直木三十五記念館の日々

直木賞にその名を残す直木三十五の記念館は市民参加型のミュージアム。運営の悪戦苦闘をストレートにお伝えします。

企画運営委員会について

2006年01月31日 | Weblog
 昨晩、直木倶楽部(直木三十五記念館を支える友の会)の企画運営委員会を開催した。
 グランドオープンから一年ただがむしゃらにというと聞こえはいいが、ドタバタするだけで気が付けば時間だけが過ぎていたというのが正直なところである。
 記念館の組織が不明瞭であると指摘が出たが、私は市民参加型のミュージアムを目指すという姿勢から、企画運営委員には直木倶楽部の会員で、記念館の企画や運営に興味があって参加したい方は誰でも手を挙げていただければいいと考える。加えて企画運営委員会は公開でオープンフォーラムのスタイルをとりたいと考える。
 烏合の衆でなにができるんだと言われるかもしれないが、いわばこのスタイルで準備からわずか一年で記念館を作ったのである。一人一人の情熱と少しばかりの知恵があればできると思う。むしろやりたいと思う意志こそが大切ではないかと考える。

 近々に取りかかる事項がいくつかある。会員の更新のお願いを兼ねてニュースを発行したいと思うし、記念館グッズの商品企画コンペも実施したい。また記念館の界隈を中心とした文学マップも作りたい。
 こんないろんな取り組みをいっしょにやろうという方を求めていきたい。情熱と意志のある方は是非参加をしていただきたい。

直木倶楽部の企画運営委員会

2006年01月30日 | Weblog
 本日は19時から直木三十五記念館で直木倶楽部(直木三十五記念館の友の会)の企画運営委員会を開催する。これは記念館の行事やイベントの企画等について皆さんで話し合いながら考えて実行していこうというものである。
 
 直木倶楽部のメンバーであればどなたでも参加いただいける。
 
 当面の深刻なことは財政面である。打開のためにできることはハードルが高いことも理解している。企画運営委員会では主にイベントとグッズの企画、会員拡大の意見が主に話をしていきたい。

大阪ブランドとしての文学

2006年01月28日 | Weblog
 大阪府がここ数年推し進めている大阪ブランド戦略というものがある。直木三十五記念館の立ち上げからお世話になっている河内厚郎さんや應典院の秋田光彦さんそれとからほり倶楽部代表理事の六波羅さんも委員になっている。大阪の都市としての価値を高め大阪ブランドを作っていこうというのが狙いであるそうな。
 私は大阪を安易に「お笑い=吉本」「タイガース」「食いだおれ=たこ焼き」的なものにひっぱられるのが悔しくてたまらない。断じて言う、食いだおれはたこ焼きやお好み焼き食い過ぎてお腹を壊すことではない。食道楽が過ぎて身上つぶすことをいうのである。
 話を文学に戻す。大阪は文学のまちである。少し冷静に考えれば誰にでもわかる。もうここでは名前を一々列挙することはやめておくが多くの作家が大阪で生まれ、育ち、この地で学び、作品の舞台として取り上げている。直木賞だってここ2回連続で大阪生まれの作家が受賞している。なのに大阪を文学と結びつけて語る人は思いのほか少ない。今こそ文学を大阪のブランドにしていきたいものである。

エキサイトビットこねたの取材

2006年01月27日 | Weblog
 エイキサイト様から取材の申し出があった。このブログにもコメントしていただいている。最近は行儀の悪い出版社が多いなかちゃんと事前に記事の内容も知らせていただくなどの取材姿勢にさすがと思った。
 信じがたい話ではあるが特にガイドブック的な本とかムックなんかはいつどのように取材したのかわからないのであるが掲載されている場合がある。最低限掲載誌くらいは送ってきてほしいところであるが、それすら送ってこないケースがある。私が神経質過ぎるのか。

記念館での古本市

2006年01月26日 | Weblog
 さっき携帯を見ると記念館の日常業務を委託している「風の森」さんから電話が入っていた。着信時間15時37分。一時間半も前の電話であるがコールバックする。
 用件は現在開催している。大阪本の古本市で値段がついていない本があって値段が分からなかったということ。富岡多恵子著「大阪センチメンタルジャーニー」。新刊の定価が1200円だったので400円で売ったとのこと。店番している人に罪がないのでかまわないのだが古本の価格は必ずしも定価で決まるわけではないのだ。400円でお買い上げいただいたお客様はラッキー、本来なら800円也。受益分はまた記念館に何らかの形で還元していただければ幸甚に。

 私の少ない不幸な経験から、この手の催事的な古本市とかは、どうせ値付けがいい加減だろうと思っている方がいて、少しでも隙を見つけて買ってやろうとする傾向にある。逆に言えば買う方はちゃんと価値を理解している。理解しているなら相当の対価で買うべきなのにそうしない。大体そこに並んでいる他の品物を見れば値付けがいい加減かちゃんとしているかは分かるはず、一応偉そうな言い方させていただきますが、直木三十五記念館での古本市の値付けに関しては私が責任を持って付けさせていただいている。私は古物が好きである。愛情を持って接している。だから一山いくらみたいな売り方はしたくない。どんな場合でも一つ一つ値段をつけている。どんなものでも相場がわかっているわけではない。勉強不足もあるだろう。そんなときは笑って買わないでいただければいい。自分で反省いたすところである。決して高い値段は付けてない、なおかつ趣旨は記念館の運営のためであるのでご協力をお願いしたい。

 

お金のこと

2006年01月26日 | Weblog
 このところニュースはライブドアのことばかり。私自身も興味深く見ているのは事実である。お金のことは人間誰しも興味があるということか。
 
 植村鞆音氏の「直木三十五伝」にも詳しくあるが、直木三十五という人は、件の堀江貴文以上に事業欲の強い人間であった。翻訳、出版、映画、美術およそ大正末期から昭和初期に考えられる文化的な事業にすべからく手を出して多額の借金を抱えて失敗をしている。きっと現代に生きていたならインターネットにいち早く注目してネット配信の著作権管理会社とかを早々に事業化していたのではないかと想像する。
 成功と失敗の差がどこにあるかは不明である。ホリエモンが成功者といえるのかも今となっては如何ともしがたい。直木の事業の失敗には私生活のだらしなさが原因している部分が大いにある。しかしながら直木には「新しいもの」を「本物」を世に示したいと考えていた高い志だけはあったように思う。
 
 直木の人生は「金」のことばかりに終始した人生のように言われる。確かに金の苦労は多かったようであるし、本人は何かにつけて金にまつわることを書いている。しかし直木の金にまつわる話に嫌らしい部分は少ない。唯一あるとすれば、鷲尾雨工が書いた「直木三十五の美醜」に書かれている、木挽町の文芸春秋倶楽部を訪れて金の無心をする際の直木の鷲尾に対する対応ぐらいである。これも後の研究によると直木は実際に金がなかったのでそっけない態度を取らざる得なかったという説や、鷲尾にはいずれちゃんとと思っていたのではないかという説もある。
 
 いずれにせよ、直木はあれだけ「金」と言う割にはカラッとしてジメジメした部分を感じないのは確かである。個人の資産が有り余るほどあってマネーゲームをやることや、六本木ヒルズに住んでフェラーリに乗ったり、自家用ジェットを所有するより、借金取りに追われて、原稿を書きまくり、文壇一高い原稿料をまた無駄遣いに浪費し、昭和初期に運転手を抱えて自家用車を所有する直木三十五の生活の方に憧れを感じてしまう。

 実はお金のことで切実なのは記念館の方である。年間の運営費はせいぜい250万円から300万円の間であるがその費用が単純に賄えない状態である。任意団体の悲しさではあるが、ある意味大阪のパブリシティとしてはもう1千万円くらいの価値があると思う。経済効果を誰も測定しないが、これはもっとすごい気がする。そういう意味では自分たちの正当な価値を世に問えない私達と粉飾してでも虚構の価値を金に変換できる彼らの差って何であるのか。

直木のペンネームについて

2006年01月25日 | Weblog
 直木賞関連であちこちのブログで直木三十五の紹介がされている。その多くがペンネームの変名について触れている。なぜかすべて同じように間違っているのが不思議である。
 ペンネームの変名については諸説あるのでこれが正解というのは危険ではあるが、客観的な部分をまずは記す。はじめに直木を使ったのは大正11年。この時に「直木三十一」として時事新報に月評を1編書いた。「三十二」は大正12年の文芸春秋の創刊号と翌号に2編書いている大正12年3月号から大正14年までは「直木三十三」として2年あまり執筆をしている。大正15年くらいから「三十五」を名乗っている。

直木本人は次のように書いている。
「筆名の由来──植村の植を二分して直木、この時、三十一才なりし故、直木三十一と称す。この名にて書きたるもの、文壇時評一篇のみ。
 翌年、直木三十二。この年月評を二篇書く。震災にて、大阪へ戻り、プラトン社に入り「苦楽」の編輯に当る。三十三に成長して三誌に大衆物を書く。
 三十四を抜き、三十五と成り」

 「直木三十四」は存在するという説は元東洋経済の記者で企業家の伝記などを書いているライターの檜山さんから聞いたことがあった。実際に「苦楽」に目次だけ「直木三十四」で本文が「直木三十三」とあるものを見つけた。これから考えられることは編集者が「直木三十四」とあったものを「三十三」と書き換えたのではないかという仮説である。
いくらなんでも編集者が勝手に「三十五」に増やすことはしない。つまり「三十四」と活字組みされたゲラでも見て「直木先生は三十四じゃなくて三十三だ」と校正したのではないかということ。
 加えて、直木は菊池寛に変名について「いい加減にしたらどうか」と言われていたふしがある。一度「三十三」でとめたが、字が重なるのは縁起が良くないとか、「三十三」は「さんざん」であるとか、諸説あるが、聯合映画芸術家協会でのつまずきや、あまり良い状況が続かないことなどからも改名して「三十五」で落ち着いたと考えらえる。「三十六」については止めおきたいと「三十三」の時にも試みているので考えられないと思う。
 他に映画評論は「直木弘之」で書くと宣言したこともあるし、昭和6年に「村田春樹」で文芸春秋に「太平洋戦争」という小説を書いている。他にもプラトン社時代に「竹林賢七」「香西織恵」「閑養軒」を使ったのは同じ号に直木が何度も出てくるのを避けるためと考えらえる。

芸術・文化における理想の場とは

2006年01月24日 | Weblog
大阪文化団体連合会の園田さんから「文化芸術年鑑」寄稿文の依頼がきたので慌てて書く。テーマは「芸術・文化における理想の場とは?」以下に寄稿した原稿をそのまま示す。

 非常に難しいテーマである。我々が運営している直木三十五記念館のことを中心に考察を加えたい。
 私はよく他人から、なぜ直木三十五の記念館に関わっているのかと尋ねられる。その度ごとに私は「好きだから」と答えている。このことは大阪ボランティア協会の早瀬昇氏のボランティア論によるところが大きい。「ボランティアは恋愛といっしょ」と早瀬さんは説く。つまり我々の自発的な芸術文化活動の原動力は「好きである」ということからスタートしている。私は加えて記念館のグランドオープンの際にも発言しているが、他の方もこの直木三十五記念館に触発されて自らの手で市民ミュージアムを作るような動きが続くことが好ましい状況だとも考えている。この類の立ち上げということについて行政は何もすべきではないと考える。市民の自発的な情熱に任せるという寛容さが必要だといえる。この自発性こそが芸術・文化における理想の場を作る第一歩ではないか。
 しかしながらその理想の場を持続発展が可能なものにするためには行政の力が不可欠ではないかと考える。つまり次から次から生まれ死んでいく任意の組織や団体の中から活動の実績や成果というものに対して正当に評価して適切な援助をすることにより持続性を確保してやることが必要なのではないかと思う。
 これは行政側にとってもメリットが大きい。特に立ち上げ時にかかる設立のコストが大幅に削減できる。その上ある程度の期間、自主的な運営を実施させることで現状の持続的な運営がどの程度の補助によって可能であるかの正確なシュミレーションができる。
 いずれにしても芸術・文化における理想の場とは自らで作り出さなければならないと考える。そして行政はその芽を大切にして育てていくという立場に徹するべきであるのではないか。

2月の読書会

2006年01月24日 | Weblog
 「書く人のための読書会」というものを2ヶ月に一度記念館でやってもらっている。谷町六丁目にある大阪文学学校に通う方の有志でやっていて私も時々お邪魔している。昨年の10月からは偶数月は記念館を利用していいただいている。
 課題の本を決めてあらかじめ読んでおき読後の感想を言い合いながら作品を鑑賞していくのである。ややもすると毛嫌いして読まない作家の作品をこの読書会を通じて読んで思いがけず良かったという経験もある。2月25日(土)の課題図書は小川洋子の「博士の愛した数式」である。参加は自由であるので誰でも参加可能。会費は会場費を参加者で分担するだけであるので400円~500円程度である。17時から19時までで終わってから懇親会もある。
 文学学校の説明を簡単にすると、ここは詩人の小野十三郎さんが設立した当初は働く人に文学を教えることを目的に50年以上前にスタートした。今までに田辺聖子さんや玄月さんといった芥川賞作家を輩出している。年配の方から若い方まで幅広く参加する本格的な学校である。
 記念館の準備段階で何度か訪問して協力を呼びかけた。理事長の高畠さんは何度か準備会にも参加いただき、記念館の直木の年表は文学学校の長谷川龍生さんの作である。

ケーブルテレビの取材終わる

2006年01月23日 | Weblog
 昨日は前にも書いたケーブルテレビの取材で11時から記念館で撮影であった。
ベーカムで撮影でちゃんとデレクターとカメラマン、音声というクルーで来たので少し驚く。最近は機材が良くなったためかデジタルハンディーカムでデレクターだけで来るとかせいぜいあと1名くらいといったことが多かったので、失礼ながら本格的であったことに驚いた。
 直木役のタレントの方が直木のイメージとほど遠いのはお愛嬌。まあ、まじめな感じの方であったのでそれも仕方のないことかと。私とのツーショットだとずんぐりむっくり同志で少し滑稽である。直木に扮して直木を紹介していくという狙いはわかるがかなり難しい方法であるように感じた。
 しかしながら興味を持っていただくだけでもありがたい。大阪にはあまたの文人がいる中で忘れ去られているのは直木に限ったことではない。これが地方の小都市ならば(東京から見れば大阪も一地方ではあるが)たった一人の文人でも大切に扱い、行政が有り余る予算で勇んでハコものをつくるところではある。たとえば梶井基次郎でも庄野潤三でも。
 結局は私達がアホなことであっても声をあげて記念館をやっていればのことである。文化を育むなどと大上段に構えているが、基本は自分たちが興味を持って関わったことがすべてである。しかしながらお金がない。資金不足ははじめからわかっていたが、それにしてもあまりにもお金が集まらない。「芸術は短く、貧乏は長し」