物造庵 ものつくりあん ナラ(楢崎賢)

ものつくり人「ナラ(楢崎賢)」による
絵や作品の制作過程、自作詩の発表、その他徒然…

「政治的だから」却下された原稿を読んでほしい

2022年10月12日 16時27分12秒 | 徒然のこと
ある冊子から寄稿を依頼されて書いた文章を締め切り前に提出したら「厳しすぎるから」(暗に「政治的すぎる」と言っている)書き直してくれないか、とお偉いさんに言われ、全く違う内容と文章に書き直しました。書き直しでは当たり障りの感じにくい文章をうまく書きましたよ。
でも最初の原稿はせっかく書いたのに行きどころがなくなっちゃったので、よかったら読んでほしい。
なんか思ったら感想などくださいな。
これが「厳しくて」「お叱りを受ける」なら、厳しいと思う人、お叱りする人はこのまま悪くなりゆくこの国で茹でガエルになるつもりなのだろうか。茹でガエルにはならないとたかをくくっているのであろうか。茹でガエルになる前に引退するからそれでよしと思っているのであろうか。そんなの大人って呼べるのだろうか。結局一番割を食うのは今の子どもたちなのに。
この国がこうなっちゃったのは政治的な話を避けてきたからではないか、という文章に対して「政治的だから」却下するその思考や思想を聞いてみたい。
書いてたら熱くなってきちゃった。本当は政治的な話なんてしなくても幸せに生きられる社会がそりゃいいだろう。僕だってライブして酒飲んでマンガ読んで遊んで暮らしていたいよ。でも今はできる限り発言しないと弱者が見殺しにされる社会になっていくじゃないか。そんな中でのほほんとは生きられないぜ。だから言えるときには言う。大人として。
前置きが長くなってしまった。それではどうぞ。↓


「教育と政治」 楢崎賢

 7月の参院選直前、安倍元首相が応援演説中に射殺されました。様々な疑惑を抱えたままで、それを検証されることなく他界してしまったことはとても残念です。しかしながらその事件があったことで、自民党と統一教会の癒着が明るみになり、そのことが結果的には憲法改定の発議を防いでいるのもまた事実です。今まで何度となくあった政界スキャンダルと同じく、内閣総辞職して当然の大事件ですがそうならないのは政界・メディアを中心とした社会全体が民主社会としての機能不全を起こしているからでしょう。
 さて、昨今教育界は政治との絡みで複雑な立場に立たされています。文科省が中心となって制定する教育指導要領にある程度沿ったカリキュラムにする必要から、小中学校の教師は多忙な業務に追われています。行政から出される通達を守らなければ助成金がカットされる可能性もあり、各学校へ対する縛りが強くなっています。本来、教育とは時の政治とは一線を画し、集団としての独立した営みであるべきです。それが今の日本では勘違いされていないでしょうか。公務員である教員や助成を受けている学校は行政に従わなければいけない、という勘違いです。教育は人類が長い年月をかけて積み上げてきた営み。行政はその時の情勢によって移り変わるもの。教育は時の政府の都合や思想によって変えられるべきものではないのです。
 教師は政治的な偏りのある発言や教育をしてはいけない、と言われます。(旧教育基本法8条2項「法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。」)それはなぜでしょうか。その大元は大戦時、日本全体が軍事教育という偏った教育を進めてきた反省からです。戦中行われてきた軍事教育はそれこそ学問とは程遠い感情と思想の教育でした。その結果が散々なものだったことは知っての通りです。だからこそ日本国憲法制定後すぐに教育の憲法というべき教育基本法がつくられ、戦中のような軍事教育を繰り返さないことを宣言したのです。そんなはっきりした理念を持った教育基本法を安倍政権は2006年、半ば強引に改定してしまいました。新旧読み比べれば、学問や教育の本質をかなり見誤っていることが明白な突っ込みどころ満載の改悪です。大雑把に要約すれば、教育は国のためになされるべきだ、という意図が読み取れるような内容になっています。行政からの各学校への縛りの強化や、道徳の教科化はその流れの中で起きていることです。戦中の教育に立ち戻る危険性をはらんだ流れです。
 さて、以上のような危険な流れの中に置かれた現場の教師はどうふるまえばいいのでしょうか。政治的な発言は禁止されているから、行政の用意した流れに沿うしかないのでしょうか。私はそのようなふるまいは教育者として怠慢だと思います。時の政府によって学問や教育がゆがめられようとしているならば、それに抵抗するのが真の教育者ではないでしょうか。そもそも、政府批判が政治的発言なら政府擁護(もしくは黙認)も政治的発言と呼ぶべきです。完全な客観や完全な中立などこの世界にはありえません。教育基本法が定めているのはあくまで全体教育・軍事教育を防ぐ、という理念のはずです。旧教育基本法8条1項は「良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。」というものです。(新教育基本法では14条にほぼ同じ文言があります。)教育界は長い間このような政治教育を怠ってきたのではないでしょうか。
 世界的に教育を俯瞰してみれば、近代教育の大事な側面として公民、憲法、人権教育があります。決して道徳教育ではありません。ようやく人類が獲得した近代憲法を持つ社会を持続するためには、民主主義社会を実現するために必要なものは何か、ということを義務教育レベルで子どもたちに教えていく必要があります。しかしながら日本のここ20年の学校教育でそのような考えのもと子どもたちと関わってきた教師はどれほどいたでしょうか。今日本は経済的にも倫理的にも社会的にも危機的な状況に立っていると感じます。そうなってしまった一番の責任はもちろん政治ですが、そのような政治をただす人材をつくり出せなかった、もしくは政治に対して腫物を触るように関わってきた教育界もその責任の一端を担っていると思います。
 大規模定住社会で生きていくしかない我々は否が応でも政治というものにみんな関係しています。これからの教育はそこから目を背けずに、より大きな視点で子どもたちに関わり受け渡していくことが必要だと考えています。


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