
こころに沁みる歌を聞きました。
いっちゃんとふたりで家にいるときは、音楽をじっくり聞くことも、好きな番組を見ることもままなりません。
以前、邦楽(伝統音楽)がたまたまテレビについたので、いっちゃんがぐずる中、がんばって見たことがありましたが、やっぱり味わい切れず、かえってストレスが残ったことがありました
基本的には無理だと悟りましたが、今回もまたがんばってみました!
(ぐずってましたが、忍耐です)
箏の世界の生田流と山田流というのがあります。
でも、この二つの違いは、もちろん曲も違ってきたり、同じ曲を扱っていたりはしますが、主に楽器と奏法だと私は思います。
爪が全然違うのです。
それはさておき、その番組で「残月」という曲の演奏がありました。
私も小さいころからこんな名前の曲があることは知っていましたが、気にしたことはありませんでした。
峰崎勾当という人の作った曲です。
峰崎さんが若くして亡くなった愛弟子を追悼して作った曲だそうです。
演奏された方は、追悼曲なのにこんなに華やかなのはなぜだろうと長年思っていたけれど、きっと弟子を深く愛していたためだろう、とおっしゃっていました。
ネットで検索して見つけた歌詞を引用させていただきます。
磯辺の松に葉隠れて、沖の方へと入る月の、光や夢の世を早う。
覚めて真如の明らけき、月の都に住むやらん。今は伝(つ)てだに
朧夜の、月日ばかりは廻り来て。
私はこの曲を聞いていて、涙が出てきました。
自分にとってゆかりの深い邦楽の曲を聞いた懐かしさもあるでしょうが、愛弟子を思って曲を作った師匠の気持ちに思いを馳せました。
追悼曲というものがあることは知っています。
でも、どんなに偉大な作曲家でも、ひとりの人を亡くした気持ちをすべて表現できるものではないと思うのです。
それでも曲にしようというパワーと、せずにはいられない気持ち、またその美しい旋律・・・。
初めて追悼曲というものについて感じさせられました。
そして、曲も終盤、歌詞は「月日ばかりは巡り来て」で終わるのです。
「巡り来て」そして、どうなのか。
それは語られていない。
月日ばかりが巡って来るのに残る思い。亡き人への愛。ただ日常のことが過ぎて行き、気持ちは亡くしたときから進まずにある・・・。
その歌詞に胸を打たれました。
「今度弾く曲はこれですよ。」と言われるままに弾いていた筝曲。
それを、ただ鑑賞するためにだけ聞いて感動したのは初めてかもしれません。
私にとってはお箏を弾いていた時期と故郷で暮らしていた時期とはほとんど同じ期間なので、お箏を聞くと、故郷北陸の四季が走馬灯のように脳裏を駆け巡ります。
なんでしょう、空気の温度や風のささやき、木の葉や花々の揺れる様子、雪の舞う空・・・すべてがどっと胸に押し寄せてくるようでした。
私にとっては日本の風物をそのまま写したような筝曲の世界は日本の自然そのもののです。
雨の冷たさ、小雨の降る静かさ、桜散る夜の景色、夏の夕暮れの暑さと涼しさの混ざった風、秋の木の葉のかさかさ鳴るあたたかいようなさみしいような音、雪と風のこわさとそこに生きる人々のあたたかい息遣い・・・
そんな目に見えないような風景がざーっと押し寄せてきて、なんだか感動で泣いてしまったのでした。
邦楽の奏者は秘めた思いで弾きます。
だから、一見無表情に見えます。
でも、その方の口から「なぜ追悼曲なのにこんなに華やかなのだろう」という一言を聞くと、ぐっと身近に感じられます。
もっとそんなお話しをいろんな人に聞かせてあげてほしいと思います。
原曲を聴き、意味がわからないながらも歌詞の美しさを味わっていただきたいので、口語訳は外しておきます。
口語訳を読みましたが、もっといろんな意味があると感じたので。
これを読んでくださった方、いつか機会があったら「残月」という曲を聴いてみてください。
亡き人であろうと、今を生きる人であろうと、ひとりの人への愛が形になった曲です。
きっと胸に沁みると思います。
誕生日を迎えてすぐに聞いた「残月」、いいプレゼントをいただきました。
峰崎さん、奏者の先生、ありがとうございます。
写真は私の好きな木、ヒメシャラです。
今年、やっとたくさんの花をさかせてくれました。
コメントをいただくまで、こんな文章を書いたことをすっかり忘れていました。
「残月」が一番好きとおっしゃるのは素敵ですね。
私は今は流派に所属しないで個人的に活動している主婦なので、古典を弾く機会もあまり持ちませんが、この曲はいつかしっかり弾かなければと新たな目標ができました。
私も追悼の気持ちを表したいときに弾きたいと思います。
思い出させてくださってありがとうございます。