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消失点

2012年11月29日 | 研究
「テレビにおいては、イメージはあなたに照射される。あなたはスクリーンである。イメージがあなたを包みこむ。あなたが消失点である」(『メディアはマッサージ』)。

マクルーハンは、映画とテレビの違いを、「透過光」、「反射光」ということばで説明している。映画は、暗闇の中で映写機からスクリーンに照射された「反射光」を観客は見ている。本の読者が「反射光」を読んでいるように。一方、テレビは、自らがスクリーンになってブラウン管から発せられた「透過光」を浴びている。教会のステンドグラスから差し込まれた光(神)が信者を包み込むように。光はメッセージである。
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テレビ批評

2012年11月28日 | 研究
「テレビ批評にがっかりさせられる主な理由は、批評家たちの側が、テレビを独特の感覚反応を要求する全く新しい技術として見ることに失敗しているからである。こうした批評家たちは、テレビを単に印刷技術の堕落した形式と見なすことに熱心である」(『メディアはマッサージ』)

われわれ日本人は、幸福にも、テレビ文化の最盛期に「ナンシー関」という天才テレビ批評家を得た。彼女の批評は、番組の内容にではなく、テレビというメディアの持つ効果全体に批評の焦点を当てていた。番組の質や登場人物の発言を問題にする代わりに、視聴者が潜在意識下で感じながら未だことばにできていない感覚を鋭い洞察力で言語化してくれた。マクルーハンのいうように視聴者の「反応」がテレビのメッセージである。ナンシー関の批評文を通じてわれわれは「テレビの文法」を知った。
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著作権

2012年11月27日 | 研究
マクルーハンを読む楽しさは、それまで所与の前提と思い込んでいた社会規範が、実はメディア技術によって構築された期間限定の、時がくれば取り壊される運命の"仮のモノ"であったことに気づかされることであろう。「著作権」もその一つである。著作権という、知的な創造物(著作物)の作者に経済的な権利を付与する考えた方は、グーテンベルクの印刷技術以前にはなかった。誰かの書いたテキストを手に入れることは容易ではなく、なんとか手に入れたテキストは時間をかけて退屈な作業の末に書き取られたが、それはスクラップブックに書き取られた「メモ」のようなもので、そうした過程では元の作者が誰かというような発想は育たなかった。全く同じものを大量に生産できる印刷技術によって台頭した読者公衆reading public文化が、著作者の真正性についての関心を高め、著作者の知的活動の業績に独占的な経済的な権利を与える考え方(=著作権概念)を生んだ(『メディアはマッサージ』)。

人間は、未開から文明に、無知から賢明へと一直線に進歩している訳でない。先進国は途上国の著作権侵害を非難するが、「著作権」概念はグーテンベルク技術のバイアスによって生まれた「一つの価値観」に過ぎない。マクルーハンには、ゼロックスが登場した60年代すでに、新しい電子技術に根ざした新しい価値観の台頭が見えていた。新しい価値観、即ち「チームワーク」である。マクルーハンが半世紀前に予言したとおり、今日のネット社会においては、「著作権=個人の努力」に代わって「チームワーク」が優勢になりつつある。

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政治と「メディアはメッセージ」

2012年11月21日 | 研究
衆院選が近づき、メディアは政治一色になってきているが、政治ほどマクルーハンの「メディアはメッセージである」の意味を考えさせるテーマはない。1960年のアメリカ大統領選で、テレビを見ていた人はケネディの勝ちと思い、ラジオを聞いていた人はニクソンの勝ちと思った、という話は有名である。時代はすでにテレビの時代になっていた。マクルーハンは、この大統領選を「メディアはメッセージ」の説明事例として何度も取り上げている。有名なホットメディア&クールメディアの原理を二人に当てはめ、「いかにも政治家らしい隙のないホットな印象のニクソンに対して、どんな職業であってもおかしくないクールな(=視聴者の想像力が働く余地のある)印象のケネディは、クールなメディアであるテレビ向きだった」と言っている。

メディアは政治家の「メッセージ」を中立的に「媒介」しているのではなく、メディアとメッセージは「一体」なのである。演説会における政治家の「声」(と表情と肉体)は、ニュートナルなメディアというよりはメッセージの一部である。古代ギリシャにおいてプラトンが攻撃したのはメッセージの「内容」ではなく、口承詩人というメディア「形式」であった。声、新聞、チラシ、パンフレット、ラジオ、テレビ、インターネット、ソーシャルメディアなど、メディアの形式は何であれ、メディア抜きの政治メッセージは存在しない。メッセージの「内容=政策」にだけ注意を向けていては、本当の(隠された)メッセージに気付かない。政治家のメッセージの真実性が怪しくなってきている今日、真実の所在探しは簡単ではないが、自分でそれを見つけるしかない。
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図書館の未来

2012年11月20日 | 研究
本の未来が不透明になってきているということは、図書館の未来も不透明になっているということだろう。物理的な形式をもった本を収蔵し、分類し、閲覧させ、貸し出すという「本の案内人」が20世紀までの図書館の役割であった。図書館が公共サービスが価値をもつのは「膨大な図書の収蔵=知の殿堂」という、個人では不可能なサービスを提供するからであるが、インターネットが図書館の「知の殿堂」の役割を薄れさせている。もともとインターネットの検索エンジンは、図書館内での資料検索などで使われていたシステムから派生してきたという。そのシステムが当の図書館の存在を脅かしているというのはなんとも皮肉である。新聞が登場する前は本は「ニュース」であった。今や情報の新鮮さにおいて本は他の諸メディアに立ち打ちできない。さらに情報量も検索性もネットに劣るとすれば、生き残るために新しい価値をユーザーに提供しなければならない。博物館のように、古いものに新しい解釈を付与する施設になるのであろうか。何もかもが「情報化」していく中で、懐古的に本という「読み物」を再発見・再体験させる機関になるのであろうか。それともあくまで「知の殿堂」の役割を死守するために、デジタル化された情報までも図書館のカバー領域に取り込んでいくのであろうか。図書館はネット情報よりも「権威ある情報」を収蔵してきたが、その情報も外部から検索が可能になれば、ネット情報と図書館情報の境目はなくなる。図書館が物理的に「知識の囲い込み」をすることは不可能になった。まさに「壁のない図書館」である。研究者であれ、ビジネスマンであれ、普通の市民であれ、大半の時間を「情報検索」に費やす時代である。私企業の検索エンジンだけが情報の大海のナビゲーターでいいのだろうか。情報の海の快適な航海をサポートしてくれる公的エージェントとしての「未来の図書館」欲しいところである。そこは(=その機能は)、おそらく新しい「公立学校」になるだろう。




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重くなった本

2012年11月16日 | 研究
本は小型化、携帯化に向かって変化してきた、はずである。日本でも単行本は売れなくなったが、小さな新書版は売れるということで出版社は新書シリーズを充実させてきた。だが、小型化、軽量化の進化を遂げてきたはずの本が、あるときから突然「重くて邪魔なもの」に感じ始めた。家の中の本が増えて場所をとっても、そう簡単に捨てられるものではなかった。まして買ったばかりの本を裁断して、内容をデジタルデータに保存するというような行為はかつては考えられなかった。ところが、重量ゼロで無限の情報を得られるインターネットが生活に浸透するにつれ、どんなに小型で軽い本であれ、その物体としての存在がうっとおしいものに思えてきたのである。「本という形式」に未練も愛着もなくなってきたというしかない。「本」は今捨て去られようとしている。デジタル技術は、非物理的な認識世界に人間を遊ばせる。重さも物理的な限界もない世界で人生を過ごすことはもはやSFの世界ではなくなった。デジタル世界から<現実世界>にふと戻ってみると、何もかもが重くてかさばって見える、ということかも知れない。その感覚変容が、デジタル技術に浸された若者を「本」という物理的形式から、自動車という物体から、旅行という空間移動から遠ざけている。クルーハンが言う「内破」の一つの表れなのだろうか。
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活字本(3)

2012年11月15日 | 研究
活字本の体裁の変化の中でも、その後のヨーロッパ社会に大きな影響を与えることになったものは、「字体の統一」、「丁付け(ページ番号の付与)」、「小型化」である。『書物の出現』を参考に整理すれば、以下のようになろう。

活字本の初期には各地域で様々な字体が使われていたが、やがて、スコラ学の著作に使われていた<スンマ書体>、教会用の書物に使われていた<ミサ典書書体>、豪華写本や物語作品に使われていた<折衷ゴチック書体>、古典古代の書体である<ローマン体>に収斂し、最後に<ローマン体>が勝利を収め、西ヨーロッパ全域で使われる唯一の字体になった。<ローマン体>の勝利とは、人文主義者<ヒューマニスト>の勝利に他ならず、ローマン体はルネサンスの隠れた原動力であった。

手写本の時代は、各写本によりページ数がことなっていたため、各頁に「ページ数」を示すことは不可能であった。番号が付与されていても誤りだらけだった。最初は、製本職人の作業の効率化のために付与された数字が、次第に整理されて本の「ページ番号」になった。

初期の活字本は、手写本同様、図書館や修道院に大切に保管されるもので大型であったが、流通量の増大によって本の価格も低下し、本をいつでもどこでも読みたいという「携行版」のニーズが生まれた。本はより広範な読者の獲得のために小型化し、現在の本の体裁に近づいていった。

ページ番号の付与によって、検索性が高まり、本は知識の「データベース」になった。本の「ページ番号の付与」と「巻末の索引」は近代科学発展の形相因であった。「携帯本」の普及は、ヨーロッパ人のリテラシーを高め、近代工業社会の準備をした。

マクルーハンに指摘されるまで、本が「メディア技術」であることに、そして最初の「大量生産品」であることに誰も気がつかなかった。本というメディアの体裁の変遷を知ることは、新しく登場してくる電子メディアの将来の姿を想像するうえで極めて有益である。マクルーハンの言うとおりメディアは人間の延長なのだ。電話は、最初から「携帯化」に向かっていた。ラジオもテレビもレコードもパソコンも、情報に関わる技術は小型化され携帯されることを望んでいた。ジョブスには、パソコンがiPhoneに姿を変えていくことがはっきりと見えていたのだろう。
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活字本(2)

2012年11月14日 | 研究
「"メディアはメッセージである”というのは、電子工学の時代を考えると、完全に新しい環境が生み出されたということを意味している。この新しい環境の「内容」は工業の時代の古い機械化された環境である。新しい環境は古い環境を根本的に加工しなおす。それはテレビが映画を根本的に加工しなおしているのと同じだ。なぜなら、テレビの「内容」は映画だからだ」(『メディア論』)。

新しいメディアは古いメディアをコンテンツとして取り込むことで社会に浸透していく。しばらくの間、新しいメディアは、古いメディアの内容には影響を与えないようにふるまう。テレビに映画が流されても「映画」は映画である。新しメディアがその本質を表してくるにはそれなりの時間の経過が必要である。時間の経過とともに、新しいメディアは次第にそのメディア固有の性格を顕にしてくる。かつてテレビニュースは、新聞を読むように説明調に事件を伝えていたが今は違う。ニュースはテレビに合うように加工・編集されてバラエティ番組になった。映画は、テレビやビデオ、DVDによる視聴を意識してシナリオと長さが決められるようになる。「テレビ番組の劣化」が言われて久しいが、番組制作者の問題というよりも、テレビというメディアが本来的に持つ性格が前面に出てきたというべきだろう。テレビには、「ロジカルな見解」や「直線的な構成」、つまり活字的な価値観の内容は合わないのである。

活字本と手写本の関係も同じであった。活字本が登場したことで「古いメディア」の手写本は、新しいメディアである活字本の「内容」となった。初期の活字本が手写本そっくりにつくられたということは、手写本が活字メディアの「内容」となったのである。印刷本も商業的な成功のためには手写本とそっくりであることが、当初は必要であった。手写本とそっくりであること、古いメディアと同じ質を新しいメディアで再現することが、新しメディアの技術的勝利を意味した。活字本は手写本とは本質的に異なる性格を内包していたが、その本質が現れてくるには長い時間が必要であった。活字本の本質は、「大量生産品」である。当初印刷業者は、徹底的に手書きの書体を真似たいと願っていたため、活字の数は増えるばかりだった。しかし、商業的な理由から、即ち安価な本を求める増加する読者ニーズに答えるため、あるいは競争相手との競争に勝つため、印刷術は均一化、単純化、つまり近代工業社会の基礎概念である「規格化」に向かうことになった。効率化に目覚めた活字本が手写本とは趣を異にする体裁を帯びてくるのは時間の問題だった。
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活字本(1)

2012年11月13日 | 研究
活版印刷本Bookの前には、長い手写本の時代があった。グーテンベルクの印刷術による初期の活字本は手写本と体裁が大きく異なっていたわけではない。有名な「42行聖書」も美しい装飾が施されてまるで手写本のようであった。もともと手写本とそっくり同じ物を印刷でつくろう思っていたから当然なのだが。だが、マクルーハンは手写本と活字本は、その影響において根本的に異なることを強調する。「手写本はまだ全体感覚を残したメディアであるが、活字本は視覚を他の諸感覚から切り離し、視覚だけによる抽象的な心性を強化した」とのマクルーハンの主張は、興味深い主張であるが、いまひとつ納得できない読者も多かった。内容も同じで、見た目も手写本と変わらない活字本がなぜそのような革命的な力をもったメディアであるとマクルーハンは言うのか。マクルーハンは、「活字の均質性、反復性は近代工業社会の基礎となった」と途中の説明抜きに断言したり、「手写本はでこぼこの砂利道、活字は舗装道路」といった比喩で活字本がもたらした影響を強調するが、どのような過程を経て印刷本が西欧近代社会の下部構造になったのか、もう少し詳しい説明が欲しいところである。

「なぜ"書物”は、便利なものをしかも驚くほど単純な方法で作るという単なる技術上の壮挙にとどまらず、西洋文明がかつて手にしたうちでもっとも強力な道具のひとつたり得たのであろうか。(中略)一言で言えば、"書物"は西洋人がこうして世界を支配するための最も有効な手段のひとつであった所以を示すこと、これが本書の目的である」

と冒頭述べて始まる『書物の出現』(リュシアン・フェーヴル&アンリ=ジャン・マルタン/1971年)は、マクルーハン読者のそうした不満を解消してくれる本である。

「中世の末期の書体は、社会階層やテクストの性質やそれぞれの地域毎に特徴を示している。その書体の多様性こそは、この時代のヨーロッパがいくつもの文化に仕切られていたことを、地方や地域はあたかも違う時代を生きているが如くに異なっており、またそこでは、各社会は、国境をこえて同時にそれ固有の文化を所有していたことを、はっきりと表明している」

手写本の書体は、個人によっても、階層や地域によっても「個性」が出ざるを得ない。そうした個性をマクルーハンは「砂利道」と呼んだ。今日でも手書き文字は、男性と女性では異なった特徴をもつし、一時女子小中学生の間で「丸文字」が流行ったことがあった。今も、それぞれの小さな社会グループ・業界の中で、流行の字体があるのかも知れない。文体についても同じである。

活字本がしたことは、一つにはこうした「個性」「多様性」を本から排除したことである。読書は、高速道路を走るように、個性のない文字列を「黙読」でスピードを上げて読み進めることができるようになった。それがその後の西洋人の「均質で反復される機械的心性」すなわち近代合理主義の形相因となった。

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教育(3)

2012年11月11日 | 研究
プラトンの時代に起きた口承から識字への移行の完成は、西欧においては紙の導入が遅れたこともあって、グーテンベルクの発明まで残された。プラトンの時代の口承とアルファベット識字の文化抗争に最初に注目したのはE.ハヴロックであるが、マクルーハンはハヴロックとは別に、アルファベットが西欧人の知覚環境を変えてしまったことに、エリザベス朝期の文芸の研究を通じて気づいた。グーテンベルクの発明から100年を経たエリザベス朝の人々は、中世の共同体的世界と活字本の浸透による個人主義との間で引き裂かれていた。それは、現代の西欧の個人主義が電子的技術の同時的・共同体的な志向性の前に宙吊りになっている状況にそっくりであった。ジョージ・スタイナーは、マクルーハンのこの主張に同意しつつ、西欧の個人主義が電子情報環境に適応することの困難さをこう述べている。

「だがわれわれは、電子的経験の<場>の新たな自発性、偶有性、<全体性>を、まだ身につける用意ができていない。印刷物や、印刷が西欧人の心に無理に植えつけた感情や思考の習慣のいっさいが、五感のもつ創造的な原初の統合力を破壊してしまっているためである。ひとつの感官-読む眼玉-しかないコード言語に、<すべて>を翻訳することで、印刷術は西欧人の意識を催眠にかけ断片化してしまった。われわれは、ブレイクのいう<ニュートンの眠り>の中に、身動きもならず横たわっている」(「マーシャル・マクルーハンを読むには」)

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教育(2)

2012年11月09日 | 研究
「プラトンが攻撃した古い権威は、前文字文化のソフトウェアであった。それは口承的で共同体的な、ある種のショービジネスであった。ローマと中世の教育はもっとハードウェア、すなわち書記と紙とパーチメントに依存していた。それはまた、旅とこれらの素材の輸送にも頼っていた。プラトンとアリストテレスは、彼らの大学を固定して動かない都市国家の観念の上に発展させた。ローマ及び中世の理想はもっと移動的で連邦的だった。今日、新しい電気的ソフトウェアの到来にともない、時間と空間は情報へのアクセスに関する限り消滅した。我々はいつの時代についても、どこにいても学ぶことができる。さらに、ソフトウェアはポスト識字の傾向がある。電気的イメージは、印刷されたハードウェアに簡単に取って代わる。こうしたイメージの即時的な性格は、教育における目標志向を破壊する。個人的キャリアのための専門主義と個人的な志向は、即座にその妥当性を失い、現行の教育及び商業的な機構に参加している全ての人の理想と活力を混乱させる」("adopt a college"/マクルーハン)。   

2500年前の、詩人とプラトンの抗争がそっくり反転した形で現代に再現している。プラトンが排撃した口承の伝統は、新しく登場した電気のソフトウェア環境とともに回復され、紙と印刷のハードウェアの制度を急速に古びさせているのである。
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教育(1)

2012年11月08日 | 研究
マクルーハンは、社会学者、哲学者、文明学者、ポップ・カルチャーの導師(グル)など、さまざまな肩書きで紹介されるが、息子のエリック・マクルーハ博士によれば、本人は、自分はEnglish Teacherであると言っていたという。マクルーハンは亡くなるまで「先生」であった。マクルーハンは、現代の教育制度がコミュニケーションの導管(パイプライン)理論、すなわち先生から生徒へ一方的に知識を伝達する19世紀型教育であると、一貫して批判していた。マクルーハンは授業では質問を投げかけても、解答は示さなかったという。マクルーハンにとって教育とは、あくまで生徒が能動的に「参加」し探求するもので、先生の役割は、生徒が自ら解を発見するために時間の節約をしてあげることであった。

マクルーハンはテレビが登場したとき、テレビが若者を教育していること、テレビは娯楽装置ではなく教育装置であることに誰よりも早く気づいた。そして新しい教育装置であるテレビを学校が有効に活用すべきであると繰り返し主張した。おそらくAudio-Visual教育の重要性を最も早く説いたのはマクルーハンだろう。とはいえ、マクルーハンが着目したのは単なる「知識の伝達装置」としてのテレビではない。テレビの持つ「聴触覚の全体包括的な性質」であった。「真の教育には全感覚の参与が必要」との信念が、マクルーハンにはあった。しかし、どこの国でも学校は、Audio-Visualの導入に最も消極的な機関であったし、今もそうである。教育に関わる人たち(先生と役人)は、グーテンベルク以来500年の間に築かれた紙と活字による専門分化されたカリキュラム体系の中で生きており、それゆえ、彼らの目にはAudio-Visual機器は自分たちの世界の秩序を脅かすものと写るのだろう。彼らにとって教育とは視覚的(活字的、専門的)なもので、聴触覚の包括的な性質は「教育」を阻害するものなのである。

今日のインターネットの普及を見るとき、マクルーハンの洞察力の鋭さに感嘆するしかない。半世紀前、「教室の壁が取り払われた」と言ったマクルーハンの言葉の正しさが誰の目にも明らかになった。「学校」は言うまでもなく、「先生」の再定義も必要になっている。
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電子メディアと脳

2012年11月06日 | 研究
今日、コンピュータ脳、ゲーム脳、ケータイ脳など、メディア技術が人の脳活動に及ぼす影響について論じたものは数多ある。脳科学は、1970年代、脳波や血流の状態を簡単に測定できるようになったことから急速に発展した。マクルーハンは晩年の1970年代、最新の脳科学の成果を取り入れながら、自身のメディア論の正しさを立証することに熱心だった。ロバート・H・トロッターが『もう一方の脳半球』で示した左右の脳半球の働きの違いの図を引用しながら、東西文化の違い、文字文化と非文字文化の違い、活字文化と電子メディア文化の違いは、メディア諸技術が左右の脳半球に及ぼす異なるバイアスの結果である、との論を展開した。

しかし、今日でもそうだが、脳科学者、脳神経学者たちは、専門外の者が脳について軽々に論じることをひどく嫌う。右脳開発とか「脳力」開発の類の本はベストセラーになればなるほど、似非科学、トンデモ本的な扱いを受けることになる。マクルーハンのメディアと脳の主張も、当時としてはあまりに新奇すぎて真面目に取り上げられることはなかった。しかし、「活字メディアは左脳の断片的、直線的、連続的、分析的、論理的思考を強化し、口承あるいは電子メディアは右脳の包括的、象徴的、同時的、情緒的、抽象的な思考を強化する。西欧文化はアルファベット識字の影響で優勢となった左脳の文化であり、口承あるいは非アルファベットの東洋文化は右脳の文化である」とのマクルーハンの主張は、今日、経験的に受けいれられる主張である。欧米人の論理思考はアルファベットと無関係ではなさそうだし、文字は何であれ「本の虫」は総じて理屈っぽく、全体把握ができず融通が効かない。一方、ケータイ世代に理屈を言っても通じないし、忍耐を必要とする分析的思考は苦手のようだ。四六時中何らかの電子メディアを身にまとっている現代人は、そのメディアのリズムと形式の中で生きているのであり、脳がそれに順応していくことは当然と思われる。メディアの流すコンテンツにだけ注意を奪われていると、「本当の強盗」に心を奪われかねない。そうした影響の事象、事件が確実に増えている。
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民主主義

2012年11月05日 | 研究
「民主主義は最高の政治体制である」と言われる。あるいは、「民主主義は最悪だが、他のどの政治体制よりもマシだ」という言い方もある。いずれにしても、今日、民主主義を否定する類の主張は、おそらく非民主的な国においてさえ困難である。マクルーハンは、「民主主義」を古代ギリシャの識字文化によって喚起された思考方法であると言った。アルファベット識字がアテネ人の部族的な伝統を打ち破り、個人を部族から切り離したことから民主主義は生まれたのである。カール・ポパーも同じことを言っている。

「アテネにおいて、ヨーロッパの最初の識字市場が成立したのです。アテネのあらゆる人がホメロスを読みました。それは、ヨーロッパ最初の教科書であり、バイブルでした。ヘシオドス、ピンタゴラス、アイスキュロスそして他の詩人たちがつづきました。アテネの人びとは読み書きを学んだのです。そして、彼らは民主的になったのです」(ポパー/『よりよき世界を求めて』)

ネットリテラシーは民主主義を加速させるのだろうか、それとも衰退させるのだろうか。民主主義が識字文化による幻覚だとすれば、ネット社会において「国家は誰が支配するのか」という問いが改めて問われなければならない。その答えは、「一般意思」でも「一般意思2.0」でもないのかも知れない。

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環境に順応する日本人

2012年11月02日 | 研究
「西欧人には、日本人が精神的苦痛をともなうことなく、ひとつの行動から他の行動へ転換しうるということが、なかなか信じられない。そのような極端な可能性はわれわれの経験のなかには含まれていない。ところが日本人の生活においては、矛盾-われわれには矛盾としか思われないのだが-が深く彼らの人生観のなかに根を下ろしている。ちょうどわれわれの斉一性がわれわれの人生観に根ざしているいると同じように」(『菊と刀』/ベネディクト)。

日本人の順応性は有名である。日本は大きな社会変革を(対外的な戦争を除いて)血を流すことなく成し遂げてきた。その順応性が日本の経済発展の原動力とも言われてきた。しかし、この順応性は西欧人にとっては脅威である。まるでカメレオンのように環境に合わせて如何様にも短期間に色を変えることのできる日本人を、西欧人は理解できない。この環境への順応性は、環境の変化に敏感であるとともに環境の変化に無自覚であるという、一見矛盾する特性からのものである。環境の変化に無自覚なのは自分自身が環境の一部であるからだ。

マクルーハンは、この日本人のこの状態を、「ここにあるのは、あらゆる(地を欠いた図としての)状況に適応可能な抽象的で画一的な(視覚的)行動規範ではなく、むしろ絶え間ない順応を必要とする諸特性間の均衡状態である」という。日本人は完璧に環境の動物なのである。環境から自身を切り離すことに成功していないし、するつもりもない。一方、アルファベット・リテラシーは、西欧人を環境から切り離す隠れた圧力(地)として働いた。

「自然征服という西欧人のプログラムは、そうした専門分科された目標という地によって開放された巨大な心的、文化的エネルギーの初産の一つというにすぎない」(『メディアの法則』)

西欧人は、自然からの自己を、他人から自己を分離するアルファベットの力によって「アイデンティティ」という心的状態を構築した。西欧人は他者を強烈に意識する。他者という反環境によって自己を意識できる。国家は仮想敵国をつくることによって存在しうる。国家の「存続」のために戦争が必要な所以である。
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