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活字本(2)

2012年11月14日 | 研究
「"メディアはメッセージである”というのは、電子工学の時代を考えると、完全に新しい環境が生み出されたということを意味している。この新しい環境の「内容」は工業の時代の古い機械化された環境である。新しい環境は古い環境を根本的に加工しなおす。それはテレビが映画を根本的に加工しなおしているのと同じだ。なぜなら、テレビの「内容」は映画だからだ」(『メディア論』)。

新しいメディアは古いメディアをコンテンツとして取り込むことで社会に浸透していく。しばらくの間、新しいメディアは、古いメディアの内容には影響を与えないようにふるまう。テレビに映画が流されても「映画」は映画である。新しメディアがその本質を表してくるにはそれなりの時間の経過が必要である。時間の経過とともに、新しいメディアは次第にそのメディア固有の性格を顕にしてくる。かつてテレビニュースは、新聞を読むように説明調に事件を伝えていたが今は違う。ニュースはテレビに合うように加工・編集されてバラエティ番組になった。映画は、テレビやビデオ、DVDによる視聴を意識してシナリオと長さが決められるようになる。「テレビ番組の劣化」が言われて久しいが、番組制作者の問題というよりも、テレビというメディアが本来的に持つ性格が前面に出てきたというべきだろう。テレビには、「ロジカルな見解」や「直線的な構成」、つまり活字的な価値観の内容は合わないのである。

活字本と手写本の関係も同じであった。活字本が登場したことで「古いメディア」の手写本は、新しいメディアである活字本の「内容」となった。初期の活字本が手写本そっくりにつくられたということは、手写本が活字メディアの「内容」となったのである。印刷本も商業的な成功のためには手写本とそっくりであることが、当初は必要であった。手写本とそっくりであること、古いメディアと同じ質を新しいメディアで再現することが、新しメディアの技術的勝利を意味した。活字本は手写本とは本質的に異なる性格を内包していたが、その本質が現れてくるには長い時間が必要であった。活字本の本質は、「大量生産品」である。当初印刷業者は、徹底的に手書きの書体を真似たいと願っていたため、活字の数は増えるばかりだった。しかし、商業的な理由から、即ち安価な本を求める増加する読者ニーズに答えるため、あるいは競争相手との競争に勝つため、印刷術は均一化、単純化、つまり近代工業社会の基礎概念である「規格化」に向かうことになった。効率化に目覚めた活字本が手写本とは趣を異にする体裁を帯びてくるのは時間の問題だった。
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