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反環境(まとめ)

2012年11月01日 | 研究
マクルーハンのホットなメディア、クールなメディアの分類は有名であるが、晩年こだわったテーマは、環境と反環境であった。これは、ホットなメディアとクールなメディアの二項対立の考え方を拡張したものとも考えられる。環境はその本当の効果に注意が向かないクールなメディアであり、反環境は人の注意をひくホットなメディアであるというふうに。環境と反環境はあくまで相対的なものであり、いつでも環境は反環境に、反環境は環境に変わりうる。マクルーハンが強調するのは「反環境」の重要性である。反環境がなければ人は環境という空気のような存在の前に、自動的に順応してしまうロボットと化す。マクルーハンのメディア論は、電子メディア環境という新しい環境に無意識のうちに順応つつあった西欧社会の状況に対する反環境であった。マクルーハンの文章や発言にはtotallyとかentirelyといった表現が多く、そうした誇張表現が、他の学者や批評家から反発を招いたのだが、マクルーハンの目的は、環境に順応しきって催眠状態にある人々に、自分が置かれている環境を意識させることであったから、そうした反発を期待して、あえて誇張表現を多用したのである。マクルーハンは、詩であれ、小説であれ、絵画であれ、あらゆる優れた芸術作品はある現実の一部を極端に誇張することにより、人々に今起きつつある変化を気づかせるものである、と言っている。

マクルーハンは、政治システムについても環境と反環境の考え方を適用している。マクルーハンによれば、政党政治は、政府与党という環境に対して野党という反環境の存在が、国民に政府与党という環境を意識させる重要な役割であるという。野党がなかったら、つまり独裁体制や大政翼賛体制の状況下においては、国民は環境を意識できず、その環境に自動的に順応してしまう夢遊病者となる。独裁体制下では、国民は独裁体制に強い不満を持ちながら警察権力や軍隊がその不満を押しつぶしていると思われがちだが、独裁体制では「反環境」がないため、そもそも国民が独裁体制という環境を意識できない。したがって完璧な独裁体制下では国民の不満は起きない。ベルリンの壁は、西側からの衛星テレビ放送が「反環境」となり、東独国民に独裁体制という「環境」を意識させたことによって崩壊した。日本では政党政治とはいっても、野党が政府与党(およびその補完勢力)の反環境と言えるまでの力を持つことはなかった。そのため国民は環境としての政府与党に長らく順応したままだった。日本では政権交代はあり得ないかのように思えたが、21世紀になって反環境としての野党の力不足を補ったのは、もう一つの反環境、即ちインターネットであった。それまでの支配的なメディア環境であった新聞、テレビに対する反環境としてのインターネットは、これまで目に見えていなかった「環境」に注意を向けさせ、日本の統治構造を顕にしつつある。政権という環境は、反環境という政権自身に国民の注意を向けさせる存在が目ざわりである。政権が取り得る最も有効な政策は、反環境を作らせないこと、つまり対立軸をなくすことである。対立軸のないまま進行する政治、それが今の日本の政治状況である。
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