繰り返し述べていますが心配、迷い、不安、苦悩、
恐れは“無い”のです。
“無い”のに起こるのはなででしょうか?
それは頭の中に浮かんだ思いを掴むから、心が躍らされるのですね。
そして心配、迷い、不安、苦悩、恐れになり「苦の世界」と化するのです。
頭の中に浮かんだ思いを、一時的に掴まなければそれは起きませんが、
残念ながらそれが抜け切れない「思考癖」として固まっていますから、
一時的が終ったらぶり返して来てどうすることもできません。
しかし“実践”という思いを繋がない手法を使えば、
そこで思いは切れて行くのです。
例えば、重い錘が10mのひ弱なロープで吊り下げて
あったとします。
それでは切れるとして、「思考自我」が現れて鉄線を補充
したりすればいいとするのです。
しかしそれでも心配するので、あれやこれやと何かないかと
探し回るのです。
これが「思考癖」で、一時的な安心と取り止めのない不安
が原因で創られていますね。
これは幻想ですので、重い錘も10mのひ弱なロープも
“何も無い“のです。
真実世界は、“今この瞬間・無思考”があるだけで他は
“何も無い“のです。
“今この瞬間・無思考”の状態は、繰り返し述べている通り、
何があっても穏やかな安らぎのある“絶対安心”の境地です。
恐れは“無い”のです。
“無い”のに起こるのはなででしょうか?
それは頭の中に浮かんだ思いを掴むから、心が躍らされるのですね。
そして心配、迷い、不安、苦悩、恐れになり「苦の世界」と化するのです。
頭の中に浮かんだ思いを、一時的に掴まなければそれは起きませんが、
残念ながらそれが抜け切れない「思考癖」として固まっていますから、
一時的が終ったらぶり返して来てどうすることもできません。
しかし“実践”という思いを繋がない手法を使えば、
そこで思いは切れて行くのです。
例えば、重い錘が10mのひ弱なロープで吊り下げて
あったとします。
それでは切れるとして、「思考自我」が現れて鉄線を補充
したりすればいいとするのです。
しかしそれでも心配するので、あれやこれやと何かないかと
探し回るのです。
これが「思考癖」で、一時的な安心と取り止めのない不安
が原因で創られていますね。
これは幻想ですので、重い錘も10mのひ弱なロープも
“何も無い“のです。
真実世界は、“今この瞬間・無思考”があるだけで他は
“何も無い“のです。
“今この瞬間・無思考”の状態は、繰り返し述べている通り、
何があっても穏やかな安らぎのある“絶対安心”の境地です。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます