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トロント学派Toronto Schoolはなかった

2014年11月27日 | 研究
いわゆる「トロント学派Toronto School」というものがあったわけではない。それは、ただ地球上に起きている偉大はショー(電子革命)を眺める島人の集まりに過ぎなかった。博物館のカフェのテーブルが会合の場所であった。そこに、4時なるとマクルーハンとタイアウィット、そして私(ドナルド・シール)が集まり、私とジョン・アーヴィングとともに、何人かの学生、ときどきイースターブルック、たまにイニス、加えてドロシー・リー、ジークフリート・ギディオン、アシュレイ・モンタギュー、カール・ロリアニ、ロイ・キャンベル、それに十何人かの来訪者が来て、カフェが閉店するまでその場で話込んだ。トロントには、すべてが形式ばっていないというもう一つのオアシスがあった。誰もトロント学派という言い方はせずに、思想仲間と呼ぶのがまったくふさわしいようなやり方でお互いに影響し合っていた。

『The Toronto Shcool of Communications』/Donald Theal
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新しい言語

2014年11月26日 | 研究
英語はマス・メディアである。あらゆる言語はマス・メディアである。映画、ラジオ、テレビの新しいマス・メディアも新しい言語である。ただ、その方法はまだわかっていない。それぞれのマス・メディアは現実をちがうふうに組み立てる。それぞれが独自の形而上学を内に秘めている。言語学者はいう。どんな言語でも、十分に単語なり映像を使えば、どんなことでもいうことができると。しかし時間がない。文化にとっては当然のそのマス・メディアの特性を開拓しなければならないことになる。

文字を知らなかった時代の人びとは、おずおずと一時的に言葉に形をつけたのに、印刷された言葉は確固として、恒久的で、永遠と接していた。印刷された言葉は後世のために真実に防腐剤を塗ってくれたわけである。この防腐剤を塗ることによって、言葉は凍結され、曖昧な技術は排除され、駄じゃれは「最低のユーモア」とされ、言葉の結びつきはこわされた。言葉はそれが象徴するところのものに適用され、しかもそれとは分離した静的なシンボルとなった。

他の新しい言語についても同じことがいえる。ラジオもテレビも、互いに無関係な短い番組を提供する。その途中や間にCMがじゃまをする。「じゃまをする」といったが、これは私自身が時代遅れの本の文化に育ったからであって、私の子供はCMをじゃまだとか、連続性をこわすものだとみていない。むしろCMを全体の一部分だとみなし、うるさいとか、どうでもよいといった反応を示さない。


これは、マクルーハンの言葉ではない。エドマンド・カーペンターの言葉(『Exploration vol.8』に掲載の「The New Language」/邦訳は『マクルーハン理論』〈サイマル出版会〉から)である。言説の「内容」だけからは、まるでマクルーハンの言葉と思ってしまう。いわゆる「メディア論」がマクルーハンひとりの独創から生まれたのではなく、トロントを中心とする学際的なコミュニケーション研究グループ「The Toronto School of Communication」の共同研究の成果であることがよく分かる。なお、カーペンターは、vol.9まで続いたコミュニケーション研究誌『Explorations』の vol.1-vol.7の編集責任者で、マクルーハンはvol.7までは、トム・イースターブルック(経済学/イニスの同僚)、J・タイアウィット(都市計画)らとともに、準編集者associated editorであった。マクルーハンがカーペンターとともに共同編集責任者になったのは、vol.8からである(といっても雑誌はvol.9で終わり)。一般にマクルーハンが中心と思われている「Explorations」誌は、実はカーペンターが創刊したものである。
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エドマンド・カーペンター

2014年11月20日 | 研究
トロントの「メディア論」は4人によって骨格が完成したと前記事に書いたが、一人重要な人物を忘れていた。文化人類学者のエドマンド・カーペンターである。カーペンターはマクルーハンとともに、1953年に創刊された学際的なコミュニケーション研究誌『探求Exploration』の共同編集者であった(右側に『探求』1~8号の写真がある)。トロントのコミュニケーション研究におけるカーペンターの貢献は重要である。カーペンターのイヌイットの言語と彼らの非視覚的な空間認識に関わる実証的な研究は、トロントのコミュニケーション研究に「知覚perceptionの探求」という方向性を与えた。20世紀半ば、メディアとコミュニケーションに関わる研究は、様々な場所で様々な視点から取り組まれたが、トロントのそれが一際異彩を放つ理論となったのは、メディア技術がもたらす「知覚の変容」を中心テーマとしたからである。もともと「言語」と「知覚」の問題は、トロント大学のカフェに集った人々の共通の関心事ではあったが、カーペンターの人類学的、社会科学的なアプローチが、メディア論を「論」らしくしたと言えるだろう。そもそもマクルーハンは「論」は嫌いだった。ところでカーペンターの「メディア論」への貢献があまり論じられることがないのは、マクルーハン理論の中にカーペンターの研究成果がうまく統合され(過ぎ)てしまい、カーペンターが言ったこともマクルーハンの言葉として世の中に流布してしまったということもある。もはやカーペンターの言葉なのか、マクルーハンの言葉なのか分からなくなってしまっているのである。カーペンターとしては、「メディア論」の栄誉にマクルーハン一人が浴することに複雑な気持ちもあったようだが、カーペンターに限らず、マクルーハンの言葉として知られているフレーズのオリジナルは、実は別の誰かの言葉であることは多い。マクルーハンとしては、印刷文化が生んだ「著作権」の概念など一時的な錯覚で、すぐにゴミ箱行きだと思っていただろうから、誰の言葉であっても即興的に編み上げ、独自のメディア観を作り上げていった。形式こそがメッセージという意味では、やはりマクルーハンなくしては「メディア論」の成立はなかった。
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書くことと意識

2014年11月18日 | 研究
読み書きがしみついた人間とは、たんに生まれながらの力ではなく、書くという技術によって直接ないし間接的に構造化された力からその思考過程が生じているような人間のことである。

プラトンは、『パイドロス』のなかでソクラテスにこう言わせている。(まず第一に)現実には精神のなかにしかありえないものを、精神のそとにうちたてようとする点で、書くことは非人間的である。書かれたものは、ひとつの事物であり、つくり出された製品である。それと同じことが、当然ながら、コンピューターにもあてはまる。

プラトンの立場の一つの弱みは、自分の反論に影響力を持たせるために、それを書物に書いたことだった。同様に、印刷に反対する立場の弱みも、その提唱者たちが、自分たちの反論にいっそう影響力をもたせるために、それを印刷に付したことである。コンピューターに反対する立場の同じような弱みは、その提唱者たちが、自分たちの立場に影響力をもたせるために、コンピューター端末で作成された磁気テープから印刷された論文や書物のなかで、自分たちの立場を述べていることである。

すでに見たように(Havelock 1963)、プラトンの哲学における分析的な思考は、書くことへの批判も含めて、書くことが心的過程におよぼし始めていた影響があってはじめて可能になったのである。-中略-執拗につきまとう遅れた声の文化に対する文字に慣れた人間literate personとしてのプラトンのこうした反応、ないしは過剰反応を生み出したのが、かれのこころのなかで作動しているこうした無意識の力であるということに、プラトン自身はもちろんまったく気づいていなかった。

                                    『声の文化と文字の文化』(W-J・オング)


セントルイス大学でのオングの修士論文の指導教官は、ケンブリッジから北米に戻って間もないマクルーハンだった。オングは1912年生まれ、マクルーハンは1911年生まれなので、先生と生徒というよりもお互いに影響を与え合った同僚・盟友という感じであったようだ。『グーテンベルグの銀河系』には、オングの活版印刷による視覚的方法の確立と対話の衰退を論じた『ラメ-方法の確立と対話の衰退』、『ラメの方法と商業精神』が頻繁に引用されている。また、オングの『声の文化と文字の文化/ORALITY AND LITERACY』(1982)には、E・ハヴロックの『プラトン序説』からの引用も多い。そのE・ハヴロックの古典研究は、学部は違えどトロント大学の同僚であったハロルド・A・イニスの著作『The Bias of Communication』に影響を与え、またイニスの影響も受けて『Bias』の12年後『プラトン序説』が書かれた。マクルーハンは『グーテンベルグの銀河系』はイニスの著作の脚注に過ぎないと言い、また晩年取り組んだ『メディアの法則』(息子エリックとの共著/1988)ではハヴロックの『序説』を引用しつつアルファベット識字の西洋文化への影響を論じている。イニス、ハヴロック、マクルーハン、オング、この口誦文化に心を寄せる4人の探求によってトロント発の「メディア論」の骨格ができあがった。

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ことばと音声

2014年11月14日 | 研究
思考は音声としてのことばに宿るのであって、テクストに宿るのではない。すべてのテクストがその意味をもつのは、視覚的なシンボルが音声の世界を指し示すからである。読者がいまこのページをみているのは、現実のことばではなく、コード化されたシンボルであり、必要な知識をもっている人間なら、そうしたシンボルをとおして、実際に発音するにしろ、頭のなかでそうするにしろ、現実のことばを意識のなかに呼び出すことができる。-中略-手書き文字と活字に慣れた人びとは、ことばは本質的には音声であるのに、それを「記号」として考えることを当然だと思っている。   『声の文化と文字の文化』/オング

現代日本人は、声に出しては読めないが意味内容としては「読める」文章に出くわしてもそれほど不便には感じない。アルファベット文化圏以上に、漢字を使う日本人にとっては書かれたことばと音声としてのことばは別のものである。特に音読み、訓読みの存在が2つのことばの乖離を助長している(中国人にとっては、漢字は表音文字の性格もあるので日本人の場合とは異なる)。現代日本人が外国語の習得が苦手な理由の一つが、この音声としてのことばの衰退であろう。活版印刷文化が浸透する前の、ことばと音声の結びつきが強かった明治初期の日本人の方が外国語の習得が容易だったように見える。明治期のエリートは英語の学習の前に「漢学」を学んだが、黙読ではなく漢文を声に出して読み下す「素読」が学習の中心だった。まだことばは音声とともにあった。
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メディアとしての言語

2014年11月13日 | 研究
Hermes Trism  
英語が科学言語の地位を築けた理由の一つは、英語に情緒がないからだろう。そして情緒がないからこそメロディーが生み出す情緒を音楽として合わせる事が出来る。   Twitterより

【西洋の音楽に対応する東アジアの書】
伝言ゲームで見てきたように、日本語は話をし、声(音)を聞いていながら、実際には「文字を話し・文字を聞く」のだということがおわかりいただけたと思います。これはアルファベットを使う言語と基本的に違う点で、西欧の場合は、まず音があり、当然のことながら言葉は音楽へと直接的につながっています。オペラ、バレエ、交響楽など、西欧で音楽がひじょうに発展し、文化の中心にある理由もそこにあります。  ( 『縦に書け!』/石川九楊)

「言語」に敏感な人は言語が言い表す「内容」ではなく、言語の構造そのものが持つ 「メッセージ」を良く理解している。「言語」が最初のcommunication technologyであるということの諒解がマクルーハン理解の出発点である。
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博覧強記、高額年棒、ソフィスト

2014年11月11日 | 研究
プラトンがソフィストに浴びせた批判は、2300年後、マクルーハンが他の学者・批評家から受けた批判そのものである。ソフィストの弁論術(レトリケー)がプラトンに批判されたように、マクルーハンの比喩とアフォリズムに満ちた論述形式もまた、論理的でない、体系的でないと批判された。またソフィスト(知恵のある者)は、どんな分野がテーマであってもその分野の「専門家specialist」を論駁することができると自ら標榜していたが、それがプラトンによって「すべての物事について知る者は神のみであり、それは不可能である。無知の知を知らないソフィストは本当の知者ではない」と批判された。マクルーハンの博覧強記ぶり(マクルーハン旋風の60年代、古今東西の、あらゆる分野の知識が淀みなく口から飛び出すマクルーハンは何でも知っている博覧強記の学者と評判であった。ちなみに大橋巨泉の"世界まるごとhowマッチ"にビートたけしが、「私は漫才界のマクルーハンと呼ばれていまして、何でも知っています」と言いながら登場してくるシーンがyoutubeで観られる)もまた、「専門家」から科学的でない、証拠を示していないのは本当は何も知らないからだ、と批判された。ソフィストは授業料をとって若者に弁論の術を教えることが批判されたが、マクルーハンは、60年代末にアメリカのフォーダム大学(ニューヨーク)から年棒10万ドル(今の価値で約1億円)で招かれことで、学者仲間の嫉妬から"fee-losopher"と揶揄された。さらに言えば、ソフィストの弁論の相手は聴衆であった(ソクラテス(dialecticianの祖)は、一対一の、かつ一問一答によって相手の矛盾を突いて言い負かすことを目指した)。マクルーハンを評価したのも大衆(=マスコミ)であった。マクルーハンは自分の批判者を相手にすることは、「真理を顕わにするよりは、むしろ誤謬を固定化するのに効果がある」(F.ベーコンの言葉)として、正面から反論することしなかった。事ほど左様にマクルーハンはソフィスト的なのである。


マクルーハンに対する反論は、まったくうんざりするほどの同じ言葉の繰り返しによって程なく立ち消えになってしまう。彼は証拠や歴史に一切関心はないということなのだ。彼は、論戦や合理性は、昨日の骨董品であると主張して、また絶えず主題を変えることによって、自らの論戦の無能力を支えているのである。 『Pro and Con』

マクルーハンの「成功」は、ソフィストたちがソクラテスにうまく誘導されてー問ー答の土俵に乗せられた同じ愚を犯さなかったことかも知れない。
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技術決定論

2014年11月04日 | 研究
「私の最大の関心は、今起きていることを見ようとしない人々の態度から帰結する「決定主義」を克服することなのです。技術による変化を避けられないものとして観るどころか、われわれがその技術の構成要素を理解するなら、好きなときにいつでもそのスイッチを切ることができると主張しているのです」(NYTインタビュー)

マクルーハンは、しばしば「技術決定論者」として批判された。しかし実際は批判とは反対に、技術革新の人間社会への悪影響を避けるために、価値判断は留保してその技術の構造分析に努めた。われわれは、便利と思って使っているうちにその技術の奴隷になっているが、そのことに気づいていない。自分の意見を表明することがあまり得意でないと思われていた日本人も、インターネットやSNSなど便利なツールの登場によって、一億総批評家ならまだしも、気に入らないことがあると、寄ってたかって当人に罵詈雑言を平気で浴びせる(炎上)ようになった。狭いムラ社会で生きてきた日本人に、技術の影響に無自覚なまま匿名性の高いメディアを与えるとこうなるという「技術決定論」の見本である。機械技術の時代までは、うまく技術の内面化(ミメーシス)を回避しながら伝統に近代技術を接ぎ木するという高度な翻訳作業を成功させてきた日本人ではあるが、いまや電子テクノロジーのサーボメカニズムの一部と化しつつある。今、マクルーハンが読まれるべき理由はここにあると思う。
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アルファベットのミメーシスの皮肉

2014年11月02日 | 研究
マクルーハンは、ハヴロックを引用しつつ、古代ギリシャにおけるアルファベットの使用もまたミメーシス(模倣術)であるとしてこう述べる。

「書かれた文字の視覚的効能は心理的な結果をともなっていて、いったんそれを覚えてしまうと人々はそれについて考える必要はなかった。目に見えるもの、記号の連続であるにもかかわらず、書かれた文字は、読み手と彼の話されたことばの記憶のあいだに、思考の対象として介入することを止めた」 (『序説』)

-中略-アルファベットの作用としての意識と無意識の分離は極めて重要である。それは(他の感覚から視覚の)感受性を分離状態に置くことのミメーシスであり、表音アルファベットに内在するものである。文字使用以前の人々にとって、ミメーシスは単に表現の様式ではなく、「すべての人々の学習のプロセス」なのである。-中略-ミメーシスを用いることによって「認知される対象」は注意の対象となることをやめ、その代わりに認知者が身につける地となる。それは客観性も中立性も経験のいかなる合理的画一性も認めず、視覚秩序のあらゆる特性を破壊してしまう。これこそがプラトンが『国家』のなかで、ミメーシスの主たる使用者(詩人)をこう公然と非難した理由である。-中略-ギリシャ人がミメーシスの口誦的習慣を使うアルファベット技術に接近したとき、逆にその視覚的な力の方を身にまとったのは皮肉なことだった。そしてその新しい視覚的な地はギリシャ人を部族的な文化から完全に遠ざけてしまった。その結果、文化の二つの様式のあいだで激しい抗争が生じることとなった。
                                                           『法則』

アルファベットが地となって生じた弁証術(論理学と哲学の起源)と、詩人とソフィストが用いる弁論術(修辞学と文法学の起源)という「二種類の知」の抗争史を、メディア技術の革新の視点から再構築したのがマクルーハンの「メディア論」である。
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詩人とソフィスト

2014年11月01日 | 研究
しかし、この私をして言わしめるならば、ソフィストの技術というものは、むかしからあったものなのであって、ただ古人でそれに従事していた人たちは、この技術がまねく憎悪をおそれて、仮面をもうけてその偽装のかげに隠れていたのである。ある人は詩作をもってこの仮面とした-たとえば、ホメロスやヘシオドスやシモニデスのように。またある人々は、秘儀をさずけ神託を伝えることをもって偽装した-オルペウスとムゥサイオスおよびその徒がそれである。またあるときには、体育術までもこの偽装に使う人々がしばしばあることに、私は気づいている。   『プロタゴラス』

プラトンは、プロタゴラスに古の詩人たちもソフィスト術の起源の一つだと言わせているが、プロタゴラスがそう言ったというより、プラトンがそう見なしていた、ということだろう。詩人もソフィストも「模倣家」としてプラトンに糾弾された。散文家プラトンにしてみれば、詩人もソフィストも語られる内容・知識で人々を説得するのではなく、神話の登場人物や古の著名な詩人たちの権威を借りて、大衆を自分が意図する結論に導く「知者を模倣する(=ミメーシス術を操る)者」であって本当の知者ではなかった。しかし、このプラトンの主張が当時のギリシャ社会に広く受け入れられていたということでもない。プラトンがプロタゴラスに言わせたとおりなら、むしろプラトンが非難する「ソフィスト的知」の方が様々な形をとって古代ギリシャ社会の隅々にまで浸透していたということになる。一方のプラトングループは、パソコン通信登場時の「オタク」のような存在だったかも知れない。新しい識字オタクたちが韻を踏んで謳うように話す詩人たちを「時代遅れ」と批判している情景が目に浮かぶようだ。
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