精神世界と心理学・読書の旅

精神世界と心理学を中心とした読書ノート

脳内現象:批判的考察②

2015-04-07 17:05:55 | 科学と精神世界の接点
◆『脳内現象 (NHKブックス)』茂木健一郎(2004年)

★脳内の小さな神の視点:『脳内現象』茂木健一郎3
《まとめ》主観的な空間体験は、大脳皮質の視覚野を中心とする神経細胞によってつくり出されている。そのような神経細胞の活動を「見渡す」ことができる形で、〈私〉という脳内現象が立ち上がることこそが驚異なのだ。

〈私〉が、意識の中で様々なクオリアを感じるということは、すなわち、自分の脳内の神経活動を〈私〉が見渡し、観察しているということだ。〈私〉がバラのクオリアを感じるためには、1000億の細胞がそれぞれ一万通りの組み合わせで結びあう、その無限ともいえる数の活動を「何か」が一瞬にして見渡せなければならない。

〈私〉は、神経細胞の活動を自ら見渡す「小さな神の視点」として成立しているのだ。それを一体「誰が」、「どのような主体が」見渡すのか。この「小さな神の視点」がどのように成立するのかは、とつもない難問題であり、もちろん現時点では未解明である。

★乗り越えは可能か
ここに〈私〉という体験主体の不思議さが根源的な形で語られている。神経細胞の活動を自ら見渡す「小さな神の視点」を特定の神経細胞やそれらのネットワークに還元して説明することはできない。茂木は、少なくとも今のところはできていないと考えている。

しかし、「小さな神の視点」と脳の無数の神経細胞の活動との間には、乗り越え不可能な原理的な違い、次元の違いがあるのではないか。その原理的な差異を明確にすることこそが、まず第一に求められることだ。

茂木のように、〈私〉を脳内の神経細胞の活動とその関係によって説明しようとする野心を持ち続けるにしても、茂木のいう「驚異」がどのような差異に基づいてのことなのか、それを明らかにすることは非常に大切なことである。それを明らかにすることで問題の本質が見えてくるからだ。

『脳内現象』では、次の第2章を「ホムンクルスを取り戻せ」とし、〈私〉の視点の大切さをさらに強調している。それを見ながら、私も考えていきたい。

★脳の中の小人、ホムンクルスの復権
《まとめ》〈私〉があるクオリアを感じている時、そこで起こっていることは、〈私〉と仮に名づける何らかのプロセスが、そのクオリアを生み出す神経細胞の活動の関係性を見渡している、ということである。クオリアを感じる主体的体験のありようを素直に脳にあてはめれば、脳の各領域を観察するホムンクルスを想定することは、自然な発想である。実際に私たちは、ホムンクルスがいるかのごとき意識の体験をしていることは否定できない。

もちろん、今日、脳のどこにもホムンクルスが隠れていると信じるものはいない。脳の中に特別な領域があって、そこが他の領域の活動をモニターしているわけではない。では、どのようにして、様々なクオリアを同時並列的に感じている〈私〉という意識が生まれるか。ホムンクルスがいるかのごとき意識体験は、いかに生じるのか。(54・55)

意識を生み出すのは、脳内の神経細胞の関係性意外にありえない。1000億の神経細胞の相互関係から、あたかもホムンクルスが「小さな神の視点」をもって脳内を見渡しているかのような意識が生み出される、そのメカニズムを解き明かすことが、脳のシステム論の究極の目的である。(67)

★差異の認識
以上からも分かるように、茂木はあくまでも神経細胞の相互作用から〈私〉という意識が生み出されるメカニズムを解き明かすという野心を捨てていない。

しかし、神経細胞の関係性は、いくら精緻に関係性のネットワークを解明したにせよ、所詮はニューロン相互の物質的な過程にすぎない。そこから〈私〉の主体的な体験を説明するには、どこかで原理的な飛躍をする必要がある。

モニターのメカニズムをいくら解明したところで、それを見ているホムンクルスの「見る」という体験を説明したことにはならない。モニターのメカニズムと、モニターを「見る」行為との間には、その説明原理に根本的な差異がある。その違いをまずは認識してこそ、その溝を乗り越えるための、あるいは乗り越えないで他の方法をまさぐるための、本当に意味のある努力がはじまるはずだ。


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