五劫の切れ端(ごこうのきれはし)

仏教の支流と源流のつまみ食い

玄奘さんの御仕事 其の弐拾参

2005-06-25 22:38:38 | 玄奘さんのお仕事
其の弐拾弐のつづき。

■釈尊の教えに帰依したカピラヴァストゥの最期は、「不殺生戒」の物語です。前に登場したヴァルーダカ王の遠征軍を迎えた時、カピラヴァストゥの人々は、不殺生戒を守って完全無抵抗主義を貫いたと伝えられています。怨念に燃えたヴァルーダカ王の虐殺命令が実施される中で、一切の抵抗をせずに殺されていった人々を葬った墓地が、遺跡の西北に残っていたそうです。玄奘さんは、この墓所を訪ねているのですが、その時に何を考えたかは分かりません。しかし、この墓所の近くに四つの塔が建っていたのでした。侵略軍に対して、四人だけが武器を取って抵抗を試みた故事を伝える施設です。城外で奮戦して一時的に敵軍を圧し戻した四人は、抵抗を続けようとカプラヴァストゥの城内に入ったのですが、彼らは賞賛されるどころか不殺生戒を破ったことを詰(なじ)られて、国外追放を宣告されてしまいます。丸腰で城外に追放された四人は北のヒマラヤ山中に逃れた後、それぞれがウッディヤーナ王、バーミヤーン王、ヒマタラ王、シャンミ王となってシャーキャ族の血筋を残したと伝えられています。

■ユーラシアの東半分に広まった仏教の歴史の中に、「聖戦」は記録されていません。チャイナの白蓮教徒の過激な運動や日本の一向一揆などは、仏教そのものよりも土着組織の特殊な抵抗運動に、弥勒信仰や極楽往生が利用された例だと言えるでしょう。仏教の不殺生戒は、インドの伝統に根差しているもので、同じ根を持つジャイナ教などは厳格な菜食主義の生活を送りながら餓死を理想とする教えを守っています。農業活動も多くの生命を奪うので禁止され、商業を営む信者が多くなる傾向が強い宗教です。米生産を中核とする日本に伝わった仏教は大きく変化する必要が有ったのです。日本の不殺生戒は、「肉食禁止」と同意義と解釈されて、生活に欠かせない皮革製品やニカワなどを生産する人たちや狩りや漁を仕事とする多くの人々を差別するような伝統を生み出してしまいました。

■玄奘さんも「不殺生戒」を厳密に守って一切の肉類を避けていた様子が、『大唐西域記』にも記録されています。しかし、広大な遊牧地帯を通過する過酷な旅でしたら、穀物と乳製品だけで足りたのかどうかは分かりません。因みに、高地の大草原に広まったチベット仏教には、肉を修行を助ける「薬」として食べる習慣が定着しています。但し、肉を食べたがる心には戒めを与えねばならず、不殺生戒は慈悲の心の延長として解釈されているようです。釈尊が教えた不殺生戒も、貪(むさぼ)りの心、他の命を奪い取ってでも自分が生き残ろうとする「業」の反省に力点が置かれているように思えます。朝食の残飯を分けて貰う沙門の生活で、残飯の中に肉片が入っていた場合に釈尊がどうしたのか、正確には分かりません。食べずに済むのならば食べなければ良い、そんな程度だったのかも知れません。

■玄奘さんは、釈尊生誕の地も訪ねています。ルインピニーの森です。花に囲まれた清らかな池と無優花樹が繁る場所とのことですが、玄奘さんが立ち寄った時には木は枯れてしまっていたようです。アショカ王が立てた塔が釈迦生誕の地であることを示しているだけの悲しげな場所だったと記録されています。その後、釈尊が出家の旅を始めた道を辿って、従者のチャンダカに白馬と共に城に帰れと命じた場所を通過します。そこで釈尊は、贅沢な装身具と衣服を脱ぎ捨てて、猟師の鹿皮の服と交換したと伝えられています。出家者は糞雑衣(ふんぞうえ)というゴミ捨て場から拾って来たボロ雑巾を縫い合わせた衣類を着ることになるのですが、釈尊が最初に身に付けた鹿皮の衣がお坊様の「袈裟(けさ)」の原型とも言えでしょう。

■この段階で、動物の皮に対して釈尊は特別な解釈をしていないことが分かります。殺生を仕事としている猟師さんと、親しく語り合い、衣服を交換していることを確認しておきましょう。漁師さんや猟師さんは、生活のために最低限度の殺生をするのですから、趣味や遊びで生き物を追い回してスポーツを楽しんでいるのではありません。

■釈尊が肉食をどう考えていたのか、その問題に関連するのが最後の食事でしょう。玄奘さんは釈尊生誕の地から一直線にクシナガラに向っています。『仏陀最後の旅』の舞台です。悟りを得てから45年目の雨季をヴァイシャーリー城の近くで過ごした釈尊は、故郷の地を目指して最後の旅に出発します。インドの風土に合わせて、酷暑の夏には「夏安居(げんご)」、道が無くなる雨季には「雨安居(うあんご)」と称して定住生活をする習慣が当時から確立していたことが分かります。

■バーヴァー村というところに到着した時に、釈尊は、その村の鍛冶屋でチュンダさんという人が所有しているマンゴー園で野宿しようとします。それを知ったチュンダさんは、自分の所有地から汚い乞食を追い出すのではなく、高名な釈尊の到着を喜んで、飛び切りの夕食を供養しようと張り切りました。「スーカラ・マッダナム」という名前しか伝わっていない料理を出したようですが、問題はこの料理のレシピです。「不殺生戒」を肉食禁止と解釈する人は、「キノコ料理だった」と主張しますし、「不殺生戒」は心も戒めだと考える人は「豚の挽き肉料理」という説を支持します。在家の方が分け与えて下さる食べ物に対して選り好みしてはいけない、という戒律も有りますから、肉が含まれている自慢料理を供されて、「こんな物は食べられない」と釈尊がおっしゃったかどうか、多分、丁寧にお礼を言って無表情のまま必要最低限の量を食べて夕食会は終了したのではないでしょうか。一夜の宿を許された釈尊の物語ですから、「夕食」となっているのは仕方が無いのでしょう。しかし、基本的には朝食を多めに作るインドの習慣に従って、一日に一度の食事はこの朝食の残飯を利用することにしていた釈尊でしたから、夕食を供されて困らなかったのか、まだ戒律は整わずに柔軟に対応できたのか、それも判断が付きません。
<玄奘さんの御仕事  弐拾参

■釈尊の教えに帰依したカピラヴァストゥの最期は、「不殺生戒」の物語です。前に登場したヴァルーダカ王の遠征軍を迎えた時、カピラヴァストゥの人々は、不殺生戒を守って完全無抵抗主義を貫いたと伝えられています。怨念に燃えたヴァルーダカ王の虐殺命令が実施される中で、一切の抵抗をせずに殺されていった人々を葬った墓地が、遺跡の西北に残っていたそうです。玄奘さんは、この墓所を訪ねているのですが、その時に何を考えたかは分かりません。しかし、この墓所の近くに四つの塔が建っていたのでした。侵略軍に対して、四人だけが武器を取って抵抗を試みた故事を伝える施設です。城外で奮戦して一時的に敵軍を圧し戻した四人は、抵抗を続けようとカプラヴァストゥの城内に入ったのですが、彼らは賞賛されるどころか不殺生戒を破ったことを詰(なじ)られて、国外追放を宣告されてしまいます。丸腰で城外に追放された四人は北のヒマラヤ山中に逃れた後、それぞれがウッディヤーナ王、バーミヤーン王、ヒマタラ王、シャンミ王となってシャーキャ族の血筋を残したと伝えられています。

■ユーラシアの東半分に広まった仏教の歴史の中に、「聖戦」は記録されていません。チャイナの白蓮教徒の過激な運動や日本の一向一揆などは、仏教そのものよりも土着組織の特殊な抵抗運動に、弥勒信仰や極楽往生が利用された例だと言えるでしょう。仏教の不殺生戒は、インドの伝統に根差しているもので、同じ根を持つジャイナ教などは厳格な菜食主義の生活を送りながら餓死を理想とする教えを守っています。農業活動も多くの生命を奪うので禁止され、商業を営む信者が多くなる傾向が強い宗教です。米生産を中核とする日本に伝わった仏教は大きく変化する必要が有ったのです。日本の不殺生戒は、「肉食禁止」と同意義と解釈されて、生活に欠かせない皮革製品やニカワなどを生産する人たちや狩りや漁を仕事とする多くの人々を差別するような伝統を生み出してしまいました。

■玄奘さんも「不殺生戒」を厳密に守って一切の肉類を避けていた様子が、『大唐西域記』にも記録されています。しかし、広大な遊牧地帯を通過する過酷な旅でしたら、穀物と乳製品だけで足りたのかどうかは分かりません。因みに、高地の大草原に広まったチベット仏教には、肉を修行を助ける「薬」として食べる習慣が定着しています。但し、肉を食べたがる心には戒めを与えねばならず、不殺生戒は慈悲の心の延長として解釈されているようです。釈尊が教えた不殺生戒も、貪(むさぼ)りの心、他の命を奪い取ってでも自分が生き残ろうとする「業」の反省に力点が置かれているように思えます。朝食の残飯を分けて貰う沙門の生活で、残飯の中に肉片が入っていた場合に釈尊がどうしたのか、正確には分かりません。食べずに済むのならば食べなければ良い、そんな程度だったのかも知れません。

■玄奘さんは、釈尊生誕の地も訪ねています。ルインピニーの森です。花に囲まれた清らかな池と無優花樹が繁る場所とのことですが、玄奘さんが立ち寄った時には木は枯れてしまっていたようです。アショカ王が立てた塔が釈迦生誕の地であることを示しているだけの悲しげな場所だったと記録されています。その後、釈尊が出家の旅を始めた道を辿って、従者のチャンダカに白馬と共に城に帰れと命じた場所を通過します。そこで釈尊は、贅沢な装身具と衣服を脱ぎ捨てて、猟師の鹿皮の服と交換したと伝えられています。出家者は糞雑衣(ふんぞうえ)というゴミ捨て場から拾って来たボロ雑巾を縫い合わせた衣類を着ることになるのですが、釈尊が最初に身に付けた鹿皮の衣がお坊様の「袈裟(けさ)」の原型とも言えでしょう。

■この段階で、動物の皮に対して釈尊は特別な解釈をしていないことが分かります。殺生を仕事としている猟師さんと、親しく語り合い、衣服を交換していることを確認しておきましょう。漁師さんや猟師さんは、生活のために最低限度の殺生をするのですから、趣味や遊びで生き物を追い回してスポーツを楽しんでいるのではありません。

■釈尊が肉食をどう考えていたのか、その問題に関連するのが最後の食事でしょう。玄奘さんは釈尊生誕の地から一直線にクシナガラに向っています。『仏陀最後の旅』の舞台です。悟りを得てから45年目の雨季をヴァイシャーリー城の近くで過ごした釈尊は、故郷の地を目指して最後の旅に出発します。インドの風土に合わせて、酷暑の夏には「夏安居(げんご)」、道が無くなる雨季には「雨安居(うあんご)」と称して定住生活をする習慣が当時から確立していたことが分かります。

■バーヴァー村というところに到着した時に、釈尊は、その村の鍛冶屋でチュンダさんという人が所有しているマンゴー園で野宿しようとします。それを知ったチュンダさんは、自分の所有地から汚い乞食を追い出すのではなく、高名な釈尊の到着を喜んで、飛び切りの夕食を供養しようと張り切りました。「スーカラ・マッダナム」という名前しか伝わっていない料理を出したようですが、問題はこの料理のレシピです。「不殺生戒」を肉食禁止と解釈する人は、「キノコ料理だった」と主張しますし、「不殺生戒」は心も戒めだと考える人は「豚の挽き肉料理」という説を支持します。在家の方が分け与えて下さる食べ物に対して選り好みしてはいけない、という戒律も有りますから、肉が含まれている自慢料理を供されて、「こんな物は食べられない」と釈尊がおっしゃったかどうか、多分、丁寧にお礼を言って無表情のまま必要最低限の量を食べて夕食会は終了したのではないでしょうか。一夜の宿を許された釈尊の物語ですから、「夕食」となっているのは仕方が無いのでしょう。しかし、基本的には朝食を多めに作るインドの習慣に従って、一日に一度の食事はこの朝食の残飯を利用することにしていた釈尊でしたから、夕食を供されて困らなかったのか、まだ戒律は整わずに柔軟に対応できたのか、それも判断が付きません。

其の弐拾四に続く

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