直木三十五記念館の日々

直木賞にその名を残す直木三十五の記念館は市民参加型のミュージアム。運営の悪戦苦闘をストレートにお伝えします。

本郷菊富士ホテル

2007年10月31日 | Weblog
 11月3日の「観光」を主題とする「可能性のまち上町台地」での参考資料に使うために近藤房江さんの「田端文士村」(中公文庫)をアマゾンで注文しておいた。送料の関係からもう一冊近藤さんが書いた「本郷菊富士ホテル」も購入。
 本郷菊富士ホテルは聯合映画芸術家協会での失敗で東京から逃げ帰ってきた直木一家が宇野浩二がいる菊富士ホテルに転がり込んだところであるが、それ以上に以前から気になる存在であった。
 伊藤晴雨と竹久夢二のかねよ(夢二はのちにお葉と呼んでいるが)を巡る恋愛憎悪劇が繰り広げられたのもこの菊富士ホテルである。
 こういう知の集積というか、芸術家や文士が集まる所の磁場みたいなものは私にとっての生涯の研究主題のように感じる部分がある。

怒涛の三日間が終わる

2007年10月29日 | Weblog
 今朝はさすがに朝起きるのがつらいほどにこの三日間は疲れた。しかし充実した内容でもあった。
 26日の藤本義一さんとやまだりよこさん、27日の塙さんと玄月さん、28日のオダサク倶楽部の井村さん、それぞれに興味深いいい話がたくさん聞けたことは何よりであった。
 運営を支えていただいた多くの裏方をしていただいた運営委員他の皆さんにまず一番に感謝したい。そして講師のみなさん、熱心に話しを聞いていただいた参加者の皆さんにも深く感謝いたしたい。
 大変不思議なことであるが「落語」「学び」「文学」という違うテーマをやったはずであるが、なぜか毎回毎回、話しことば、ものがたりとしての落語という話しに行き当たる。大阪人の言語おうさ中枢に遺伝情報として落語が常に設定されているのではないかと思う。
 お題を頂戴するかたちでつけた「可能性のまち 上町台地」、私自身が本当に可能性を実感する三日間であった。

さあ怒涛の三日間

2007年10月26日 | Weblog
「可能性のまち上町台地」にとっての怒涛のような三日間がはじまる。
今日は第一弾で大阪市立住まい情報センターのサポート事業で直木賞作家藤本義一さんの講演と鼎談である。落語の話しを中心にさてどんな話しになるのか自分でも楽しみである。
 そして明日27日は芥川賞作家玄月さんをお迎えしての講演会。前座的に私と空堀ことば塾の塙さんとのダイアログで「学び」がテーマ。
 明後日はお馴染みオダサク倶楽部の井村さんとトークバトル「可能性の文学」である。バトルなんて書いているが、井村先輩とは仲良しで意見が合うことばかりなんで実際はお互いにそうやそうや大会になる可能性が大きい。
 いずれにしても多くの方にご来場いただきたい。芸術・文学の秋に直木三十五記念館にお越しいただきたい。

田端文士村

2007年10月23日 | Weblog
 東京の北区田端にある田端文士村記念館とその界隈の文士村を散策した。
 田端のまちは小さな小山のような町である。区画整理もまだ十分にされてなく、道が細くて結構入り組んでいる。残念ながら大正期から昭和初期の面影は殆どない。作家たちがかつて住んだ家も何も残っていない。しかしながら住んでいたという場所のプロットは正確なのだと記念館の館長さんに説明をうけた。
 これなら上町台地だって十分に散策に堪えられるだけの内容はあると確信した。なんせ文学碑だけでも宇野浩二、直木三十五、薄田泣菫、武田麟太郎、織田作之助とある。墓は井原西鶴、近松門左衛門、織田作之助、梶井基次郎とある。直木の生家、織田の生家、直木、織田、宇野の通った学校といくらでも素材はある。くわえてプラトン社、三島書房、手塚治虫の赤本伝説といった出版。そういえば小山内薫も天王寺悲田院に仮住まいしていたし、その隣は大阪美術学校である。
 詳しくは11月3日の直木三十五記念館でのティーチインで。

知らぬまに

2007年10月19日 | Weblog
 明日は東京は田端にある田端文士村記念館とその周辺にある文学スポットを散策し視察する。周辺の情報を含めて予めインターネットで調べておくことにする。根岸にある子規庵も比較的近いので寄ってみることにする。他にどこか文学記念館とか見所はないかとさらに調べていくと、自らの記念館である直樹三十五記念館があちこちのサイトで紹介されていることに賀気がつく。自分で記念館の紹介のコメントを記したところもあればまったく知らないところまで相当数あることに気がつく。プレオープンから考えるとまるまる三年が経過するのであるが、財政的には一度も恵まれることのないままによくここまでやってきたなと自分でもびっくりする。

記憶力の低下

2007年10月18日 | Weblog
 自慢するわけではないが、私は記憶力がいいとよく言われてきた。ところが最近さすがに低下しているなあと思うことが多くある。一昨日も区橋爪紳也さんの話しの中で頭に浮んだ人名が出てこない。
 直木三十五の市岡中学の後輩で、造船所のボンボンで、慶應に行って、日本人ではじめてカーネギーホールでタップダンスを踊った伝説のダンサー。名前が出てこない。
 なんとか三郎、青木三郎?違う。大木三郎?いや違う。井筒和幸の「ガキ帝国」でもダンスパーティのシーンで名前が出てくる。「彼〇〇三郎の弟子なんよ。」と紗貴めぐみが言う台詞が頭に浮ぶ。「ダンシングオールライフ」という自伝小説を読んで持ってる、和田誠の装丁。壊れたハードディスク状態の頭の中。頭の中のもやもやは解決されずに結論的にはグーグルで調べる。「中川三郎」

 記念館の準備段階で意地になって調べた聯合映画芸術家協会の前後の映画界のこと、このところ一所懸命になっている明治から大正の上方落語のこと。道頓堀ジャズ。忘れてしまわないようにまとめておかねばならぬ。

結での橋爪紳也さんのフォーラム

2007年10月17日 | Weblog
 昨晩は玉造の「結」で橋爪紳也さんを呼んでフォーラムがあった。
正直なところ橋爪さんの政策や大阪市に対する考え方を多くの方に理解していただいてないのが残念至極である。
 例えば市営交通を維持するということを掲げておられるが実はそれには十分な都市計画上の思いがあってのことであるが、必ずしも伝わっていない。
 橋爪さんは人がまちを歩きまわり都市の景観や商業というものを大切にするには当然ながら公共交通網の整備は不可欠であるという。現にフランスをはじめとするヨーロッパ各国は都心部への自動車の乗り入れを制限する替わりにLRTという路面電車網を整備したりしているという。これは納得できる内容である。ここを理解してもらえればと思う。
 

10月度運営委員会

2007年10月16日 | Weblog
 昨日は10月度の運営委員会。森口さんが市内の図書館めぐってパンフの配布活動をしていただく。加えて記念館の手ぬぐいを自費で作成し、寄贈していただく。感謝感激である。
 26日以降のイベントの段取り、一番てこづるのはやはり26日の「からほりと落語」である。民間に運営委託しているといっても役所は役所という感じは否めない。
 本日は「結」にて橋爪紳也のイベントがあるが、昨日の時点では参加者が少ない。戦況は厳しい様子。必要なものは後藤又兵衛か真田幸村か。
 
 

取材に東京、加えてチラシ

2007年10月11日 | Weblog
 一昨日に日経の文化グループのK氏と会う。「可能性のまち上町台地」の取材を受けるためである。企画の全体像を語るが果たして上手く伝わったのであろうか。大変不安に感じるが、K氏を信頼申し上げて紙面に何か紹介されることを期待したい。
 11月3日にオダギリ君と観光についてのティーチインをするための素材集めに東京出張を計画しなければならないが、動ける日にちが限られる。厳密に考えると20日の土曜日一日を使って「田端文士村」界隈を取材してまわることにして、弾丸ツアーを自ら計画し予約手続きを行う。
 12月15日の大塚まさじさんのライブの告知チラシを作る。とりあえずワードに画像貼って必要事項だけ書いた味もしゃしゃくれもないチラシであるがないよりましだし、このチラシで人が来るのではない別の系統があるのであるが、開催の事実を来場しない方々に伝える役割もあるのでこれでいいと思う。
 音などで迷惑をかける可能性がある複合店舗のみなさんの中でメールが届く方々に開催を告知するメールをおくる。早速、メンアットワークのSさんから二名参加予約の返事をいただく、ありがたい限りである。

桂馬喬

2007年10月09日 | Weblog
 藤本義一さんの直木賞受賞小説「鬼の詩」の主人公である。三つ柏の桂派に馬喬なる噺家はいないが、実在する二代目桂米喬がこのモデルだといわれている。ちなみに初代米喬は初代米団治、二代目文団治から七代目桂文治になった「上町のおやっさん」と呼ばれる噺家である。
 二代目の米喬さんは芸に対して己にも他人にも厳しい人であった。初代桂春団治が腹を立てて夜襲をかけたが、間違って別の噺家(のちの桂文之助)が襲われた。米喬さんは楽屋で春団治を怒るどころか、「お前らがわしに腹を立てるのがうれしい、もっと腹が立つことをやってやるから、精進してわしを蹴落としてくれ。」と言ったらしい。これに春団治は感動して、この後米喬を慕い生涯を通じて私淑したという。
 藤本さんはこの米喬という実在の人物を使って鬼気迫る作品を作ったわけである。今回の講座「からほりと落語」ではこのあたりの時代の噺家のことを通じて明治、大正、昭和の上方落語の世界を空堀というフィルターを通して見てみたい。