直木三十五記念館の日々

直木賞にその名を残す直木三十五の記念館は市民参加型のミュージアム。運営の悪戦苦闘をストレートにお伝えします。

オール読物の直木賞の選評

2006年02月28日 | Weblog
 オール読物の直木賞の選評を読む。選考委員でただ一名だけ今回の東野圭吾の受賞を反対している人がいる。言わずと知れた「愛の流刑地」で世のちょい悪になれないお父さんの股間を刺激する巨匠渡辺淳一先生。ある意味すごい。ここまで東野圭吾を認めない姿勢はハードボイルドですらある。いきなり「夜市」がいいとか言い出すし、とにかく「人物が描けてない」というたったひとつの理由だけで東野圭吾の直木賞受賞を阻止するなんて弁慶の勧進帳である。天晴れ渡辺淳一。しかしながら今回はさすがに無理であったようで他の選考委員があれだけ東野圭吾を評価すると仕方ないか。林真理子が選評の冒頭で「おめでとう」などと言ってるところも意味深。
 井上ひさし先生の「ハルカエイティ」の選評は的をついていた。「いつになったらハルカさんのモダンガールぶりが出てくるのかと期待したが最後までなかった。」と言う趣旨の評価をしていた。確かにその通り、その部分が書けていたら受賞だったかもしれない。
 私がこのブログで「もしこれで東野圭吾が受賞できなければ選考委員が総入替しないと未来永劫東野圭吾の受賞はない。」と書いたのもあながち間違っていないと言える。

週末のこと

2006年02月27日 | Weblog
 土曜日は以前に少し書いた「ふくろうの会」の人たち14名が直木三十五記念館を見学に来られた。記念館の説明と界隈のまち歩きを案内する。このうち何人が直木倶楽部の入会してくれるのかと考える。懇親会が釜戸ダイニング「縁」であり招待される。飲んでまた記念館についての思いを語る。
 土曜日は本来2ヶ月に1回の記念館を使った読書会であるが、またも欠席になってしまった。申し訳ないと思いつつ失礼をする。懇親会が終わった段階で読書会の世話をしているHさんに電話する。すでに2次会も終わっているようで「デッシャロ」で少し話しをする。
いずれにしても人を集めて何かをするのは大変である。

今日は直木の祥月命日

2006年02月24日 | Weblog
 昭和9年2月24日に直木三十五は43歳の生涯を東大病院のベットの上で閉じた。なぜかブロクの世界では今日が何の日かをその背景を知らずとも書くことがはやりのようである。否定するこ ともないが正直なところ何故と思う。
 直木三十五は自らの病気と死をどう見つめていたのであろうか。唯一の私小説といわれる「私」にその断片を見ることができるともいえるが。
 
 昨日、古本屋で直木の実弟である植村清二氏の著書「歴史と文芸の間」を見つけて購入する。この本に「兄の終焉」がおさめられている。「この人 直木三十五」にも「兄の終焉」は掲載されてる。弟清二から見た直木三十五の死というものは何故か冷静にも見えるが清二と宗一(直木)の距離感がよくわかる。「歴史と文芸の間」には四編の直木に関する文章が掲載されている。それぞれに興味深いが植村清二はあとがきにかなり遠慮がちに直木のことを書くこと説明していることがおもしろい。

第24回南国忌

2006年02月21日 | Weblog
 先日19日の月日曜日は直木三十五の祥月命日にあわせて墓前祭である南国忌が横浜市金沢区富岡の長昌寺でとりおこなわれた。昨年に引き続き参列した。この長昌寺には直木三十五の墓があり、24年前にこの墓も横浜のファンの皆さんの呼びかけで浄財を集めて墓を改修したことからはじまる。石澤住職の法要の後は講演会をし、墓参をして懇親会を開催するというものである。
 今年の講演は文藝春秋の社長もつとめた安藤満さんであった。入社当時に担当した第7回直木賞を「ナリン殿下の回想」で受賞した橘外男さんの話を軽妙な語り口で話された。橘外男は変人・怪人物として知られているが、その方を側で見ていた氏の話は大変リアリティがある。とくに推敲の話はすごく興味を引く内容である。安藤氏自ら再現した推敲原稿は何度も墨を入れられ全く原型を止めないものであったのには驚き。
 墓参で線香を順番にあげてから懇親会が開始された。事務局長の窪田さんに頼んで直木三十五記念館のパンフと友の会の入会案内を参加者に配ってもらう。会長の早乙女貢先生のご挨拶、植村鞆音のご挨拶に続いて、私を紹介いただく。記念館の苦境について訴える。席に戻ると向かいに座っておられた年配の方が名刺と折りたたんだ5千円札を手渡してくれた。「がんばれ」と励まされた。両隣からあと二人が入会してくれた。まことにありがたい。横浜人の心意気に惚れる。斜向かいに直木旧邸を所有されている橋本氏がおられた。立派な社長さんで人格穏やかな方。なんとか旧邸を管理維持していきたいがいつか限界を感じるとのこと。是非ともがんばっていただきたい。
 
 

草島さんのご来館

2006年02月20日 | Weblog
 土曜日に鶴岡市議の草島さんが来館。なかなかの好青年な方で、阪神大震災のときに山田さんの「元気村」にいたという。こういうボランティアの経験をされた方が市会議員をされているのは個人的には好ましいことである。いろんなミュージアムと連携がとれていければいいと以前から考えていたが、少しづつでも実現する方向性が見えてきた気がした。草島さんは「単にモノを並べて見せるだけではなく、藤沢周平さんの好んだ風景や散歩したところを体感できるものにするべきですね。」と言われたことは非常に意義深い。記念館もさることながらからほり倶楽部の活動にも興味をもたれた様子。ちょうど萌のテナント会をやっていたのでそちらもちらっと覗いてもらう。長屋ストックバンクネットワークの松富代表がいたのでこのあとの杯を酌み交わす部分は松富さんに任す。鶴岡にきっと素晴らしい記念館ができることを信じて握手をして別れた。

鶴岡市議がご来館

2006年02月17日 | Weblog
 2月8日のブログで書いた藤沢周平記念館を作ろうとしている山形県鶴岡市の市議会議員の草島進一さんが土曜日来館とのこと。前出のブログでは少々挑発的に書いてしまったのかもしれないがこういう交流ができることは大変嬉しい。しかしながら確かに「有給とっても案内する」とは書いたものの今日の明日は本当はちょっとつらい。19日は南国忌があるので横浜の長昌寺に行く予定で費用を節約しようと夜行バスでの移動を想定していたので若干時間的な余裕がないのは本音。しかしながらなんとかするのが私の使命であるのでここは快くご案内したい。
 実のところ正直に言うのならば山形が羨ましい。大阪市はおそらく鶴岡市はもとより山形県一県よりも大きい年間予算があるように思えるのであるが、本当に今日現在のところ当記念館には1円も援助をしてくれていない。それでも記念館はできる。このことだけは誇れる。といいながらこれは本当はやせ我慢。本当は補助金が欲しくてしかたない。なんとかしてほしいと思う毎日である。しかしながら心ある方はそれを知ってそっと援助してくれる。まだまだ数は少ないがそんな厚意を無駄にはしたくない。
 直木三十五が取り持つ縁で鶴岡と空堀が交流できるようになるともっといいのにと期待に胸を膨らませて明日の来館をお待ちしたい。

CSRについて考える

2006年02月16日 | Weblog
 私の本業というかパンを獲るための仕事としてメーカーの総務で働いている。総務という仕事の世界で今一番の話題はCSR(企業の社会的責任)である。姉歯・ヒューザー・木村建設の関わるいわゆる耐震偽装。ライヴドアと堀江貴文をめぐる株価操作と偽計疑惑。東横インのこと。その他今までに起こってきた企業をめぐる様々な不祥事と事件。このような状況の中でこれからの企業がどうのように社会の良き構成員であるかということが問われだしていると考えられる。
 CSRの柱となるのは概ね三つで、まずはコンプライアンスと称される法令遵守ということ、環境問題への取り組み、そして社会貢献である。
 社会貢献という意味合いでは、当記念館としてもCSRに対応するメニューを提示していかなければならないと考える。当記念館をサポートすることでの企業に社会貢献が果たせるという仕組み作りが必要ではないかと考える。
 大阪城天守閣の北川央先生は「自分の住んでいる地元の歴史を知ること、誇りに思うことが教育効果を生む」と以前言っておられた。教育特別区で早期に英語を教えることもいいだろうが、大阪の小学生ことに中心部に学ぶ小学生には直木三十五や宇野浩二、あるいは折口信夫、画家の小出楢重や鍋井克之などの存在をちゃんと伝えていくべきだと考える。そういう意味でも当記念館をサポートすることの社会的意義を明確に示したい。

「からほりもの」

2006年02月15日 | Weblog
 直木三十五の名随筆「大阪を歩く」は現在新刊書で読むことができる少ない著書の一つである。「直木三十五入門」という本に収録されている。
 おそらくちゃんとした随筆に「空堀」という地名が書かれたのはこれが最初ではないかと思う。「のばく」という言葉もここではじめて出てくる。わざとだと考えるのであるが「野麦」と示している。短い文章での紹介ではあるが非常にふるさと大阪への思い入れがよく綴られている。
 直木三十五という作家は私小説というものに縁遠いのであるので、自分の少年時代を小説にしたりする部分がない。宇野浩二の「十軒路地」や「清二郎 夢見る子」や織田作之助の「木の都」のような作品を書く心境にあったならきっと「空堀もの」というような作品を晩年に書いたかもしれない。
 直木はあれだけの作品を書きなぐりながら、書くための題材に困った様子は全くない。本人はきっと書く題材に困るような作家や自分自身のことしか書けない私小説家を笑うが如く書きなぐるように作品を量産していたのではないか。死期が迫ったときにただ一作だけ私小説的な作品「私」を「文藝」に執筆している。
 タラレバを言うならば、直木三十五があと数年生きていたなら少年植村宗一を主人公にした「空堀もの」が読めたかもしれない。

記念館グッズコンペ

2006年02月14日 | Weblog
 本日は一週間遅れの「からほり倶楽部」の理事会であったが。またも集まりは悪くこれでいいのかという感じである。六波羅さんが以前から企画している記念館グッズのコンペを今月中にまとめて「ぴぴっと大阪」の補助金コンペにエントリーすることに決した。これで企画が通れば補助金ゲットできるのであるが。
 文学マップの企画は第一弾として4月2日の下寺町の人形劇フェスティバルの関連イベントで「文学マップラリー」として取り組むことになった。
 しかしながら「からほり倶楽部」もイベント山盛りでこなすだけでも大変である。加えて本来的に取り組む課題も結構ハードルが高い。
 いずれにしても目の前の記念館グッズコンペを成功させたい。

記念館のノート

2006年02月13日 | Weblog
 直木三十五記念館に行かれた方はご存知であると思うが来館者の方々が自由に書き込みができるように一冊のノートが置いてある。当然ながら私は記念館に足を運ぶごとにそのノートに目を通すことを大変楽しみにしている。遠いところからやって来られるかた。直木が大阪出身であることを記念館で初めて知ったという近くに住んでる方。桃園小学校や市岡高校の卒業生の方。様々な方がいろんな思いでこの記念館を訪れていただいている。悪口は書きにくいと思うので大抵は励ましと賛辞ではあるが、多くの方々の期待を裏切らないようにがんばりたいと思う。