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チュチェ思想入門 第二回 チュチェ思想、その始まり

2016年02月01日 | チュチェ思想入門

第二回目である。今回のテーマは、「チュチェ思想の始まり」である。


チュチェ思想は、1930年6月30日、卡倫(カリュン)会議における、金日成主席の報告でその思想的根幹が提起され、その創始が宣告された。今回はそのうち、「チュチェの発見」という大事件について触れてみたい。

当時、日本の植民地下にあった朝鮮では、抗日武装闘争を展開しようとするもの、中国・ロシアなどの大国との連携で解放を実現しようとするもの、日本やアメリカにとりいって自治を獲得しようとするもの、など様々な主義主張があり、植民地からの解放をめざす朝鮮人民にとってそのような状況は、マイナスにこそ作用すれプラスとなるものではなかった。本来、抑圧や搾取からの解放のため、必要となる武器は、「団結」だからである。無尽蔵な可能性を秘め、そのうちに解放の方図と力をも兼ね備えている人民から離れ、知識人たちは卓上の口論を繰り返し、果ては闘争のヘゲモニー(主導権)をめぐって互いに罵倒や嘲笑を繰り返し、それは度々「同志討ち」にまで発展する。


その水面下で朝鮮人の生活はというと、アメリカ発の世界恐慌に見舞われた世界経済のどん底から這い上がろうとする日本の餌食となっていく。当時日本は経済において金本位制を採用しておらず、世界経済が恐慌を味わうその時ほどに金本位制に移行した。これが、「嵐の中で戸をあける行為」と評されるまで、そんなに時間はかからなかった。しかし、その後、欧米の経済がどん底をさまよっているとき、日本はというと、「経済発展」の道を辿っていくのである。1910~1920年代初期には「米騒動」なる暴動が幾重にも起こり、関東大震災において朝鮮人大虐殺が行われていく状況のなかで、恐慌に出会い、「嵐」に見舞われた日本は、その傷跡を見せることなく、発展の道を辿って行ったので.ある。このことが、当時の植民地・朝鮮にたいして収奪にいかほどの影を落としたのか、これは容易に想像できるだろう。そのような中、極度の貧困に立たされている朝鮮人民の立場を鑑みると、上記のヘゲモニー闘争などは、邪魔もの以外のなにものでもなかったのではなかろうか。

なかでも深刻だったのは、社会主義革命を目指すというグル―パーの存在であった。貧困の極みの中、人々が皆平等に暮らせる社会主義革命を目指す思想にあこがれや期待を持つのは自然的な流れであろう。しかし、当時の指導者を自称するものたちは、朝鮮人民の状況と準備程度を考慮することなく、むやみやたらに「闘争」に人々を駆り出し、無益な犠牲を重ねていながらも、「社会主義の勝利」を声高に叫んでいたのである。またたく間に人々は離れ、朝鮮の独立運動は座礁していく。この状況の中、人民のため、解放に向かうため、どのような手を立てればいいのだろうか。これは、当時、金日成主席のみならず抗日運動を指揮したすべての人々の前に立ちはだかった壁であったのだ。
金日成主席の出した答えは、いたってシンプルであった。 「人民の中にはいり、彼らの力を動員してこそ革命の勝利があるのです」。人民の中にはいり、人民の力を動員する。これが革命闘争の本懐であり、原則である。解放闘争という革命は、卓上の理論で行われるものではない。人民が何を望み、何を訴えているのか。それを吸収し、大きな力として結集させるところに、道ははじめてできるのである。これが、「チュチェの発見(=人民の発見)」である。

そういえば、昔、魯迅という作家がこのようなことを言った。「抵抗の道は見えない道」だと。抵抗者にとって明日などはわからない。今日の抵抗によって支配者にぶっ潰されるかも知れない人々にとって、「安易な道」などはないのである。一寸先が闇であろうと、それでも前に進むとき、人間は一つの道をはじめて作るのである。これこそが解放への道だ。

日本帝国主義という大きなハードルを乗り越えて、解放という道をすすむ。そのための方法はただ一つ、「人民の中」に入ることである。ここに、チュチェ思想の本質がある。

まさに1930年初夏、青年将校はこのような真理を見つけ出したのであり、これこそが「朝鮮人民の偉大さ」なのである。

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