武の道へのこころざし

大道塾の横須賀・湘南支部の責任者が、日々の活動に関する出来事や想いを綴っていきます。

自分に厳しく、人に優しい心を持つ

2024年06月22日 | Weblog
日常の生活を送るうえで、年齢が上がるにつれて、多くの人と交流することが増えてきます。

年齢を経るに従い、その交わる方々の心にある想いが、色々と感じられてくる。

経験を積むことで、とても多くの人と触れ合う機会がありますが、その心の在り方に、寂しい思いをすることも増えてくるもの。



表向き、しっかりとしている人物かと思えば、自分に甘いその姿が、時折見え隠れします。


強い人だと思われる反面で、自分の弱さに周りを惑わし、多大な迷惑をかけている人がいる。

思いやりがあり優しく見えるような人物から、その裏の心の中に、また本音の心に想いに、さもしい心や、自分本位の弱さのある、甘い心が見えてくると、とても寂しく感じます。




死ぬほどの厳しくつらい想いを経験してきたか、

自分の言葉に裏切りのないほどに、本当に心を込めた頑張りを、必死に行ってきたのか、、

その中でも、自分の心をゆがめることなく、正しいと思う己の道を歩み、自分に関わる周りの方々に対する思いやりや配慮に、しっかりと心を配っきたのか、、、



世の中には、頭のいい人、要領のいい人、お金持ちの人、権力を持っている人、人気のある人など、ある意味で力を持つ方々が多くいますが、本当の意味での ”人物” と言える人はどのくらいいるものか。



強い人はいる、人気のある人もいる、お金持ちの人もあれば強い権力を持つものも多くいます。


しかしそんな中で、



真の優しさがあり深みのある、真の思いやりのある人間が、一人でも多く世の中に生まれてもらいたい。


その中で、そうした優しさや思いやりの心を柱に据えて、世の中に貢献のできる、才能や力のある人が、一人でも多く育ってもらいたい。



日々、稽古指導をしながら、我が道場から、そんな人物が一人でも多く育ってくると良いなと感じています。





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小さな幸せ

2024年06月17日 | Weblog
しばらくこのブログの更新が滞っており、大変申し訳ありません。


どうやら、私自身の性格として、物事を行うのに、ある程度の貯金をする期間が必要なようです。


自分の思いを書き綴るには、しばらく色々な経験を積んで、色々なことを考えて、いろいろと行いを積み重ねることで、エネルギーを溜める必要があるようです。



このブログ以外にも、個人的に日記を手書きで記しています。

それも5年日誌というものを書き綴っていますが、しばらく書き綴ったと思ったら、しばらく期間が空き、またまとめて書き綴るというような、少しいい加減なことを長年続けていますので、5年日誌には空欄ばかりが目立ちます。



道場内での新しい企画や稽古体系を考える際も、ある程度は一定のメニューを行いながら、思考やエネルギーがたまったタイミングで、色々な稽古方法を取り入れて、様々な試みに挑戦をしています。


私生活でも、個人的な趣味の部分でも、ドカッとエネルギーを注いだかと思えば、しばらく無心に変わりのない日常を繰り返し、またあるタイミングで大きな変化を起こすといった具合です。



時々発生する急な変化が、家族には少しびっくりするらしく、迷惑をかけている部分もあります。



同じ日々の繰り返しばかりでは、人生はちょっと退屈し、変化ばかりでは体も心も疲れてしまいます。


私は自分なりの定期的な変化を楽しみながら、無用な負担を減らすような平穏で当たり前の変化のない日常の過ごし方をバランスよく行えていると思っていますので、今の年齢でも、とても楽しく日常を過ごせています。




膝に不調を抱えているので、日々負荷をかけることはできませんが、いざというときは、戦えるだけの気力と体力と技術力をある程度は維持できているつもりでいます。

年に一度の支部長審査の相手役を、ここしばらくは楽しんで行っていくつもりです。



趣味の分野で、とある楽器を習っていますが、飽きもせず、また諦めもせず、カメの歩みのごとき、周りを不快にさせるかのような少々いびつで、音程の微妙に合わない音を奏でつつ、自己満足で楽しんでいる。


日々の仕事にいそしみ、人助けにになるような身の回りの方々への心配りを忘れずに、稽古生が稽古に取り組む環境づくりと稽古指導に取り組み、また家庭では温かみがあり、多少の刺激がありながらも、円満な家庭生活を楽しんでいきたいと考えています。



自分の我を通してばかりいては、周りの方々はあまり楽しく過ごせないばかりか、翻って、自分自身にその思いが返ってくるもの。


自分の欲ばかりに目を向けていては、周りが見えなくなり、人の善意や思いやりといった気持ちを汲み取ることが出来ず、本来は幸せを感じることができる部分があるにもかかわらず、不満の気持ちばかりが自身の心を支配してしまうかもしれない。


ほんの少しの我慢をすることで、それも意識を変えて、相手の立場で物事を考えることで、自分の見識が広がり、相手への理解が広がり、相手に厳しい目を向けるのではなく、温かい目が向けられるようになるかもしれない。


チョットした小さな優しさや思いやり、周りの人への配慮といったものに心が配れるようになれば、もっともっと心が幸せな気持ちで満たさる。

そうすれば、自分の心に余裕が生まれ、エネルギーが満ちてきて、新しいことに挑戦してみようという意欲が湧いてくるように感じます。



今現在、世界中で戦争を遂行している方々や、周りの批判ばかりをしている政治家、目先に欲ばかりに目がくらみ金銭的な利益や権力争いに明け暮れている方々を見ていると、その思考の狭まっている様子が、その顔に、如実に表れているように感じます。

そうした不遜で、尊大で、ゆがんだ顔を見るたびに、なんだか残念な気持ちにさせられる。

高い能力のある方々が、こうした他者批判や、相手への攻撃に使われるばかりでは、エネルギーの大きな浪費であり、社会の仕組みに何かしらの問題があるのかもしれないと感じる。



相手を攻撃するのではなく、自分の不足を恥じるべし。


こんな私も、国際紛争や、子供や女性、高齢者に対する暴力事件などのニュースを見るたびに、カッカと怒り心頭の気持ちがもたげており、怒りを感じることはあまり良いことではないかもしれませんが、世の不幸に覚える怒りを、自分のエネルギーに変えつつも、やはり平穏な世の中で過ごしたいと強く願う。




今の問題の多い世の中であっても、私の周りには、他の方にはほとんど感じられないほどの、ほんのわずかな、小さな幸せがたくさん転がっていて、本当に有難い思いでいます。



もちろん嫌なことも不安なことも、本当に腹立たしいことも山ほどあるにはありますが・・・


まあそれも、人生の楽しみのひとつであり、平穏なばかりでは幸せは感じられないもの。


心が感じるほんの小さな幸せの根を、大切にしていきたいと思います。





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よそ行きの顔と素の顔

2024年03月25日 | Weblog
(表紙の写真は、4年前にハイキングに行った時のもの。娘がふざけて難しい顔をして映っています・・)


子供のうちは、特に幼いうちは家にいても、どこかに出かけても、あまり自分の顔や態度を変えることはなく、何処にいても自分の自我を発揮しているもの。


デパートや公園で、または公共の交通機関の中で大泣きをしたり、親にわがままを言ったりして、親を困らせるのは幼子の常の姿。


当の親は、周りの目を気にしてか、家庭で行うような強く大きな言葉で注意もしづらく、もちろん周りへの気遣いへの配慮から、困り顔で我が子をなだめる姿が思い浮かびます。


成長に従い、子供たちも周りの目を気にするようになり、家族の前と人前とでは、話す言葉や声の大きさ、そしてその内容が大きく異なってくるものです。


しかし、愛想笑いがいつも良いばかりではなく、怒るべきところで怒ることが出来ず、悲しむところで感情を表に出しづらくなるのは、人として、果たして良いことかどうか?


自分の部下や後輩の前と異なり、自分の上司や先輩の前ではおべっかを使いペコペコしたかと思えば、逆の立場では偉そうに尊大にふるまっている人は、少々困りもの。

年齢の上下で人を判断し、態度を変えるのも同じこと。

職場の上下関係ばかりではなく、店員と客の関係、先生と生徒の関係でもしかり。

日常では人の良さそうな雰囲気を出している人でも、車に乗ると人が変わったように乱暴なハンドル捌で激しい口調になり、駅員や店員さんの前では偉そうな物言いをしたり、不愛想な振る舞いで対応したりする人も、私はあまり好きにはなれません。

ましてや信頼に値する人物とみなされることはありません。


人の立場に上下を付けて、それぞれに対応が異なることは、自分の弱さではないか、

と私は思う。



私はある時期から、そうした自分の無意識からくる不自然な振る舞いに大きな違和感を覚え、誰に対してもなるべく同じ態度で接することを心がけるようになりました。



それは人だけではなく、物に対しても同じこと。



自宅の玄関で靴やスリッパが乱雑に散らかっていたら、キレイに並べ直すように、公共施設のトイレのスリッパなどがバラバラに散らかっていたら、当たり前に直すようにしています。

私の身近な例で言えば、公共の体育館のスリッパやスポーツクラブのゴールドジムのトイレにあるスリッパ。

そのスリッパを手で並べていると、私の隣でとても申し訳なさそうに、適当に脱ぎ捨てかけたスリッパを丁寧に並べて出て行かれた方がいました。


いい意味で人の目を気にされたのだと思いますが、逆に私の目の前で乱雑に脱ぎ捨てて行かれても、今の私にとっては何のその。


今では全く気にせず、人前でもさっと直すことが私の癖になっています。


家庭の中で目の前にごみが落ちていたら拾うように、道路上でも気になるものが道路の真ん中に落ちていたら、路肩に寄せるようにしています。

ボランティア清掃員ではありませんので、無理のない、可能な範囲での行いです。



道場内で思うことは、皆さんご家庭や職場、もしくは仲間の中では、皆それぞれに道場内とは別の顔があるんだろうなということが、チョットしたしぐさやその動作から、そして言葉の端々から伺えます。


もちろん、道場内以外での自分の考え方や態度は皆人それぞれで、自分が思うように、自分の持ち味を出してもらえればいいことで、それほど気にはしていません。


しかし、我々の道場が気に入って稽古に参加されている方々には、私自身の何気ない仕草や考え方や行動から、無意識のうちに何かしらの良い影響が出ることを願っています。


もし何かしらの悪い仕草や態度、言動などが稽古生の間に表れているとしたら、私自身の行動に問題がないか、考え方に問題がないかを考える必要もありますが、何よりも稽古生の皆さんの道場内でのしぐさや言葉、そして顔付きやその表情が、普段の日常と変わらぬものになっていれば、なんだか安心が出来る気がします。


道場内ではみなさん、とても良い方ばかりです。


人としてもそうですが、道場内での、その表情がとても良いと思う。

堂々としていて姿勢が良く、それでいて思いやりのある、とても優しさを感じられる表情がみられます。

道場での稽古を通して培われた、相手を受け入れる、自信の表れだと思います。



(3月34日の日曜Jr選手クラスの集合写真)


その顔付き、その表情やその行動などが、その一人一人の稽古生の方々が日常の中で関わる全ての人に、良い印象と影響を与え、いい意味で相乗効果的により良い、そして住みやすい世になる事に繋がっていればうれしく思います。


(3月34日の日曜日クラスの集合写真)


仮面を脱ぎ捨てて、普段と同じ素の表情で、人に優しく接することができる人というのは、とても安心感があるものですが、逆にそういう人には ”強さ” というものが伴っているものです。

世の中の人の心の中には悪意や偏見というものがあり、人に騙されないような、そして侮られないような警戒心を忘れてはいけないのが、今の世の中の悲しい現実でもあります。

自分を鍛え、多くを学んで経験し、世の中でうまく自分の良さを出しながら立ち回ることができる、 ”生きる強さ” というものを身につけていきたいものです。





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心から「ありがとうと」という言葉を伝えたい

2023年04月25日 | Weblog
新型コロナウィルスが猛威を振るい、社会に多大な影響を与えていましたが、ここにきて、感染リスクが徐々に小さくなり、マスクの着用の義務も緩和され、社会不安が徐々に回復しつつあることを感じています。

神奈川県内の、月の感染者数が500人を下回る時期になり、まさか自分が新型コロナウィルスで陽性になるとは思いもよらなかった中で、見事に感染してしまい、稽古を一週間ほどお休みすることになりました。

稽古生が多く参加されている中であり、せめて一般部だけでも稽古を継続したいと考えていたこともあり、指導代行で一般部の稽古は継続して行っていただきました。


指導員を設けているクラスもあれば、指導員を設けていないクラスもある中で、また皆さん忙しい春の時期でありながらも、指導できる技量のある稽古生の参加もあり、皆さんの協力の元、一週間の一般部の稽古指導を代行して行っていただきました。

横須賀湘南支部では、多いところでは20名ほどの稽古生が参加するクラスもあり、稽古生の技量に差がある中での稽古指導は、なかなか難しいところがあります。

何よりも、横須賀湘南支部では、だれ一人もこぼれない稽古、言葉を換えれば、稽古に来たくならない気持ちにならないような稽古体系を心がけています。

学ぶ意欲を継続できる稽古。

技量の差や体力・実力の差を各自に思い知らせるような、思いやりのない稽古ではなく、皆の努力が生かされるような稽古体系には、加減の施された稽古指導が必要です。

指導を代行していただいていても、こうした点にも留意した、実にバランスの取れた稽古をしていただける点が、とてもありがたい。


厳しいだけの稽古では、誰もがついては来られるものではありません。

組手などの攻防を行う稽古ばかりでは、体力のないものや不器用なもの、気持がそれ程強くなって居ない者はなかなか稽古が継続し辛くなり、稽古への参加者数は当たり前に減るばかりです。


しかし、私が休んでいた期間も、私が復帰した時点でも、実に多くの稽古生が稽古に参加していただけている事で、各クラスで、とても良い指導をしていただいていた事が感じられます。


やはりみなさん、実に頼りになります。



ある時期に、どこかで大会が開催され、支部から出場選手がいれば、必ず支部のどなたかが遠方まで応援に来てくれます。



審判講習会など、総本部行事で指導者が一般部の稽古を早退するときも、指導を代行して、とても良い稽古を行い、その後しっかりとした事後報告をしてくれる。


演武会に向けて、少年部や中学部の子たちへの基本動作の指導が必要となれば、上級者の皆さんが、熱心でとても丁寧に、それでいて実にやさしく的確な指導をしてくれている。


審査会スタッフが少ないとなれば、必ずどなたかが、「スタッフで参加できます・・」、「お手伝いさせていただきます・・・」、などと、多くの稽古生から声掛けを頂ける。


ちょっと出来すぎかな?

と思えるほどに、とても気のいい頼りになる、多くの稽古生に恵まれている事に、改めて感謝したい思いです。



「世界大会で少年部と中学部の集団演武会があるよ」、と声掛けすると、

「やります!」

「やりたい!」

「出来ます!」

と、多くの声がかかります。



多くの荷物運びや畳の準備、稽古後にミットの片付けや畳の片付けがあれば、みな率先して手を貸してくれる。



何だか心が感じられるんですよね。

思いやりの心というものが。


皆がみんな親切で丁寧な方ばかり・・・というわけではありませんが、人の心にも変化があり、素っ気なかった態度の子が親切で丁寧な態度に変わり、時に普段からイライラしていた様子の若者が、落ち着きを取り戻したかと思えば、気持のいい受け答えをしてくれるようにと、いい方向に変わっていきます。


いい稽古生に恵まれると、道場内に良い循環が生まれ、皆さんが過ごしやすいより良い環境が育まれてきます。



昨年の年度末の頃、追浜の小学6年生で、もうじき小学校を卒業するというある子が、

「中学生になったら忙しくなるからもう続けられないよ!・・・一緒にやめようよ・・・」

と周りに触れ回っていた子がいた影響か、

多くの小学校の卒業時期の子たちが卒業(退会)していきましたが、今年は4人の6年生の全員が継続となりました。

中学生は、卒業時期の子が4名中、3名が継続してくれることになりました。


久里浜少年部は、7名中、5名の小学6年生が継続となり、唯一人の中学生3年生も継続となる。


辻堂では小学校を卒業する年齢の子はいませんでしたが、3名の中学卒業生の全員が継続となり、部活や勉強と両立しながら、一般部稽古生として稽古に参加することになりました。


中学三年生で唯一、追浜道場を卒業することになった、黒帯を取得している女子の稽古生は、実に思いやりのこもった、温かい気持ちの感じられる手紙を残してくれました。


今後の自分の道である、”文学の勉強に専念するために” 道場を後にすることを選んだ彼女は、実に立派な稽古生でした。


選手クラスに所属していたものの、一度も大会に出場することもなく、団体の中でその存在を示し、活躍する場はありませんでしたが、普段の稽古では本当に頑張っていたその姿、その努力、その実力は、支部の多くの稽古生の一人一人の心に残っています。

またしっかりと考えて、自分の道を見つけ、自分で判断してわが道場を巣立っていきました。


個人のお手紙でもありますので、その手紙の文書の内容を皆さんに公表することはありませんが、本当に心のこもった、ありがたい文章です。

こうした子が育ち、巣立っていくことは、支部の誇りであり、本人にとっても関わった多くの稽古生にとっても、その先輩や後輩にとっても、指導者である私にとっても、実にありがたく感じています。


世の中に貢献できる、武道をしっかりと学んだといえる、誇りある卒業生です。



その他、継続する稽古生からも、卒業に際しての文書を数名から頂いています。

そこに残されたその言葉が、その言葉を紡ぎだしたその心の成長自体が、とても大事な事柄であり、誇りある日本の武道文化の中で、小さくとも確たる一つの布石となるものです。


やや持ち上げすぎに感じられる方もおられるかもしれませんが、よき人材が集まり、より良い影響を与え合い、より良く成長ができる確たる環境が出来上がりつつあると感じています。



5月13日(土)から14日(日)にかけて、大道塾の世界大会が予定されておりますが、その大会の軽量級のクラスに、支部から谷井選手が出場します。

実力のあるプロの舞台で活躍する格闘家でもありますが、日々の仕事にいそしむ一公務員でもあり、わが道場の稽古にも馴染む事ができる、立派な武道家でもあります。


その世界大会では、関東地区の少年部・中学部稽古生による基本の集団演武が予定されており、横須賀・湘南支部の稽古生も多数参加する予定です。

何はともあれ、多くの出来事、多くの機会、そしてかかわる多くの方々に感謝。



色々なことに心から、

 「ありがとう!」

と、心を込めて伝えたい。





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布団の中から出たくない!

2023年03月11日 | Weblog
ある日、

といっても実は今日(さっき帰ったところですが・・・)、稽古から帰ると私のパソコンが開いたままで、Youtube Musicの画面が開いたままになっている?

Youtube Music というのは、ユーチューブが提供する音楽ストリーミングサービスのことで、自分の気に入った音楽を聴き放題で聞くことができます。また、好きな曲を聴いていたり、好きな曲を登録したりしていると、いろいろな関連の音楽が順次紹介される形で提供されるため、非常に便利で、最近よく利用しています。


しかし、なぜ?


普段はセーフモードになって画面が消えているはずだが、、、


しかも、、見慣れない絵柄の表示で止まっている???



画面の絵柄には、布団の中にかわいらしい小さなペンギンが顔をのぞかせており、朝に布団から出たくない言い訳をグダグダと呟いているような様子。


その曲の題名を読んでみると、



 「布団の中から出たくない」・・・



ん??

なんかうちの娘の朝の姿みたいだな~


案の定、犯人は我が家の娘でした。


しかし聞いている曲が曲だけに、思わず吹き出してしまいました。







私も子供の頃はこんな感じだったので、気持ちがわからないでもないですが・・・

しかし、一体、、、

娘はどのようにしてこの曲を探し当て、

そして、どんな気持ちで聞いていたんだろうか??

そんなことに思いをはせながら・・・



それでもなるべく、朝から親に怒られないように、

親を怒らせないように、、

朝は、サッと布団から出られるよう頑張りましょう。




子供のいるご家庭の方は、自分が子供の頃のことを思い出しながら、


そして我が子の今の心の中に、ほんの少し思いを馳せ、

その気持ちを心に感じながら、、、



穏やかな気持ちで聞いてみてください。


注)穏やかな歌声の曲の途中で、突然「絶叫!」が響きだすところがありますのでご注意ください!!

何とも変な曲です。。。


(なぜ娘は、こんな変な曲を聴いてんだ???)




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稽古を続けることによる、我慢強さの効用

2023年02月17日 | Weblog
辻堂幼年部の一人の女の子。

兄が稽古生として在席しているものの、早くに少年部に昇格したことで、今現在、女の子がたった一人で、やんちゃ盛りの一つから二つほど年上の男の子達と一緒に稽古に励んでいます。

稽古では、道場に来た時に挨拶をして中に入り、「お願いします」という声とともにカードを指導者へ手渡して、指導者の指示で室内を10周走ります。

一周ごとに大きな声で、「一周!」、「2周!」と大きな声を出して数えながら走るのが習わしですが、そうした一つ一つの声が出せず、数字を正確に数えることもままならなかった子が、入室の際に大きな声で挨拶ができるようになり、カードを手渡すときの挨拶の声も、まだまだ幼さの残る声色ながらもしっかりと挨拶ができ、1周走るごとに、大きな声で数字を間違えずに数えられるようになりました。


この子は、稽古前や稽古途中の休憩の時には、一人遊びをしたり、指導者である私と話をしたり、なんだか黄昏ていることも多かったですが、最近は年上のお兄ちゃんたちに交じって鬼ごっこにも参加できるようになってきています。

まだ小学校にも上がっていない子であるため、仕方がないといえば仕方がありませんが、1年生から2,3年生の子たちに交じって稽古をしている姿には、なかなかに逞しさが感じられます。



右や左をしっかりと理解して把握できるまでには、まだまだ時間がかかる年頃です。

それでも、基本稽古や型稽古の時はもちろん、準備体操の時ですら、いちいち右左の間違いを指導して修正していきます。

時には、左右の間違いをわざと見逃して見過ごしてみたりします。

また時には、「右左を間違っている子がいるかな?」、「周りを見て違っていたら直してみて!」と自分で周りを見ながら自己修正を促したりしながら、稽古を進めていきます。

修正を促される子には、多少なりともストレスが発生し、繰り返し促されることが続くと、ストレスが大きく増してくるため、時には良いところを褒めたり、時には失敗を見逃したりすることも、指導をする上では大切なところです。

間違いを正すばかりではなく、稽古の中で自己肯定感を増していくことが大切であるからです。


それでも、ストレスに耐えられる度合いには個人差があり、その日の気分や体調によっても変化があり、ストレスに耐える力は同じ人間でも均一ではないため、その子の様子をしっかりと見定めながら稽古を続けていく必要があるのは言うまでもありません。



基本や型稽古の中で、右左を交互に技を繰り出すばかりではなく、左右交互に技を出していたものが、右から右、次は左から左へと同じ手で攻撃や受けの動作をすることがあったり、三本の動作を、右・左・右、次は左・右・左と、動作は左右交互だけれども、技の始まりが左右異なる動きをする場合があります。

時にはそこに、蹴りの動作が入ったり、攻撃ばかりではなく間に防御が入ったり、徐々に複雑になる動きに、幼い子たちはついていくのに必死です。

しかし学年が異なり、稽古に参加している期間が異なったり、覚えるのが得意な子と苦手な子など、得手不得手が異なるため、いつも簡単な稽古では物足りなくなる子が出てきます。

また逆に、難しい動作ばかりではついて来れない子がいたりするため、時には簡単な動作、時には少しむつかしい動作を取り入れることで、稽古の中にメリハリをつけていきます。


補強運動でも、簡単な動作があればむつかしい動作があり、優しい運動があればとてもハードな運動を取り入れたり、あまり楽しくないきつい運動があったかと思えば、なんだかとても楽しいと感じられる運動や競争などの競い合いがあり、そうした緩急が子供たちの心にピリッとした緊張感と刺激を与えています。

補強運動で息が上がり気持ちが盛り上がったかと思えば、その後の休憩に入る前にはいったん動作を止めてきちんと正座をし、黙想をして盛り上がってきた自分の気持ちを落ち着かせて、心を整えなければなりません。

子供たちは動いたりとまったり、力を入れたりリラックスしたり、懸命に頑張ったり、丁寧にやさしく教える側に回ったりと、稽古の中では気持の休まる暇がありません。


しかし、それでもそうしたストレスを感じる稽古を長く続けている子供たちにとっても、稽古の中での適切なメリハリが感じられるようになると、その我慢の感覚が徐々に心地よさに変わっていき、そうした稽古を続けている期間が長ければ長いほど、「我慢強さ」、「粘り強さ」、「忍耐力」というものが格段に向上していきます。



先日、ある女の子(今では女性といったほうがいいかもしれませんが・・)、が、道場に挨拶に来てくれました。

警察学校を卒業し、勤務が決まったとの報告です。


以前、学校を卒業た後に、就職試験に合格した時にも報告に来てくれましたが、今回、警察学校を卒業したことで時間がとれるようになり、また稽古にも復帰したいとのことです。

警察学校にいる間に柔道の稽古にも取り組み、初段を取得したとのことです。

報告をしてくれているその表情には、昔から変わらぬかわいらしさがありながらも、とてもはつらつとして表情豊かな雰囲気を感じることができ、とてもうれしく感じました。



この子は入会した最初の頃は、体育館の入り口でモジモジして涙目にり、幼年部の稽古にもなかなか参加できなかった子です。

その後は徐々に稽古に慣れてきて、支部の中でも活躍をするようになった子ですが、入会当時の、そうした姿とその時の幼い頃に表情が、私の記憶の中に今でも強く残っています。。。



我々の道場に長く所属してきた多くの子達が、進学や就職、その後の人生においてしっかりと自分の道を切り開いてくれています。


そして皆一様に、とてもいい表情で成長ができている姿を見ることで、とても安心してその後の成長を見守ることができています。

そのためにも、幼い子供たちの今の頑張りを励ますことの重要性、そして且つバランスよく鍛えていくことの大切さを身をもって感じています。




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小さな「なるほど!」という理解や満足感の積み重ね

2023年01月30日 | Weblog
稽古をしていて、

「なるほど!」、「そうか!」、「できるようになったかも!」、というような、ある動きがある程度できるようになった時だとか、何かのテクニックがわかるようになったように感じられるとき、心に大きな満足感を味わったことがあるでしょうか?

ある稽古の中である技術が感覚的に理解でき、実践できた時の満足感は、とてもうれしく感じるものです。



稽古の時に、肘うちや膝蹴りを打つときに、「ステップをこう変えるこうなる・・」という説明をしていると、見ている人から、「アッ!」という声が聞こえてきたりします。

「なるほどー!」という表情で、何かに気付いたような「ハッ」とした表情が見えたり、すぐに自分で実践してみたくなる気持ちが起きれば、自然と体が、意欲的に動いてくるものです。

それが「気付き」で、それをその後に実践してみて、うまく体が動かせて技がつながると、それが一つ目のステップとして、なんとなく身についた感が体に感じられて、うれしい気持ちが沸き上がってくるものです。


さらにそれが攻防の時に、自然と動いて、自分が考えた通りの動きができたり、狙った技が上手く入ったり、相手の技が上手くさばけたりすると、「よしっ!」という思いが確信に近いものに変わります。

さらにここからの裁きや、足払いなどにうまくつなげる稽古をしていくことで、その技がタイミングよくかかった時には、大きな自信と満足感が心に込み上がってくることでしょう。


こうした実際に使える攻撃パターンをいくつか積み上げて、何度も稽古で実践していくことで、徐々に技が安定してきて、少しずつ教えられるレベルにまで成長していきます。

横須賀湘南支部ではいわゆる強くなるための、スパーやミットの打ち込みを繰り返し数多く行うばかりの練習ではなく、こうした技術練習の積み重ねを数限りなく繰り返していく形式の稽古をしているため、継続的に楽しめる稽古であり、上級者の皆さんは技が多彩で、実に教え方が上手くなってきます。

上級者の中には、私が指導するよりもいいツボで、丁寧に教えている様子を見ては、私自身が自分の指導スキルの加えて、私もレベルアップができている部分もあるので、とても助かっていたりします。


一方で技術ばかりではなく、実際に戦える強さを身に着けるには、多少の強い組手の攻防やミットの蹴り込みなど、並行的に数多くこなしていかなければなりませんので、そのあたりは、自由稽古の時間に自分に負荷をかけるなどして、各自のペースで行っていただければと思います。



話は戻りますが、この「よしっ!」という満足した感覚をより多く積み重ねて頂きたい。



年を取ってくると、周りの物事から学ぶ力が衰えてくるものです。

稽古の指導中に、ある技の説明でその動きを見せても、霞んだような目で見ている限り、目の前で見たはずの、せっかくのその技術も、ただただ目の前を通り過ぎていくだけで、「ものになる」ということはありません。



その昔、私が講道館で柔道を学んでいた当時、かなりのご高齢ながら、とても素晴らしい稽古指導をしてくださった高段位の先生がおられました。

しかし一緒に学んでいた若い白帯の方々の多くには、そのせっかくの素晴らしい技術が、ただただ目の前を通り過ぎているだけのような見方をしている方がたくさんおられたように感じていました。


その当時、私は現役選手として、現在の「空道」という競技名ではなく、「格闘空手」の名前を標榜するとても激しい大道塾の稽古を、総本部道場で行っていた頃です。


当時の大道塾の稽古では、戦いのスタイルを確立するために、様々な戦い方を試行錯誤していた時代であり、強くなるために激しく打ち合って取っ組み合ってはいましたが、的確で論理的な技術説明は皆無で、ただただ激しく打ち合い、道場に残れるように生き残りをかけて日々戦うような稽古をしており、特に組技に関しては指導者が不在の中で、ただただやみくもに鎬を削るように戦っていた時代です。


そんな私にとっては、的確で具体的な説明とともに、目の前で披露して頂いているその技術が、まさに宝物のように感じており、一つの動作も見逃さないぞとばかりに、わずかな技の説明の時間を、実に必死に、頭と意識を懸命に働かせて学び取っていたことを思い出します。

それだけ、そのご高齢の先生方も、実に真剣でした。

額に汗を滴らせながら、実に懸命な声で、基礎的な技術を一生懸命にご指導をしてくださっていたことを、とても懐かしく思い出します。

その時の先生方には、とても熱意があり、あたたかい誠意が感じられました。


一つ一つの技を見て感心し、感動し、自分で実践してみて、その技術を確かなものにすべく取り組めたのは、実際にはほんのわずかな期間しかありませんでしたが、私にとっては教える術(すべ)を学ぶ、とても大切で貴重な時間でした。


しかし歳を取るにつれて、徐々に体力が衰え、故障個所が増えて、だんだんと新しい技を学び、体験し、実践する環境も余力もなくなってくるため、武道や格闘技とはまた別の学びの方面で、そうした新しい発見しうる刺激を得られるように努力しています。


えっ??


今、いったい何を学んでいるのか・・・って?


いやぁー、、いろいろ取り組んではいますが、

その一つは、


何と、

娘と同じ、バイオリン?!


娘のやる気を促進する意味で始めた、生まれて初めてのバイオリンです。


最近、身近な方々の何人かに話をしてみたところ・・・


「想像できない・・・」、

「似合わない・・・」、

「理解できない・・・」、

だそうです。

反応は散々です。

妻には、「ウクレレの方が似合ってるんだけどなー・・・」、今でも言われ続けている、、、


「今に見てろ!」

と奮起して、力任せになりがちで、程よい力加減で動かない腕っぷしと指で、シャカシャカと上手く鳴らない弦に弓を必死にこすり続ける私・・・


(なぜ上半身裸なのかって? 暑い時期だったので・・ 裸で失礼いたします。)


激しい雑音が、心地よい音色を奏でるのは何時になることか・・・


死ぬまで無理かも・・と思いつつ、


それでもレッスンでは、「なるほど!」「なるほど!」と分かったつもりの言葉が連発ですが、、、

いったいこの楽器は、どうなってるのか??!


昨年の夏の肘の手術を受け、レッスンを半年ほどお休みをしたものの、学び始めてはや2年、1回30分のレッスン回数は60回近くになろうかという時期に来ています、、、


残念なことに、ここでは全く、私の娘に歯が立ちませぬ・・・


南無三





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相手に言葉をかけるとき

2023年01月30日 | Weblog
意識の主体性の話です。

相手に言葉を掛けるとき、

伝わるか伝わらないか、の話ではなく、言葉を掛けるか、それともいろいろなことを憂いて、言葉を控えるのか。


分かってもらえるのかどうかではなく、相手のことを真剣に想い、相手の立場に立って考えているかどうかが大切。


理解できるのかどうか、わかってもらえるかどうかは、相手側の話であり、自らが誠意をもって考えているかどうかが大切なのではないか。



相手の事を思って、励ますつもりで話をしていても、うまく伝わらないばかりか、相手に不満を持たれたり、文句を言われることもある。

相手の考え方次第では、勘違いされることもあるのだが、思いが上手く伝わらずに、何ともやりきれない気持ちになることもある。

しかし、自身自らが相手の事を想い、相手にためになることを誠意をもって考えて、言葉をかけて、慮ってやることは、相手にどう思われようと、自らを欺かないという点において、真摯で誠実な対応であり、自分の心を裏切らない、安心のできる対応ではないか。


もしかして、相手が陰で呟いているかもしれない愚痴や悪口を想像するよりも、懸命に、ただひたすらに相手の真の気持ちを汲み、心の深い部分で、相手の心に気を配ることは、決して無駄なことではなく、真に正しい行いである事を信じたい。



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心に響くもの

2022年12月03日 | Weblog

私は大道塾の横須賀・湘南支部で指導者として日々稽古指導をしています。


ある年齢で職場を辞し、独立支部の運営を始めました。

若い頃から考えていた通り、自分の人生を見つめ直す時間を持とうと35歳で一旦職を辞し、その後半年間、自分の人生を見つめ直し、自分の進むべき道を考え直す時間を持つことができたのは、仕事の中でのタイミングや運もありますが、とてもいい期間を過ごせたと思う。

人生において心に響くことは、人生の中ではそれほど多くある事ではないかもしれませんが、私自身、人生の中で心に強く響く出来事が何度かありました。

私が道場運営をしていくにあたり、心に響いたいくつかの出来事。

その響きが、今の道場運営にとても大きく影響していると感じています。



試合に勝つための目先の利益のためではなく、コツや要領を身に付けるための知恵ではなく、人生の中でのひと時を過ごす中で、必ず行わなければならない行い(いわゆる義務教育期間の学校に通う事や、塾に通うなどの受験勉強など)ではないものながらも、とても満足のできる感覚を得られたのは、高校生の空手部の稽古の中。

試合に勝つためのコツを教えてくれるわけではなく、ただひたすらに基本稽古に打ち込み、懸命に汗を流し、必死な気持ちでエネルギーを注ぎ込むことで評価をされる、実に単純で単調で、懸命な気持ちだけが評価される、高校の空手部の稽古がとても新鮮で、楽しく感じていました。

もちろん、試合で負けるたびに、何かが違うような、何かが足りないような、このままでいいのかどうか、という疑問をなんども感じていたことも事実ですが、それでも、その頃の自分の心がピタリとはまり、無心でいて楽しく、爽快感を感じていたその稽古が大好きな空間であり、そしてとても大切なひとときであったことは間違いありません。


もしその顧問の先生が、試合のキャリアが豊富で、勝つためのコツを要領よく、効率的に教えて下さる先生であったなら、高校で多少の成績は残せたとしても、私は今現在、武道団体の指導者として道場に立っていなかったかもしれません。


またあるフルコンタクト空手の道場で、心が震えるほどの畏怖を覚え、心の底から尊敬し、無心に憧れた先生や先輩方に出会えたことは、私にとっての大きな財産となりました。

大きな憧れを持ち、尊敬し、人はこれほどまでに真摯に、そして懸命に稽古に打ち込み、その稽古に打ち込める環境を与えているその先生の真剣で情熱的な姿勢に心を打たれ、高校生の頃の、その時の我が身と心を恥じ、人としての心の姿勢を正された想いがあった。


またある時期、自分の人生において、日々の稽古指導の方向性にモヤモヤとした不安を感じ、思い悩んでいた時、ある伝統派の空手道場を見学した際に、その稽古の雰囲気やその内容、その規模を目の当たりにして、自分の目指すべき道場の姿を感じられたことは、大きな財産となり、今の道場の形に繋がっています。

その他、実際に体験はできていませんが、ある書物から、「こんな道場で学びたい」という私の理想形の道場の存在を知りえたことも、私にとっての、とても大きな財産となっています。

そのいずれもが、今現在、私が在籍している団体とはまったく異なる道場であることには不思議な感もありますが、自分の人生に影響を与えるほどの大きな心の響きは、今の世の中の、どこに転がっているものかわからないものだと感じています。


私の目指す道場の形は、大道塾という団体の中ではとても特異な形であり、激しい攻防を強いられるフルコンタクト団体の中でも特殊なものであり、多くの様々な武道団体の中でも、どことも比較できないような立ち位置の感じられるものだと感じています。

今現在、ある程度の基盤が整ってきてはいますが、理想とする道場の形には、まだまだ足りないものがたくさんあり、少しずつでも、理想とする形に近づけていきたいと考えています。


今現在は三分の一の、基礎段階。


次の段階では、ある程度の大会での成績と、稽古生の心の拠り所となる存在の確立を目指していき、その後には自己評価ではあっても、より満足のできる道場に仕上げていきたい。


最終的には、年齢や性別、健常や障害の度合い、素質や生まれ持った性質の相違を超えて、多くの多種多様な方々が、共に稽古に励める道場の在り方を模索していきたい。

自分の人生をかける価値があるものを見つけられた喜びは、何物にも代えがたく、これまでに係っていただいた方々に対する感謝の念は、安易なものではない。

体の弱かったものが強くなり、体力に自信のなかったものが自信を持て、意気地の無い心の弱い子たちがとても強く、逞しく、周りの方々にとって頼りがいのある存在になってもらいたい。

意欲がなく自信のなかったものが、自分に自信と誇りが持てるようになり、何事にも前向きに取り組めるような意欲的な心を持って、より良い人生を育んでもらいたい。

これがラストチャンスとばかりに初めて道場の門をくぐったものが、強く逞しく、頼もしくなり、確かな技術とある程度の体力をつけ、懸命に努力をしている若者たちを教え導き、自分を誇れる、人生の軸になるような心の柱を立ててもらいたい。


これまでかかわっていただいた方々、そしてこれからかかわっていただく方々の全てに対する感謝の念を持ちつつ、夢を実現すべく、残りの人生を掛けて取り組んでゆきたい。


多少、堅くて重い話で失礼しました。





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ヤジは国会の華?

2022年10月07日 | Weblog
今の国会では、とてもひどいヤジが飛び交っています。


「ヤジは国会の華」と言われることもありますが・・・


もちろんいつも攻撃を受けるのは与党側であり、その多くは自民党側となりますが、それでも一時期、自民党が野党に下がったときには、その自民党が好きなようにヤジを飛ばしていたので、ある意味で、「お互い様?」 なのかもしれません。


しかし、


もし、学校の話し合いの中である生徒がヤジを飛ばしたらどうなるか?

当たり前ながら、先生から注意を受け、その行為をたしなめられる事でしょう。


翻って、国会に限らず、様々な場で、大人の方々は話し合いの場でヤジを飛ばすことがありますが、それならば、子供達にもそのような行為を、ある程度は容認してもよいのではないか? とも思えたりします。


何らかの事件で記者会見を開いたり、地域の問題を話し合いにより決着をつけるために設けられた場など、多種多様な方々が集まる場では、必要な愚痴もあれば、無責任なヤジも多く見られるような気がします。

自分の仲間でなければ、何を言っても許されるのか?

自分の反対意見に対して、もしくは自分の意見が通らなかった場合は、答弁をしている人の言葉を遮ってまで、ヤジを飛ばしてうるさくわめいてもよいものなのか?


我が子が危害を加えられたような事件、我が家の財産を脅かされるような事件性のある話し合いの場であれば、頭に来た人が大きな声でヤジを飛ばしたくなることもあるでしょう。

しかし、職場の会議などでは、意見のぶつかり合いの中で話し合いが紛糾したとしても、国会で見られるような、相手を粉馬鹿にするようなヤジは飛ばさないのでは?



国会という場は、どういう場所なのでしょうか?


激しい答弁が繰り返されることは必要でしょうが、印象的に、腕くみしながら椅子にのけ反って、ヤジを飛ばしてにニヤニヤているおじさん方が多いように感じられる国会の酷いヤジは、いい加減にしてもらいたい。

高給を得ていながら、国会という場で言葉遊びをして時間を無為に過ごし、ストレスを発散しているようにしか見えない。


能力のある方々が集まり、国の方針を決めるとても大事な場で繰り広げられる、実に下品で他社への配慮の見られない今の国会という場には、少々寂しいものを感じます。


この国会を、子供達にもわかるような内容に編集し、子供たちに繰り返し見せたとしたら・・・



大人の方々に対する信頼を大きく揺らぎ、

日本という自分の国に誇りが持てなくなり、

子供の感性は、「とても悪い」と評価されるものとなるでしょう。



道徳教育的にみれば、子供達には決して見せてはいけない、不道徳な、決して真似をしてはいけない、悪しき教材となる事でしょう。


ヤジを飛ばす方が悪いのか、ヤジを飛ばされるほうが悪いのか・・・


少なくとも

我々の道場は、調和のとれた他社への配慮と思いやりのある場として、子供たちに誇れる大切な場としての在り方を、これからも大切にしていきたいと思う。





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