直木三十五記念館の日々

直木賞にその名を残す直木三十五の記念館は市民参加型のミュージアム。運営の悪戦苦闘をストレートにお伝えします。

週末に思うこと

2007年04月23日 | Weblog
 贄田さんのお通夜、お葬式が金、土とあった。皮肉なもので長い間みていない人達と再会する。贄田さんの奥さんが挨拶でUSJのエピソードを語ったのが象徴的だった。私も贄田さんがUSJが好きで年間パスを持っていることは知っていたが、彼がUSJで一番好きなところが入口の真正面の広場であるとは知らなかった。何故そこが一番彼のお気に入りの場所かというと奥さんが語るところによると、そこに座って入場してくる人々の顔を見るのが好きだと、USJに入場して来る誰もが嬉しそうな顔をしているをしているのを見るのが好きだと。なんと彼らしい話か。

 日曜日にオダサク倶楽部とNPO法人たんご着物美人のイベントで「天繁」へ。オダサク映画「還ってきた男」と「わが町」の一部をビデオでみる。戦前と戦後まもない大阪、口縄坂や上汐の長屋の風景を見る。

贄田さんの死

2007年04月20日 | Weblog
 全くもって信じがたいことである。自分の中で整理がまだついていないが、からほり倶楽部の事務局長の贄田正一さんが急死された。詳細はわからないが過労死のようである。
 贄田さんは構造設計を行う一級建築士である。一連の耐震構造偽装事件からあと、構造の再計算の依頼がさばききれないほど事務所には来ていたようで、倒れた前日も遅くまで事務所で一人仕事をしていたそうだ。翌朝出勤してきた所員に倒れているのを発見されたと聞く。ここ数ヶ月はからほり倶楽部の理事会にも欠席か終わる寸前に現れて、また事務所へ帰るという有様だった。余程多くの仕事を抱え込んでいたのであろう。
 言い放し、やり放しの理事が多い中で一人黙々と着実に会務をこなしていた姿を思い出す。直木三十五記念館のグランドオープン時には奥様や事務所の所員まで動員いただいて受付業務という裏方を率先してやってくれた。からほりまちアートでもゴミ拾いをやり、からほり絵図では理不尽なクレームにも腹も立てないで対応していた。愚直で勤勉な方で義理堅く、飲めないお酒を勧められると梅酒を飲んでいた姿を今でも忘れることはできない。あまりにも早すぎる死を心から悼みたいと思う。

笹倉明さん

2007年04月17日 | Weblog
昨晩、第101回直木賞受賞作家笹倉明さんがパブデ右ッシャロに遊びに来ていた。
芸術家のケンゾーさんが態々声を掛けていただいてデッシャロに行くと天牛書店さんといっしょに笹倉先生はギネスを飲んでおられた。自己紹介をして記念館の簡単な説明をした。大変不躾ながら色紙にサインをしていただく。
笹倉先生はバンコクで暮らしていらっしゃったようで最近日本に戻られたとのことでした。色紙には「空堀界隈の奇遇」と書いていただいた。まさにその通り。

4月度の運営委員会

2007年04月16日 | Weblog
今晩は4月度の運営委員会である。一ヶ月が経つのは早いものである。
さてこの一ヶ月を振り返ると記念館としての動きは3月17日に「書く人のための読書会」を実施、課題図書は青山七恵の「ひとり日和}4月1日に「城塞を大河ドラマにする会Ⅲ」を実施し、小酒井不木宛ての直木三十五直筆書簡を公開した。
直木倶楽部の更新をお願いした。既にお手元に新しい会員証が会員の皆さんは、誠に恐縮するが会費にお振込みお願い申し上げたい。こちらの不手際で会報と新しい会員証が未着の方はご一報いただければ幸甚に存じ上げる。
法人サポートも運営委員の皆さんの努力で数社であるが増えた。もっと多くの方々のサポートを願いたい。

芝居茶屋というもの

2007年04月12日 | Weblog
かつて道頓堀に五座の櫓と呼ばれる五つの大きな劇場があった明治から昭和初期には、軒を並べるように沢の芝居茶屋があったそうである。芝居茶屋はお客の要望にあわせて芝居の席の手配から、お茶や煙草盆、食事の用意から、車の手配にいたるまで何から何までお世話してくれる。席亭や役者との関係も深く、三田純市氏の著書「遥かなり道頓堀」には二代目実川延若(じつかわえんじゃく)と芝居茶屋稲照の岩淵万治郎との関係が書かれているが、万治郎は延若を一流の役者にするためにありとあらゆる生活の細々としたところまで面倒をみて世話をするのである。
それほどに芝居茶屋の存在は大きいものであったということだ。
余談ながらいまは廃業してしまった稲照の息子さん(三田純市さんの甥)の方とひょんなことから知り合ったことがきっかけで、三田純市さんの「遥かなり道頓堀」を手にすることになった。三遊亭円馬さんのこともそうであるが、自分では大阪のことを良く知っているつもりでも知らないことが多くあるものだ。中寺町に延若の墓があると伝えきく、一度参りにでも行こうか。

読書会の日程の訂正と統一地方選挙

2007年04月09日 | Weblog
 読書会の告知をブログに書いたが日程が間違って14日と書いてしまったが、正しくは21日。訂正して関係各位にはお詫び申し上る。

 さて昨日統一地方選挙の前半戦が終了した。記念館に関係ある中央区の市会議員(なぜか大阪市は市議会議員と言わないで市会議員と呼ばれることを好む)に権世さんと有本さんが当選して、府議会には現職の梅本さんが当選した。権世さんは私の高校の先輩で、従兄弟の小中学校の同級生、浅からぬ縁の人で、記念館のことでも何かと世話になったのであるが、前に出ると現職が嫌がらせするといけないと蔭で支えてくれた人物。三度目の正直での勝利に不覚にも涙が溢れた。

今月の読書会

2007年04月05日 | Weblog
4月度の書く人のための読書会は4月14日(土)17時から大阪文学学校で開催。
課題本は綿矢りさの「夢を与える」。若くして芥川賞を受賞した作家の満を持しての受賞後第一作でどのような小説を書いたのかが今回のテーマともいえる。
直木三十五が作家として活躍していた頃と比して最近は精神的な成熟は10年程度差があるといわれているが、それでは綿矢りさのような若い作家って一体どうなのだろうかと思う。まだ未読であるので週末にかけて読みたいと思う。

城山三郎先生逝く

2007年04月04日 | Weblog
 「総会屋錦城」で直木賞を受賞されている城山三郎先生がお亡くなりになる。先生とお会いしたのは植村鞆音さんの「直木三十五伝」の出版記念のときである。ご挨拶させていただき名刺交換をした。後に直木三十五記念館の友の会「直木倶楽部」にもご入会いただいた。また一人気骨な作家が逝ったことをまず心から悼みたい。
 私は長屋路地裏選考会で作品が何か小さな世界のことを描く傾向が強くてもう少し世の中を変えるとは言わないまでも、かつて城山三郎先生が示したような小説を書く人が出てくることを望むと話しをしたことを思い出す。ご冥福をお祈りしたい。

城塞を大河ドラマにする会Ⅲ

2007年04月02日 | Weblog
「城塞を大河ドラマにする会Ⅲ」を開催した。南海さんの講談が入って結構な内容であったにも関わらす、人の方はさっぱりと言う状況。とにもかくも人集めの難しさよ。
 課題は山ほどありながら解決の糸口も見えない。問題点の解決に重要なことは確実に事務をこなすことの重要性ではないかと痛感する。書く、伝える、まとめるこの基本が滞ると何もならない。瞬発力だけではいたしかたない。