ふみ子抄① あい・みゆき
(序章) 略
(1)
まばゆいばかりの春の陽射しが、鈴懸の葉の隙間を斜めに洩れて、地上に降り注いでいる。本
郷通りのこの辺りは、両側の歩道が鈴懸の並木である。その梢を、夕方の涼しい風が渡し始めた。
昭和三十二年五月初めのことである。
松島ふみ子は、駒込駅前の軽食堂「ビアン」のドアの際に立って通りを見ていた。この時間、
まだサラリーマンの退勤時間には間がある。歩道の人通りは疎らだ。三々五々帰宅の道に就く学
生らの他には、早めの夕食の買い物に出る主婦が通る程度である。彼女らは洗濯機が普及したお
かげで、家事の時間が浮いたのである。しかし電気冷蔵庫は、まだ普及していなかったから、買
い物は、毎日しなければならない。
車道の中央を走る都電、通称”ちんちん電車”は、神田から王子へ向かう。途中、東大の赤門
や正門の前を通って駒込駅前を過ぎ、霜降橋から飛鳥山の麓を下る。当時は、まだ普通のサラリ
ーマンの家庭に自家用車は無い。したがって道路が渋滞するようなことは、まず無かった。電車
もバスも、すいすいと流れて行く。
そんな街のたたずまいを、ぼんやりと眺めながら、ふみ子は弟の貞夫のことを考えていた。貞
夫は、おととし中学を卒業した。ふみ子とは三つ違いの十七歳である。学校の成績が悪かったこ
ともあって、彼は進学を望まなかった。両親も亦、豊島区日の出町という場末の商店街で小さな
惣菜屋を営んでいるいう根っからの商人だったので、教育には理解がない。それでも長男なら、
自分らの老後を見てもらうことを期待して、学校へ上げることも考える。しかし次男以下には何
も期待していないので、学校など無用の長物としか思えなかった。というわけで,次男の稔は自
転車屋へ奉公に出されているし、三男の貞夫は義務教育の中学卒業を待って洗濯屋へ丁稚奉公に
出ることになっている。電機洗濯機は普及しても、普通の家庭では下着の洗濯がせいぜいだろう。
ワイシャツやスーツ、女性のスカートなどは、やはり専門の洗濯屋でないと、きれいに仕上がる
まい。だから洗濯屋は将来性のある職業だと考えたのである。
けれども、この親の考えに、いつも従順でおとなしいふみ子が、珍しく反対した。
「男の子は外で働くんだから、高校くらい出ていないと、つらい思いをすんじゃない?」と言う
のである。彼女自身は、ほとんど学校へ行けなかった。四つの時、東京の市電、荒川線の電車に
跳ねられて瀕死の重傷を負う、という不幸にあってしまったからである。なぜ、そんなことにな
ったのか。親たちがお上に忠実で、“産めよ、殖やせよ”という国策に素直に従ったせいとも言
える。
それでなくても松島家は子沢山だった。女、女、女、男、女、男、女、男、女と八人の子がい
た。ふみ子は、その末っ子として、昭和十一年八月十九日に生まれた。だが男尊女卑の甚だしか
った時代である。女は所詮、成人すれば”嫁”として他家にやってしまうから”育て損”という
考えが根強くあった。その意味では女六人に男二人という比率は、有難くない。育てて行く費用
も大変である。そこで夫婦は相談した。その結果、母フジの腹には女性の卵が多く、男の卵は少
ないおんではないか、ということになった。それでは、子供作りは、もう終わりにしよう、と決
めたのである。こうなると、ふみ子は末っ子だ。自ずと父吉三郎は、ふみ子を盲愛することにな
った。だいたい男親が息子より娘を可愛がるのは、人間の本能らしい。吉三郎は、ふみ子を「お
文、おふみ」と呼んで、昆布を煮る時も、田作りを炒める時も、必ずふみ子を呼び寄せて、抱き
かかえていた。
しかし、ふみ子が末っ子として甘えられていたのは、三つくらいまでだった。(つづく)
(序章) 略
(1)
まばゆいばかりの春の陽射しが、鈴懸の葉の隙間を斜めに洩れて、地上に降り注いでいる。本
郷通りのこの辺りは、両側の歩道が鈴懸の並木である。その梢を、夕方の涼しい風が渡し始めた。
昭和三十二年五月初めのことである。
松島ふみ子は、駒込駅前の軽食堂「ビアン」のドアの際に立って通りを見ていた。この時間、
まだサラリーマンの退勤時間には間がある。歩道の人通りは疎らだ。三々五々帰宅の道に就く学
生らの他には、早めの夕食の買い物に出る主婦が通る程度である。彼女らは洗濯機が普及したお
かげで、家事の時間が浮いたのである。しかし電気冷蔵庫は、まだ普及していなかったから、買
い物は、毎日しなければならない。
車道の中央を走る都電、通称”ちんちん電車”は、神田から王子へ向かう。途中、東大の赤門
や正門の前を通って駒込駅前を過ぎ、霜降橋から飛鳥山の麓を下る。当時は、まだ普通のサラリ
ーマンの家庭に自家用車は無い。したがって道路が渋滞するようなことは、まず無かった。電車
もバスも、すいすいと流れて行く。
そんな街のたたずまいを、ぼんやりと眺めながら、ふみ子は弟の貞夫のことを考えていた。貞
夫は、おととし中学を卒業した。ふみ子とは三つ違いの十七歳である。学校の成績が悪かったこ
ともあって、彼は進学を望まなかった。両親も亦、豊島区日の出町という場末の商店街で小さな
惣菜屋を営んでいるいう根っからの商人だったので、教育には理解がない。それでも長男なら、
自分らの老後を見てもらうことを期待して、学校へ上げることも考える。しかし次男以下には何
も期待していないので、学校など無用の長物としか思えなかった。というわけで,次男の稔は自
転車屋へ奉公に出されているし、三男の貞夫は義務教育の中学卒業を待って洗濯屋へ丁稚奉公に
出ることになっている。電機洗濯機は普及しても、普通の家庭では下着の洗濯がせいぜいだろう。
ワイシャツやスーツ、女性のスカートなどは、やはり専門の洗濯屋でないと、きれいに仕上がる
まい。だから洗濯屋は将来性のある職業だと考えたのである。
けれども、この親の考えに、いつも従順でおとなしいふみ子が、珍しく反対した。
「男の子は外で働くんだから、高校くらい出ていないと、つらい思いをすんじゃない?」と言う
のである。彼女自身は、ほとんど学校へ行けなかった。四つの時、東京の市電、荒川線の電車に
跳ねられて瀕死の重傷を負う、という不幸にあってしまったからである。なぜ、そんなことにな
ったのか。親たちがお上に忠実で、“産めよ、殖やせよ”という国策に素直に従ったせいとも言
える。
それでなくても松島家は子沢山だった。女、女、女、男、女、男、女、男、女と八人の子がい
た。ふみ子は、その末っ子として、昭和十一年八月十九日に生まれた。だが男尊女卑の甚だしか
った時代である。女は所詮、成人すれば”嫁”として他家にやってしまうから”育て損”という
考えが根強くあった。その意味では女六人に男二人という比率は、有難くない。育てて行く費用
も大変である。そこで夫婦は相談した。その結果、母フジの腹には女性の卵が多く、男の卵は少
ないおんではないか、ということになった。それでは、子供作りは、もう終わりにしよう、と決
めたのである。こうなると、ふみ子は末っ子だ。自ずと父吉三郎は、ふみ子を盲愛することにな
った。だいたい男親が息子より娘を可愛がるのは、人間の本能らしい。吉三郎は、ふみ子を「お
文、おふみ」と呼んで、昆布を煮る時も、田作りを炒める時も、必ずふみ子を呼び寄せて、抱き
かかえていた。
しかし、ふみ子が末っ子として甘えられていたのは、三つくらいまでだった。(つづく)