ピーマンの初成りです。たぶん収穫はかなりになるのではと、
お世話になってる方々に差し上げたいと思います。笑
ピーマンの美味しい食べ方を中学生の時に叔母さんに教えた記憶があります。
叔母さんは「ピーマンは好きではなかったけど、○○ちゃんが教えてくれたら
美味しかったので好きになった」と喜ばれたことがありました。笑
人生は様々のことが起きてきます。
それがあって当たり前で、何か起こるたびに
生きていたら色んな事が起きて当たり前であり、
その当たり前に一喜一憂していては、心が安まる暇はありません。
ですからこのブログは、心が安まる“無心”に
落ち着くために、“只なる実践”の持続を
推奨しているのです。
この“一心”“無心”“真心”は無闇に動き回るものでは
ありません。
動き回るとは“一、無、真”が覆い隠されて、自然から
『心』が離れてひとりでに浮遊するということです。
つまり“心身一体”であったのが、身体から『心』が
離れてバラバラになったということです。
“心身一体”は“一、無、真”ともいい、すべてが
“真実”ということです。
どこにあるということではなく、“只、今、ここ”です。
思考の無い瞬間“今”ということで、言葉ではわかりますが
事実はさっぱりわからないのです。
しかし、思考の無い瞬間は弛まぬ“只なる実践”の持続で
感じてくるのです。
なぜならば思考の無い瞬間の“今”は“只”ですから、
そのまんまということです。
残念ながら言葉で言い表すのはここまでで、
すべて体得するには頭脳を使わない“只なる実践”の持続ということです。
お世話になってる方々に差し上げたいと思います。笑
ピーマンの美味しい食べ方を中学生の時に叔母さんに教えた記憶があります。
叔母さんは「ピーマンは好きではなかったけど、○○ちゃんが教えてくれたら
美味しかったので好きになった」と喜ばれたことがありました。笑
人生は様々のことが起きてきます。
それがあって当たり前で、何か起こるたびに
生きていたら色んな事が起きて当たり前であり、
その当たり前に一喜一憂していては、心が安まる暇はありません。
ですからこのブログは、心が安まる“無心”に
落ち着くために、“只なる実践”の持続を
推奨しているのです。
この“一心”“無心”“真心”は無闇に動き回るものでは
ありません。
動き回るとは“一、無、真”が覆い隠されて、自然から
『心』が離れてひとりでに浮遊するということです。
つまり“心身一体”であったのが、身体から『心』が
離れてバラバラになったということです。
“心身一体”は“一、無、真”ともいい、すべてが
“真実”ということです。
どこにあるということではなく、“只、今、ここ”です。
思考の無い瞬間“今”ということで、言葉ではわかりますが
事実はさっぱりわからないのです。
しかし、思考の無い瞬間は弛まぬ“只なる実践”の持続で
感じてくるのです。
なぜならば思考の無い瞬間の“今”は“只”ですから、
そのまんまということです。
残念ながら言葉で言い表すのはここまでで、
すべて体得するには頭脳を使わない“只なる実践”の持続ということです。
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