武の道へのこころざし

大道塾の横須賀・湘南支部の責任者が、日々の活動に関する出来事や想いを綴っていきます。

子供の心を殺してはいけない

2018年09月08日 | 武道の心


「武道」を学ぶことで、護身の為の術(すべ)を身に着け、日々の稽古で心身を継続的に鍛えることで、精神修養になります。もう少し柔らかく表現すると、身を守る技を身に着け、稽古を続ける中で体力や精神力が向上し、そこに、子供たちに対する教育的な側面が存在し、社会人に対しては、生涯武道としての学びの場となり、スポーツとしてのやりがいがあり、体力向上や健康増進、大切な仲間づくりなどのより良い側面が備わっています。

元々のそうした武道を学ぶ上での目的や利点を見失ってしまう原因に、武道の過度な競技化があります。他のスポーツと同じように、競技で競い合い、勝ち負けを決めることに終始する練習体系に流されてしまうことで、武道本来の良さが薄れて、いったい何のために武道を学んでいるのか、また指導者やその親御さんたちは、何のために武道を学ばせているのか、という視点が大きく欠如してしまう危険性をはらんでいます。

私が指導する支部内の大人の稽古生の大半は、”次の大会のために頑張る” という方はかなり少数派で、日々の稽古を継続する中で、自分の技や心を磨くことを心がけておられると思います。そのため、多くの稽古生がいる中で、大会にはあまり出場されない方や、元々、大会出場を念頭に置いておられない方も多くおられますが、ある意味でそうした方々が大半であることが我が道場の強みでもあります。逆に時々大会に出場したり、競技に積極的に取り組んでいる人もいて、そうした稽古生がいることで、共に稽古をする方々の実際の実力のバロメーターにもなっており、またそうした方々が大会で活躍されることが、稽古生の皆さんの励みにもなっています。



子供のジュニアクラスでも、多くの稽古生は日常の稽古を継続する中で、定期的に審査会を受験することを目標を定めて、実力の維持と向上に努めています。そんな中でもジュニアクラスの一部の稽古生は選手クラスに所属して、定期的に大会に出場して実力の向上に努める努力を継続しています。

問題は、他の支部や他の多くの武道団体が、競技にあまりに重点を置きすぎて、武道の本質を見失っているのではないかと思われるところです。

競技は、お互いに技を競い合い、実力を測るための一つのバロメーターになるものであり、競い合う楽しさを得られたり、明確な目標を持てるなど、いい点もたくさんありますが、本来は ”武道の技を競い合う” という事は、相手を直接的に攻撃しあう事であり、方向性を一歩間違えてしまえば、悪い人間を育てることに繋がりかねない恐れがあるということです。また、どのようなスポーツにしろ、子供の健全な育成という観点から考えると、健康を害するほどの過度な負担を子供に強いることは、正しい方向性であるとは言えません。

しかし、道場に所属する中学生や高校生が、学校の部活動で、骨折や靱帯損傷など、大きな怪我をする子が実に多いのがとても気になります。一方で、空手のようにとても激しく見える武道であっても、私の指導する道場内では、稽古中に骨折などの大きなけがをする小中学生はほとんどいません。

逆に学校の部活動で怪我をする子が多く、その時はしばらく道場を休会することになります。また部活動で痛めた体をかばいながらも、できる範囲で稽古に参加している中高生の子供たちを見ていると、実に健気であり、感心するばかりです。決まって私が口にするのは、「怪我に注意ようね」という言葉ばかり。





ところで、9月初旬に大道塾の大会があり、横須賀湘南支部から大人の稽古生を含め、13人の稽古生が大会に出場しました。


今大会の主催者側の意向で、小中学生はすべて男女混合での、大きなくくりのトーナメントとなりました。

女子にとって、格闘競技で男子と同じ土俵に上がるのは厳しいはずですが、皆一応に健闘を見せてくれました。

大会には勝敗がつきもので、多くの関係者の方々は、誰が勝ったか、どの支部の稽古生が勝ったのか、何人が入賞したのかなど、その勝敗にばかり目が向きがちですが、大切なのはその勝負に臨む選手たちの姿勢です。私自身も若い頃は勝敗にこだわる一競技者でもあり、自分の成績と、自分が指導する稽古生が勝つか負けるかばかりに目が向いていましたが、長年の指導を通して、今はかなり視点が変わってきており、大会に出場している選手や他支部の方々の様子、審判員などの役員の方々や運営者側の様子など、その中身をかなり落ち着いて見られるようになりました。

また出場する選手に対しては、その結果は全体の中での一つの側面であり、その子が大会出場するまでの稽古の時の心がけ、大会に臨むその意気込み、前回の大会出場時からの変化、試合に勝った時や負けた時の様子、そして大会後の道場での様子などをしっかりと見守ってあげる必要性があります。

そうした全体のサイクルを通して、成長の一助になるような工夫を重ねているのですが、大会出場する子供たちのことを考える時、周りでサポートする大人の方々に、一番求めたいことは、


  「子供の心を殺してはいけない」


という事です。



競技に勝つ子でも負ける子でも、心が死んでしまうようになってはいけません。

指導者や保護者の方々にとっては 「そんなの当たり前だ!」 と思われそうですが、親や指導者にとつて無意識的にでも、”子供の心が死んでしまうのではないか” と、私自身の目で見て、心配させられる様子が多く伺えるのも事実です。

簡単な表現を使えば、「燃え尽き症候群」しかり、「もうだめだ、、」という、諦めの気持ちを持ってしまう事や、元々のその子の性格が格闘性の強い競技に向いていなかったり、向いているかどうかも分からずに、意味も分からず蹴りやパンチを繰り出して、激しい攻防に身を費やすことで、気持ちがすさんでいくようになることを危惧しています。

また、こうした競技にたまたま素質があったり、実はそれほど好きではなくても、勝って賞を取ることで、自分の好きなこと、自分のやるべきことだと錯覚して、周りの応援もあって辞めるにやめられずに、何となく続けていくことで、他のスポーツや習い事など、自分の可能性の範囲を狭めてしまうことも危惧されます。

一方で、こうした格闘競技が好きで、素質もある人であったとしても、いつも試合に勝って周りからも盛大に応援をされていく中で、人としての本来のあり方を忘れ去ってしまう危険性も考えられます。


自分の実力を過信しすぎて、自分が偉い人間になったように錯覚することで ”天狗” になってしまえば、どの世界でも自分が評価されるものだと勘違いしてしまうかもしれず、将来、別の世界に足を踏み出すことができず、自分の力を評価してもらえる小さな世界で、裸の王様になってしまうかもしれません。

また、大会でそうした武道の ”技を駆使する” ということは、ある意味で人を痛めつけることにもなりますが、そうした競技性を何も考えずに継続していく中で、人の痛みに鈍感になりすぎると、相手に対する配慮がなくなり、人の気持ちを自分に置き換えて考える力が弱くなってしまいます。人の気持ちがわからないものが、人の世の中で役に立つとは決して思えません。

勝負に勝ったことで相手を見下したり、有頂天になって喜ぶよりも、負けた相手への配慮があったり、負けた仲間へ思いやりを持つことができているか。試合に負けることでクヨクヨし、もう人のことなんでどうでもいいやとばかり、仲間の応援一つできないようでは、皆で一緒に頑張って稽古をして、皆で大会に参加した意義が薄れるばかりで、チームの皆の心もばらばらになってしまいます。


勝負は、


  「勝って奢らず、負けて悔やまず」


と言われます。



勝つには勝ち方があり、勝った時の心構えがあります。

また、負けた時にはその負け方があり、負けた時の心構えがあるというものです。

そこをどう考えているのかが、武道家であるのか、ただの野蛮な格闘家、もしくは偏ったスポーツ偏重主義に陥った競技者や利己主義的な人間になるかの瀬戸際です。


  「心を殺す」


というのは、少々恐ろし気な表現ですが、、、


大人である我々は、こうした競技を通して、決して ”子供の心を殺してはいけない” と今大会を見ていて改めて深く考えさせられました。



手前味噌ですが、我が支部の選手たちは、一般もジュニアも含めて、皆一様にいい戦いができていたと思います。

何よりも心が生きていました。

そういう意味で、正々堂々と精いっぱい戦った選手のみなに感謝です。



少々悪い表現を使っていますが、他の支部でも良き指導者や、とてもすがすがしい綺麗な心で大会に臨んでいる、目標となるような選手もいるものです。高みを求め、謙虚な姿勢で高い向上心を持って頑張っていきましょう。







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継続の心構え

2018年08月10日 | 武道の心

初心を忘れず、稽古を継続していくことはとても難しいことかもしれませんが、この辺り、かなりの個人差があり、稽古を継続できる方、稽古の積み重ねを地道に行える方、継続的な稽古の中で、しっかりと着実に実力を向上させることができる方の特徴に関して、私なりに感じている事をまとめてみます。

入会時に、過去の経歴や経験した内容を、実際よりも大きく膨らませて周りに伝える方は、あまり稽古が長く続いていません。また、他の稽古生とのコミュニケーションがあまりとれない方や、逆にすぐに指導者側といち早く仲良くなっていろいろと親密に話をされる方も、離れる時はあっという間で、「地道な稽古の継続」という姿勢はなかなか身に付かないように感じます。

少年部でも一般部でも同じですが、あまり周りの多くの稽古生とコミュニケーションを築けない方は、仲の良い人が稽古に参加していない日は気持ちよく稽古ができなくなり、やはり、継続性はむつかしくなります。

逆に見れば、継続性の高い稽古生の特徴として、「稽古生同士のコミュニケーション」が比較的スムーズに取れる方、道場内で話をできる方が複数いる方、過去の経験や自分で考える理屈に固執しない方など、稽古の中での「前向きな姿勢」と「素直さ」がとても大きく影響を与えていると思います。



これは、コミュニケーションの ”能力” の問題ではなく、「意思」 の問題です。



必ずしも、だれとでも仲良しになる必要があるわけではなく、ともに稽古をする仲間として認識できるかどうかという事と、ペアを組んで稽古をするときに相手に気が使えるかどうかという事です。


また、自分の成長よりも、人と比較してばかりで、悩んでしまう方もすぐにあきらめの気持ちが心にもたげてしまうようです。経験の差、年齢の差、体格の差や、元々の運動神経の差など、、人と比べていては、自分の成長具合が見えなくなってしまうというものです。


そして「素直さ」という点でいえば、話を聞いているときの目の色やその時の仕草、返事の仕方である程度のことはわかるものです。心がまっすぐにならない場合は、まずは姿勢を正し、相手を直視して、意識的に前向きな気持ちで話を聞くようにします。私の話は、技の使い方ばかりではなく心持や精神的な話もしますが、聞いたことはまずしっかりと飲み込んでいただきたいと思います。決して、指導者の言葉のすべてを妄信して受け入れる必要はありませんが、一旦飲み込んでみて、自分で理解できるかどうか、自分に合うかどうかを判断し、自分の理解を深めていただければと思います。


また私の指導する各クラスは、大人のクラスも子供のクラスも、指導者が教えるだけではなく、少し上の先輩が後輩を指導したり、上級者が下級生の指導を行うような稽古メニューを組むことが度々あります。こうしたとき、技の説明などで、指導する人に応じて言葉の使い方、説明の仕方、そのポイントに関して異なる説明をすることがありますが、そうした説明を柔軟に受け止める力がある方は、ストレスを感じることなく、稽古を続けていきやすくなります。


稽古では指導者との信頼関係がなければ、居心地のいい環境は作られず、信頼関係も築かれません。もしその道場の指導者が、どうしても自分に合わないと感じたときは、そっとその道場から離れるのがいいのかもしれませんが、本当に自分に合うのか合わないのか、しっかりと考えてみる必要があります。特に大人の方は、これまでのたくさんの人生経験の中で、自分の中に「殻」が出来てしまい、自分で自分に制約をかけてしまうことがあると思われます。


「自分の才能はこの程度だ」


「自分の好みはこうなんだ」


「これは出来るけどこんなことは出来ない」


「これはやりたいけど、これはやりたくない。。」



などなど。



「技を身に着ける」という事は、自分の殻を破ることにつながるのだと思います。

併せて、武道的な精神を身に着けるには、一旦自分(の価値観など)を捨てて、真摯に取り組む姿勢が必要になります。

たとえば、自分の命を懸けて判断せねばならないほどの、何らかの大きな決断を迫られた状況を考えてみるとどうでしょうか? そうした命がけの経験を、前向きな気持ちで何度も乗り越えてきた人は、元々の自分の殻を破り、新しい価値観を吸収しながら、より強く生きられる力を得ていると考えられます。

昔の、侍の時代の武道家は、剣術などの 「武道を学ぶ」 という事は、命を懸けて学んでいたと思われますので、学ぶ覚悟が今とはかなり異なると思います。

今の時代、そこまでの厳しい決断は求められるものではありませんが、少なくとも、ある程度の「覚悟」をもって稽古を継続していければ、これまでの自分の殻を破り、新しい自分の道を築いていける力が得られるものと思います。

一つの道を続けるということは大変難しいことだと思いますが、日々の道場での稽古が「自分の道」だと思える人にとっては、懸命に覚悟をもって学んでいく価値があるものと思います。



私は大道塾以外に、子供のころからいろいろなものを学んできました。小学生の頃の剣道に始まり、高校で伝統派の剛柔流の空手、フルコンタクトの極真空手、その後、社会人になってからの徒手格闘術や柔剣道、そして27歳から学び始めた柔道などです。

その外、武道以外にもいろいろなスポーツや学習、仕事などを通して、懸命に取り組んだことは沢山ありますが、自分を磨く道として、「武道」という分野が自分にとって一番だと感じ、人に伝えるべき、とても価値のあるものとして、現在、大道塾に籍を置いて、今に至るまで稽古指導を続けています。




続けえる価値のあるものと認識できる多くの仲間とともに、、、


今日も稽古に励む毎日です。










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私の道

2015年03月11日 | 武道の心


目立たなくともよい。

有名にならなくともよい。

人から評価されなくともよい。



大きな名誉や多くの利益を得る事を目的とせず、その場で、その時に、最適で最善の選択をする。

自分自身の心が一番正しいと考える選択をすること。

そうした選択が、“出来るように”なる事。



学ぶものにとって良いものであり、

人の道として正しいものであり、

そして武の道として、真実の道であること。



我、武道家であれ。



体の節々が痛く、肘や膝が十分には曲がらない時もある。週末になれば、クタクタで泥のように寝入ってしまうこともあるが、しかし私の体はまだまだ動かす事ができ、気持ちの上ではいささかも怯んではいない。



常に武の心を忘れることなく、

武の道を外れることなく、

永く武の道を歩み続ける覚悟を持ち続ける事。



日々、「覚悟」の繰り返し、



この想い、この覚悟の繰り返しが、自分の人生をより良いものへと導くものと考えつつ。



明日も覚悟の心を持って生きるべし。



この人生を存分に楽しみつつ。。。




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武道を名乗ることへの責任感

2013年10月10日 | 武道の心



武道家であるはずの武道団体の指導者は、その心を忘れずに日々の稽古指導を過ごすべきであると考えます。


何故だかこんなことを今更改めて考えさせられてしまうのが悲しいところです。


武道団体の指導者は、戦いを通じて、また強くなる為の日々の稽古を通じて技を身につけ、心を磨き、そして人として大切なものを学び、また学んだものを、これから学んでいく方々に伝えていく役割があるのだと思います。


現代の武道を名乗る団体のなかで、役割をはき違えている指導者が、多すぎやしないでしょうか。


戦うための技術がある一定の型にはめられてしまって、色々な型を形式的に事細かに覚えることに汲々とし過ぎて、実際の戦いにおける強さを向上させる努力を怠っていることへの反動がみられた時期がありました。

その反省なのか、実際に戦ったらどの団体が強いのか? 誰が強いのか? と言ったことが意識されるようになり、異種格闘技戦が行われたり、武道団体が対立・分裂して乱立したり、総合格闘技などが流行るようになった時期があります。

また、戦う術を学ぶ中で、人としての道を加味して作り上げられた武道をわざわざこわし、その源流である“武術”といわれる言葉がもてはやされることにもなりました。

いわゆる勝負に勝つこと、人よりも目立つこと、何が何でも勝ってやるとばかりに、手段を選ばずに、ある意味で人としての品格を喪失してでも勝敗にこだわる姿も目立ちます。

また一方で、各種大会から地区、そして全国大会、それに続く世界大会やオリンピックと言ったメディアをにぎわす大きな大会への影響もあり、注目を浴びる大会で、ただただ、競技ルールのなかで行われる試合で勝つことだけを価値あるものとみなしすような競技偏重の風潮も見られます。

大きな大会になれば新聞やテレビなどでも大きく取り上げられ、有名になり、世間の大きな注目を集めます。


一つの宣伝方法としては、まだテレビに勝るものはありませんが、武道を名乗る団体が、世間の波に流されるだけの姿勢でいたのでは、なんだか寂しいではないですか。

型にはまりすぎるのもよくありませんが、一方で強さだけにこだわりすぎる姿勢にも問題があるということで、日本は“武道”という、世界に発信できる素晴らしい文化をはぐくんできたのではないでしょうか。


試合に勝つことだけを考えるのなら、単に競技スポーツを名乗っていただきたい。実戦の戦いだけを意識するのならば、単に“格闘技”と名乗ればよく、また型の習熟度だけを学ぶのであれば、演武や舞踊など、また別の名乗り方があるのではないかと思います。




強くなる為の日々の稽古を通じて、技を学び、その技に工夫を凝らし、その技を試し、そしてまた工夫していきながら、その中で人としての道をも模索していく姿勢を大切にしたい。




と私は考えます。




稽古生から信頼される指導者でありたい。
その為の日々の努力と誠実で真摯な姿勢を貫いていきたい。

人それぞれ価値観や考え方は異なりますが、私としては、そのように考えていただける指導者が一人でも増えることを願っています。




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武道家の本分

2013年08月28日 | 武道の心


武道を学ぶ上で一番大切な事

大人のクラスにおいても、子供のクラスにおいてもしかり。

日々の稽古において、指導者がどういったものを大切に指導しているか、ということが、道場のあり方を決めることになります。



これ、とても重要なところです。



指導者が何を考えて、何を目的に指導を行っているのか。

このあたりをおろそかに、もしくは深く考えないで適当に日々の稽古を行っていては、道場で学ぶ稽古生たちはどういう方向へ流れていってしまうのでしょうか。



流されてしまうんですね。

今の流行、もしくは時代の流れに。



良くも悪くも、時は常に流れ、時代はいろいろな価値観を育みながら流れていきます。



目先の利にとらわれてしまうのか、自分の考えを持たず、ただただ上の立場の指示に従って稽古をしていればいいのでしょうか?

現在の流行や目先の利益にとらわれて、視点が緩んでいる指導者がじつに多いのが現代の武道団体の大きな問題点であると私は考えます。

そういう私自身、いろいろなものに流されないよう、自分の意思をしっかりと確立し、自身で正しいと確信を持てる稽古指導をしていきたいです。




やや抽象的な話になりましたが、もうすこし分かりやすく話をしてみたいと思います。




我々は“武”の道を志し、この道へ踏み出しました。



稽古生には、「戦いを通して身を守るすべを身につけること」をまず第一に考えて頂きたいと考えています。



世の中に敵はたくさんいます。

目の前に立ちふさがる“相手”がいれば、自分の成長の障害となる弱い自分の“心”もあります。

腕力による直接的な争いがあれば、心理的な争い、そして心の葛藤もあります。

いろいろな人の言葉や人の視線、または世の中の社会的な状況や、時には大自然が人に大きな災いをもたらすことも多々あります。



我々は自らの身を鍛えることにより、自分自身の身を守り、仲間を守り、より多くの人々を守る強い力を身につけることを目的として稽古をしていくということがとても貴いことであると感じるべきではないかと思います。



人より抜きんでて早く上のクラスへ上がることや、級を上げることなど、、、
とても小さなことです。

試合でちょっと勝つことや、目立つこと、有名になることなどがそれほど大切なことでしょうか?

競技者として勝ち続けることに価値を持つという考えも一部の選ばれた競技者には、そしてそれを見守る人々にはとても大切なことで、応援する周りに勇気も与えますが、それはあくまでも一部の人であり、また決して武道家としての本分ではありません。

競技に勝ち、有名になり、名声を得たはずの人物が、いったいどれほどのものでしょうか?



大道塾に限らず、私は反面教師としてのチャンピオンクラスの競技者を多く目にしてきました。



私も過去に大道塾の全日本での優勝経験がありますが、その当時の実にお粗末な自分自身の精神状態を、今の私は心から恥じています。





戦いに強くても心の弱き人は、自分の大切な人どころか、今後の自らを助けることもできません。

よく知っているはずの自分自身、その、たった一人をも助けることが出来ないかもしれないのです。



大会でトップに立たなくとも、日々の稽古で努力を重ね、ある意味、自分の武道を確立した、もしくは確立しつつある、と思われる人々を私は多く知っています。(逆にそうした人に限って、自覚がないように見えるのが不思議なところです。)




私は日々の稽古を通して、そうした稽古生を、一人でも多く育てていきたいと感じています。




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喜怒哀楽

2012年06月04日 | 武道の心


喜怒哀楽と表現されますが、人には色々な感情があり、表現の仕方あります。


いつも穏やかに、、、いられると良いのでしょうが、やはり、人はそうはいきません。


何かに喜んだかと思えば、細かい事に腹を立て、そして悲しみ、時には安らぎの気持ちを感じながら日々を過ごしています。


人は、時にいろいろな表現をすることで、いわゆる喜怒哀楽を交互に表に表出しながら、心のバランスを保っているようにも感じます。






人生の中で、これまでに物事に必死に取り組んだ人、何かに熱中した経験のある人、そうした喜びや感動、そしてより深い苦しみを乗り越えた人ほど、逆に怒りの感情や落ち込んだ時に気持ちなども、より深く現れるのではないでしょうか。


鍛えた人ほど、それぞれの感情は深く現れますが、逆にバランス良く、心を一緒に鍛えた人であれば、そうした感情をうまくコントロールする術を持っているため、周りからは落ち着いた人だと思われる事もあるでしょう。



このような、人が持って生まれた、そして決して消すことの出来ないこれらの “感情” の中で、怒りや悲しみの感情をどの様にコントロールしていくのかという事は、人にはとても大切なことだと思います。


その怒りの感情を人にぶつけて、 「あくまでも戦っていくのだ!」 という人がいれば、逆に自分の中にため込んでしまい、精神的なストレスを抱え込んでしまう人もいます。


また、その怒りの方向性をコントロールしつつ、柔軟に対応していける人などは、比較的温厚な性格だと周りから見られていることでしょう。



怒りの感情を何処にぶつけるかで、その人の評価は大きく変わってきます。 自分にぶつけるか他人にぶつけるのかで、その人の周りからの評価が変わり、人間関係も大きく変わってくるものですが、怒りの感情に関しては、それ(自分か相手か)以外のものにぶつけるという選択肢もあるのではないかと私は考えます。




実は私、比較的温厚な性格だと思われることが多いですが、実はかなり激情的な部分があり、若いころはその熱い思いをぶつける対象が定まらず、空回りばかりしていたという思い出があります。



そして、私が現役の選手をしていた時代のエネルギー源は、強い、強い “怒り” でもありました。


戦う事が自分の楽しさと感じる、選手として天性の素質を持った方も多くおられますが、私は逆に、試合前には楽しんで戦っていたのではないため、その “強い怒り” のエネルギーが湧き上がってこない時は、あまり芳しい成績は残せていません。


何に対する怒りかは置いておいて、人間がもつ喜怒哀楽の怒りの感情を試合に持ってくることで、試合においてそこそこの成績上げ、そして普段は温厚な自分を維持できていたように感じます。


いまでも、いつもニコニコしていて、温厚そうな、ごく普通な感じの人、、、といわれることもありますが、現在の私の中にも以前にもまして、非常に強い “怒り” の感情が渦巻くことがあります。




方向性、コントロールを間違うと、自分にとって “厭な” もしくは、 “嫌いな” と感じる、対象に向いてしまいがちですが、最近は比較的上手くコントロール出来るようになりました。


最近とみに怒りを感じることは、世の中の不正や残虐な事件に対するものです。


40歳の半ばでやっと子供を授かった私からしてみると、力の無い、逆らいようの無い乳児や児童に対する虐待や、老人ホームでの虐待事件、年老いた実の父母に対する傷害事件などは、何物にも代えがたいほどの激しい怒りを感じます。


しかし、不正を働いた加害者に対してではなく、そうした事件が起こったその背景に対しての、強い、強い、憤りです。


社会的な力のない私には何もできませんが、、、


夜中に、一人新聞を広げつつ、、、




しかし、真夜中に酒を飲みながらこんな事を書いていると、文章のまとまりに収拾が付かなくなりますね。。。





皆さん、




いい夢を見ましょう!




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一般部の稽古生に臨むこと

2012年06月03日 | 武道の心


まず、支部内のクラス区分に関するお話です。



支部では、高校生以上の稽古生を、一般部として区分しています。

細かくは、高校生、大学生、社会人(20代までの一般部)、社会人(中高年者のビジネスマンクラス)、というふうに支部では区分していますが、各道場共に、設けるクラスの数に制限がありますので、大人のクラスは全て一般部として、一緒に稽古を行っています。


将来的には、可能な限り、もう少し細かくクラス分けをしていきたいと考えており、手始めに、ゴールドジムの土曜日クラスに、ビジネスマンクラスを設けました。 将来的には、60歳代以上のシニアのクラスなども設けていきたいと考えております。




こうした幅の広い年齢層に方々に対しての稽古指導を続けていく中で、私が一番伝えていきたいのは、 “稽古を続けていくことで得られるものの価値を認識し、その喜びを得られる事” 、そして “稽古を継続することで自分は向上しているな” という確かな “確信” を得てもらいたいという事です。

そうした稽古を通して、最終的には、 “自分に対して確信的な自信” を得る事が出来ればと考えています。




稽古を途中で挫折する方の多くは、自分の中で、 「このまま継続しても向上するのかな?」、「もう無理かな?」 という諦めがあるのではないでしょうか。


自分の実力が伸びないのではなく、伸びないのではないか? という思いこみが、自信の向上心を阻害している場合がほとんどです。

私がこれまで見てきた中で、これ以上の成長はちょっと無理かな? と感じた方はほとんど皆無といってよいでしょう。


中には、交通事故や病気等の大きな病で稽古が続けられなくなった、など様々な事情で継続したくとも出来なくなったという方もあると思いますが、本人の持つ能力的な部分で言えば、ほとんどの方が向上していけるのにも関わらず、自ら諦めてしまう事で、自分の気持ちにブレーキを掛けて締まっている場合が多いように感じます。


稽古を続けていく中で、技術の向上スピードには個人差がありますが、中でも大きな問題は、慢心です。 そして諦めです。 その他、これ以上、キツイ事をしたくないという、気持ちになった時でしょうか。


人は生きていく中で、きつい思いをしないで一生を終えることはあり得ないでしょう。 また、キツイ運動などから逃げていたとしても、病気になったり、年齢による衰えが来たり、そして自分の一生を終える時期が近づいてくると、心身ともに非常に厳しい時期を迎えるのではないかと思います。


しかし、若い時期から継続して頑張る気持を、楽しみながら持ち続ける事が出来ていれば、長い期間にわたって稽古を継続した体と、何よりも強い精神、そして長く稽古を続ける中で身に付いた、腹の据わった “覚悟” の精神が備わっていれば、キツイ事柄から逃げてきた人と比較して、より良い一生を、落ち着いた気持ちで終える事が出来るのではないかと私は考えます。





ところで、技能向上をを阻害するもう一つの問題である “慢心” に関してのお話にもどります。


稽古を見ていると、その慢心は、自分の後輩と対峙したときや、基本動作の稽古をするときなどに顕著に表れてきます。



組手の稽古において、稽古を始めたばかりの初心者が上級者と対峙すると、どういうことになるでしょうか。 思いっきり突いても蹴っても上級者はビクともしません。 組んで投げに行ってもズッシリとしてビクともせず、すぐにひっくり返されてしまいます。 寝技で上になってもすぐに返され、下になればまったく身動きが取れなくなります。


そうした実力のある上級者が、慢心した態度で対峙すると、その時間は上級者にとってはまったく無駄な時間になってしまいます。


そうした時こそ、普段、自分が苦手とする技や、難しいカウンターの合わせ技等の技を試す時で、後輩を相手にする時こそ自分の技を伸ばすいいチャンスなのです。 そして自分の持てる技術を、相手が理解でき、かつ習得できるように教え、上手く伝えることで、自分の技の理解を深めることができます。


そう考えると、 「相手をしてあげている・・・」 のではなくて、 「自分の相手をしてくれている」 相手の稽古生に感謝の念すら湧いてくるのではないでしょうか?




それを、帯下の相手だと、なめて掛かっていくような態度を取る人は、それ以上の向上が望めず、また、人を育てる道場とういう場所の意味を履き違えており、精神面での自己の向上は望むべくもありません。



一緒に稽古を続ける稽古生の全員に感謝の念を持ちつつ、日々の稽古を頑張っていきましょう。




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自らの身をもって示す事が大切

2012年06月03日 | 武道の心

日々、稽古指導をしていく中で、私自身が考えている事です。


子供達のクラスでは、<姿勢を正す事>、<大きな声を出す事>、<集中力を持続させる事>、<しっかりと話を聞く事>、<礼儀正しくする事>等、私が稽古の中で大切だと考える事を、何度も口にしながら、稽古指導を続けています。


そうした事柄を子供たちが身につけていくためには、指導者自身が身をもって示していくことが大切になります。

そのため、私自身の体調が悪くとも、少々腰が痛くても、膝や足首を痛めていても、表情には出さないように、しっかりと普段から姿勢をまっすぐに保ち、構え、技を出して見本を見せています。



若いころから、それほど強くもない体に負荷をかけ続けて、四十も半ばを迎える頃になると、あちらこちらと体に悪いところも出てきます。

毎日の稽古指導に色々な行事が重なると、体に疲労もたまり、時には肩や腰など、色々なところが痛みだしたり、怪我をすることもありますが、人前では、特に子供達の前では表情に出さない、 “やせ我慢” が大切だと考えています。



子供達の話はしっかりと聞き、休憩中には遊び相手にもなります。

成長期のこどもたちですから、時には大人に対して厭な態度を取ったり発言をすることもありますが、厳しい注意を与えたとしても、その子を信頼する気持ちに揺るぎがあってはなりません。



人数が多いクラスでも、一人ひとり子供たちの表情を観察しながら、そして稽古の終わりには一人ずつ名前を呼んで、一人ひとりにカードを手渡していきます。 もちろん両手で、心をこめたお辞儀をしながら。



号令の気合は、喉がやられていて声が出なくても、子供達に負けないよう、気合でその日の稽古を乗り切ります。

どれだけ疲れていても、決して疲れは見せないようにしています。





とは言いながら、、、





日によっては、さすがに今日はしんどいな・・・と感じる日もありますが、妥協するようになった時は、私が指導者として引退する時になるのでしょう。



一般のクラスでは、私よりも一回りも二回りも年長者の稽古生が、懸命に汗を流して、稽古に励んでおられます。

見方を変えれば、私が引退する年齢を、そうした方々が、ぐんぐんと押し上げてくれている、、とも言えます。



指導者である私ですが、皆さんの頑張りに活力を得つつ、これからもより長く、溌剌とした稽古指導を続けていく覚悟です。




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武道教育の弊害

2011年12月07日 | 武道の心


少々長い文章になりますので、読むのが面倒くさい方は、パスして下さい。



ブログのタイトルにもある通り、“武道” とはどうあるべきなのか、、、という事を、私はよく考えます。



堅苦しく一人沈思黙考したり、物思いにふける気分で考える場合もありますが、普段の稽古や日常のニュース情報、その他、色々な方々との会話を通して、その時々に自分なりに思いを巡らせます。



時には酒を飲みながら、一人ボケーッと考えている事もあります。



言葉にすると、色々な言い方がありますが、今の私の気持ちを言葉にすると、「道着を着て行う日本の伝統的な武術(格技)を、人の歩むべき道として精神的な礼節等の要素を加え、人の世の中で役に立つ “道” としての領域に高めたものである」 と考えます。 また、そうあってほしいと普段から願っています。



しかし最近、この精神性が壊れてきている部分が武道会の中に多分に存在していることを、私は大変危惧しています。



この格技としての武道の、戦いにおける強さと、試合に勝つことのみが強調され、その戦い自体がショー化され、テレビに取りあげられ、スターが生まれ、テレビ局などにより戦いのドラマが演出されます。


もちろん、相手を思いやる気持ちや礼儀正しさが心地よく感じられる部分もあり、また、勝利者とともに感動を味わえる喜びがあることも認識していますが、勝利者を過剰に称えるムードや、戦いにおいて相手を批判して、絶対倒してやる!!!とばかりに、汚い言葉でののしったり、威圧的な態度を取ったり、負けた相手に対する思いやのかけらもなく、勝利した自分やその仲間をたたえ合う事に飛び上がって喜ぶ姿、そして、大歓声の応援団の姿を見るにつけ、武道団体がはたしてこれでいいのかな??と感じてしまいます。



これは私の極論になりますが、武道を名乗る団体は、テレビを騒がせるような大きな競技会は必要ないのではないか?とも考えてしまう場合があります。



応援団もろとも、勝つことで飛び上がって喜ぶ気持ちを表現し、勝利者の感動を味わいたければ、球技や陸上競技など、他の一般のスポーツをするのが良いと思います。




あるたとえ話になりますが、、、



主婦の皆さん、日頃の子育てや家事等を懸命に頑張っておられるお母様がた、また仕事と両立しながら懸命に育児や家事にも取り組んでおられる方々。 もしこうした頑張りに対して、一人ひとりに点数がつけられて、チャンピオンが生まれて、1番から順番に順位が付けられたら、どういう気持ちになるでしょうか?

また、毎日多忙な仕事に懸命に勤しんでいるお父様方、普段の仕事の業務に対して、もしくは家庭内での家事や育児の協力姿勢に対して、同じように点数がつけられて、順位が決められ、「あなたは全国で何位になります。もっと上位を目指して頑張りましょう。」 などと点数をつけられることに、どう感じるでしょうか。


もちろん競技に出ているわけではありませんので、比較すること自体が間違っているかもしれませんが、日々の稽古で頑張っている子供たちに順位が付けられるわけではなく、格闘競技には向かない性格の子も多く存在します。


ですから、競技を行うのであれば、自分から希望する子だけを別に区分して(選別ではありません。決して。)行うべきであり、競技を前提とした一般のスポーツと同じように考えるべきではないと考えます。


また、競技化するにしても、人を傷つける事、要は人を倒すことを競技として行うことをどのように考えるか。 また、どういう心の教育を並行的に行っていくのか、ということをしっかりと考えたうえで、心ある方々によって、安全なルール作りを周到に策定されることを望みます。




話は変わりますが、武道教育が中学校の必須科目として実施されることが決まりました。 そして、そうしたニュースが話題になるなかで、ある著名な柔道家による事件が、これまた大きな話題となっています。



特定の競技種目自体に問題があるわけではありません。 私も柔道は講道館で学びました。 その良さも十分に理解しておりますが、現在の競技偏重の柔道界の問題点、ならびにイジメやスパルタ教育による弊害、そして競技自体の危険性も十分に認識しています。 以前の相撲界で話題になったような、「そんなもん怪我のうちに入らん!!」 とばかりに、将来、体に後遺症が出るような怪我を抱えるほどの頑張りを強要する場面は無いでしょうか? これは一般の一部のスポーツ界にも言える事ですが、子供にここまで強要するのは何のためでしょうか? 本当に子供の為なのでしょうか? それとも団体や指導者の名誉の為なのでしょうか?



私自身が元競技者ですので、その競技を行う事の良さも理解しています。

また合わせて、競技偏重による非常に根の深い大きな問題点もしっかりと認識しています。



その両面をしっかりと意識しつつ、今後もより良い方向に向けて、バランスの取れた、そして自分の心を裏切らない稽古指導をこれからも貫いていきたいと考えています。




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指導者の心得

2011年07月30日 | 武道の心

指導者が間違いを犯さぬよう、指導者は自らの心を律し、日々反省を重ねながら稽古を実践していく必要があります。

まあ、どの団体でも、立派な指導者の方々は、自己反省を繰り返しながら、謙虚な姿勢で大変すばらしい稽古指導を続けておられます。しかし、一旦、指導者の気が緩めば、大きな過ちから簡単には抜けられないほどの、深い泥沼にはまっていく危険性がこの世界にはあるように感じられます。




指導者の指示に対して、稽古生は大人も子供も「押忍」の一言で、その指示に従いながら稽古が進んでいきます。

基本的な「道場」としての正当な指導体系を取っている稽古の中では、一人の指導者の元、その指導者の意思で物事が進みます。

稽古が締まれば締まるほど、レベルが上がる程道場内の一体感が生まれ、まとまりが出てきます。そして指導者の影響力が自然に強く、強力になってくるものです。




道場という場では、稽古生は指導者の指示に従うことが大切である事は言うまでもありませんが、この指導者の指示に従う稽古生の謙虚で武道的な態度を、自分の実力だと勘違いしてしまったり、もしくは指導者がそれをうまく利用しようと、知らず知らずのうちに考えてしまう危険性をはらんでいます。

問題は、指導者が問題意識を持たず、人を利用してしまっているという悪意も持たずに、指導者が無意識に、そして自然に権力者的にふるまってしまうところに、武道団体が犯す間違いの根があるように感じます。


稽古の内容やその指導方法に工夫を凝らす事も、指導者にとっての大切な役割ですが、何よりも稽古生一人一人を尊重し、そしてあくまでも、その稽古生を育てていくための手助けをしていくのが指導者の役目であり、何事においても指導者は “謙虚” な姿勢を忘れずに、持ち続けることが重要だと思います。




この世界では、指導者の力とその影響力が非常に強く、一旦権力(本来は“権力”というものではありません)を手にした指導者が、稽古生に威張った態度をとったり、自分のえり好みで特定の人に差別的な態度をとったり、大会や審査会などの各種行事への参加を強制するなど、稽古生を自分の思い通りに動かそうとし始めた時には注意が必要です。

また、道場内の上級者が後輩に先輩風を吹かすようであれば、指導者の立場の人間には反省すべき要素があることを自覚する必要があります。




本来は、指導者が持つものは権力ではなく、 “責任” です。 それも、稽古生一人一人の、その精神に強く訴えうる危険性をはらんだ “大変重要な責任” です。


稽古や各種行事での “事故” に対する責任は指導者にあります。そして、教育者として、指導者として、人に間違った考え方や意識を植え付けてしまわぬよう、しっかりと責任をもって指導に当たる必要があります。


一旦その “責任”を、自分の “権力” だと勘違いして身につけてしまうと、道場で一番上の指導者であれば、その意識を修正するのは大変に困難です。

その “責任” と “権力” を履き違えた感覚を持った指導者の元で育った稽古生達は、本来の武道精神とは異なった、いわゆる間違った認識を知らず知らずのうちに身につけてしまうものです。



子供の教育においてもしかりです。

いや、子供のクラスにおいては、より重い責任がのしかかってきます。



世の中で、少しでも人に影響力を与えうる立場を持つ方々にとっては、日々の反省は大変重要ですね。




小さな一武道団体の一道場の責任者ごときの立場であっても、日々、稽古での我が身を思いながら、そして、他の各団体や各種の道場を見まわしながら、自己修養としての自己反省を繰り返しつつ、今後の稽古指導につなげていきたいと考えています。




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