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手話(サイン・ランゲージ)

2013年03月28日 | 研究
手話(サイン・ランゲージ)は、日本語や英語と同じように文法をもつ自然言語の一つである。それは、子どもが手話を母語として獲得できることからも明らかである。手話を母語とする人を、ネイティブ・サイナー(native signer)と呼ぶ。(中略)ネイティブ・サイナーの流れるような無駄のない手の動きを観ていると、芸術か魔法のようにみえる。ネイティブ・サイナーは、考えごとをしたり夢をみたりするときにも、頭の中で手話をつかっているという。声が届かないところにいる人とも、手話でなら会話ができるし、雑踏のなかでも、雑音にじゃまされずにすむ。         『言語の脳科学』(酒井邦嘉)

われわれは、通常、言語とは話しことばと文字(書きことば)と考えるが、未だ文字をもたない民族もいることから、文字は話しことばの後に生まれた二次的なもので「言語」に必須なものではない。では、話しことば(音声言語)こそが、唯一の一次的な言語であるかと言えば、上記のように、ろうあ者が使う手話も自然言語であるなら、言語の定義はそれほど簡単ではない。マクルーハンは、言語を電子メディアにまで拡大して論じて文字識者を混乱させたが、言語とは何かという問いは未だ広大な未探査分野である。言語とメディアをめぐっての議論は尽きることはないだろう
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仮面

2013年03月25日 | 研究
仮面をかぶって変身するということと、仮面を使用せずに変身するということとでは、変身そのものの意味が違うのではないか、ということである。仮面そのものに少々こだわったいい方になるかもしれないが、仮面をかぶる変身には仮面の下に「原型」があるということ、換言すれば変身以前の元の「身体」があるということを、一応前提にしている。かれが元の身体に戻るためには、仮面を剥ぎとればよい。仮面をとっても身体がもとに戻らなかったり、あるいは仮面そのものが素面になったりしてしまったりする場合が、生理的にも心理的にもありうるが、それは今は例外的現象として除外する。ところがこれにたいし、仮面を使用せずに変身するということは、原型としての「身体」そのものが変形するということであって、たとえば身体が獣や鳥類の身体性を獲得するということを意味する。比喩的にいえば、ギリシャ神話のミノタウロス(牛頭人身)、またヒンドゥー神話のガネーシャ(象頭人身)などは仮面を媒介とした変身像であるが、同様に世界の伝説圏に広く分布する人魚や人頭蛇身の怪物は、仮面をもたない変身像を代表する。     『霊と肉』(山折哲雄)

仮面論という学問ジャンルがあると聞くが、仮面をメディア技術と見れば仮面論はメディア論と言ってもよさそうである。自動車に乗ると人が変わる。自動車は「仮面」である。仮面によって本来の自分とは別のキャラクターを身につける。機械技術を身にまとって生きた近代人にはもともとの「原型」が残っていた。機械文明において人が「疎外」されていると感じたのは、この残っていた「原型」のせいである。機械を捨てれば元の「原型」に戻れると感じたのが機械文明であった。一方、電気技術は「仮面を着用しない」変身をもたらす。電気技術は生身の身体と完全に一体化して、もともとの「原型」は失われる。マクルーハンのいう感覚比率の調整あるいは感覚麻痺とはこの原型が失われることでもある。その結果、いったん身につけた電子メディアを捨てることは自分の身体の一部を切断するに等しい。電気技術のもとでは「人間の疎外」は起きない。疎外は起きないが「強いられる」変容はむしろ大きい。
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『1984』

2013年03月20日 | 研究
美しいことだね、言語の破壊というのは。むろん最高の浪費は動詞と形容詞にあるのだが、同じように始末すべき名詞も何百とあるね。同意語ばかりじゃない。反対語だってそうさ。結局のところ、ただ単に或る言語と正反対の意味を持つだけの言葉なんて、一体どんな価値があるというのかね?一つの言葉はそれ自体、正反対の意味を含んでいなくちゃならん。たとえば"good"の場合を取り上げてみよう。"good"みたいな言葉があるなら、"bad"みたいな言葉の必要がどこにあろう。"ungood"で十分間に合う-いやその方がましだ、まさしく正反対の意味を持つわけだからね。もう一方の言葉はそうじゃないんだ。あるいはまた、もし"good"の強い意味を持った言葉がほしければ、"excelent"とか"splendid"といったような曖昧で役に立たない一連の単語を持っていても仕方がない。"plusgood"(plusはラテン語で英語のmoreに当たる)という一語で間に合う。もっと強い意味を持たせたければ、"doubleplusgood”といえばよい。もちろんわれわれはこれらの方式をすでに使っているが、しかし新語法の最終的な表現では、これ以外の言葉は存在しなくなるだろう。結局、良いとか悪いとかの全体的な概念は僅か6つの単語で-実際はたった一つの単語で表現されることになるだろう。君には分からないかね、そうした美しさは、ウィンストン?もともとはBB(Big Brother)のアイディアなんだよ、断るまでもないことだが。

                                           『1984』(ジョージ・オーウェル)

『1984』には、人々の思想を統制するために「印刷された記録」を日々書き直すイングソック党職員の様子が描かれている。記録は新語法(ニュースピーク)で書かれる。新語法ではコンピューターのコマンドのように人々に想像力を働かせないよう単語の意味は厳密に定義され、数は制限される。印刷されたものだけが真実であり、その記録が廃棄され、新しい記録が取って変わることによって「真実」は更新される。「書かれたもの」だけが真実であるという、印刷文化の本質が鋭く描写されている。いつの時代も、どこの国でも官僚組織は言語に箍を嵌めようとし、詩人と芸術家は言語の奔放さを取り戻そうと闘っている。
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感覚の分断と再統合

2013年03月14日 | 研究
マクルーハンの「Understanding Media-The extentions of Man」は、1967年、『人間拡張の原理』(竹内書店)のタイトルで邦訳された。原著の副題が邦訳では書名になって、古本屋でそのインパクトのあるタイトルに惹かれて手に取ったのがマクルーハンとの最初の出会いだった。竹内書店版の二段組みの『人間拡張の原理』を何度も読み返したためか、後発訳の『メディア論』(みすず書房)の方は、手元にあってもページを開く気がなかなかしなかった。横組みの小説を読む気がしないのに似て、まさに「メディアの形式」はひとつの強いメッセージである、と思ったものである。それはともかく、マクルーハンのUMは「人間の拡張」面にばかり注目が集まってしまい、マクルーハンの真の意図が誤解されてしまったきらいがある。マクルーハンは「人間の拡張」に希望を抱いていたのではなく、むしろのその逆で、人間の拡張にともない失われた人間の「統合性」あるいは「集合的意識」の回復の方にこそ力点があった。失われた統合を回復してくれると期待した技術、それが「電気技術」であった。

車輪があれば、身体は物から物へ移動するのが容易かつ迅速になるが、関与の度合は減る。言語は人間を拡張し増幅するけれども、同時に人間の機能を分断する。人間の集合的無意識あるいは直観的な認識は、この意識の技術的拡張(それが話されれることばだ)によって減少する。 ― 中略 ― われわれの感覚および神経を地球規模に拡張する現代の電気技術は、言語の未来に大きな意味をもっている。電気技術がことばを必要としないことは、デジタル・コンピューターが数字を必要としないのと同じである。電気は、意識そのものプロセスを世界規模で、しかも、言語化に頼ることなしに、拡張する方法を示している。このような集合的意識の状態は人間の言語以前の状況であったかもしれない。言語は人間の拡張の技術であり、言語が物を分離分割する力をもつことはよく知られている。その言語は人間がそれを用いて最高の天界にまで達しようとした「バベルの塔」であったかも知れない。こんにち、コンピューターは、あらゆる記号または言語を他の記号または言語に瞬間的に翻訳する手段になりそうである。簡単に言えば、コンピューターは、世界共通の理解と統一の成就した聖霊降臨の状況を技術によって約束してくれる。論理のつぎの段階は、言語を翻訳するのではなく、それを通り越して一般的宇宙意識へ到達してしまうことである。それは、ベルグソンが夢に見た集合的無意識に非常に似ているかもしれない。生物学者の口にする、肉体の不滅を約束する「無重力」の状況というのは、永遠の集合的調和と平和を与えてくれる「無言語」の状況のことかもしれない。

                                                             『メディア論』
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閉鎖と覚醒

2013年03月13日 | 研究
マクルーハンはメディアによる「人間の諸感覚の拡張」の結果もたらされる麻痺状態を「閉鎖系closure」という言葉で説明している。

技術という形態でわれわれ自身を拡張したものを見ること、使うこと、知覚することは、不可避的にそれを抱擁することになる。ラジオを聞くこと、印刷されたページを読むことは、われわれ自身の拡張したものを自身のシステムのなかに受容することであり、その後に自動的に生ずる「閉鎖」あるいは知覚の置換を経験することである。日常使用している自分自身の技術をたえず抱擁しつづけると、われわれは人間自身のこういうイメージにかんして意識下で自覚と麻痺を起こすナルキッソスの役割を演じないわけにいかなくなってしまう。たえず技術を抱擁しつづけると、われわれは自動制御装置としてそれらに自身を関係づけることになる。だからこそ、それらを使いこなすためには、これらの対象、これらわれわれ自身の拡張したものに、それが神あるいは小さな宗教ででもあるかのように仕えなけれならなくなる。インディアンは自分のカヌーの、カウボーイは自分の馬の、重役は自分の時計の、それぞれ自動制御装置だ(『メディア論Understanding Media』)。

門林岳史氏は、新たなメディアが新たな閉鎖系をつくり出そうとするその瞬間にその閉鎖系の外に出るチャンスがあるとしてこう述べている。

メディア環境がそのピークに達して逆転を開始する瞬間、あるいは二つの異質なメディア環境が衝突する瞬間、そのような瞬間は、むろん混乱と不安の瞬間に他ならない。しかし、そうした瞬間こそが私たちに新たな把握の可能性を与えてくれる。移動すること。外に出ること。メディアが私たちの感覚性を変容し、新たな閉鎖へと閉じ込めなおそうとするまさにその瞬間において、そうしたメディア的変容そのものの把握へと達すること。そして、それは『メディアの理解』と題したこの著作の叙述が可能になる瞬間にも他ならない。

                           『ホワッチャドゥーイン、マーシャル・マクルーハン?-感性論的メディア論』
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メエルシュトレエム(大渦巻き)にのまれて

2013年03月11日 | 研究
「まったく、正気の沙汰ではない。なにしろ、こともあろうに、下の泡の方へいろいろなものが落ちこんでゆくその速さを、それぞれに比べ合わせておもしろがったりしたんだから」
                                                      『メディアはマッサージ』

マクルーハンがしばしば立ち返るもうひとつのエピソードは、エドガー・アラン・ポーの『大渦巻きにのまれて』(1841)の水夫の行動である。大渦巻きにのまれた水夫は、何もかもが泡立つ渦巻きの底に飲まれていくとき、あえてそれに逆らう愚を犯すことなく、超然と渦巻きの流れを観察しているうちに、大渦巻の外に逃れる流れを発見し、ついには脱出に成功したというお話である。マクルーハンは自分の電子メディアの「大渦巻き」に対する態度は、この水夫と同じであると繰り返し述べている。
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ナルキッソスの神話

2013年03月04日 | 研究
ギリシャのナルキッソス神話は、そのナルキッソスという名が示すとおり、人間の経験に直接かかわっている。それはギリシャ語のnarcosisすなわち「感覚麻痺」に由来する。青年ナルキッソスは水に映った自身の姿を他人と見間違えた。鏡によるこの拡張がナルキッソスの知覚を麻痺させ、ついに自身の拡張あるいは反復されたイメージの自動制御機構と化してしまった。   
                                                             『メディア論』

マクルーハンは、好んでこの「ナルキッソスの神話」に言及する。この神話の意味するところは、ナルキッソスが水に映った自分に恋したなどということではなく、人間は自分以外のものに拡張された自分自身を、自分とは認識できないばかりか、その拡張された自分自身にたちまちに魅せられてしまう、ということである。自身の拡張によって生じたストレスを解放するためにこの感覚麻痺が起きる。新しい諸感覚の均衡のための感覚比率の調整である。このメディアの麻痺状態から人々を目覚めさせることがマクルーハンの仕事の目的であった。
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