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旧中仙道ランニング「中仙道走膝痛シ」・・・本庄宿~松井田宿(その1、古墳の道)

2017年08月25日 | 中山道走膝痛シ(旧中山道ランニング)
この7月から8月の初めまでは暑い日が続き、8月からは雨が降り続き冷夏である。
まるで、梅雨と夏の逆転現象だ。

その雨続きの最中に一泊二日で旧中仙道ランに行ってきた。
初日は炎天下、翌日は大雨から蒸し暑い曇りという天候であったが、それなりの中仙道を楽しむことができたので、忘れないうちに記録しようと思う。


本庄駅に着いたのは9時ごろで、前回のラン執着地点の本庄駅入口交差点までの途中にあるコンビニでオニギリ4個お菓子1袋、スポーツ飲料、水を購入、店の駐車場でオニギリ1個を食べながら走りながら水分補給できるハイドレーションパック(1リッター用)の準備をした。

スポーツ飲料そのままだと甘すぎるので、同量の水で割って薄めたものを入れ、飲みやすくしてある。



今日は暑いだろうと思われていたので、バテ防止のため、こまめに水分を補給して、効率よく体に吸収する必要があると思ったからである。


それと、今回はワラーチ(自家製ゴムサンダル)で走ることにした。



足元は涼しいし、いまだワラーチで10km程度しか走ったことがなく、「どこまで脚がダメージを受けるか?」、試してみたかったからである。



それに、昔の旅人の草鞋のようで、街道ランにふさわしい。



これに芭蕉と曽良のように菅笠でも被れば、街道の旅人として最高なんだが、あいにく、持ってない。
いつか、ネットで購入しておこうと思っている。



9時15分に走り始めることができた。




本庄は中仙道最大の宿であるらしい。
ただ、その面影はなかった。
宿もほとんどなく、商店もまばらで寂しい限りだ。


田村本陣門
本庄宿には2軒の本陣があり、その内の1軒の田村本陣は今日スタートした本庄駅入口の信号の近くにあったが、その門が市立歴史民族資料館の前に移設されている。


市立歴史民俗資料館(明治16年建築の旧本庄警察)


120年以上前に建てられ、かつて本庄の絹産業と経済を支えた旧本庄商業銀行煉瓦倉庫


541年創立の金鑚神社(かなさなじんじゃ)とクスノキ(1639年植栽)


「金鑚(かなさな)」は、砂鉄を意味する「金砂(かなすな)」が語源らしい。
要するに、その昔、製鉄の技術をもった渡来人がいた地域の神社だ。

この神社は児玉郡に数か所にあり、いずれも大きいのだが、中でも児玉郡神川町字二ノ宮にあるものが有名で、旧官弊中社で、延喜式名帳にも名を残す古社である。
むかしは武蔵国二の宮とも称された。


この神社は古くて、いろいろあるのだが、ウィキペディアで調べたら、面白いことが書いてあった。

-----金鑚神社-----ウィキペディアより抜粋
金鑚神社(かなさなじんじゃ、金鑽神社)は、埼玉県児玉郡神川町字二ノ宮にある神社。
(中略)
考証
金鑚神社に関しては、『魏志倭人伝』に記述される2・3世紀頃の倭人のクニの1つ「華奴蘇奴(かぬそぬ)国」の中心地とする説(山田説)がある。この説の背景として、神川町の属す児玉郡には埼玉県内でも最古級の古墳が残っている。
(中略)
注釈4
当地は古墳時代に勢力を成した毛野地域と隣接しており、県内でも早い時期に横穴式石室が採用されているほか、埼玉県の平成6年(1994年)度の調査報告においても県内有数の1,380基の古墳の所在が児玉郡で確認されている
---------



山田孝雄というじん学者が言った説らしいが、「邪馬台国=大和国」説者らしい。


そして、走りながら、この本庄辺りには古墳が神社として祀られている所が多々あることに気がついた。
本庄市児玉町にも金讃神社があるのだが、金鑚神社古墳といって円墳の頂に祀られた神社だ。

さらに言えば、朝鮮半島に多く見られるが、「格子叩き目」のある円筒埴輪を出土した全国にも例の少ない古墳なのである。


じゃ、格子叩き目のある円筒埴輪ってどんなもの?
という好奇心が湧くが・・・。

いくらネット検索してもみつからないのであった。


そこで、円筒埴輪を調べると、


(写真はウィキペディアより「円筒埴輪」)

というようなものらしく、

格子叩き目というと


( 写真は須恵器の製作技法より)

このような道具で、やわらかい粘土の時に側面をペタペタ叩いて格子状の模様をつくったものらしく、これらを合わせるとなんとなく格子叩き目のある円筒埴輪が想像できるのであった。







唐鈴神社(とうれいじんじゃ)という変わった名前で古風な参道が続く神社が街道からちょっと外れたところにあった。


帰ってきてから調べると、

那波八郎(群馬八郎)という武将を巡る魔物退治の話と関係あるようである。
平安時代、この辺りでは、魔物による被害が多数報告されていて、時の朝廷は、ある僧侶と那波八郎(なははちろう)という武将の両名を派遣したとのことらしい。
那波八郎は、この魔物の首をはね、その首を祀ったのが、唐鈴神社なんだそうだ。



ふぅう~ん

、と思ってあれこれ検索すると、逆に那波八郎そのものが大蛇だったりする伝説もあるようで、
いったどうなってんだ?
ということになり、また、あれこれ調べた結果、なんとなくわかった感じがした話であった上毛新聞の記事を以下に丸写しで載せる。


-----視点 オピニオン21より-----

 前回のこの欄で『神道集』の簡単な紹介をした。上野国(群馬県)の神話伝説を集めた14世紀の書物だ。

 『古事記』や『日本書紀』と比べると、内容はいかにも泥くさいが、上州人には大切な財産である。

 たとえばこの本には、「上野国那波八郎大明神事」という章があって、群馬八郎の古い伝説が語られている。建国神話のような物語だ。

 むかし上野国に、群馬八郎という領主がいた。優れた政治家として慕われたが、それをねたむ人々に暗殺されてしまった。怨霊となった八郎は古墳に潜んで大蛇と化し、以降は一転、人を食う邪神となる。 

 災いが20年も続いたころ、上野国に英雄が現れる。八郎に立ち向かった彼は、仏の教えを説いて怨念を鎮め、人々の苦難を除く。英雄はこの国の支配者となり、「国の父」とたたえられた。

 こうした神話の存在は、今でこそ知る人ぞ知るが、群馬八郎の名は、かつて県下で広く知られていた。

 那波郡福島(伊勢崎市)の八郎神社や、総社の蛇塚の岩屋(蛇穴山古墳)など、関係する寺社や史跡には遠方からの参詣者もあってにぎわった。

 ただ、実地調査をして詳しく調べてみると、県下に残る八郎伝説の多くは、細部が『神道集』と異なっている。伝説が各地に浸透するなかで、地域的変化が生じたのである。

 たとえば、高崎市の倉賀野神社では、英雄が弾いた琴の音が八郎の怨念を鎮めたと語られ、その場面の彫刻が神社拝殿にある。また玉村町下之宮の火雷神社には、八郎のほうが妖怪退治の英雄だったと主張する別系統の伝説がある。

 『神道集』の古い伝説には希少価値がある。しかし、各地で多彩なバリエーションが作られるのは、文化の豊かさの証明だ。古いばかりが伝統の良さではない。民俗文化の価値を高めるのは、語り手たちの熱い思いなのである。

 近年は『神道集』のキャラクターが地域振興でも使われる。たとえば赤城山(前橋市)のキャンペーンレディーの渕名姫と赤城姫は、この本に出てくるお姫さまの名前だ。見目麗しい女性がその役を務め、地域のPR活動をするのである。

 八郎についても、いくつか目立つ動きがある。先の倉賀野神社では2月のお祭りのとき子ども向けに八郎伝説の紙芝居が行われ、八郎神社周辺でも伝説を八木節に仕立てて上演するグループができた。

 地域に残る物語や伝説は、群馬の貴重な文化資源だ。古いものを守るのも大切だが、伝統を次代につなげるには、遺産を生かす新たな試みが必要なのである。

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この辺で理解したことにしておく。
でないと、キリがない。





様々な石像が並ぶ諏訪大明神

写真ではよくわからないが、実際に見ると古墳(円墳)の上に神社の社が頂上に鎮座しているのがハッキリわかる。

利根川と荒川に挟まれた場所(行田市)に有名な埼玉古墳群があるが、その両川の上流に本庄市がある。
この辺りに古墳が沢山あっても不思議ではない。



浅間山古墳(円墳)の上に祀られた浅間神社


古墳から出た出土品


その横穴式石室

先ほどの古墳も、この古墳もあまり知られていない小さな古墳である。

「本庄市 古墳」でGoogle Mapで調べてみると、大きなものだけでもかなりの数だ。





本庄市の消火栓は街中以外は地上に出ているタイプが多く見られた。



(つづく)





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