直木三十五記念館の日々

直木賞にその名を残す直木三十五の記念館は市民参加型のミュージアム。運営の悪戦苦闘をストレートにお伝えします。

雑誌「大阪弁」

2007年09月29日 | Weblog
 昨日、難波の天地書房で昭和23年に創刊された雑誌「大阪弁」というものを見つける。
この雑誌の発行の母体となる大阪ことばの会はその設立の目的を「大阪のことばで培われた郷土の文化を昂揚するを以って目的とする」と記している。
 この雑誌には有名無名を別にして大阪のことばと文化に思い入れの深い文化人が様々な文を寄せている。今回は1号~4号と6号があったので全て購入する。一体この雑誌がどれだけ続いたのかは知らぬが、ぱらぱらとめくると、藤澤桓夫、石浜純太郎、笑福亭松鶴、丹波家九里丸、鍋井克之らの名前を見つける。
 家に帰ってまず第1号と思い拾い読みをはじめる。亀村正治なる人が書いている「桂文枝」という小説に眼が止まる。「三十石船」の質入れの話しを小説にまとめた短編小説でかなりおもしろい。このあとが楽しみである。

貧乏は長しというけれど

2007年09月28日 | Weblog
 記念館の運営はいつもながらヒイヒイの状態である。家賃が溜まっているので早く払えと言われる。しかしながら払えないものは払えない。どうしようもない状態が続く。
 元から無理を承知での船出はあったのでいたし方ないと自らを納得させるがこれでは解決にはならない。何にしても金が全ての世の中である。

まずは第一弾終了

2007年09月18日 | Weblog
 9月15日(土)に「可能性のまち上町台地」の第一弾「中寺町と上方歌舞伎」を開催した。三連休の初日にも関らず参加者が集まっていただきスタッフ含め総勢20名で散策する。
 千日前を東へ、まずは常国寺に行く。ここは初代中村鴈治郎の墓がある。鴈治郎がいかに国民的な(大阪市民的な)アイドルであったかを河内先生が解説してくれる。ついでながら梶井基次郎の墓に行くとお馴染みの檸檬が供えてあった。
 次に圓妙寺へ、ここは実川延若が初代から三代目まで眠る。二代目延若が当代きってのプレイボーイであったことを紹介された。延若の名跡が途絶えていることは実に勿体無い話である。屋号の「河内屋」に触れて、近畿の地名の屋号が多いことを紹介される。「大和屋」「播磨屋」「紀の国屋」「明石屋」「高砂屋」「天王寺屋」「京屋」「津の国屋」と言った具合にだ。
 三つ目は薬王寺、ここは娘道明寺で一世を風靡した女形の初代中村富十郎と片岡仁左衛門家が眠る。ここで最近売り出しの片岡愛之助さんの話に及ぶ。
 最後は妙徳寺へここには中村梅玉さんの立像がある。なんでも日蓮上人が当たり役で、多くの観客は舞台の梅玉さんに手を合わせてたとう逸話を紹介していただく。これらのお寺がすべからく日蓮宗なのがおもしろい。思えば近松の墓がある谷町にあった法妙寺も日蓮宗である。芸能と日蓮宗は密接な関係にあるのであろうか。気性の激しい日蓮が浮き沈みのある芸の世界にはぴったりくるのではとは河内先生の意見、そういえば三遊亭圓朝も日蓮宗というか身延山の熱心な信者であった。
 場所を直木三十五記念館に移して今は坂田藤十郎を襲名した鴈治郎さんの襲名の頃のはなしや勘三郎さんが最近やっている船乗り込みなどを紹介しながらかつての道頓堀の芝居町としての姿を紹介しつつ、今後の上方歌舞伎のことについて語っていただいた。
 興味の尽きないおもしろい会になったと自画自賛する。

いよいよ明日から

2007年09月14日 | Weblog
「可能性のまち上町台地」の第一弾が明日開催される。朝日新聞を見て参加申し込みされた方が数名おられるが、まだ人数には余裕がある。参加が可能の方は是非13時30分に国立文楽劇場の1階にお集まりいただきたい。
 かつて歌舞伎の世界は上方と江戸が二大勢力であった。市川団十郎に対して坂田藤十郎という構図があった。藤十郎は歌舞伎として表現が難しいとされた近松ものを積極的に演じたといわれている。
 道頓堀は芝居町として栄えていて、五味康祐の「興行師一代」という小説には松竹が出てくる前の道頓堀を中心とする芝居町の様子が描かれている。
 明日の講座では中寺町の墓を巡り、往時の大阪の歌舞伎界を考察しながら、今後の上方歌舞伎の可能性を考察していきたい。

「可能性のまち上町台地」朝日新聞に

2007年09月13日 | Weblog
 昨日の朝日新聞の大阪ローカルの記事で「上町台地の魅力考える講座開催」という見出しで紹介された。早速事務局担当の六波羅事務所には電話での問い合わせが来ている模様である。残念なのは記事には紙面の都合もあったのか、河内厚郎さんや玄月さんが来ることが示されていないことである。
 今回の連続講座は記念館のいわば渾身の企画なのであるが、なんとしても成功させるにはやはり多くの人の来場が不可欠の要素である。このブログをご覧の方々も是非足を運んでいただきたい。

うたの可能性

2007年09月12日 | Weblog
 直木の運営委員会が月曜にあった。珍しく会社の打ち上げが重なって遅刻も遅刻、閉会時に六波事務所に到着。風の森さんから日曜日に大塚まさじさんが記念館に来られたこと報告を受ける。
 密かに準備をすすめてきたのだが、「可能性のまち上町台地」のまさに「+プラス」として大塚まさじさんに記念館で歌ってもらおうという企画である。12月に実現しそうなので、私自身の誕生日プレゼントになればと思う。
 大塚さんはいうまでもないかもしれないが、70年代にディランセカンドというグループで活躍され天王寺野外音楽堂で開催されていた「春一番コンサート」の主要メンバーであった。ディランセカンド解散後はソロで活動されて休むことなくずっと歌い続けてこられた方。私は大塚さんのうたが空堀のまちに似合うのではと前々から思っていたので、是非記念館で直木三十五のパネルを背にして歌って欲しかった。
 大塚さんの歌にあやかっていうならば「まちにうたがからほりにうたが」ということであるか。

昨日は生国魂神社

2007年09月10日 | Weblog
 昨日は生国魂神社の例祭で氏子の代表のお歴々を前に講演をさせていただく。まずは掴みとして直木三十五が出生地から生玉の氏子であるという推論たてたことと、その裏づけとして昭和6年に書いた「大阪物語」の「平野から天王寺」とをいう章で生玉の縁起をしめす大前提で「私は生国魂神社の氏子であるが二十年来参拝していない」旨の文章があることを紹介した。あとは映画製作に手を出した初期の段階で近松の「生玉心中」のシナリオをかいて映画をとったことも紹介した。なお「大阪物語」には今も続く夏祭りの獅子舞が直木が子供の頃にはなくて最近(大正末期か昭和初期に)はじまった行事だといいながら、所詮大阪の神社仏閣の習俗は高々徳川時代からはじまったことが多いから、昭和からはじめたことで今風であっても何も違和感がないとも書いている。これを紹介したことも大変よろこんでくれた。

 オダサク倶楽部の井村氏よりメールで夫婦善哉続編が筆が冴えないとの感想から織田自らが封印したのではないかとの大胆推論が示されていた。詳細はわからぬものの市井の町人学者同士としては大いに支持したい。我々には研究し考察する自由がある。

馬鹿ではできず、利口じゃ務まらず、中途半端じゃなおできず

2007年09月07日 | Weblog
 かつて政治家の秘書をやっているときに言われた言葉、正確ではないがこういうことである。今の記念館の運営も同じことである。いや私の生き方そのものが、馬鹿ではできす、利口じゃ務まらず、中途半端じゃなおできずということであろうか。
 
 昨晩は仕事でRホテルへ、さすがはRと思わせるドアマンの対応で仕事は30秒の秒殺で終える。そのまま帰宅前に練に寄る。こちらのR事務所は早々と閉店で用事の半分しか果たせず、「落語とからほり」「可能性のまち上町台地」のチラシだけ持ち帰る。

食い逃げされてもバイトは雇うなということ

2007年09月06日 | Weblog
 最近のはやりの新書の題名なのであるが、これは我々のような記念館にも言えることである。全く持って相反するこのことを如何になすか、適切な答えを持つのであれば少なくとも億単位の利益を上げられるコンサルタントになれるのではないか。
 行政が抱える問題点もまさにここに尽きる。行政機関の最大の支出の一つは人件費であることは誰も異論を挟まないであろう。公務員を三日やったらやめれないと俗にいわれる所以は、その分誰かに皺寄せがいってるわけである。誰が人件費の原資を負担しているのかということを考えてみることである。
 今回私たちが「可能性のまち上町台地」の企画の立案から、出演者の交渉、実行の準備までを全くの無報酬いや持ち出しさえある中でやってこそ、上町台地マイルドHOPEゾーン協議会の僅かしかない補助金でこれだけの事業ができるのである。

その後の橋爪紳也

2007年09月05日 | Weblog
 昨日、正式に立候補宣言をした橋爪紳也さん。中谷ノボルさんや六波羅雅一さんも記者会見の写真に写っていたが、さしずめ、まちづくりをしている熱い想いの人達の代表ということであろう。これは出発点としては全くもって正しいと私は思う。
 自分の理想とする都市が如何なるものであるのかを思い描けない人よりは余程いいと考える。しかしながら自らに禅問答するように言えば、まちづくりを志向する団体はいわば自分の好きなこと、自分が正しいと思ったことだけに向かって、己の自由意志で突き進んでいることが多い。これが良い部分でありながら最大の欠点である。
 つまり行政とは訳のわからん公平性、公共性というものに縛られる。そのには嗜好に任せる選択性というものが排除される。私が直木三十五の記念館ができるのも民間であるからで、これを大阪市がやれば、オダサクはどうするのだ、宇野浩二は、やれ谷崎潤一郎は、川端康成は、藤澤桓夫はとなって前に進まなくなる。これを皆が納得できるように裁けるかが市長の器量ではないか。