直木三十五記念館の日々

直木賞にその名を残す直木三十五の記念館は市民参加型のミュージアム。運営の悪戦苦闘をストレートにお伝えします。

惣の忘年会

2006年12月22日 | Weblog
昨日は「惣」の忘年会であった。空堀での長屋再生複合施設として最初の一歩を踏み出した「惣」も今年南側の長屋を新たに拡張した。来年一月には新たに二店舗が加わりこれで複合店舗の区画が全て埋まるかたちになる。わが記念館がある「萌」はまだ一階の奥が空いたままであるし、三階の入れ替えもある。記念館も運営が大変であるがそれぞれの入居店舗も経営は大変である。我々が所謂ところのコミュティビジネスとか社会起業とか言われる中でやろうとしていることは「小さな経済」を動かすことであると考える。これは大量生産大量消費社会に対する存在となりうると考える。それでも中々小さな経済も回らない。

社会起業活動(ソーシャルイノベーション)としての直木三十五記念館

2006年12月20日 | Weblog
 お気づきの方もおられるかと推察するが、私はこのブログの中では可能な限り外来語というかカタカナ英語の使用を極力抑えてきた。自らを新攘夷派と称しているからではないが、カタカナで意味を曖昧にして語られることや、安易さを避けて質実な文章にしたいという試みである。
 ソーシャルイノベーションなる言葉がある。訳せば「社会起業活動」とでもなるのだろうか。まだ十分に馴染んでいる言葉ではない。「村上ファンド」や「ライヴドア」ではない単に金儲け(単なる金儲けなんて軽軽しくは本当は言えない、現に私自身は給与所得者として以外では十万円も稼ぐことはできない。)社会的な意義を踏まえて活動を立ち上げることを示す言葉であるようだ。
 さて我らが「直木三十五記念館」はそういったソーシャルイノベーション(社会起業活動)としての成功例なんであろうか。設立準備委員会から開館までの過程はまさに成功例であろう。しかしながら現在の状態は決して成功とは言えない。この財政的危機を乗り越えられるか否かが大きな分岐点であることは間違いない。「花と散るか月を輝くか」である。

年の瀬といえば

2006年12月19日 | Weblog
西鶴の昔から年の瀬といえば借金とりがやって来ると早晩決まっている。当記念館も年の瀬を迎えて財政的には厳しい冬を迎えている。運営委員とからほり倶楽部の理事が一丸となって300万円を絶対に集めると決した。一人あたり50万円程度の継続的寄付を集めなければならない。それぞれに当てのある人も当てのない人も持てる力を総動員してかからねばならない。これができなければ3年目を迎えることも厳しいかも知れない。私も不退転の決意で臨む。

43歳という年齢

2006年12月11日 | Weblog
 私事ながら先日43歳になった。普通の人にとっては何の意味も持たない43歳という年齢であるが、私にとってはある大きな分水嶺のような年齢である。
 実に恥ずかしいことであるが20歳の時分に書いた日記めいたものをたまたま先日部屋の整理をしていて発見した。そのには「本物の詩人は24歳で死に、ロックスターは27歳で死ぬ。ついでながら作家は43歳で死に、映画監督は60歳で死ぬ。」と書いてある。24歳で死ぬ詩人とはホイットマン、ロートレアモンで、27歳のロックスターはジミヘンドリックス、ジムモリソン、ブライアンジョーンズ、ジャニスジョプリンのことで(余談ながらニルバーナのカートコバーンも27歳で死んでいる。)、43歳の小説家はスコットフィッツジェラルドで、60歳の映画監督は小津安二郎である。偶然であるが直木三十五も43歳で生涯を閉じた。そして私も43歳になった。
 20歳の頃には死んでもいいから世の中に影響力を与えたいと真剣に思った。24歳も27歳もずっと向こうのことと思っていた。
 24歳の私は小林一三や堤康次郎みたいな実業家になることを考えて詩人にはなれないと思った。
 27歳を過ぎる頃には自分がミュージシャンであるはずがない現実は、当たり前として受け入れていた。その代わり長生きさせてもらうのだと思った。
 そして今43歳になった。私は小説家でない。直木三十五の唯の熱烈な信仰者でせめて伝導師たらんと思っている。まだまだ長生きできそうである。

上町台地マイルドHOPEゾーン協議会中間報告会

2006年12月07日 | Weblog
昨日は應典院で上町台地マイルドHOPEゾーン協議会の中間報告会があった。
実は火曜日からひどい下痢と嘔吐に見舞われて臥せっていたのだ。何とか会場まで行って持分の5分間の報告を何とか行う。2部の交流会はさすがに無理と判断して失礼をする。
参加された皆さんと交流したいところであったが残念。

運営委員会

2006年12月04日 | Weblog
2ヶ月ぶりに運営委員会を開催。
 まず6日のマイルドHOPEゾーンのことも少し話しをする。報告の内容は概ね問題はない。
 次に財政の話し、結局は金がないことを解消しないとなんともならない。とにかく300万円を毎年獲得できる先を開拓することしかないことを再確認。もう後はない。総力戦である。
 10万円なら30社の会員企業を募る。可能性はあるようにも思うが。営業に動くことができなければどうしようもない。とにかくやろう。

「血と骨」

2006年12月01日 | Weblog
 今更ながらヤンソギル著「血と骨」を読む。映画にもなっているがやはり原作の凄まじさは圧巻である。判っているようで知らないことばかりの在日朝鮮人のことを小説を読んで知ることは、いつもながらに己が日本人であることを認識させるものである。なぜかスパイクリー監督の映画「ドゥ-・ザ・ライトシング」でニューヨークのコリアンが出てくるシーンを思い出す。大阪はやはりニューヨークに似ている。
 この小説の中で私が一番カタルシスを感じて読んだ部分は何故か英姫が俊平の蒲鉾工場の開業資金を頼母子講の親になって5ヶ月でかき集めるという部分だ。なぜかここに高揚感がすごくあった。そこまでしても俊平に裏切られるかもしれない、場合によっては調達した資金の返済をしてくれないかもしれないと思いながらも必死に頼母子講を拡大させて資金調達する姿は痛々しいながらも、何と表現していいかわからない使命を遂行することの美しさを感じる。