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ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

現職の頃に書き記したこと

2025-01-25 11:00:16 | あの頃
 教職を去る時に、それまでに書き記したものをまとめた。
久しぶりにそのページをめくってみた。
 忘れかけていた大切なものを、揺り動かしてくれた。
その中から、3つを転記する。


     試行錯誤

 長年にわたり話題となっているテレビドラマの一つに、
『三年B組金八先生』があります。
 何度かそれがシリーズものとして繰り返されてきたので、
世代を越えてこのドラマをご覧になった方も少なくないように思います。

 確か数年前だったでしょうか、
もう50数歳になった姿の金八先生が放映されたようですが、
残念ながら私はそれを見る機会を逃してしまいました。

 しかし、もう20年以上も前になるでしょうか、
私はこのドラマのある場面を決して忘れることなく今もいます。

 それは、今で言う「学校の荒れ」を取り上げていたのですが、
非行グループが学校間抗争をくり返し、
その上、校内では暴力事件を頻繁に起こす。
 そのような状況の打開策を、
教職員と保護者が話し合うのですが、
「そんな非行グループは警察に任すしか方法はない」
と主張する保護者に対して、金八先生は異を唱えるのでした。

 果たしてその異が正しいのかどうか、
実際にそのような状況になったなら、
その判断はきわめて難しいところですが、
しかし彼が言った言葉は強く私を捉えました。

 それは、
「子供というのは大人と違うんです。
 だから毎日毎日いろいろと間違ったことをする。
間違った考えを持つ。
 それが子供なんです。
その間違いを私たち大人が、
それは間違いだと教えてやる。
 時にはそれを叱る。
それで子供はその間違いに気付くんです。
 それでも、また子供は間違うもんなんです。
そしたら、また大人が、それは間違いだと教えるのです。
 そうやって子供は少しずつ大人になっていくんです。
間違わなくなるんです。
 それを私たち大人が止めてしまったら、
子供はどうやって大人になるんですか。」

 確かにその通りだと、私は今も納得しています。
「これが正しい道だよ。
その道は間違っているよ。」
 そう教える時には、分かりやすく諭すような伝え方も、
場合によっては叱るような方法もあるでしょう。
 子供はそんな大人の教えを聞きながら、
毎日毎日、一人一人その子なりの試行錯誤をくり返し、
そして、その子らしい生き方を選択していくのだと思います。


     その子への理解を
                      
 ある研究会で講師をされた大先輩の校長先生が、
私にとってとても衝撃的な発言をしたことを書きます。

 それは、
「人は30年も40年もあるいはそれ以上長く生きてくると、
幼いときから今日までの間に、
どなたも1、2度は大きな失望や挫折感に支配され、
自らの命を断とうと思われたことがあるはずです。

 だけどそうしないで、今こうしているのは何故でしょうか。
それはきっとそんなことをしたら、
『間違いなくあの人だけは心から悲しむ、
もしかしたら、今の自分以上に落胆するに違いない。
 そうだ、そんな思いをさせてはいけない。』

 そう思ったからこそ立ち直り、
死を選ばず、今を生きているのではないでしょうか。
 つまり、生死は別として、
人は自分のことを心から理解してくれる存在があれば、
それを力にして、自らエネルギーを発揮し、生きていくのです。」
と言うのです。

 私は、体験的に大いに納得すると共に、
確かに人間は誰でも自分を理解してくれる存在を求めているし、
その存在があればこそ、自らのエネルギーをかきたてて、
毎日を生きていくのだと思います。

 子どもたちは、当然、性格や持ち味、能力、特性など
どの子として同じではありません。
 その一人一人を理解し、「よく理解している」ことを
その子に伝えながら触れ合うことは、難しい教育活動の一つです。
 しかし、『教育は児童理解に始まり、児童理解に終わる』の言葉通り、
それこそが自ら進んで学習に取り組む子供の姿を、
保障する基本になると思います。


   「ごめんなさい」が言える

 作・内田麟太郎さん、絵・降矢ななさんの
絵本「おれたち ともだち」シリーズから、
その第四巻『ごめんね ともだち』を紹介しようと思います。

 おかしな思いつきから、
キツネは「ともだちや」と言う商売を始めます。
 その商売が切っ掛けとなって、
なんとキツネはオオカミと大の仲良しになるのです。

 しかし、ある日、ダーツをやっても、けん玉をしても、トランプをしても、
オオカミはキツネにことごとく負けてしまいます。
 負けて悔しくてたまらないオオカミは、
「お前がズルしたからに違いない。インチキ。」
と、キツネの椅子を蹴飛ばし、
その上「インチキはこの家から出て行け。」
とどしゃ降りの雨の中、
傘も持たせずにキツネを追い出してしまいます。
 キツネはずぶぬれになりながら帰っていきます。

 それを見て、オオカミはすぐに家の中でしょげてしまいます。
オオカミはつぶやきます。
 「俺の言い過ぎだった。
あいつはインチキなんか絶対にしていない。」

 ですからオオカミは、次の日いつもの散歩道に出かけ、
キツネに会ったら「ごめんな」と謝るつもりでした。
 しかし、翌日、キツネには会えたものの、
いざとなると「ごめんな。キツネ。」とは言えませんでした。

 キツネの方も「オオカミさん」と声をかけたかったのですが、
ぷいとそっぽを向いてしまいます。

 オオカミとキツネに限らず、
誰にでも一度や二度このような経験があるのではないでしょうか。

 オオカミは、この絵本の冒頭でこう言っています。
「俺、オオカミ。俺の苦手な言葉、知ってるか。
ごねんね。ごめん。ごめんなさい。
 難しいんだ。
心の中なら簡単なのに、その簡単がなぜだか言えない。」

 このことは、オオカミだけでなく、キツネも同じでした。
あの時、散歩道でそっぽを向いたりしなければと、
オオカミに「ごめんね」と言いたくて、
でも、それが言い出せません。

 このお話では、なかなか「ごめんなさい」が言えない不甲斐なさから、
キツネが思わずこぼした涙で、小さなアリがぬれてしまいます。
 その時、キツネがとっさに、
アリに言った「ごめん」が切っ掛けとなり、
オオカミとキツネは、互いに「ごめんね」と言い合い、
そして以前よりももっと仲のよい二人になるのでした。

 さて、このお話をどう読み取りますか。
オオカミとキツネ同様、
私たちはつい自分の思いや言い分だけを考え、
トラブルになることがあります。
 そんな時、自分の至らなさや勝手さに気付いても、
このお話のように、なかなか「ごめんなさい」が言えないことがあります。

 私たちの歩む道には、
それこそ「ごめんなさい」と言い合わなければならない機会が、
たくさんあると思います。

 謝りたいのはオオカミだけではなっかたのです。
キツネも同じ気持ちだったのです。
 だとしたら、なかなか言えない「ごめんなさい」という言葉も、
簡単ではないにしろ、言えるのではないでしょうか。

  これからの時代は、ますますスピードが求められ、
人々の生活も忙しさを増し、
社会は複雑化に拍車がかかることでしょう。
 だからこそ、間違いを素直に謝ると言ったことが、
極めて大切になる時代だと私は思えてなりません。




      積雪0の 真 冬
                  ※ 次回のブログ更新予定は、2月8日(土)です
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3人の 悲報

2025-01-18 12:57:21 | 思い
 朝刊でいの一番に開くページは、お悔やみ欄である。
自治会の役員になってからは、
葬儀に参列したり、近隣の方へ訃報を伝えたりする。
そのために、必要な情報源なのだ。

 先日、そのお悔やみ欄に、
市内の方で50歳男性の氏名があった。
 喪主は、妻となっていた。

 知らない名前だったが、
その年齢の逝去に驚いた。
 まだまだ若い。
いったい何があったのだろう。
 きっとお子さんもまだ小さいのでは・・。
そんなことが脳裏を走った。

 それから数日後だ。
ある会合に、その方と一緒の職場だった人がいた。

 「前日まで、元気に仕事をして、
夕方、別れたんです。
 でも、翌朝、奥さんからの電話で、
亡くなったと知らせが入ったんですよ」
と言う。

 お子さんが3人いて、
一番下の子はまだ小さいと顔を曇らせた。

 いつもと変わらず就寝し、
翌朝、奥さんが起こすと、
すでに冷たくなっていたそうだ。

 どれだけ同情しても仕切れない。
どれほど無念だったことだろうか。
 ただただ切なくなった。

 さて、私にはこの1年もたたない間に、
親しくしてもらった友人らの悲報が3つも届いた。
 冷静に思い出を綴ることはなかなか難しい。
でも、その努力をしたい。


 ◆ 彼は、初めて校長として着任した小学校の、
PTA会長だった。
 下町の小さな建築会社の社長さんで、
いつも忙しく動き回って仕事をしていた。

 だから、4月1日に校長として彼と挨拶を交わした時も、
所々に汚れがしみ込んだ作業着姿だった。

 「Bチャン、今日くらいはネクタイ締めて、
初めての校長先生に挨拶しなければ」
 ネクタイにスーツの副会長さんが
あきれ顔でそう言った。

 でも、彼は笑顔だった。
「そうしようと思ったけどサ、時間が足りなくて。
校長先生すみません。こんな格好で」
 私は、肩肘をはらないそんな下町気質が、
いっぺんに好きになった。

 だからその日、校長室で2人きりになった折りに、
「会長さん、お互いに遠慮なく、
本音でお話ができればいいなあと思います」
と言った。

 彼は、即答した。
「いいんですか。一番望んでいたことです。
 よかった!」

 以来、2人の距離が急激に縮まった。
PTAの会議が終わると、
彼が声をかけ、役員さん達と一緒によく居酒屋の暖簾をくぐった。
 若干お酒の力もかりながら、本音での付き合いが始まった。

 その後、異動で他の小学校に行ってからも、
彼ら役員さんとよくお酒を飲んだ。
 やがて、年1回の旅行が恒例行事になった。

 旅行では、彼はいつも私の横にいた。
10歳離れた弟のように、遠慮なく接した。
 出会ったときの言葉通り、付き合い続けた。

 その彼が、脳腫瘍に見舞われた。
手術のできる箇所ではなかった。
 腫瘍は徐々に進行した。

 入院し療養生活を送っていることを知らなかった。
突然、逝去のメールが飛び込んだ。
 「えっ、そんな!」と返信するのがやっとだった。
  
 ある時、彼に仕事を頼む関連業者さんが私に言った。
「この社長は、いい加減な仕事は決してしないんです。
いつも頼まれた以上にしっかりと仕上げてくれます。
 だから、安心して依頼できるんです」

 私は肉親が褒められたような気分になった。
「立派だね。そんな風に仕事を褒めてもらえる人って
めったにいないと思うよ。私まで嬉しくなった!」
 その時の少しテレた彼の顔を思い出した。
涙があふれた。

  
 ◆ 私より6歳上の先輩だった。
近づきになれたのは、初めて教頭になり赴任した小学校の、
彼は前教頭だったから。
 新任教頭で、事務手続きなど分からないことだらけだった。
遠慮なくよく電話をし、教えてもらった。
 生真面目だった彼は、いつも丁寧に応じてくれた。
心強かった。

 彼がゴルフを始めた頃、私もクラブを振るようになった。
やがて、年齢差を気にせず一緒にラウンドする機会がふえた。
 一時は、ライバルと互いに認め合った。
しかし、ゴルフへの熱意が違った。
 彼はドンドン上達し、1ランクも2ランクも上を行くようになった。

 年に数回、同じメンバーでのゴルフコンペがあった。
そこで、彼と顔を合わせた。
 先輩であることを気にせず、
コンペでも親しくさせてもらった。

 伊達に移り住んだ翌年の夏、
奥様と一緒に、我が家を訪ねてくれた。

 そこで児童文化研究会の大先輩が、
奥様の小学生時代の担任であることがわかった。
 早速、大先輩の連絡先を教えて上げた。

 奥様は、東京に戻るとすぐ、
小学校の懐かしい担任に電話をした。
 そして、60年ぶりの再会を果たした。

 彼との縁は、それに限らない。
私が所用で東京へ行った時には、
都心の賑わいの中で、
「あれ塚原さん!」と呼び止める声がした。
 思わず声の方を見ると、
あの生真面目な顔だったことも・・。

 その彼が癌にやられた。
闘病生活を送りながら、
退職校長会の仕事だけは最期までやり通した。

 死期が迫っていることも知らず、
私は会誌への原稿提出が遅れ、彼をやきもきさせた。
 届いた原稿を奥さんに託し、その数日後に彼は逝った。
やっぱり生真面目な彼のままだった。 
 
 
 ◆ 今年になってからだ。
伊達に来てからは、年賀状交換だけになったが、
毎年元日には、彼からの年賀状が届いた。
 なのに今年は来なかった。

 今年の私のように体調を崩し、
発送が遅れたものと、さほど気に止めなかった。

 ところが、数日前だ。
奥様の名で葉書が届いた。
そこには『夫I・Tは 昨年12月15日逝去しました』とあった。
 寝耳に水のごとくであった。

 教頭時代から15年に渡り、
彼を含めた4人で、月1ゴルフをしていた。
 教頭4人の共通の趣味であったが、
毎月そろってラウンドするのは、難しいことだった。

 それぞれの家族の理解と協力があって、
続けることができた。

 4人は、偶然だが私を先頭に1歳違いだった。
そして、校長昇進も偶然1年違いで、年齢順だった。

 しかし、ゴルフの腕前は、彼が遙かに上で年齢順でなかった。
どんなスポーツも同じだろうが、
体力や技術の他に、メンタルが勝敗を左右する。

 彼のゴルフは、いつも強気だった。
どんな場面でも、自信をもってクラブを振った。
 いつも不安げにプレーする私とは大違い。
彼の強気は、多くの場合いい結果につながった。
 それに比べ私の結果は、期待外れの連続。
いつも彼のメンタルに一目置いた。

 3年前に、癌が見つかった。
医師からは、「余命1年」と言われたらしい。

 その時から、大好きなゴルフは止めた。
もしかするとできなくなったのかも。
 昨年の年賀状には、
「ゴルフはしてません」とだけ記されていた。
 体調のことなど一切記述はなかった。
だから、闘病生活など想いもしてない。
 そこへの悲報だ。

 きっとゴルフと同じ。
「余命1年」の宣告に、彼は強気で立ち向かったに違いない。
 辛い日々をひと言も私たちに告げず、
強いメンタルで、1年の命を3年に延ばしてみせた。 
 「凄い!」


 

      やっと 畑も 銀世界
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晴れたり曇ったり その12 <3話>

2025-01-11 12:34:21 | 北の湘南・伊達
  ① コロナと診断されたのは、クリスマスの日だった。
2日間は、薬がきれると高熱になった。
 発症から3日後、家内も感染し同じ症状で苦しんだ。
まさに『とんだ年の瀬』だった。

 実は、発症した時はまだ年賀状が出来ていなかった。
例年より遅れていたが、
クリスマス後に急ピッチでと考えていたが、予定が狂った。

 でも、咳をし喉と頭の痛さに耐えながら、
年賀状に載せる詩を書き上げた。

      到  来
 
  私の盛夏はいつまでだったろう
  50メートル走で6年生に負けた
  バドミントンで息子にかなわなくなった
  でも 今とは時代が違い
  深夜までテストの採点をしていた

  秋を感じたのはいつ頃だろう
  文庫本に老眼鏡が必需品になった
  ゆっくり煎れたお茶は美味しいと知った
  家族がそろう日を心待ちした

  そして今 晩秋を迎えて
  お隣さんより雪かきに時間がかかること
  気づくと散歩の歩調の遅いこと
  でも この時季がきて
  やっと自分探しの旅がエッセイ集に

 その後、家内は解熱の頓服を飲みながら、
その詩を手書きし、年賀状に仕上げてくれた。
 パソコンでプリントし、宛名印刷を終え、
何とか31日の朝には投函できた。

 コロナに邪魔されながらも、
年内に年賀状だけはと、二人とも頑張った。
 詩を添えた年賀状は、もう50年も続けて来たこと。
何とか続けられたことに、こんなに安堵したことはなかった。


 ② 大晦日の午前中に、姉から例年通り、
勤め先の旅館が予約販売している『高級おせち』が届いた。
 言うまでもないが、姉からのプレゼントだ。

 しかし、3年前から続いている兄と3人での、
そのおせちを囲んだ元旦の宴席は、取りやめになってしまった。

 お酒を飲む元気も、初詣に行く体力も戻らないまま、
それでも幸いなことに、
『高級おせち』だけは正月気分を演出してくれ、
正月三が日を送ることができた。

 そのコロナからの回復状況であるが、
今も「完治!」とは言えないでいる。
 当初は、一般的な風邪と同じで、
発熱に咳、喉の痛み、頭痛、気だるさが主な症状であった。
 
 だが、高熱は3日ほどだったものの、その後も時折悪寒をくり返した。
1週間前から、やっと朝の検温が平熱で安定した。
 しかし、咳は、病院からの薬を全て飲みきっても治まらず、
今も突然咳き込むことがある。
 咳と同時に喉に刺すような痛みが走る。

 頭痛は薄れたが、スッキリとした感じがなく、
気分が晴れない。
 倦怠感までではないが、
こんなのを「体調が優れない」というのだろう。

 発症から半月が過ぎた。
徐々に良くなってはいる。
 でも、こんなに長期化するとは・・・。
これが「コロナ」なのかと痛感させられている。

 誰に言う訳でもないが、
「もうそろそろ、いい加減にしてほしい!」のが本音だ。



 ③ 今年も沢山の方から年賀状を頂いた。
年に1回、年賀状交換だけの方もいるが、
それでも、年賀状から伝わってくるものに想いを馳せ、
1枚1枚についつい時間をかけ、見入ってしまった。

 気になったことが2つあった。
1つ目は、『年賀状じまい』である。
 年々、この手の一筆が増えてきた。
その度に寂しい想いをしながら、
年賀状の宛名名簿からその方の氏名を削除している。

 今年はその数がさらに増えた。
しかも、年齢層がバラバラだ。

 以前は、
「高齢のため、今年をもって・・」が大半だった。
 ところが、今年のそれは3、40代の方からも、
「今年をもちまして、失礼致します」と。

 今年頂いた年賀状の最高齢は、
児童文化研究会の大先輩、96歳になるY先生から。
 その年賀状には、
『今年を最後に賀状止めますと言わぬが花の老気質』
とあった。
 
 どれだけ勇気づけられたことか。
私も大先輩同様の老気質で、いつまでも貫こうと決めた。

 2つ目は、年賀状に添えられた同世代からの近況報告である。
『ボケ防止のため』のフレーズが、多くなったこと。
 後期高齢者になり、一番気になることがそれなのだと気づいた。
でも、やけに寂しさを感じる。

 確かに、1年1年体力は衰えている。
自分の体に自信が持てなくなっている。
 気づかないうちに、認知症の兆しが押し寄せているのかも・・・。

 11月下旬から風邪が完治せず、
追い打ちをかけるようにコロナにも感染した。
 事実、高齢者を今思い知らせているところだ。

 でも、カラ元気でもいい。
「『ボケ防止』なんて、まだ先の先!」と思いたい。
 それより、「まだ鍛えれば、できることはいっぱいある」
と、今年もチャレンジャーでいたい。
 そう! 前を見て、新しい私を追いかけたい。


 

     まさか 早春では! 
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とんだ 年の瀬

2024-12-28 13:30:14 | コロナ禍
 火曜日のことだ。
2か月毎に通院している眼科医院は、
いつものごとく会計までに2時間を要した。

 これまた、いつものことだが苦情も言えず、
イライラしたまま帰宅した。
 もう夕暮れが近づいていた。

 まだ、風邪が完治してないらしく疲れがあった。
夕食を済ませると、すぐにベッドに潜り込んだ。

 それから、30分が経っただろうか。
寒くて目覚めた。
 初めて経験するような、
凍えるような寒さで全身がガタガタガタガタと震えていた。

 横になったまま震え続け、
ベッドから起き上がっても、ガタガタが止まらなかった。
 体温計を脇に挟んだ。
いつもより終了音が遅く感じた。
 案の定、39.2度だ。
もしものために、時刻と体温をメモした。

 電気あんかを布団に入れ、羽毛布団の下に毛布を追加した。
足を丸め、あんかを抱えながら寝た。
 しばらくして、震えは止まった。

 その後は、頭と喉の痛みそれに咳が続き、眠れない時間が続いた。
3時過ぎだ。
 風邪で熱が出た場合にと処方してもらった頓服が、
そのまま残っていることに気づいた。
 「これだ!」とばかり、飲んだ。

 見事に効いた。
痛みが落ち着き始めた。
 同時に、眠った。

 朝方、パジャマがグッショリになっているのに気づいて目覚めた。
熱は38度になっていた。

 着替えると再び眠った。
またグッショリのパジャマで目覚め。
 熱は37.3度に。

 朝早く、家内がかかりつけ医の開始を待って受付へ。
その後、電話で容体を伝える。
 「いつでも来れる時に来て下さい」
と言う。

 1時間後、気合いを入れ、車を運転し病院へ。
受付を通り、患者で溢れる待合室に座る。
 すぐに看護師が来て、隔離用の部室へ行く。
「インフルエンザとコロナの検査をしますね」と、
なんとも対応の早いこと。

 それから、30分もかからず、医師が来た。
「ツカハラさん、コロナです」
 持ってきた検査キットを私に渡し、
「家では、家族と別の部室で過ごしてください。
お薬をだしますから、
あそこの指定した椅子に座って、待っていてください」

 その椅子に座るとすぐ会計に呼ばれた。
処方箋を貰い、近くの薬局へ。
 過去2回は、3時間もかかったが、
今回は1時間にも満たないで帰宅。

 だが、初めてのコロナだ。
今後に不安が膨らんだ。
 高熱、頭痛、喉の痛み、激しい咳が続いたが、
薬と私自身の回復力を信じた。

 2日間がすぎ、平熱で安定し始めた朝、
今度は、家内が同じ症状になった。
 マスクをし、家庭内隔離で過ごしたが、
感染した。

 同じかかりつけ医は、
「ご主人と同じ、コロナです。
お大事になさってください」。

 年の瀬にしたいことが残っていた。
でも、完治まで私は3日はかかるだろう。
 家内は、きっと新年を迎えるまでは・・・。

 年越しそばも、元旦のお雑煮もお預けかな。
とんだことになってしまった。
 情けない!




    久しぶりの快晴 ~元気になれそう~
                       ※次回のブログ更新予定は、1月11日(土)です
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11 月  東 京 滞 在 記

2024-12-21 19:38:26 | 出会い
 先週、体調がやっと回復に向かった。
ところが、自治会に大きな課題があり、
関係する役員29人に声をかけ、会議を開催した。
 まだ、完治していなかったが、
会長が欠席する訳にはいかなかった。

 会議は、2時間半に及んだ。
疲れた。

 そして翌日には、別件で市役所に出向き、
住民からの要望を伝え、行ったり来たり。
 忙しく動き回った。

 すっかり体力を消耗した。
案の定、夕食もそこそこに床についた。
 次の日は、終日横になり、眠り続けた。

 でも、まだ会長として求められた案件がある。 
キャンセルすれば、その分予定が詰まるだけ、
無理をして、頑張るしかない。

 こんな時こそ、楽しかったことを思い出し、
エネルギーにすることだ。
 『DIARY 24年10月・11月』でも記したが、11月に8日間も東京へ行った。
その日々を振り返ることに・・・。


  ① 周年式典・祝賀会に出席

 9月に地元小学校の150周年記念式典があった。
学校運営協議会委員として、参列した。
 150年と言う大きな節目だが、
歴代校長は、3代前までしか式典に呼ばれなかった。

 ところが、嬉しいことに、
私が退職した小学校からは、存命歴代校長全員に
90周年式典の案内状が届いた。

 なので、11月の90周年式典には、
私を含め5名の元気な歴代校長が出席した。

 懐かしい先生や保護者、地域の方々などと挨拶を交わし、
学校の現況を知るだけでも嬉しいのに、
こんなことがあった。

 校庭改修や校舎増築などがあり、
今までとは受付場所が変わり、若干戸惑っていた私に、
同じタイミングで受付を済ませた女性が、声をかけて来た。

 「わざわざ北海道からですか?」
顔に見覚えがあったが、すぐには思い出せなかった。
 「えぇ・・、昨日、飛行機で・・」

 女性はすぐに察してくれた。
「S町会のDです」
 残念だが、まだ思いだせなかった。

 それでも、その場を切り抜けようと、
「ああ、Dさんでしたね。ご無沙汰しています」
 軽く会釈した。

 「先生、全然変わりませんね。
お元気そうで、安心しました」
 その口調と表情から次第にDさんを思い出した。
「私ですか。いや、年とりました」
 ホッとした表情で、そう応じた矢先だった。

 「私、ずっと先生のファンでした。
あら、ごめんなさい。今もそうです。
ファンです」。

 「私のファン・・!」
突然のことで、対応できなかった。
 「毎月届く学校だよりを読んで、いつも・・」

 そこまで言うと女性は一礼し、
足早に、式場へ向かっていった。
 
 思いがけない贈り物だった。
幸せな気持ちが、式典と祝賀会を終えても残っていた。


  ② 日本一富士山に近いゴルフ場

 ゴルフを覚えてまもなく、
同世代の教頭4人で、毎月1回のゴルフ会を始めた。
 それは、私が伊達に移住するまで続いた。 

 その中の1人が、5年前に生まれ故郷の富士市に戻った。
そして、3年前になるだろうか。
 両親が残した実家をリニューアルし、古民家カフェを始めた。

 「いつかは、訪問するね」と約束しながら、
コロナ禍でもあり、足が遠のいていた。

 そして、今回やっと、東京から新幹線・こだまで新富士駅に下車。
出迎えた彼の車で、古民家カフェ『F倶楽部』へ。
 ご夫妻で用意する1日1組限定のランチをいただいた。

 夕食までは、これまた彼の車で富士市内観光。
田子の浦の工場群や茶畑を見て回った。
 至るところから富士山が見えていいはずなのに、この日は「残念!」。
空は、分厚い雲に覆われていた。

 さて、市内のホテルに泊まった翌日だが、
彼と家内、私の3人でゴルフを計画していた。
 予約してもらったゴルフ場は、
『日本一富士山に近い』が売りだった。

 早朝、ホテルのカーテンを開くと、
道を挟んだビルの上に、
大きな富士山の頂上が赤く朝日に染まっていた。
 思わず「おぉ-!」と声をあげた。
「こんな富士山を見ながらゴルフか!」
 ワクワクした。

 ところが、彼が運転する車でゴルフ場に向かうと、
富士山は、次第に雲に覆われ始めた。

 「晴れてると、ここからも富士山がよく見えるんだ」
彼は、そんなことを度々言った。
 
 約1時間のドライブで、クラブハウスに到着。
下車してすぐに、「見て見て!」。
 彼の声に促された。
上空の雲間に、巨大な富士山がそびえていた。

 富士山は、すそ野を広げた雄大な美しさに、
思わず「綺麗!」と声が出るのが常だ。
 ところが、このときは「すげぇー!」と、
私は歓声を上げていた。

 間近にせまる富士は、ゴツゴツと猛々しい山肌で、
しかも、険しい勾配でそびえ立っていた。

 ラウンド中も、雲に邪魔されたが、
時折雲間からの姿は、まさに荒々しい富士だった。

 日本一富士山に近いゴルフ場から垣間見た富士には、
穏やかな神々しさとは無縁だった。
 それよりも想像を越え、
私を力づけても、まだ有り余る力強さであった。

 帰り際、もう一度振り返り、富士を見上げた。
やっぱり再び「すげぇ-」と言っていた。

 
  

     雪道 烏が食べ残した柿      
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