それでも永山則夫が好きだ(スピンオフ)

「ねっとわあく死刑廃止」や、無期懲役囚で「とらえなおし」で知られる飯田博久さんや、小松川事件の李珍宇のことを書いたり色々

(第四章)小笠原和彦著『李珍宇の謎』…珍宇が作成した再審請求書は行方不明!?珍宇関係者もかなりの不思議系(笑)

2017-05-02 18:04:22 | 小笠原和彦著『李珍宇の謎』

 (第三章)から続きます。 

【李珍宇・小松川事件について】

・1958年4月20日、賄い婦の田中せつ子さんが殺害される。

・1958年8月17日、東京都江戸川区の東京都立小松川高等学校定時制に通う女子学生(当時16歳)が行方不明になる。

・1959年2月27日、李珍宇(在日韓国人)は犯行時18歳であったが、「賄い婦殺人事件」も含めた殺人と強姦致死に問われ、に東京地裁で死刑が宣告。

・二審もこれを支持、最高裁も1961年8月17日(被害者の命日)に上告を棄却し、戦後20人目の少年死刑囚に確定。事件の背景には貧困や朝鮮人差別の問題があったとされ、文化人や朝鮮人による助命請願運動が高まった(自白だけで物証がなく冤罪という説もあった)。

・1962年8月には東京拘置所から仙台拘置支所に移送(当時東京拘置所には処刑設備がなかったため)

・同年11月16日に異例のスピード執行された。

 

小笠原和彦著『李珍宇の謎』の目次 

 

【「珍宇は冤罪派」と「珍宇は真犯人だけど、死刑は回避させたい派」の間でモメる】

珍宇は冤罪説を主張していたのは、『無実!李珍宇』の著書の築山俊昭氏と、中村孔正氏という人物。

しかし、支援団体の、『李少年をたすける会』と『李君の助命をねがう会』は、珍宇くんがやったもの、珍宇は黒である前提で動いていたため、築山俊昭氏と、中村孔正氏とは衝突したらしい。ちなみに、珍宇と沢山文通していた、朴壽南(パク・スナム)という女性まで、珍宇は冤罪ではないと主張していたそうだ。

下の写真は、壽南さんと珍宇のやりとりを全部収録して本にしたもの。下の本を読めばわかるが、確かに、珍宇が真犯人としか思えない手紙内容が含まっている。

 

 

【珍宇が処刑された日の仙台刑務所…勤務中に酒を飲んでいる刑務官】

珍宇は冤罪だったと思う派の、中村孔正氏がお嬢さんと一緒に、仙台刑務所を訪れた11月16日は、皮肉にも、珍宇が処刑された日だった。そして、刑務官らの給料日でもあったらしい。

中村親子は、刑務所内の応接室で、2時間待たされたあげく、刑務官が3人入ってきたが、そのうちの何人かが、酒を飲んでいたらしく、酒臭かった。仙台刑務所では、勤務中に酒を飲んでいる刑務官がいる、ということになる。

その刑務官たちは、「とにかく、今日は、珍宇に面会できない」とごまかすばかりだった。(実際は、処刑後だった。)

 

移送後、たった3ヶ月で死刑執行されている

・1962年8月には東京拘置所から仙台拘置支所に移送(当時東京拘置所には処刑設備がなかったため)

・同年11月16日に異例のスピード執行された。

 

【珍宇の最後を看取ったのが仏教僧、珍宇は笑って死んでいった?】

珍宇は、獄中者になってから、カソリック信者になっており、教誨師には志村神父がついていたはずなのに、なぜか、珍宇処刑時、最後を看取ったのは、松島の端巌寺の中川玄昭という仏教僧だった。

中村孔正氏は、小笠原氏に対して、「死刑制度を利用した自殺じゃないか、とおっしゃっているが、あんなに報道され、新聞にかきたてられ、珍宇にはもう、シャバに戻る余裕がなかったのではないか?珍宇はきっと笑いながら死んで行ったと思う」と言う。

…しかし、小笠原氏は“処刑される前に再審請求書を作成してる人物が、笑って死刑になれるだろうか?”と懐疑的。

 

【珍宇が作成したとされる再審請求書の内容は?】

小笠原氏が、珍宇の当時の担当弁護士・小林氏を訪ねるが…小林弁護士は、珍宇からの再審請求書を新聞記者に貸してしまって、どこに行ったかわからなくなってしまったという。なので、再審請求書が本当に作成されたのか?内容はなんだったのか?迷宮入りしてしまう。

ちなみに、再審請求書の件は、また、第六章で出てくるみたいだ。

(第五章-1)へ続く

 

 

 



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