シューマンのピアノ協奏曲はこれまで事ある毎に聴いてきたが、たまたまYou Tubeで見付けた演奏に繰り返し見入ってしまう。
アントニオ・ディ・クリストファーノというピアニストが弾いているこの曲の冒頭には、何かとても心惹かれるものがある。ずば抜けて良好とは言えない、くぐもった録音状態にも因るのだろうが、とりわけ仄暗い雰囲気を纏った36秒から1分までは、聴いていて胸(背筋)がゾクゾクする。揺れるようなテンポ感がまた絶妙で、至極僕の好みだ。恐らく、このくぐもり加減が功を奏しているのだろう。
演奏者のクリストファーノというピアニストについて調べてみたが、チェンバロも弾くようで、また様々なピアノ・コンペティションにも審査員として招待されているそうだ。ホームページもある。
話を戻すと、上記のフレーズにおいてはシューマンの、何か足掻いているような呻いているような、もしくは、掻き分けても掻き分けても立ち煙る霧の中で顔を強張らせているような、それでいて美彩を放つ『何か』に見惚れているシューマンの、そんなイメージが浮かぶ。これが第1楽章中間辺りの再現部においてどう演奏されるかで、冒頭の同旋律の意味合いが深まり、この曲の核を成すか成さないかが決まるのかもしれない。個人的には、それだけ変幻的な要素の濃いフレーズだと思われて仕方がない。
You Tubeでの映像は5分強で切られてしまっているので、ステファーノが再現部でどのような味付けをしているのか確かめたかったものである。
これを機に手持ちのあらゆるCDを聴き直してみたが、この箇所でこれ程までに惹き付けられる演奏はないに等しい。唯一感覚的に近いのが、杉谷昭子のアルバム。
豊かな感受性に裏打ちされた明晰な音と、たっぷりと謳わせるフレーズ感覚が溢れ出ている名演である。共演のベルリン交響楽団も堂々たる風格があり、好感が持てる。
尚、このCDにはクララ・シューマンのピアノ協奏曲(夫の作品と同じイ短調)が併録されている。
アントニオ・ディ・クリストファーノというピアニストが弾いているこの曲の冒頭には、何かとても心惹かれるものがある。ずば抜けて良好とは言えない、くぐもった録音状態にも因るのだろうが、とりわけ仄暗い雰囲気を纏った36秒から1分までは、聴いていて胸(背筋)がゾクゾクする。揺れるようなテンポ感がまた絶妙で、至極僕の好みだ。恐らく、このくぐもり加減が功を奏しているのだろう。
演奏者のクリストファーノというピアニストについて調べてみたが、チェンバロも弾くようで、また様々なピアノ・コンペティションにも審査員として招待されているそうだ。ホームページもある。
話を戻すと、上記のフレーズにおいてはシューマンの、何か足掻いているような呻いているような、もしくは、掻き分けても掻き分けても立ち煙る霧の中で顔を強張らせているような、それでいて美彩を放つ『何か』に見惚れているシューマンの、そんなイメージが浮かぶ。これが第1楽章中間辺りの再現部においてどう演奏されるかで、冒頭の同旋律の意味合いが深まり、この曲の核を成すか成さないかが決まるのかもしれない。個人的には、それだけ変幻的な要素の濃いフレーズだと思われて仕方がない。
You Tubeでの映像は5分強で切られてしまっているので、ステファーノが再現部でどのような味付けをしているのか確かめたかったものである。
これを機に手持ちのあらゆるCDを聴き直してみたが、この箇所でこれ程までに惹き付けられる演奏はないに等しい。唯一感覚的に近いのが、杉谷昭子のアルバム。
豊かな感受性に裏打ちされた明晰な音と、たっぷりと謳わせるフレーズ感覚が溢れ出ている名演である。共演のベルリン交響楽団も堂々たる風格があり、好感が持てる。
尚、このCDにはクララ・シューマンのピアノ協奏曲(夫の作品と同じイ短調)が併録されている。
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