稽古の中では、たびたび「注意」を与えることがあります。
稽古というのは、技の説明をしてそれを実践して、と、ただただ技を覚えるだけではなく、その学びの過程での気持ちのゆるみや緊張感の途切れをただすため、また個人ごとに持つ特性の中で、武道の学びを続けていくうえで、考え方や感じ方、個人が持っている癖を修正していく必要が出てくることがあります。
所謂、注意を受けることがあります。
逆に指導者は注意を所々で行っていく必要が生じますが、そのあたりがいつもとても気を遣うところであり、考えさせられるところでもあります。
子供のクラスでの例でみると、稽古を始めた最初は緊張感をほぐすために、優しい声掛けをしますが、慣れてくると甘えが出てくるため、緊張感を持たせるためにも、気持ちがピリッとするような、強い口調で注意を与えることがあります。
「コラッ!」
「ハイッ! 静かにっ!!」
「違う!」
などと、注意をすることがあり、
「はいっ集合!」
「気を付けっ!!」
「気合い!!」
などと、掛け声の中で大きな響きのある声を発して、ピリッと子供たちを反応させることがあります。
休憩中でも悪ふざけすぎが度を越してしまうばあいなど、個別に呼んで注意を与えたり、皆の前で、そういう言葉遣いはどうこう、だとか、子供同士でのふざけが過ぎたときには、「どうして叩いたの?」と皆の前に立たせて説明を求めることもあります。
そこら辺の加減、タイミング、声掛けの内容やその子の気持ちの汲み取りがうまくいかないと、子供たちからの反発が生まれたり、逆に委縮したり、意欲をなくしてしまうこともあります。
道場の中のいい空気感を作ることが大切ですが、陰でコソコソしたり、上辺だけいい言葉を並べたり、嘘をついてごまかしたりするような世界が生まれてはならず、正直者が自尊心を持て、人へのやさしさが評価されて、目立たない小さな努力が評価される空間が生まれると、道場としての調和が生まれてきます。
目に見える部分だけ、目立つ部分だけを強調すると、そういう見える部分だけを取り繕うような子に育ちます。
見えない部分の気遣いや思いやり、他社への配慮や気配り、見えない部分でもごまかさないという正直な心や見えない努力をしっかりと見守り見届け、且つ適切な注意やアドバイスを与えることが指導者としての大切な力であると感じています。
一方で、小さな子供は柔軟性と包容力がありますが、中高生から大学生、社会人になっていること徐々に、指導者が注意をすること自体が難しくなってきます。
その方々の人生、社会経験を通しての価値観や、成長過程で作られてきた性格や感情などの偏りが見えづらく、どのあたりが適切であるのかの判断が実に難しい。
子供は日ごろから周りから注意を受けていることもあり、注意を受けることにある程度の柔軟性がありますが、そういった柔軟な心を成長した大人になっても持ち続けることは、新しい学びの中では大切な部分であると感じています。
適切なタイミングでの適切な注意を判断することはむつかしいですが、その方々にそうした柔軟性があるかどうかは、見ていてよくわかります。
柔軟性がある方は見ていて安心感があり、私にとっても無用な気遣いなく稽古指導ができるため、そうした部分でも、柔軟な心持は大切なんだろうと思います。
私自身、今の立場、今の年齢であっても、周りからの指摘や注意に対して柔軟な気持ちを持ち続けていきたいと感じています。
学び続ける者、新しい物事に挑戦を続ける者は、心を常に常に柔軟に、そして謙虚な姿勢を保ち続けておきたいものです。
稽古というのは、技の説明をしてそれを実践して、と、ただただ技を覚えるだけではなく、その学びの過程での気持ちのゆるみや緊張感の途切れをただすため、また個人ごとに持つ特性の中で、武道の学びを続けていくうえで、考え方や感じ方、個人が持っている癖を修正していく必要が出てくることがあります。
所謂、注意を受けることがあります。
逆に指導者は注意を所々で行っていく必要が生じますが、そのあたりがいつもとても気を遣うところであり、考えさせられるところでもあります。
子供のクラスでの例でみると、稽古を始めた最初は緊張感をほぐすために、優しい声掛けをしますが、慣れてくると甘えが出てくるため、緊張感を持たせるためにも、気持ちがピリッとするような、強い口調で注意を与えることがあります。
「コラッ!」
「ハイッ! 静かにっ!!」
「違う!」
などと、注意をすることがあり、
「はいっ集合!」
「気を付けっ!!」
「気合い!!」
などと、掛け声の中で大きな響きのある声を発して、ピリッと子供たちを反応させることがあります。
休憩中でも悪ふざけすぎが度を越してしまうばあいなど、個別に呼んで注意を与えたり、皆の前で、そういう言葉遣いはどうこう、だとか、子供同士でのふざけが過ぎたときには、「どうして叩いたの?」と皆の前に立たせて説明を求めることもあります。
そこら辺の加減、タイミング、声掛けの内容やその子の気持ちの汲み取りがうまくいかないと、子供たちからの反発が生まれたり、逆に委縮したり、意欲をなくしてしまうこともあります。
道場の中のいい空気感を作ることが大切ですが、陰でコソコソしたり、上辺だけいい言葉を並べたり、嘘をついてごまかしたりするような世界が生まれてはならず、正直者が自尊心を持て、人へのやさしさが評価されて、目立たない小さな努力が評価される空間が生まれると、道場としての調和が生まれてきます。
目に見える部分だけ、目立つ部分だけを強調すると、そういう見える部分だけを取り繕うような子に育ちます。
見えない部分の気遣いや思いやり、他社への配慮や気配り、見えない部分でもごまかさないという正直な心や見えない努力をしっかりと見守り見届け、且つ適切な注意やアドバイスを与えることが指導者としての大切な力であると感じています。
一方で、小さな子供は柔軟性と包容力がありますが、中高生から大学生、社会人になっていること徐々に、指導者が注意をすること自体が難しくなってきます。
その方々の人生、社会経験を通しての価値観や、成長過程で作られてきた性格や感情などの偏りが見えづらく、どのあたりが適切であるのかの判断が実に難しい。
子供は日ごろから周りから注意を受けていることもあり、注意を受けることにある程度の柔軟性がありますが、そういった柔軟な心を成長した大人になっても持ち続けることは、新しい学びの中では大切な部分であると感じています。
適切なタイミングでの適切な注意を判断することはむつかしいですが、その方々にそうした柔軟性があるかどうかは、見ていてよくわかります。
柔軟性がある方は見ていて安心感があり、私にとっても無用な気遣いなく稽古指導ができるため、そうした部分でも、柔軟な心持は大切なんだろうと思います。
私自身、今の立場、今の年齢であっても、周りからの指摘や注意に対して柔軟な気持ちを持ち続けていきたいと感じています。
学び続ける者、新しい物事に挑戦を続ける者は、心を常に常に柔軟に、そして謙虚な姿勢を保ち続けておきたいものです。
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