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旧東海道ランニング「東海道走膝痛シ」・・・鳴海~宮・その3(船が出るぞ)

2014年10月06日 | 東海道走膝痛シ(旧東海道ランニング)
宮・七里の渡し

(つづきの始まり)

 

由緒ある、結びと縁の寺、笠覆寺(通称は笠寺観音)と玉照姫の御堂である。
その寺の紋がなかなかのデザインで面白い。



ウィキペディアによると、
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寺伝によれば、天平5年(733年、一部の文書には天平8年-736年)、僧・善光(または禅光)が浜辺に打ち上げられた流木を以て十一面観音像を彫り、現在の南区粕畠町にその像を祀る天林山小松寺を建立したのが始まりであるという。

その後1世紀以上を経て堂宇は朽ち、観音像は雨露にさらされるがままになっていた。ある時、旅の途中で通りかかった藤原兼平(藤原基経の子、875年-935年)が、雨の日にこの観音像を笠で覆った娘を見初め、都へ連れ帰り玉照姫と名付け妻とした。この縁で兼平と姫により現在の場所に観音像を祀る寺が建立され、笠で覆う寺、即ち笠覆寺と名付けられたという。
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この笠覆寺のちかくに笠覆寺十二坊のひとつ東光院があり、かつて宮本武蔵が巌流島の決闘から10年以上が過ぎたころ、住んでいた宿坊である。

笠が武蔵の幼馴染であり、恋人の「お通さん」の旅姿を思い出す。
実在の人物ではないが、俺の心にジンと浸みる女性だ。
なぜなら初めて、買った漫画の本が宮本武蔵だったからである。
小学校にあがる前だったが、面白くて何度も何度も読み返し、書かれた漢字(ふりがな付)も全て覚えてしまった。
その後、小学生で吉川英治の宮本武蔵を何度も読んだ。
武蔵で漢字は相当覚えた。




(武蔵の役は色々なスターがやっているが、おれは荒々しく骨太な高橋幸治がピッタリだったと思う。)



走っていたら珍しい地名をも付けた。
俗に言われている説はこうである。

呼続という地名は、熱田・宮宿からの渡し船(七里の渡し)が出航する際、「船が出るぞ」と人から人へ呼び継いだことから名付けられたといわれる。

だが、宮宿からここまでは数キロあり、いくらなんでも呼び継ぎすぎる。
そんなに長く呼びついで何の意味があるというのだ。

そこで、調べてみたら、目からウロコの地名由来というブログに以下のように書いてあった。
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「よびつぎ」は「よび・つぎ」で、よぼよぼ(よびよび)の傾斜地と平地とのつぎ目(継ぎ目)を表す地形地名で、現地はかつて「呼続浜」と呼ばれた海岸で、丘陵状の土地が平地に落ちる所につけられた地名だ。      佐賀県唐津市呼子(よぶこ)も「よぶ・こ(処)」で海岸に落ちていく傾斜地をそう呼んだのだ。       「よび」「ゆび」「ゆぶ」「よぼ」等の言葉を地名にした所は、傾斜地の他に川べり等にも多い。
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どうも、此方の方が真実味があるように思われる。

ただ、よぼよぼの傾斜地というのが今一よくわからない。
よぼよぼというのは、弱弱しいという意味だから、イメージとして凸凹したゆるい傾斜地のことだろうか?
このあたりは笠寺台地とよばれ、走った感じもそんな感じの地形だったように思う。
 

重要文化財の富部神社


旧東海道と鎌倉街道の交差点にある標と鎌倉街道


山崎川


裁断橋(大口町)

大口町のHPより
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擬宝珠に刻まれた金助の母の銘文は、日本女性三名文の一つにあげられます。
本来、裁断橋は名古屋の熱田にあった精進川にかかる橋でしたが、現在は橋はおろか精進川自体も埋め立てられ、現状は記念碑が建っています。
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その名文とは以下である。
参照:愛知エースネット

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天正十八年二月十八日に
 小田原への御陣
 堀尾金助と申す
 十八になりたる子をたたせてよ
 又二目とも見ざる
 悲しみのあまりに
 いまこの橋を架けるなり
 母の身には落涙ともなり
 即身成仏し給え
 逸岩世俊(堀尾金助の戒名)と後の世のまた後まで
 この書き付けを見る人は
 念仏申し給えや
 三十三年の供養なり

豊臣秀吉は小田原の北条氏を倒して天下統一を果たすが,この征伐に丹羽郡の18歳の青年,堀尾金助が加わっていた。出陣の日,東海道筋の裁断橋(名前の由来の一つの説として,この場所で事を決定したり,罪に対する裁きを下したりしたことが言われている)で母親に見送られたが,陣中で病になり,命を落とした。金助の死を伝え聞いた母親は,出陣を見送った老朽化していた裁断橋の修築を思い立つ。修築が諸人の助けとなり,今は亡き息子の供養になると信じたのである。そして,擬宝珠(らんかんの柱の頭につけるねぎの花のような形の飾り)に以下の銘文を刻んだ。
--------------」



その時は案内文をみて「ふん、ふん」と軽く理解した程度で通り過ぎたけれども、いまこうして再度読み返すと、母親の深い思いが「ジン、ジン」と感じられた。

なお、ついでであるが、他の日本女性三名文とは、息子を宋へ送る悲哀を述べた「成尋阿闍利母集」(じょうじんあじゃりははのしゅう)・鎖国の悲劇「ジャガタラお春の消息文」である。


幹線道路で東海道は分断されており、歩道橋を渡る。
その歩道橋から何やら大きな家の周りを人がぐるりと並んでいた。

何だろう?

なんと、鰻屋であった。
元祖ひつまぶしで有名なあつた蓬莱軒本店である。
並んで食べるにしても、この様子からして、食事にありつけるまで相当時間がかかるだろう。
「ひつまぶし」はこの店の登録商標らしい。
食べたいけど、食べれない。

時間があるときに、ジックリ味わいたいものである。

そして、ついに宮宿の七里の渡しに到着した。



ここから、旧東海道は桑名まで海上を船で渡ることになる。
だからランニングコースとしては途切れてしまうのだ。
トライスロンなら、ここから泳いで桑名までいくのだろうが、調べたけど泳いで渡った人はいないようだった。
七里だから約28km弱である。

津軽海峡を遠泳した人の距離がウィキペディアの「遠泳」に書いてあり、それが27kmだから、とてつもない距離である。
ウルトラスイミングである。

とにかく、通常なら次は桑名からスタートするのだろうが、俺は陸路を走って桑名まで行くことにした。
ここから、Uターンして佐屋街道という街道を走った。

ウィキペディアより佐屋街道
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佐屋街道(さやかいどう)は、江戸時代に東海道の七里の渡しの迂回路として開設・利用された脇往還で、佐屋宿は東海道宮宿と桑名宿とを結んでいた。佐屋路(さやじ)とも呼ばれる。
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(おわり)



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