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明朝体

2013年11月27日 | 研究
明朝体は、ゴチック体や最近続々と開発されている新印字体とは異なり、言葉だけに仕える文字として機能することを託された、選ばれた字体だ。相当の形象的特徴をもちながら、その形象が存在しないかのようにふるまうことを許された唯一の特殊な字体ではなかろうか。 『文字の現在 書の現在』(石川九楊)
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科学と文芸

2013年11月20日 | 研究
ドイッチャーの『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』を読みながら感じたことは、人間の精神に関わる学問である(言語学を含む)人文(科)学humanitiesが自然科学natural scienceの手法を導入して厳密であろうとすればするほど、人間精神の実際から遠のいていくような気がするのである。ドイッチャーも最後になって吐露しているように、人間は果たしてそれほど合理的存在なのであろうか、「科学的」実験が「証明」できるほど「単純」なのであろうか、という疑問が残る。マクルーハンが当初「メディア論」で試みたアプローチはその対極にある。人間精神の在り様を「科学」ではなく「文芸」の遺産からアプローチしたのが「メディア論」であった。しかし、そのマクルーハン自身、晩年、科学としてのメディア論にこだわっていた。メディア論の正しさの「科学的証明」を求めて苦闘していた。もちろん、マクルーハンの求めていたものは「新しい科学」である。『メディアの法則Laws of Media』のサブタイトルが「The New Science」であることはもっと注目されてもいい。
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青信号

2013年11月19日 | 研究
「正統派」言語学者であるドイッチャーの結論は、科学的態度をとろうとするあまり、結論がどっちつかずの終わり方で、冴えないエンディングの映画を観た時のような不満の残る読後感なのだが、一つだけなるほどと思わされた記述があった。それは日本の「青」信号についての解説箇所である。日本に来た外国人が、日本人が緑色の信号を「青信号」と呼んでいるのを知って、日本人はみんな色弱ではないかと思った、といった類の笑い話を昔何かで読んだことがあるが、我々日本人は「青信号」は青色でなく、緑色であることを知っている。だからといって青信号を緑信号と呼び変える必要性を感じていないし、青信号を緑信号と呼ぶのはどうもしっくりこない。緑を青と呼んで何ら不都合が生じないところに、日本語の言語としての不完全さを思ったこともあったが、緑色を青と呼ぶのは何も日本語に限ったことではないという。青と緑を区別しない言語は、ビルマやフィリピンのタガログ語やチャドのテダ族などにもあり、近代になってヨーロッパ人に接することを通じて、緑と青を区別するようになったらしい。日本語の「アオ」は、元来、緑と青の両方を含んでいたが、近代日本語ができる過程で二つが区別されるようになった。だから緑信号をアオ信号、新緑のように若い未熟な人間を「アオい奴」と呼ぶのは何らおかしな表現ではない。日本が面白いのはここからで、明治初期には緑色灯を「アオ」と呼んでもとくおかしいとは思われなかったが、西洋の色の分類習慣が浸透するにつれ、緑色をアオと呼ぶことが目障りになってきた。普通ならアオ信号をミドリ信号と呼び名を変更するところを、日本政府は「現実」に合わせて名前を変えるのではなく、名前に合わせて「現実」を変える決定をした。その結果、日本の「青信号」は世界のアオgreen信号とは異なり、やや青みがかった緑になったのである。ずいぶん昔、そんな話題が新聞紙上を賑わしたことがあったことを思い出した。
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ホメロスの色覚

2013年11月19日 | 研究
後にイギリスの首相となるグラッドストンは、熱心なホメロス研究家でもあった。『イリアス』、『オデュッセイア』におけるホメロスの色の描写は、例えば「葡萄色の海(ワイン・ダーク・シー)」に代表されるように、現代人の色彩感覚と決定的に異なっており、加えて色に関する語彙そのものが乏しかった。グラッドストンは、これまで「詩的許容」として片づけられてきたこの問題を徹底的に分析し、「ホメロスと同時代人たちは世界を総天然色というより、白黒に近いものとして知覚していた」という驚くべき結論を下して論争を勃発させた。ダーウィンの進化学説の影響もあって、人類は数千年の間に色覚を発展させ、古代のモノクロ世界から脱して今日の総天然色の感覚を獲得したとの説も提唱された。2千年前のギリシャ人の色覚を直接調べることは不可能であるが、西洋文明に接していない未開の種族の色覚を調べることで、色覚の進化の歴史の傍証にできるのではないかと考えて世界各地で行われた調査の結果は、期待に反して、色を表す語彙の種類・数に違いはあっても色の弁別能力そのものはどの民族も同じように持つとの結論に至る。だが、言語が知覚の在り様に全く影響を与えていないのか、というとそうでもないらしい。英語ではblueの一語で表すスペクトル範囲を、ロシア語ではsiniy(ダークブルー)とgoluboy(ライトブルー)の二つの語で表す。英語を母語とする人がロシア語でいうsiniyとgoluboyのスペクトルの違いを見分けられないことはないが、二つを区別する語彙を持つロシア語を母語とする人の方が明らかに二つの色の違いを弁別する「反応時間が短い」という実験結果が出たのである。著者のドイッチャーは、言語の違いが人間の抽象的思考に影響を与えることは否定しつつも、異なる言語の話者は、色をわずかながら異なる形で知覚していることを認める。
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レンズとしての言語

2013年11月12日 | 研究
『言語が違えば世界も違って見えるわけ』Through the Language Glass:Why World Looks Different in Other Languagesのタイトルから、サピア=ウォーフ仮説支持者で、サピア=ウォーフ仮説をさらに深化させる話が聞けると思って読み始めたのだが、著者のガイ・ドイッチャーは、現在の言語学の主流であるチョムスキーの普遍文法、すなわちすべての言語には共通の基本ルールがあり、人間の脳(DNA)には文法の大半が組み込まれているとする「言語生得主義」に基本的には立脚しているようで、サピア=ウォーフ仮説をはじめ、言語が人間の思考に与える影響を唱えた過去の言語学者、文化人類学者の諸説を徹底的にこき下ろすことから始めている。ただ、様々な科学的実験結果を並べつくした末、慎重な言い回しながら、言語が思考とは言わないまでも、人間の知覚に影響を与えている、という結論にいたる。言語学者として「レンズとしての言語」という譬えを用いることができる唯一の分野は「色」の認識である、というのである。
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