精神世界と心理学・読書の旅

精神世界と心理学を中心とした読書ノート

心を生みだす脳のシステム:再考④

2015-04-07 15:36:49 | 科学と精神世界の接点
◆『心を生みだす脳のシステム―「私」というミステリー (NHKブックス)』より

《まとめ》
クオリア問題は、意識や心を問題にするうえで本質的であるが、では意識の問題は、クオリアの問題に尽きるのか。

例えば「自己意識」の問題は? 世界の中に「私」という視点があり、私が私であると感じられ、私が、他の誰でもない、まさにこの「私」であることの不思議さは、クオリアとどのようにかかわるのか。

クオリアは、客観的に存在する物質のように、それ自体としてあるのではなく、必ず「私が○○のクオリアを感じる」という形で表象される。「赤のクオリア」が単独に存在するのではなく、「私が赤のクオリアを感じる」というように、「私」という視点と対になって成立する。

つまり、クオリアが、脳の中のニューロン活動からどのようにして生まれるかを説明する理論は、必ず「私が○○を感じる」という自己の成立の構造をも説明する理論でなくてはならない。このように考えることは、脳をシステムとして考察する方向につながる。実際、脳のシステム論とは、脳の中で進行している様々な感覚情報、運動情報の処理のプロセスがいかにして「私」という形で統合されるか、という問題だとも言える。(43~45)

◆痛みと主観性
ここで私は、「自己意識」、「私」意識の問題と、主観性の問題とを区別して論じる必要があると思う。例えば痛みとは主観的なものである。ある主観がそれを感じた限りで「痛み」となる。生理的な痛みにつながるニューロンのどのような活動を解明したからと言って、感じる主観がなければ痛みはない。失恋を失恋と感じる主観がなければ、「失恋の痛み」もないのと同じである。ただし失恋の痛みの場合は、失恋した私という「自己意識」が伴う。

逆に言えば、肉体の「痛み」は、失恋と違い「自己意識」を伴う必要はない。私たちは、犬や猫も「痛み」を感じていることが分かる。しかし「痛み」は、必ず「誰か」(人)や、「何か」(生物)にとっての「痛み」であり、それを感じる主観性がなけれは、そもそも「痛み」は成立しない。痛みも、主観に感じとられるクオリアなのだが、必ずしも「自己意識」を伴う必要はないのである。

だから、「クオリアが、脳の中のニューロン活動からどのようにして生まれるかを説明する理論」は、「自己の成立の構造をも説明する理論」である以前に主観性の成立構造を説明する理論でなければならない。

「痛み」は、いかにしてニューロン相互の物理・化学的過程であることを超えて「主観」に感じ取られる「痛み」になるのか。

そして「痛み」その他いっさいのクオリアを感じる中心としての「主観」は、客観的な過程のなかにそもそも位置づけることが出来るのか。それが問われるべき大前提なのである。


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