只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

昔の冷たいキャンデイ売り自転車です

2016-04-11 09:34:34 | 日記
鐘を鳴らしながら、木箱の冷凍ケースで売りに回って来ました。




私(思考)は鏡に写った自分を見て
果たして「本当に自分であろうか?」と思うような事はしません。
それは100%、自分と信じているからです。

しかし幻想なのですね。
こんなこと言うと「おい!おい!おっさん頭が可笑しいと違うか?」と
いわれるのがオチです。(笑)

ですから幻想世界に、どっぷり浸かっている人に言う事でもありませんけど・・・
例えば心配事があるとか、北朝鮮が核攻撃するのではないかという不安、
将来どうなるのだろうという不安、悩みがちらついて落ち着かない。

これらの心配事が現実になるかもしれないし、
ならないかもしれないを思考しているから幻想世界に入っているということです。
将来への不安も、北朝鮮の核攻撃の不安も安心を探している思考です。

ですから「鏡に写った自分」は、事実としては『身体の顔』です。
自分もすべては思考が創り出していますので、
一旦私(思考)を疑ってみることですね。
疑ってみるとは思考を入れないということですよ。

ぜひとも“実践”で体感してください。


只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

・・離れきった時、過去の一切が既に無いということが自覚される。…前回まで

    『落書きをするな。と書いたら、それ自体が既に落書きである。
     つまり求めるそのものが既に心であり自分である。
    その上自分が自分を探したり、心が心を求めても別の心が有るわけがない。
    そのような落書きをすればするほど汚れてしまい、なお遠くなってしまう
。』

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
「ああだ、こうだ」と言い騒ぎ、心が動き回ることが
苦悩に繋がっていきます。

ではその心を『止めろ』と言っているのも私という思考です。
しかしなかなか『止まらない』から
次第に苦悩に繋がるのです。

“一心”とは“只、無思考”です。
心が動かないところ“ひとつ”ということです。

“ひとつ”は“すべてで全体”です。
それが“真心”で“真の自分”です。

それを体感できるまで“実践”です。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿