらしい。
つい吹き出しながら、読み返した。
 
  *    *    *    * 
 
    18歳と81歳の違い

 道路を暴走する 18歳
   道路を逆走する 81歳

 心がもろい 18歳
   骨がもろい 81歳

 偏差値が気になる 18歳
   血糖値が気になる 81歳

 受験戦争を闘っている 18歳
   アメリカと闘った 81歳

 恋に溺れる 18歳
   風呂で溺れる 81歳

 まだ何も知らない 18歳
   もう何も覚えていない 81歳

 東京オリンピックに出たいと思う 18歳
   東京オリンピックまで生きたいと思う 81歳

 自分探しの旅をしている 18歳
   出掛けたまま分からなくなり皆が探している 81歳

 「嵐」というと松本潤を思い出す 18歳
   鞍馬天狗の嵐寛寿郎を思い出す 81歳

 ドキドキが止まらない 18歳
   動悸が止まらない 81歳

 早く「二十歳」になりたいと思う 18歳
   出来ることなら「二十歳」に戻りたいと思う 81歳

 恋で胸を詰まらせる 18歳
   餅で喉を詰まらせる 81歳 
 
  *    *    *    *

 ▼ さて、飲食店を営む私の兄のことだ。
同じく81歳である。
 「笑点」が取り上げた81歳とは違う。

 コロナの最中、電話がきた。
今も、毎朝、魚市場へ行く。
 培ってきたキャリアで、鮮魚を選ぶ。
確かな目利きの評判は、時々私も耳にする。

 その81歳が、受話器の向こうで弱音を吐く。
「コロナの最初の頃とは全然違う。
お客さんが来ないんだ。
 参っているさ。」

 どこの店も同じだ。
でも、今までどんな不況も乗り越えてきた。
 だから、今回も何とかできると知恵を絞ってきた。
少々自信もあった。
  
 「だけどなあ、店を開けていても、
誰も来ないんだ。
 俺はさあ、人がいて、
その人にものを売りたいんだ。
 そうしていたんだ。
だけど、それができないのさ。」

 兄の人生の支えと無念さを、
受話器はそのまま語っていた。
 胸が熱くなった。

 「なあ、頼みがあるんだ。
テイクアウトっていうのか、それを始めたんだ。
 それをインターネットで宣伝してくれないか。」

 兄は、私ならできるだろうと言う。
期待に応えたかった。だが無理だった。

 落胆の声が、
翌日もその次の日も耳から離れなかった。
 「俺はさあ・・ものを売りたいんだ。
そうしていたいんだ」。

 81歳でもなお、前を向く。
コロナに負けず、進もうとする。
 『18歳と81歳の違い』など論外だ。

 数日後、
『テイクアウトを始めました。
こんな時、ご自宅で、当店のお味はいかがですか?!』
 そんなタイトルに、
お持ち帰りメニューと写真を載せたチラシを作った。

 「店先に置いたり、来店した方に配ったり・・。」
50枚程を兄の店に届けた。
 今、私にできること・・?。そのくらい・・・。

 『頑張れ! 81歳!』




  春 真っ盛り  だて歴史の杜にて
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『 冬 花 火 』  ~ 「憧れ」が逝く

2020-02-08 18:32:37 | 素晴らしい人
 ふり返ると、もう50年、
半世紀も前のことから綴りたい。

 最初に、私の詩集『海と風と凧と』のあとがきを転記する。

 『私は根雪の残る北海道より上京し、
小学校の教員になりました。
 その時初めて立った校庭には、
北国の冷たい鉛色の曇り空とは違った明るい春の光が
こぼれていました。
 それは、これから始まる私の新たな歩みが
太陽の陽差しに恵まれたものになるような、
そんなことさえ予感させるものでした。』

 その予感は、外れていなかった。
A氏との出会いは、その1つだったと今も思っている。
 本ブログの16年6月4日に『A氏へ手紙』を書いた。
続いて、その一部を記す。

  *   *   *   *   *

 新米教師だった私は、職員室で初めて見た貴兄の、
あのスッとした立ち姿とセンスのいい服装に、
『都会の人』のオーラを感じたのです。
素敵だと見とれました。

 ちょっとハスに構えたようなものの言い方、
教師でありながら、彫刻に情熱を注ぐ日々、
大人の洒落た気配りができる何気ない立ち振る舞い、
貴兄のそんな一つ一つに、私は憧れました。
 「いつかは私もああなりたい。」
と、思ったのです。

 さらに、「ロダンだ」「ブールデルだ」「マイヨールだ」
と名を上げ、彫刻や芸術を説き、
創作の魅力と自己表現の大切さを、熱く語ってくれました。
 全く知らなかった世界観に、
私は、ただただうっとりと彷徨うばかりでした。

 そう、あの頃から、
何かを創り出すこと、
何かを表現すること、
そしてその元となる、私自身を探し求めることに、
興味を持つようになったのです。

  *   *   *   *   *

 決してA氏には届くことのない手紙だと知りつつ、
私は最後をこう結んだ。
 『いつか再びお会いする機会に恵まれたら、
美酒を交え・・談論風発はいかかですか。』

 同じ学校で、6年間を過ごした後、
一緒に仕事をする機会はこなかった。
 年賀状のやりとりと、
時折風のたよりだけで、彼を感じてきた。

 でも、何年が過ぎようと、彼は色あせなかった。
ずっと『憧れ』ていた。

 なのに、手紙では「談論風発」なんて、背伸びをした。
「いつか、対等に向き合えたら・・、語らえたら・・・」。
 そんな願望が結びを書かせた。

 そして、ずっと憧れの人との、
そんなシチュエーションを頭の片隅で、
勝手に夢想していた。

 ところが、なんて非情なんだ。
つい数日前の昼下がりだった。
 ラインメールが鳴った。

 『こんにちは、突然で、ごめんなさい。
A先生が、1月30日に亡くなったと、・・連絡がありました。
本人の強い希望により、直葬で家族のみで、
2日に火葬したそうです。・・』

 確か6歳年上だった。
喜寿を迎えたばかりなのではなかろうか。
 「彼の死など、想像できない。」
思考はそのままで、ずっと時間だけが過ぎた。

 どれだけ、肩を落としうな垂れていただろう。
やがて、遠い地から、今、できることを、
必死に探した。

 「美酒を飲みながらの談論風発なんて、もうできないが、
死を受け止め、彼を悼もう。」
 叶わなくなってしまった『美酒を交わす』。
そんな真似事をしよう。
 そう決めた。

 伊達で唯一の酒屋に向かった。
日本酒の長い棚には、全国各地の銘酒が所狭しと並んでいた。

 その片隅にそっと置かれていた瓶の表ラベルに、目が止まった。
彼が記す字形に酷似した3字があった。
 『 冬 花 火 』。

 北海道に酒蔵がある『北の錦』の銘柄だ。
裏ラベルには、杜氏の添え書きがある。
「空気が澄み切った冬の花火はひときわ美しく、
華やかに広がり、さっと消えていく。
 そんな冬花火のような酒を造りたい
という想いを込めて醸しています。」

 彼を偲ぶに打ってつけに思えた。
その一升瓶を両手で大事に抱え、買い求めた。

 家内の手料理で、深夜まで『冬花火』をかたわらに置いた。
『ひときわ美しく、華やかに広がり、
さっと消えていく冬花火』。

 消沈しそうになる私を、その美酒が支えた。

  *   *   *   *   *

 赴任してまもなく、図工の先生(A氏)から展覧会に誘われた。
同僚4、5人で、日本橋のデパートの特設会場に行った。

 メキシコの画家の展覧会だった。
確かシケイロスという名だった。
 壁画を得意としているようで、1つ1つの絵が大きかった。

 一面、真っ赤な風景画に釘付けになった。
まぶしい程の赤色だった。
 「きっとメキシコの太陽の色なんだね。」
図工の先生が、私の横で教えてくれた。

 しばらくその絵の前から離れられなくなった。
「シケイロスの赤はすごい。本物だ。」
何も分からないのに、そう感じた。
 ≪本ブログ17年3月3日『絵心をたどって』より≫
 
 *   *   *   *   *

 彼から学んだことは、限りない。
その1つ1つが、『冬花火』のそばで蘇った。

 残念だが、その多くは今も消化できないままだが、
確かに、私のものにしたことも・・・・。
 酔いとともに、想いは冴えるばかり、
でも、「あっ、もう深夜」。

 そっとカーテン越しに南向きの窓から外を見た。
冬の花火なんて、あるはずがない。
 暗い夜道を照らす街灯に、粉雪が舞い降りていた。
そう、「積もりそうな雪だった」。

 


だて歴史の杜公園もすっかり冬景色     
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『味処 × × × 』 あれやこれや

2020-01-25 11:15:34 | 素晴らしい人
 ▼ 20年も前のことになる。

 校長としてはじめて着任した小学校のPTA会長さんは、
地元消防団でも頑張っていた。

 夜、7時をまわった頃、
校庭近くにある小さな空き地で、
仕事を終えた7,8人の消防団員が整列し、
放水訓練をくり返す姿を、よく見た。

 「いつも熱心に、ご苦労様です。」
私の声かけに、実直な会長さんは、
いつも同じフレーズで応じた。

 「ここは下町ですから、災害に弱いんです。
それには備えが大事なんで・・。」
 私より一回りも年下なのに、
彼の強い思いに頭が下がった。

 その彼が、「PTAとは関係ないのですが・・」。
そんな前置きをし「相談があって・・」と、
退勤間際の校長室へやって来た。

 「今年、消防団の慰安旅行(?)の幹事が回ってきて、
北海道へ行くことになりました。
 初日は、洞爺湖を見て、登別温泉に泊まる予定です。
確か、その近くが先生の実家と聞いていたので・・。
 実は、まだその時の昼食場所が見つからなくて、
どこかいい所をご存じならと思いまして・・」。

 その後、旅行人数、昼食予算、滞在時間等を訊き、
その場で、兄の飲食店『味処×××』へ、電話を入れた。
 兄は二つ返事で、
東京下町の消防団員の昼食を引き受けてくれた。

 旅行初日、新千歳空港に着いたメンバーは、
旅行社が手配したバスに乗り込んだ。
 そして、真っ先に兄の店を目指すことに。

 幹事の彼は、バスガイドに店の住所と電話番号を示し、
そこへバスで案内するよう頼んだ。
 すると、ガイドさんは明るく答えた。
「あら、『 × × × 』さんね。分かりました。」

 「そんな有名店なのか!」と、彼は驚き、訊いた。
「大きなお店なんですか。」
 「いいえ、でもこの人数なら大丈夫、入れます。」

 不思議そうな顔の彼に、ガイドさんは言った。
「私のバス会社の近くなんです。
よくお昼を食べに行くんです。だから・・。」

 「そんな偶然があるのだろうか。」
そう思いつつ、団員は兄の店の暖簾をくぐった。

 きっと、赤字覚悟で、
兄は準備をしてくれたのだろう。
 旅行を終え、お土産をもって訪れた会長さんは、
一気に言った。

 「とにかく美味しかったです。
あんな美味しいお刺身、初めてでした。
 1つ1つの小鉢も、いい味で、
お昼からお酒が進みました。
 その上、毛ガニの小さいのが、
1パイずつ全員に付いていたんです。
 それが、また美味しくて、
残した人は誰もいなかったんです。
 もう大満足でした。」

 予想外だったのだろう。
いつもと違って、彼は饒舌だった。

 「あのですね。その夜もホテルで蟹が出たんです。
でも、お兄さんの所とは全然違って、普通で、
みんな残す残す・・。」

 そんな嬉しい声を聞き、ほっとした。
その夜、兄に電話を入れた。
「世話になってるんだろう。
頑張って、用意したさ。
 消防団にもお前にも、喜んでもらえて、良かった。」
兄弟の有り難さが、身に浸みた。

 それから数日後だ。
退勤時に、同じ消防団員でPTA役員さんと、
自転車ですれ違った。

 「私も、消防団の旅行に行ってきました。
『 × × × 』さんの料理、美味しかったです。
 いつか、弟さんにお礼を伝えて下さい。」
  
 「いや、あれは、兄です。10歳も上の・・」
急ぎ、そう応じながら、嬉しいやら悲しいやら・・。
 そして、役員さんの驚きの表情ったら・・。
今もハッキリと目に浮かぶ。

 ▼ 私が、その小学校から異動した後、
兄を弟と思ったお父さんや、
PTA会長さんなど8人の役員さんで、
毎月コツコツと旅行貯金を始めた。

 そして、ついに5年後の夏だった。
初めて飛行機に乗るというお母さんもいたが、
羽田から千歳へ飛んだ。

 その目的は唯一。
消防団が行った『味処 × × × 』の料理を、
食べることだった。

 北海道の涼しさに、全員で驚き、
それでも宿泊先の温泉に浸かり、体を温めてから、
兄の店へ行った。

 開口一番、兄は、面倒な挨拶代わりに明るく言った。
「暑いね。扇風機いるかい?」

 私を含め全員が冗談だろと思いつつ、
笑いながら首を振った。
 「そうかい、今日は今年一番の暑さだから・・。
暑いしょ!」。

 私は、兄のそんな応対に、若干赤面しながらも、
用意してくれていた料理の席に案内した。

 そこには、飛びっ切りの品が所狭しと並んでいた。
中でも、キンキの煮付けの大きさに、私は驚き、
兄だからこその心遣いに、心を熱くした。
   
 しかし、東京暮らしの人たちに、
キンキは初めての魚だ。
 綺麗なこの赤魚が、どれだけの高級魚で貴重か。
それは分からなくて当然だった。

 私は、何の説明もせず、
「まずはキンキに箸をつけてから」と進めた。

 その夜、宿泊先での2次会は、
キンキの話題で持ちっきりになった。

 お酒を飲みながら、口々に言った。
 「毛ガニも美味かったけど、キンキの美味しいこと。」
「最後は、骨までしゃぶってしまったわ。」
 「頭の頬にあった身、あそこが最高。」
「あんなに生きのいいホヤも初めてだったけど、
それ以上に、キンキにはビックリ。」
 
 そんな声を聞きながら私は、
兄の「暑いね。扇風機いるかい?」を、
誰も話題にしなかったことに、
胸をなで下ろしていた。

 そしてもう1人。
「お兄さん、若く見えたね。」
と、誰かが言い出した時、すぐに話題を変え、
胸をなで下ろした人がいた。


    

   洞爺湖のむこうに 冬の羊蹄山が   
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清々しい振る舞い ~『キョウイク』『キョウヨウ』から

2019-11-30 20:25:54 | 素晴らしい人
 心理学者の多湖輝さんが書いた、
『100歳になっても脳を元気に動かす習慣術』にある言葉らしい。
 多湖さんも、100歳に近い先輩から教えられたのだとか・・。

 私は、定年退職後すぐ、同じ歳の友人から聞いた言葉だ。
「ツカちゃん、これからは『キョウイクとキョウヨウ』だよ。
それを大事にして、俺たちは暮らさなきゃ。」

 『キョウイク』と『キョウヨウ』?。
何を意図した言葉なのか。
 意味がつかめず、説明を求めた。

 「教育」ではなかった。
「今日、行く」ところがあることだ。
 「教養」ではなかった。
「今日、用事がある」ことだ。

 退職後を健康的に生きるために意識したいことだと言う。
最近では、これに『チョキン』が加わるらしい。 
 「貯金」ではなく、「筋力を貯めること」だ。

 「キョウイク」「キョウヨウ」「チョキン」を意識した暮らし方・・?
さて、私の日常はどうだろうか。
 密かに、「B」「G」「M」と、私の日々を表している。

 「B」は、ブログ=Blogのことで、
ほぼ毎週2日をこれに費やしている。

 「G」は、ゴルフ=Golfのことで、
シーズン中は、毎週1ラウンドは回っている。
 加えて、パークゴルフも毎週のように楽しんでいる。

 「M」は、マラソン=Marathonのことで、
大会参加を目指して、朝ランに励んでいる。

 「行くところがない」。
「何もすること(用)がない」。
 「だから、家でジッとしている」。
幸い、そんな日々とは、縁遠い。

 その上、時折、思いもしない依頼が舞い込んでくる。
できるだけ2つ返事で引き受けることにしている。

 それは、もう7年も住んでいるとは言え、
ここでは「新参者」である。
 その私への頼み事である。

 きっと半信半疑。
それでも信じて、私を見込んでのこと。
 勝手にそう理解している。
だから、期待に応えたいと、その都度心する。

 これが『キョウイク』や『キョウヨウ』を豊かにしている。
素直に、いいことだと思う。
 と同時に、実は、思ってもみなかった心温まることや、
貴重な出逢いに恵まれることがある。
 そんな1つを記す。

 今年度から、地域の自治会から2つの役目を頂戴した。  
1つは、自主防災組織の『防災リーダー』の仕事で、
もう1つが、『福祉部長』の任だ。
 その中から、福祉部の活動での一コマである。

 福祉部では、メンバーが手分けして、
5月と9月の年2回、75才以上の会員宅を訪問する。

 5月は、対象になる会員や担当者に変動もあるので、
年度初めの顔合わせを目的に、ご自宅を訪ねた。

 私にとって初経験だったが、、
ティッシュペーパー5個セットを持って、訪ね歩いた。

 今年75才を迎えた方は、決まって訪問に驚いていた。

 「後期高齢者なんだね。年寄り扱いされてもしかたないのか。」
と、やや寂しげに笑顔を浮かべる方。

 「自治会費を納めているだけで、何もしてません。
なのに、こんな物を頂いてもいいんですか。」
と、しきりに恐縮する方。

 「75才以上って、私もそうなんですか。
そう言われれば、そうですね。まあ・・。」
と、自分の年齢を確かめる方。

 様々な反応があり、その1つ1つが意外と楽しかった。
そして、こんなやり取りもあった。

 すでに80才をゆうに越えている女性宅だった。
 「どうですか。最近、お変わりありませんか。」
挨拶代わりにした私からの声かけだった。

 「娘と2人で暮らしているんです。
でも、昼間は仕事に行くから、私1人なんですよ。」
 彼女はそう切り出すと、昼間の寂しさを切々と語り出した。

 親しくしていた友だちも、次々と逝ってしまった。
散歩に出ても、人と会うことがない。
 週1回のデーサービスだけが楽しみ。

 解決策を持たない私は、ただただ聞き役でいるしかなかった。
「また9月に伺います。それまでお元気で。」
 そう言って、別れるまで小1時間を要した。

 高齢者の孤独感に、息が詰まりそうになった。
長生きも、闘いなんだと実感しながら、
さほど遠くではない我が身を、現実に置き換え、
うつむいてしまった。

 そして、訪問の2回目、9月になった。
『敬老の日』に合わせて、ご長寿のお祝いに伺うのだ。
 ここで、貴重な出逢いがあった。

 そのご夫妻は、5月にうかがった折りには、
担当が私に変わり、
「お世話になります。」
と、互いに挨拶を交わしただけだった。

 もう80才になろうかというお二人だ。
自治会からのお祝い品として、日本茶セットを2つ持参した。

 インターホンを押すと、
少し時間をおいで、玄関ドアが開いた。
 ご主人が迎えてくれた。

 「自治会の福祉部です。
敬老の日が近づきましたので、
ご長寿のお祝いをお持ちしました。」

 私からのそんな挨拶に応じたご主人。
そこから先、1つ1つの彼の振る舞いが、心に響いた。

 「そうですか。それはそれは、ちょっとお待ち下さい。」
ご主人は、足早に奥へ消えた。

 そして、玄関先で待つ私に、その声だけが聞こえた。
「お母さん、ほら今年も長寿のお祝いだって、
嬉しいね。玄関でお待ちですよ。」
 
 少しの時間が流れた。
ご主人の肩を借りながら、奥さんがゆっくりと現れた。
 私に顔を向け、弱々しく頭を下げ、唇が動いた。
どんな病気なのか、声になっていなかった。

 ご主人の「長寿のお祝いだって、嬉しいね」の声が、
くり返し、心にこだましていた。

 私は、手にしていた2つのお茶セットを、
さっと、ご主人に差し出した。

 すると、ご主人は、穏やかな笑みを浮かべ、奥さんを見た。
「お祝いですからね。貴方の分は貴方が頂くといい。」
 奥さんは、大きくうなずき、少しだけ表情を明るくし、
玄関先に進み出た。

 しきりに言葉を探した。
しかし、そんな時の私はダメだ。
 「自治会からのお祝いです。どうぞお受け取り下さい。」
それしか言えないまま、
お茶セットの1つを奥さんへ渡した。

 奥さんに代わって、ご主人が
「ありがとうございます」と頭を下げた。

 何の気配りもなく、
2つまとめて差し出した愚かさが恥ずかしかった。

 でも、それには触れず、もう1つをご主人に渡し、
玄関ドアを閉めた。 
 
 「幾つになっても、どんな暮らしであっても、
あんな清々しい振る舞いができる人間でいたいなぁ。
 俺は、まだまだ、全然だ。」

 帰宅してすぐ、家内にそうつぶやきながら、
小さな出逢いでみつけた大切な体験に、感謝した。




    公園の松も 冬支度   
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あばれ馬にすくんでも

2017-08-26 16:53:02 | 素晴らしい人
 誰でもそうだろうが、
見る夢は、いつもプロローグがないまま、急に展開する。

 草原のような広い牧場に、
そこだけ木の柵が張り巡らされ、
一頭のあばれ馬が跳びはね、走り回っていた。

 そこの主人だろうか、カーボーイハットの男が、
毛布のような1枚の布を、私に手渡した。
 「この布を、あの馬の背にかぶせてこい。」

 私の胸は、急に激しく鼓動を打ち、
その布をギュッと抱きかかえる。
 「さっさと、やるんだ。」
主人は、使用人にでも言うような口ぶりで、怒鳴る。
 私の額には、汗がにじむ。

 少し離れた所では、馬に鞍をのせ、
乗馬を楽しむ人たちがいた。
 あんな穏やかな馬にする第一歩が、
馬の背に、この布をかけることだと言う。

 私が、ためらっていると、先輩が急にその布を奪い取り、
あばれ馬に近づいていった。
 そして、走り回り、跳びはねる馬に、
かけ寄り、背中に布をかけた。

 「ああやってやるんだ。つぎは必ずお前がやれ。」
また新しいあばれ馬が、柵に入ってきた。

 私は、足がすくんで、一歩たりとも動けない。
布を抱えたまま、呼吸が荒くなる。
 「どうした。早くかけに行け。」
主人の厳しい声がとぶ。
 肩で息をし、足はすくんだまま動けない私。

 真夜中、目ざめると、枕が汗で濡れていた。
胸の鼓動が早かった。大きく深呼吸をした。
 夢だったと気づいたが、私に失望した。

 しばらくして再び眠りについた。
ところが、その夜は、丸っきり同じシーンの夢をもう一度見た。

 主人に布を渡され、荒馬にたじろぎ、どきまぎする私だった。
また目ざめて、私に落胆した。

 その後、寝付けず、いつもより早くベットを出た。
二度も見た夢は、鮮明に残った。

 それから数日、思い出すたびに、不快だった。
夢は、本性をそのまま映し出すと言う。

 臆病者で小心者、意気地なしの根性なし。
もっと言えば、弱虫なのではなかろうか。
 年令を忘れ自問し、随分と落ちこんだ。

 でも、『あばれ馬を前に、すくむ私』を、
心熱くしてくれた方々がいた。


 ▼8月22日の北海道新聞に、こんな記事を見た。

 『歌手の松山千春さん(61)=十勝管内足寄町出身=が、
搭乗した全日空機の新千歳空港出発が遅れたため、
代表曲「大空と大地の中で」を歌い、
乗客を和ませたことが21日、分かった。
同社千歳空港支店は
「このような厚意は聞いたことがなく、
松山様には感謝申し上げます」
としている。

 同支店によると、松山さんは20日、
新千歳発伊丹行きの便に搭乗した。
同機は午前11時55分に出発予定だったが、
Uターンラッシュによる保安検査場の混雑などで
午後1時3分まで出発が遅れた。

 同機は乗客405人でほぼ満席。
松山さんは午後0時50分ごろ、客室乗務員に
「みんなイライラしています。
機内を和ませるために1曲歌いましょうか」
と申し出た。
客室乗務員から連絡を受けた機長が許可したため、
機内放送用のマイクで冒頭部分を歌った。

乗り合わせていた男性公務員(26)は
「歌い終わると拍手喝采で、多くの乗客が笑顔になった。
気遣いと美声に感動した」と話す。

 松山さんは20日に出演したラジオ番組で
機内での経緯を明かし
「出しゃばったことしているなと思うけど、
みんなの気持ちを考えたら、何とかしなきゃ、みたいな。
機長さんよく許してくれたな」
と語った。』

 このニュースは、翌23日の朝日新聞『天声人語』も、
取り上げた。

 『20日、出発が遅れた飛行機で、
乗り合わせていた歌手の松山千春さんが歌を披露したという。
「いらだつでしょうが、
みんな苦労していますから待ちましょう」
と語りかけながら、思いがけなく訪れた物語は、
待ちくたびれた人たちを和ませたことだろう。』

 私が、勝手にイメージしている松山千春さんらしい行動と、
言えなくもない。
 イライラが増す満席の搭乗者を前に、
カジュアルな服装で、
受話器型のマイクを片手に歌う彼の姿を思い浮かべた。

 突然、機内でそんなことができる歌手は、
そう多くはないだろう。
 いや彼以外にはできないのでは・・。

 彼には、スターとしての視線より、
長時間、離陸を待つ一人の乗客としての、
素直な感性があった。
 だから、踏み出せた行動だと思った。
誰だって、いつだって、
そんなあり方を大切にしたい。


 ▼テレビ番組のジャンルでは、料理バラエティになるらしいが、
私のお気に入りに、NHKの『サラメシ』がある。
 何と言っても、毎回の中井貴一さんのナレーションがいい。

 つい23日(木)に放映された『社長メシ』が、
よかった。

 『日本経済の屋台骨を背負う…
さまざまな業界の社長さん達に密着し』、
主に、その昼食の様子を見せてもらった。

 伊藤忠、NTTドコモ、鹿島建設、マネックスグループ、
大和ハウス工業の社長、そしてNHK会長が登場した。

 それぞれが日本のトップを行く方々である。
その仕事ぶりとランチの一部を映像で切り取ったのだが、
私は興味津々、ついつい前のめりになりながら、
それを見た。

 特に、2人の社長の姿勢に強く心打たれた。

 1人は、鹿島建設の押味社長である。
彼は、現場を大切にする方だと言う。
 だから、条件があえば、よく現場に足を運んだ。

 この日も、東京日本橋にある地下3階地上26階の
ビル建設現場に出向いた。
 そこで、全作業員を集めての激励訓話。
その後、作業員一人一人に気さくに話しかけていた。

 現場視察後、昼食になる。
さすが、現場第一を掲げる社長である。
 この日は、ビル現場に特設されているランチスポットでの昼食だった。

 彼は、600円を握りしめ、そのカウンターに立った。
そして、注文した。
 その言葉が、この社長の人柄を現わしていた。
ジーンとした。
 「すみません。カレー、お願いします。」

 そこで働く作業員と、変わらない口調。
企業のトップとしての飾りも気負いもない。
 それよりも、現場の人々と同じ視線、同じ振る舞いなのだ。

 カレーを完食した後の彼は、
当然のように、その皿を返却場所に重ねた。
 そして、先をうながす同行者を静止し、
厨房のガラス窓を開けた。

 そこで働く調理人に軽く頭をさげて、
「どうも、ご馳走さまでした。ありがとうございます。」

 社長のその気さくさと心配りに、
「すごい!」としか言葉がなかった。

 『実るほど頭をたれる稲穂かな』
その意を見た。

 もう1人は、押味社長と同じ建設業界・大和ハウス工業の
大野社長だ。
 彼は、拠点を東京に置き、仕事をしているが、
月に2,3回は、本社のある大阪に足を運ぶ。

 番組では、その本社社長室での昼食の様子を、紹介していた。
メニューは、社員食堂のカレーにヨーグルト等が加わっていた。

 驚いたことに、彼は、大きな会議が可能な広い社長室で、
いつも1人のランチだと言う。
 その日も、1人で食べながら、インタビューに応じた。

 そして、1人ランチの訳を語った。
「ちょっと誘いづらくなっちゃって・・。」
「誰かを昼食に誘うと不公平になる。」からと。

 続いて、遠慮がちに真理をついた。
「そんなところで、つまらない人事の話が出る可能性も・・。」
 「公平公正に、人は見ていく。」
「大きな会社だから、派閥とかあってはいけない。」
 若干生々しい話ではあるが、
彼の1人ランチから、経営者の強い覚悟を見た思いだった。

 静まりかえっっているが、おもむきのある広い社長室で、
穏やかな表情のまま、社長は結んだ。
 「経営者は、孤独に耐えられないとダメ。」

 ここにもまた1人、私たちと同じ地を、
踏みながら進むすごい方がいた。

 あばれ馬にすくんでもいい。
それより、これさ!




 近所の畑に『ささげ』の花が咲いている 
 
コメント
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