むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

八幡山城(滋賀県)

2020年02月01日 | 続百名城
八幡山城はちまんやまじょう
別名近江八幡城
構造山城
築城者羽柴秀次
築城年代1585年(天正13年)
指定史跡
場所近江八幡市宮内町19-9 地図
スタンプ設置場所本山村雲御所瑞龍寺門跡の御朱印所
御城印本山村雲御所瑞龍寺門跡の御朱印所
城郭検定出題あり

豊臣秀吉の後継者として関白にもなった秀吉の甥で養子となった
豊臣秀次の鶴翼山に築城したのが八幡山城です。
山の麓に琵琶湖から水を引き、堀を巡らせ運河としての役割を果たしていました。
本能寺の変の後、安土城が燃えて廃城になると
安土城下の町や寺社、住民など八幡山城下に移住させて
楽市楽座など織田信長にならい、城下町の商業振興を整備しました。
しかし、秀吉への謀反を企てたという疑いをかけられ自刃に追い込まれ
築城からわずか10年で廃城となりました。



ロープウェイ

下から歩けばいいのに、こんな乗り物目の前にして…歩くわけない!
というわけで、行ってきま~す!



景色いい~
15分おきに発車しています。
しかしながら、上からチラチラと見える遺構が気になってしまう…。


スタンプ設置場所

山頂のロープウェイ乗り場に設置されている続100名城のスタンプを
ゲットしました



ロープウェイを降りた先が二の丸です。
早速石垣が見え始めて、ワクワクが止まりません!


八幡山城址のご案内

所要時間が入った便利な看板。


おねがい地蔵堂

中に入ってお願いしました。
なにを?…ナイショです(^_-)



ここでどちらから周ろうか…と迷って右に進むことに。
石垣が見えたので吸い寄せられました^^;



山門が見えて来ました。


山門

立派な門構えです。
屋根には魔除けの飾瓦が載っていて、
京都の御所でもお馴染みの菊の形しています。


本丸虎口

山門を進むと、枡形になった本丸虎口になっています。


瑞龍寺(村雲御所)

豊臣秀次の母であり秀吉の姉である瑞龍院日秀尼公が、
秀吉に自害させられた秀次の菩提のために建立したお寺です。
最初は京都の村雲に創建されたものを、昭和36年にこの地に移されました。


御朱印・御城印所

この日はお正月限定の御城印があったので、もちろん買い!です。
そして、御所拝観有料ということでせっかくここまで来たのだからと
主人を外に待たせて、見学させてもらいました。


本堂

拝観料払っても、瑞龍寺(村雲御所)は見るべしです。
スルーしたらもったいないです。


拝喝の間

拝喝の間の襖絵も時代を感じるものです。



ここでスリッパを履いて、一旦外の廊下に出て本堂から御所へと向います。
私は面倒だったのでスリッパを履かずに外に出たら、足が冷たいだろうと
わざわざスリッパを持って来て下さいました。
お気使い頂き申し訳ありませんでした。ありがとうございました。



廊下の頭上の両側には、日蓮上人の生涯の出来事の絵と解説が並んでいます。


妙法の庭

防空監視所が置かれていました。
よく見ると、小石で「妙法」と形取られています。
かつてはこの石に法華経が書かれていたのですが、長年の風雨にさらされ
現在は読み取ることは出来ません。
廊下には写経石が用意されていて、現在も奉納することが出来るようになっています。


鬼瓦

本堂正面にあった鬼瓦です。


宮御殿・雲の間

京都時代は「貴賓の間」として使用されていました。
昭和52年6月6日 常陸宮両殿下御東山の折に雲の間は
御座所(天皇の居間)となり、小笠原流礼法および煎茶道による
茶菓の接待を受けられました。
貴賓の間の襖絵は、170年前に狩野派が金とプラチナで描いたものです。


宮御殿・楓の間

雲の間も楓の間も、絵柄はシンプルながら
金やプラチナといった豪華さが品格を際立たせています。


豊臣秀次公銅像原型

八幡公園と豊臣秀次公の銅像の原型になったものがこちらにあります。


仏間

書院式に造られた一番奥の部屋は仏間になっていました。
もともと、この部屋は茶室として造られた部屋です。



ここからの眺めも最高です!
京都にあった頃のここからの眺めはどうだったのでしょうか。
茶室と言えば庭ですかね。



とても明るいくて気持ちの良い部屋です。
仏様と語り会いたいとさえ思うような部屋です。
さすが元茶室…。
ここで行き止まりになるので、これにて引き返します。



廊下には写経石が用意されていて、現在も奉納することが出来るようになっています。
ここには椅子しか写ってませんが、隣に机もあって石も用意されていました。



村雲御所と瑞龍寺の境目の扉です。
扉には天皇を示す菊の御紋と寺紋である日蓮宗の紋が付いています。


北の丸

北に張り出している、北の丸へ到着しました。
道中北の丸の方を見ると、石垣造りになっているのが見えました。


ハート型モニュメント

全国の観光地の中からプロポーズにふさわしいスポットを選定している「恋人の聖地プロジェクト」
ということで、良いデートスポットです。


眺望

安土城、観音寺城のある山々も良く見えます。


水郷めぐり

北の丸から見える気になった場所は「水郷めぐり」と呼ばれる場所です。
秀次は、宮中の舟遊びに似せて近従と共に船めぐりをしたと伝わります。



西の丸へ向うと、途中に「大杉秀雲龍神」が祀られています。
そして、本丸下の石垣も目を引きます。


西の丸

西の丸も眺めが良いです!
この先、出丸もあるのですが、今回はそちらまでは行きませんでした。



西の丸を守る兵…ではなく、にゃんこたちです。
地元の方も集まってなじみのにゃんこの様子を見ています。
話を聞いていると、どうやらこの日は勢揃いしていたようです(*^_^*)



西の丸も眺めが良いので、あずまやでもあったらずっと眺めていたい感じ
ところで、このステージみたいな台はいったい何でしょう?


眺望

こちらからも琵琶湖が見えます。
そして、この方向の霞の向こうに京都があるのですね…。


展望館

二の丸へ戻って来ました。
ここでロープウェイ発車時間まで少し休憩。


近江八幡まちかど物語り

豊臣秀次の波乱万丈人生と、苦難をのりこえてきた町民の物語です。



恥ずかしながら、ベンチでツーショット写真を撮ってしまいました^^;
若ければ良かったのですが、中年のおっちゃんとおばちゃんのラブラブ写真など
誰も見たくない!ので写真はもちろん出しません


堀割

さて、麓にある八幡堀にやって来ました。
八幡の城下と琵琶湖を結ぶ運河です。


倉庫群

今も残る堀沿いの土蔵や倉庫群が日本の古き良き風景を醸し出しています。



石垣で造られた堀がたまらんです


やっと念願だった八幡山城へ来ることが出来ました!
ロープウェイも楽しみでした。
しかし、この日は朝から体調不良で行って来られるのか心配でしたが
やはり楽しみにしていただけに行ってしまえば、夢中にあちこち見ている
間は病も忘れてしまっているというか…^^;
主人が村雲御殿を見ておいでと言ってお金を払ってくれていたので
おかげで良いものを見せていただきました。
これは感謝です。ありがと!


令和2年1月4日登城


続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
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洲本城(兵庫県)

2019年05月30日 | 続百名城
洲本城すもとじょう
別名三熊城
構造山城
築城者安宅治興
築城年代1526年(大永6年)
指定史跡国指定史跡
場所洲本市小路谷 地図
スタンプ設置場所洲本市立淡路文化資料館
御城印洲本市立淡路文化史料館
城郭検定出題あり

洲本城は、豊臣秀吉の命によって脇坂安治の淡路支配の拠点となった城跡です。
三熊山の山頂に築いた「上の城」と山麓に居館を置いた「下の城」とで構成されています。
下の城では御殿が設けられ、藩の政治を執り行う場でもありました。
東と西の斜面には登り石垣配し、上の城、下の城両方のを一体化して
防御している様子が特徴的です。



大手口

登ってきてまずここで「おお~!」と思わせる石垣の大手門跡に圧倒されます。


馬屋曲輪

ここまでは車で登って来ることが出来ます。
ここが満車の場合は大手口下にも駐車場があり、麓にも駐車場があります。



ここから先は徒歩になります。
山城ながらここまで車で来られるのはありがたい。
では、いざ!


南の丸隅櫓跡(継ぎ足し石垣)

目の前に威圧的に飛び込んで来る高石垣です。
櫓台を継ぎ足したことで石垣も迫力を増しています!
石垣に継ぎ足しの切れ目があるのですが
なんとな~くお分かりいただけますでしょうか^^;
苔や草で覆われて分かりずらいのですが、2度の普請があったことを確認出来る場所です。


中務母義の郭

本丸下にある、脇坂安治の母の住まいがあったとされる郭です。


本丸大手
本丸を目前とした大石段。
ここを登ると本丸虎口が待ち構えています。


本丸虎口

枡形になった虎口で、門の礎石も残されています。


本丸

本丸に到着しました。
ちょっと日本風ではない?ような模擬天守がお出迎えです。


芝右衛門大明神
かつて三熊山のてっぺんには愛嬌者の狸が住んでいました。
満月の夜には陽気に腹鼓を打ち、時には人間に化けて木の葉のお金で買い物したり
いたずらもしましたが、夜道に迷った旅人を助けたり人々に愛される狸でした。
浪速の芝居を毎日観に行っていると、お金箱に木の葉が入っていたことで
狐か狸の仕業に違いないと思った芝居小屋の主人が犬を三匹連れて来きました。
「今日も面白かった。淡路に帰って皆の衆に話してあげよう」とつぶやきながら
何も知らずに芝居小屋を出てきた狸は、犬に発見され噛殺されてしまったそうな。
村人たちは悲しみ、そんな愛嬌者の狸を偲びここに芝右衛門大明神を祀るようになりました。

この辺りでよく狸の置物を見かけたのはこのような伝説があったからなんですね。
家の庭先に大きな狸の置物を置いているのを何軒か見かけて、ここは信楽?とさえ思って
とても気になっていましたがここに来てガッテンです。






小天守跡

小天守は台所櫓であったと考えられ、天守と渡櫓で結ばれていました。


模擬天守
昭和天皇の即位を記念して建てられた模擬天守です。
模擬天守としては日本最古と言われています。



天気が悪く、靄がかかっています。
晴天であればさぞかし綺麗な海が望めたのでしょうね。残念無念。
しかし、目の前の石垣の角に穴が!!


本丸北虎口

本丸天守台から見下ろした本丸北側の虎口です。


本丸搦手虎口

北側からの敵の侵入を防ぐために設けられた虎口で、
正面には鏡石があり、侵入者を威圧しています。


搦手口

脇坂氏在城初期の頃はこちら側が大手口だったと考えられ、
しっかりした造りになっていることにも納得がいきます。



北側から見上げた天守台と模擬天守。



このまま下って西登り石垣を見に行きたいと思います。


西登り石垣
かなりあちこち崩れてしまっていて直線に延びている様子はうかがえませんでした。
しかし、ここから上を見上げると山肌に転々と石垣が
小刻みに見えるのでそれを見て由としました。



このようなしっかりとした石垣が見えたりもしています。



道より上の方に石垣の一部が見てとれるのですが
山肌をよじ登ると崩れたり、遺構を破壊しかねない状況なので
せっかくここまで来ておきながら、ちゃんとした画像が撮れないのは残念ですが
道を外れてまで見に行くことは今後のことも考えて遠慮しておきました。


三熊山の岩石

岩の中に小石が混ざっているのが見えます。
まず登城し始めて石垣の石に小石混ざりの石が使われていたのがすごく気になっていたのですが
これで地場で伐り出した石で石垣が積まれていることがわかります。


本丸台南面の石垣

西登り石垣から引き返して南の丸まで戻って来ました。
南側の高石垣も見事です。


南の丸
南の丸は後に拡張され、南側の守りを強化しています。



中務母義の郭下から東の丸へ。
中務母義の郭側の石垣が大きく崩れてしまっています。


八王子社

洲本城の鎮守の神様で、安宅氏が築城の際に祀ったものと伝わります。


東の丸

東の丸(二段の郭)です。
この先、東二の門で区切られてその先は武者溜郭になります。


東二の門

本丸と水の手を守る重要な虎口で、ここには門も設置されていました。



この高石垣は文禄・慶長期のものですが、
この上の石垣は仙石秀久によって造られた、洲本城では最も古い石垣があります。


武者溜
かなり広い武者溜になります。
しかも眺めの良い位置にあります。



今は周囲に木があって一部の方向しか見渡すことが出来ないですが
この木が無かったら…と妄想するとかなりの範囲が見渡せることが想像出来ます。



木の途切れたところから見ると、素晴らしい眺めです。
ここでも晴れていたら絶景かなと悔しい気持ちでいっぱいになりました。
ここで、海から迫り来る海軍を見張っていたのではないでしょうか。


東一の門

直接山麓の居館へ登り降り出来る通路になっています。



武者溜のこの眺めなら逸早く敵の侵入を発見し、
ここから一気に下の城まで駆け降りて出陣出来たことでしょう。


日月池
谷地の湧水を石垣を築いて池にしています。
近くには井戸もあり、水は枯れることがありません。


日月の井戸

日月池のすぐ近くの南側にある井戸。
井戸の底の岩盤に日月の彫刻があると伝わります。



井戸の中を覗き込むと、水がすぐそこに見えています。
深さがどのくらいあるのかはわかりませんが、これならば水の心配は無さそうですね。


淡路文化史料館
下の城には現在「淡路文化史料館」がある場所に徳島藩の役所とされた東民政所がありました。



入口には芝右衛門狸の置物があります。
このようにこの城下では沢山の狸の置物を見かけます。


スタンプ設置場所

淡路文化史料館のロビーに続日本100名城のスタンプが設置されています。
こちらでは洲本城のクリアファイルと資料を買いました。


東民政所跡

淡路文化史料館には堀、石垣が残っていて写真の右奥には櫓台も見えています。


こんな立派な石垣がこれほど沢山見られるとは思ってなかったので
登城早々から雨だというのにハイテンションで行って来られました。
GW中だというのにこの天気の悪さからか、他に観光客も少数で
ほぼ貸し切り状態だったのは不幸中の幸いでした。
やはり一番残念だったのはこれだけの眺めの良い立地なので晴れていれば新潟県の村上城並みに
居心地の良い城跡であったのだろうなと想像すると、あ~悔しい。


令和元年5月1日登城



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続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
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岡豊城(高知県)

2019年05月25日 | 続百名城
岡豊城おこうじょう
別名
構造山城
築城者長宗我部氏
築城年代鎌倉時代
指定史跡国指定史跡
場所南国市岡豊町八幡 地図
スタンプ設置場所豊岡城詰の櫓内・高知県立歴史民俗資料館二階総合案内
城郭検定出題あり

岡豊城は長宗我部元親の生まれた城で、ここから初陣を果たし土佐統一を成した場所です。
幼少時代は「姫若子」と呼ばれ、とてもおとなしい性格でした。
長宗我部の祖は信州より土佐へ移った秦能俊とも云われ、土佐の国宗部郷の地頭になり
築城したとされますが、その時期は定かではありません。
そして現遺構をとどめるまでになったのは、戦国期の元親の父国親の頃と考えられています。


駐車場
歴史民俗資料館の駐車場を利用しました。


長宗我部元親飛翔之像

階段を登って二階の踊り場に出ると長宗我部元親飛翔之像があります。
この銅像はSNSアイコンなどで目にしたことがあるので「これだあ!」と
初めて見たはずなのに親しみのある銅像です。
かっこいいですね


高知県立歴史民俗資料館
まずはこちらで続100名城のスタンプを…と思って入ったのですが
そのまま見学することに。



というのも、この日はなんと開館記念日「れきみんの日」ということで入場無料のイベントが催されていました。
3階にある展示室からスタートして2階長宗可我部展示室、1階企画展示室まで
館内にちりばめられたクイズを解いて記念バッジをいただきました
おかげで、汲まなく見学出来ました。


スタンプ設置場所

総合案内の受付カウンターで声を掛けてスタンプを押しました。



館中での撮影は禁止になっているので、撮影可の場所だけ(受付で確認)の撮影をさせて頂きました。


長宗我部軍本

二階にある長宗我部展示室では本陣コーナーのみ個人利用の写真撮影はOKです。




豊岡城跡はここからすぐ。
スタンプだけでなく、ぜひ城跡へも足を延ばしてみて下さいね。


岡豊城跡全体案内板

右回り、左回り、どちらからも散策できますが私は時計回りで散策したいと思います。



まずは一番近い二ノ段へ。


二ノ段
二ノ段に着きました。
わりと広く、眺めも良さそうですよ


土塁

低いですが郭を囲む土塁があります。


眺望

資料館まで車で登って、そこから少し登っただけなのでそれほど登った感は無いのに
これだけの眺望です。




堀切に架けられた橋からは、堀切と井戸跡が見られます。


堀切

豊岡城には全体で7本の堀切があります。
そのうちの1本で、詰(主郭)と二ノ段を切る堀切です。


井戸跡

二ノ段と詰下段の間にある井戸は堀切の下に位置します。
北と南は石積みがされていて、深さは…現在土砂で埋まっているので当時の深さは
知り得ることは出来ません。


詰下段礎石建物跡 

詰(主郭)の東側、一段低くなった場所にある郭です。
二ノ段から詰への出入り口を守るために造られた郭で建物跡もみつかっています。
機能については明らかになっていないのですが、狼煙台とも考えられています。


詰(主郭)

岡豊山山頂にあたる場所で、主郭にあたるのが「詰」です。
礎石建物の跡がみつかっており、天守の前身ともみられる大きな建物があったとされています。


城跡碑

詰にある城跡碑。


土塁

詰(主郭)を囲む土塁はしっかりと残っています。


城八幡
城を守るべく、詰(主郭)の北方にある社です。


三ノ段

石積みと礎石建物跡の間には溝がきられており、南側が低くなっていることから
排水路が設けられていたものと考えられています。


搦手

四ノ段虎口へ。


四ノ段虎口

四ノ段虎口にも石積みが見られます。
ここには内搦手の柵門があり、搦手側の防衛の役割を果たしていたものと考えられています。


大手

ここから南から東へ四ノ段を回り込み三ノ段へ登り、主郭へ抜ける大手道になっています。 


岡豊城跡碑

四ノ段から展望広場へ下る途中にある城跡碑です。
詰(主郭)にあったものよりはるかに大きいです。


展望広場

ここは展望広場…なのですが、残念なことに木々が邪魔して視界が悪いです。


大手

四ノ段から詰(主郭)に戻ります。
ここは内大手とされ、主郭へ至る重要な場所として柵門があったと考えられています。



井戸の下の道を下って来ました。
何気なく見上げてみたら石積みが見えました。



再び高知県立歴史民俗資料館へ戻って来ました。
GW中のイベントをやっていたので、せっかくなのでそちらも覗いてみました。


公開実演

礎石の上に柱を立てます。
柱を石の丸みにあわせてあるのがわかります。



土佐の大工さんによるカンナの掛け方を体験させていただきました。
ムラなく薄く削るのって難しいんですよ。
自分で削ったカンナ屑をいただいてきたのですが木の香りがものすごく良くて
車の中に良い香りが漂い、良い消臭剤となりました。


長宗我部氏のルーツが信州にあったという説にはびっくりでした。
この件に関してはとても興味深い説なので、もう少し調べてみたいなあと思います。



令和元年5月3日登城



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勝瑞城(徳島県)

2019年05月17日 | 続百名城
勝瑞城しょうずいじょう
別名阿波屋形・下屋形・勝瑞屋形
構造平城
築城者小笠原長清
築城年代鎌倉時代
指定史跡国指定史跡
場所板野郡藍住町勝瑞字東勝地29―2 地図
スタンプ設置場所勝瑞発掘現場事務所 武田石油(土日のみ)
城郭検定出題あり

室町時代に阿波守護となった細川氏は、当初秋月に守護所を置きましたが
勝瑞に移転し、阿波の政治・経済・文化の中心地として中央政権をこの地で発展させました。
天正期になると戦国の世になり、土塁や堀を持つ勝瑞城が築かれました。
土佐の長宗我部氏が攻め込んで来たことで城主の三好氏は勝瑞城館に籠城しましたが、
持ち堪えることが出来ず開城して讃岐に退いてしまいました。



駐車場

勝瑞城跡側にある駐車場を利用して散策をはじめました。
勝瑞城だけを見るのであればこちらが近いですが、ここを含め館跡も散策するようであれば
館跡の方が広いのでそちらの駐車場をお勧めします。



三好家の菩提寺である龍音山見性寺の境内が勝瑞城の城域になります。
また、境内には之長・元長・義賢・長治らの墓も並んでいます。



長宗我部氏が阿波侵攻をして来た際、十河存保は織田信長に救援を要請して
豊臣秀吉から勝瑞の守りを固めるよう指示がされ、その時に勝瑞城も
強化されたものと思われます。
奥に見える建物が見性寺です。



中富川の戦いで織田方である三好勢の十河軍と長宗我部軍とがぶつかり合い、
織田軍も長宗我部征伐へ向けて兵を起すことが決まっていたはずが、本能寺の変によって中止となりました。
この状況から本能寺の変は明智光秀と長宗我部元親の共謀説、長宗我部元親の黒幕説が
浮上しているのですが果たしてその真相はいかに?

そして、約23000の兵を率いた長宗我部軍と矢上城で対峙し、
5000の兵で対抗するも戦死者800余人を出し、勝瑞城へ逃げ帰り
この地で攻防戦となりました。


勝瑞義冢碑

三好氏の盛衰と戦没者の慰霊文を記した石碑で、
勝瑞城と運命を共にした将士の霊を慰めて、往時をしのぶもののようですが
裏に書いてある文字はすべて漢字で容易には読めません。



南側には南千間堀が巡っています。



剣道14号を渡り、ローソンのある通りを南に向かい
整備中の勝瑞館跡へと徒歩でやって来ました。


案内看板

これで見ると、館は広く庭園もあって平和そうに見えます。
後に造った戦うための城郭は、籠城するにはちょっと頼り無く思えてしまう
規模のものであるのが見えてしまいます。


駐車場

ここに駐車場もあります。
駐車場の南側が池泉庭園になります。



続100名城のスタンプがこの奥でやっている発掘現場の事務所にあるというので
行ってみたいと思います。


発掘状況
発掘状況を示した案内看板があります。


濠跡

発掘、復元された城館の濠跡です。


勝瑞館跡

正面奥が勝瑞館跡です。


枯山水庭園

建物の手前に枯山水庭園がありました。
城館跡からは香道具や茶道具などが出土しており、
三好氏が勝瑞の茶屋で堺の商人らと茶会を開いたことも記録に残されています。


勝瑞城発掘現場事務所

GW真っ只中とあってやはりここはお休みです。



勝瑞城発掘現場事務所は閉まっているので他に行くことにします。
とりあえず、わかりやすそうなガソリンスタンドを目指そうと思います。


武田石油

武田石油にやって来ました。
勝瑞城館のすぐお隣にもガソリンスタンドはありますが、そこにお邪魔したら違いました。
親切に武田石油を教えてくださり感謝です。(間違えてごめんなさい)

武田石油でスタンプを押すと、私が着ていた攻城団のTシャツに目が止まったようで
少しお話をしました。
「城がたり」の記念Tシャツ(丸岡城)を着ていたのですが
写真撮らせて下さいとうれしい申し出がありました。
フェイスブックに掲載したいとのことでしたが、Tシャツに自信はあっても
自分の容姿に自信が無い^^;ので、非常に申し訳ないのですが遠慮させていただきました。
本当にごめんなさい。
次回訪問にはぜひ載せてもらえるよう自分磨きして来ます!その時は宜しくお願い致します。
というわけで、続100名城のスタンプ管理されている武田石油さんの
フェイスブックもぜひ御覧になってみてください。



家族を車に残して、スタンプを押す時間だけもらっての訪問だったので
小雨の中、傘もささずにスタンプ帳とカメラだけ持ってひたすら走りまわりました。
ここまで来てスタンプだけじゃ悔しいので、立ち止まることなくとにかく流れるように
写真を撮れるだけ撮りながら駆け抜けて来ました。
復元はまだまだこれからという感じなのでこれからの発展を期待するところです。


令和元年5月1日登城


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一宮城(徳島県)

2019年05月08日 | 続百名城
一宮城いちのみやじょう
別名阿波一宮城
構造山城
築城者小笠原長宗
築城年代1338年(暦応元年)
指定史跡県指定史跡
スタンプ設置場所一宮城跡登城口説明板横
場所徳島県徳島市一宮町西丁 地図

一宮城は阿波最大の山城で、小笠原長宗が築城しその後息子の一宮成宗が城主となります。
主君を変えながら城を守り、長宗我部元親の阿波平定の手助けをするも
戦いが終わると元親は一宮成祐を夷山城に呼び出し三好氏に通じたと理由付けて殺害。
元親は一宮氏を滅ぼして一宮城をまんまと手に入れてしまいました。
しかし、豊臣秀吉の四国平定によって元親は降伏、開城すると蜂須賀氏が入城し
その後蜂須賀氏が徳島城へ移ると徳島城の支城となり
一宮城は一国一城令により廃城となりました。


駐車場

蜂須賀家政が入国した時に「国が丸く治まるように」という願いをこめて奉納したと伝わる太鼓橋。
登城口の駐車場は太鼓橋の前に2台分ほどの駐車スペースがあります。
無人の有料駐車場とも言えます。
と言っても、駐車料金ではなく一宮神社の御初穂料として納めることになります。


御初穂料

今回はここでスタンプを押すだけの短時間駐車でしたので
心ばかりの御初穂料(100円)をボックスの中に納めました。


スタンプ保管箱

案内板の右側に続100名城のスタンプが保管されています。
このような状態で設置されているので早朝からの登城を兼ねて
スタンプを押すことが出来ます。



ボックスの中を開けると、こんな感じです。
スタンプを押す場所は無いので、雨の中ボックスの上を拭いて
その上でスタンプを押すことに。


案内板

左側にはパンフレットのボックスがあるのですが、GWのせいか中は残念ながらからっぽ。
この図を見ても時間の都合上郭のある場所までは行っている余裕がありませんでした


登山口

こんなふうにしっかり道のある山城なら、安心して行って来られそうなのですが、
あ~、もったいない…行けないのが悔しいです。


石橋

せっかくここまで来たのだし、神社が目の前にあるのだから
太鼓橋の隣の石橋を渡って一宮神社へお参りして行こう。


鳥居

狛犬の他に狛馬?があります。
このあたりは百鬼夜行の通り道で、
「夜行」さんとは長宗我部元親に謀殺された無念から
死後亡霊となって現れた一宮城主一宮成祐と伝わり、
首の切れた馬に乗って高根の悲願寺へ参っているのだとか。
このような伝説が伝わることから馬が祀られているのでしょうか…。


拝殿

旅の無事を祈ります。


大日寺

四国霊場十三番札所でもあるため、お遍路さんも居ました。


雨の中でもお遍路さんをあちこちで見ました。
本当に四国に来たなあと実感します。
数年前に2泊3日で四国の西側を巡り、今回も2泊3日の予定で
東側を巡っていますが100名城だけをチョイスして巡っても
すべての城の本丸まで行って来るには時間が足りません。
スタンプを重視するのか、城跡散策を重視するのか悩ましいところでしたが
二度と来ないつもりで巡ってるわけではないので、見られなかったところは
また来ればいいじゃん!と割り切って自分の気の向くままに巡ることにしました。
お城めぐりが仕事じゃないんだから、お気楽に。
楽しくなくちゃ意味がない!
型にはまらずマイペースで行きましょう!
それでいいんです。それがいいんです!


令和元年5月1日登城



【公式】日本城郭検定過去問題集―2級・3級・4級編―
公益財団法人 日本城郭協会
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引田城(香川県)

2019年05月05日 | 続百名城
引田城ひけたじょう
別名
構造山城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡市指定史跡
場所東かがわ市引田 地図
スタンプ設置場所引田公民館(定休日毎週火曜日)

引田城がいつからあるのかは不明で、文献が残るのは応仁年間に
寒川氏が領していたということが最初です。
豊臣秀吉の家臣である生駒親正が播磨国赤穂から入部、この頃に土の城であった引田城を
総石垣の城に改築し、その当時の石垣が良好に残されています。
瀬戸内海東部の海上交通の要の地として一国一城令まで使用されていました。



案内看板
続100名城スタンプ設置場所である讃州井筒屋敷へやって来ました。


三之蔵

物産店や体験施設、イベントや行事など伝統産業とふれあいながら
楽しめる屋敷や町並みに囲まれています。


母屋

江戸時代から酒と醤油醸造で繁栄した豪商屋敷を改修、住居の部分であった母屋は
見学が可能です。
入場は無料ですが母屋の見学は300円必要です。
母屋を入って右手に続100名城スタンプがあります。



ここに引田城のパンフレットが置いてあるのでいただきました。
ハイキングコースのマップもあるのでこちらで入手してから登城するのが良いでしょう。


続100名城スタンプ

この台がまた良いですね~。


笠屋邸

讃州井筒屋敷の向かいにある商屋で、現在はカフェになっています。
和三盆の型抜き体験が出来るそうで、お抹茶をいただくとよく付いてくるお菓子ですよね。
こちらの特産物だったんですね。
時間があったら作ってみたかったです


ここは引田城の城下町となる場所で続日本100名城のスタンプ設置場所ということで
やってきました。
本来お城は海に突き出た城山にあり、スタンプよりも城跡へ行きたいところですが時間が無いので
スタンプを押してパンフなどの資料をいただいくのみとなってしまいました。
城下町も良いけど、やっぱり山城だし、海近いし、行ってみたかったなあ。
いつかリベンジ!


令和元年5月1日登城


続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス

苗木城(岐阜県)

2018年12月21日 | 続百名城
苗木城なえぎじょう
別名霞ヶ城・赤壁城・高森城
構造山城
築城者遠山一雲入道昌利
築城年代1526年
指定史跡国指定史跡
場所中津川市苗木 地図
スタンプ設置場所中津川市苗木遠山史料館(午前9時30分から午後5時まで※入館は午後4時30分まで)
御城印遠山史料館
城郭検定出題あり

天然の水堀である木曽川と岩盤が剥き出しの立地に構えた苗木城は竪固な山城です。
建物も岩の上に懸け造りで構築し、独特な築城をしています。
良質な自然石を活かし多くの石垣を築き、そのままの巨石をも石垣として利用しています。


苗木城への道

この日は夜明け間近の国道19号線を走っていると、だんだん明るくなるにつれ靄がかかり
霧で見通しが悪くなってきました。
もしや雲海が見えるかも!なんてちょっと期待して案内看板通りに苗木城を目指しました。


大手門跡

苗木城の正門です。


四十八曲り入口

ここから四十八曲りを通って竹門の手前で右に曲がり北門から城内へと至ります。
しかし今回は更に先に進み、苗木遠山資料館へ側の竹門跡手前の駐車場まで車で行っちゃいます


駐車場

AM7:00前なのに、既に車が数台停まっています。
これは直ぐに満車になってしまいそうな予感…。
早く来て良かった



駐車場からすぐのところに竹門があります。
もう、このあたりからワクワクが止まりません。


竹門跡

早々に石垣がお出迎えです。


足軽長屋跡

なんと、ここから主郭が見えるのでカメラポイントになっています。
日出と共に写そうとカメラをセットしている人たちが居ました。
この曲輪の奥には城主の祈祷所でもあった龍王院跡が残っています。


パンフレットボックス

ありがたいことに、ここにパンフレットの入ったボックスがあります。
ここでパンフレットを入手して散策ルートを決めて進みます。



石垣が至る所に使用されていて、その積み方も一貫しておらず、様々な積み方が見られます。



左の道へ進むと大矢倉跡へ。
右の道へ進むと二の丸方面へ向かいます。


大門下

正面は石垣が法螺貝のように巻いているように見え、左側もこの写真では見えないのですが
堀のように深くなっていたり、石垣の壁があったりで迫力あります。


二の丸跡

この建物跡は遠山家の住居があった場所で、
懸け造りの建物には家臣が集まる部屋もありました。
ここではまだそれほど高い位置ではないですが、それでも眺めの良い屋敷であった
ことは間違いないでしょう。


台所門跡

ここから下の二の丸は領主の居住区とあって生活感のある名前の付いた門ですね。
ここからはクネクネと門を突破しながら天守目指します。


御朱印蔵

石垣の上に御朱印蔵が建っていました。
御朱印蔵は、領地目録や将軍家の朱印状などを納めておく宝物庫です。
出入りや管理は厳重で、必要に応じて梯子を掛けるようになっており普段は
御朱印蔵に登ることが出来ないようになっていました。
石垣もノミを使って加工した整合積みになっていて、足を掛ける隙間もありません。


綿蔵門跡

本丸への道を遮断するように建てられた門で、夕方4時以降は閉められてしまいます。
この門の二階には年貢として納められた真綿が納められていたことから「綿蔵門」と呼ばれています。


坂下門跡

坂の下に造られたことから坂下門と呼ばれています。
苗木城改修の際、徳川家譜代の久世家で三代領主友貞の奥方の実家である
久世家が力添えしたことから別名「久世門」とも呼ばれていました。


菱櫓門跡

天守にたどり着くまでにはいくつもの門が待ち構えています。



早く展望台にたどり着きたいと思いつつ、振り返るとこの景色。
途中で足が止まってしまいます。


野面石乱層積み

大きさの違う自然石を積み上げた石積み方法としては比較的初期の積み方です。
天守台が真上に見えて来ました。あともう一息です。


玄関口門跡

この門の先は天守へ続く道で、土廊下の建物とその先には小屋がありました。
通常は鍵が掛けられおり、鍵は目付役が管理していました。


玄関跡

玄関は天守より一段下にあり、多くの玉石が敷かれていました。
千畳敷きがあったとされ、千畳敷通って回り込んで天守台に入りました。
千畳敷と聞くと広いスペースがあるというイメージがあるのですが辺りを見回しても
そのようなスペースが無いと思ったら、懸け造りになっていたのですね。



眼下には三の丸が見えます。
大矢倉の石垣全体が上から見下せて石垣の造りの見事さ、美しさで感動です。



本来は懸け造りの千畳敷きを通り廻り込んで天守に辿り着くのですが
現在はこのような階段が取り付けられ最短で天守展望台まで行けるようになっています。


天守展望台

二つの巨石にまたがる形で三層の苗木城天守が建てられていました。
この展望台は天守3階部分を復元したもので、巨石の柱穴に合わせて柱が組まれています。


柱穴

このような柱穴は天守だけでなくあちこちの岩にあり、
そこには建物があったことを物語っています。


雲海

この日は最高に美しいものを見せて頂きました!


日の出

雲海とともに日の出です。
少し寒いので温かい飲み物でも持参して登ればよかったなあと後悔。
ずっと眺めていたいけど、日が昇れば今度は雲海は消えて行きます。


展望台からの眺望

ここからの眺望は最高です。
この眺めを独り占めしただけで天下を取った気分になっちゃいます^^;


懸け造りと石垣

この大岩と石垣と懸け造りのコラボが見られる面白い部分です。
「ここまでするかあ」と感心します。


馬洗岩跡

かつて敵に水の手を切られた祭、この巨石の上に馬を乗せ
米で馬を洗って水が豊富にあるかのようにアピールし、敵を欺いたことから
この巨石は「馬洗岩」と呼ばれるようになりました。
しかし、よくこんな巨石に馬を乗せられたなあ。
そっちの方が驚くよ



この岩と岩の奥に懸け造りの千畳敷があったと思われます。
ちょっと覗いてみると、岩には柱穴があるので建物があったことがわかります。



馬洗岩の南東下にある小さな曲輪。
ここには石碑(歌碑?)があります。
たて掛けてある板には石碑に刻まれている文字が写してあります。



馬洗岩と天守の石垣の間を抜けて二の丸方面へ向かいます。
大きな岩と石垣の間の道の雰囲気が圧迫感を感じつつも良い雰囲気です。


笠置矢倉跡

正面に笠置山が見えることから「笠置矢倉」と名付けられています。
常時何も置かれていなかったそうです。


謎の宝箱

謎の宝箱発見!
何が入っているのか、ちょっと開けたくなりません?
入っていたのは…
うふふ…ナイショです
※何かのイベントで使った忘れ物でしょうか。

武器蔵跡

別名「八間蔵」とも呼ばれた土蔵です。
遠山家が所持していた鉄砲や弓などの武器を納めていた蔵です。


具足蔵跡

武器蔵に並んで隣にあるのは具足蔵です。
具足や旗が収納されていたことから、別名「旗蔵」とも呼ばれていました。


野面石乱層積み石垣

大きさの違う自然石を積み上げたもので苔も生えて
苗木城では比較的古い石垣のようです。


千石井戸跡

天守石垣の下にある井戸です。
千人の用を達するということから「千石井戸」と名付けられました。
ここから東側に廻り込んで懸け造りの建物「渋紙蔵」「山方蔵」「郡方蔵」と建ち並んでいました。



井戸の中を覗いてみると…今でも水が湧き出ています。
小ぶりながらしっかり水を湛えています。


本丸石垣

的場跡から見た本丸石垣も見事です!


的場跡(本丸)

苗木城の中には的場が二か所あります。
また、苗木藩の的場跡は城外にもあり、弓や火縄銃の訓練が
日頃いっぱいされていたんだなあ。(それだけ物騒だったのか)


仕切門跡

二の丸と本丸を仕切るための門です。
この門は屋根付きの建物で、右側には物置として使われた小屋も付いていました。


帯郭

この段々を使って敵の侵入を防いでいたのでしょうか。
きれいな石積みと思ってしまう平和ボケしている私は、この石積みと巨石のコラボが
すごく素敵な場所だなあと気に入りました。


木曽物見跡

木曽川に面した崖の上には物見のための二階建ての矢倉が建っていました。
中津川の城下の町を見渡せるようになっており、木曽川を往来する船の様子も
ここから監視していました。


木曽川

日が昇り雲海が晴れて、木曽川がよく見えるようになるとこのように真下に木曽川が見えます。


須磨明石

名前が付いている大きな岩ですが、いわれはわかりません。



この辺りの巨石には崩れないように小石が挟んであるのを目にします。
こんな大きな岩をこんな小さな石で支え切れるの?と疑問に思ったりもしますが
これも先人の知恵なのでしょうか。
でも、大地震が来たら…どうなることやら…。





八大龍王大神

遠山家の守り神で、明治時代にこの地に祀られるようになりました。
また、水神様としても崇拝されているということで清水が湧くこの地に祀られているのですね。



凄い岩~と上を見上げると…あ、ハチの巣!!
こちらもデカイ


清水門跡

大岩の下から今でも湧き出ている清水。
こらが清水門の由来ですね。


不明門跡

普段は閉められており、忍びの門であると伝わります。
ここからの道は途切れていて外に繋がる道は確認されていないという妙な門です。
私もちょっと先を覗いてみたのですが下に続く道があるのかないのか???


的場跡(二の丸)

こちらの的場は領主居間の一段下に配されていて、
弓だけでなく剣、槍、鉄砲の稽古も行なわれていました。
奥のこんもりした土盛が的とされていて、石垣以外の場所には土塀で囲っていました。


大門跡

そして二の丸を過ぎて三の丸へ。
ここは二の丸と三の丸を仕切るための苗木城で一番大きな門があったとされる場所です。
平時は扉が閉まっていて、脇にある潜戸を利用していました。


城址碑

本来竹門から風吹門を通り大門を通って天守を目指すので、大門の前に城址碑が設置されています。
私は最初ここを通らずに天守まで行ってしまったのでここに城址碑があったことに
お昼頃になって、気が付きました^^;
そして、ここに着いた頃には大勢の観光客が押し寄せて来ていました。
海外からのお客様もかなりいて、ここが山城とは思えないほどの賑わいでした。


牢屋跡

苗木城の唯一の牢屋で、日の当らない大きな岩の上に造られていて
建物も狭いものでした。
明治初期の苗木藩の政争の際には多くの上層武士たちがここに収監され処断されています。


埋門跡

駈門跡の脇、牢屋跡へと抜けられる小さな門に見えます。


駈門跡
左の石垣は材木蔵跡です。
駈門跡とされている所も見取図を見ると駈ノ間とされています。
復元模型を見てみると門と言うよりは建物の中に入って行くような感じです。


四十八曲り

この先の竹門をから下って行くと最初に見た大手門跡にある四十八曲りの入口に出るはずです。
下と上と入口だけ覗いてみたのですが途中の道がどのようになっているのか
時間が許すのであればぜひ通ってみたい道です。


竹門跡

竹門は何故か苗木城には二ヶ所あります。
竹で出来た門であったことから竹門と呼ばれ、この門には門番がいませんでした。


大矢倉門跡

御鳩小屋とも呼ばれていた三階建ての矢倉です。
外観は二階建てのように見え、石垣に囲まれた穴蔵部分は物置とし、
二階、三階には矢狭間が設けられ防御の機能も果たしていました。
お昼近い時間になって来ると、他人が写らない様に写真撮影をするのが難しくなってきました。


北門跡

風吹門から見て北側にあったことから北門と呼ばれています。
ここから北へ行くと現在は苗木さくら公園となっている
かつての家臣屋敷群に通じています。




雨水を溜めた貯水池で、馬の飲み水に使用されていました。


風吹門跡

城下から三の丸に入る重要な門で、大手門の役割をしていました。
門の南側には門番所が併設されており、昼夜を問わず通行の監視を行っていました。
門の二階は「飼葉蔵」となっていました。


これにて苗木城をあとに、次は「苗木遠山資料館」へ行ってみたいと思います。


苗木遠山資料館

こちらには移築保存されている風吹門が展示されているということで
現物を見にやって来ました。


スタンプ設置場所

日本続100名城のスタンプはこちら。
スタンプも苗木遠山資料館へやって来た目的のひとつです。


パンフレット

攻城団のパンフレットもあります。
こちらも忘れずにゲット!


風吹門

大泉寺に移築保存されていた風吹門です。
大泉寺は、江戸時代中頃までは宿場の中心地にあったのですが火災により
現在の地に移り再建しました。
再建には苗木城の古材が使用され、風吹門を譲り受けました。


苗木城復元模型

この模型は幕末頃に描かれた絵図を基に制作されたものです。
巨岩と石垣と建物の複雑な組み合わせの全体の様子が観察出来る
立体的な資料です。



大名墓地・家臣団墓地

苗木遠山資料館から更に下って苗木公園入口付近に大名の墓地があります。
つまり、苗木城に登城する前にこの墓地を通過することになります。


苗木遠山廟所

ここは江戸時代の大名遠山家と家臣の墓地です。
苗木藩は一万石の小藩だったため、国替えもなく明治維新を迎えました。
そのため墓地もそのまま変わることなくこの地にあります。


苗木藩士安田太左衛門殉死の跡

苗木城主五代遠山友由の側近として仕えた安田太左衛門は、
29歳の若さで殉死した友由の墓前であるこの地の巨岩の上で殉死しました。



安田太左衛門は、遠山友由のことを思いながらこの岩の上で
忠誠心と責任感の強さゆえに禁じられていた殉死をしたそうです。


苗木道(飛騨街道)

対岸からの苗木城を見よう!と中津商業高校のあるあたりにやって来ました。
ここには苗木道と云われる飛騨街道が通っています。
苗木道は中山道から分岐した脇街道で、現在は道路や住宅で分断されています。
かつては飛騨方面へ行くには設楽の森付近で木曽川を船で渡らなければなりませんでした。
その様子を苗木城の木曽物見から見ていたのかもしれません。


ここまで長らくお付き合いいただきありがとうございました。
とにかく感動的な城址でした。
雲海にも恵まれ初登城としてはこんなすばらしい歓迎にあっては虜にならずにいられません。
雲海が晴れた後も景色は最高!城域も見るところがいっぱいで何度でも通いたくなるようでした。
そして、伝えきれない見所がいっぱいあるのでぜひぜひ皆さんも、早朝から足を運んでみてください。

平成30年11月11日登城
平成30年12月2日再登城



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小牧山城(愛知県)

2018年12月15日 | 続百名城
小牧山城こまきやまじょう
別名― 
構造山城
築城者織田信長
築城年代1563年(永禄6年)  
指定史跡国指定史跡
場所小牧市堀の内 地図
スタンプ設置場所小牧市歴史館
城郭検定出題あり

小牧山城は、1563年(永禄6年)織田信長によって小牧山に築城されました。
信長は美濃攻略のため清洲から移り、小牧山南麓に城下町を形成し4年後には稲葉山城を攻略。
岐阜と改称し小牧山から居城を移すしたことで、小牧山城は廃城となり小牧城下町は衰退していきました。
その後、小牧・長久手の戦いで徳川家康は、小牧山城跡を改修し、陣城を築きましたが
戦の収束に伴い再び廃城となりました。


大手道

小牧市役所を横断する大手道を記された線。
役所の内外にこのラインを見ることが出来ます。


小牧市役所

小牧市役所内にも大手道のラインが引かれています。
平日職員に声を掛けると見せて頂けます。
こちらの職員さんはもとより、守衛さんまでも小牧城の歴史に詳しい。
さすが地元をあげて小牧山に力を入れているのが伝わります。


大手曲輪

以前訪れた時よりあちこち整備された様子が伺えます。
そしてまだまだ整備は続いています。


大手道

信長の最後に築いた安土城の大手道を想像させる、真直ぐ延びる大手道。


横堀と土塁

奇麗に整備された堀と土塁。
以前はここに市役所がありました。
市役所建設の際に、破壊されたものを市役所の移設に伴い再び整備して造り直しました。


尾張徳川家九代藩主徳川宗睦源明公墓碑

尾張藩中興の祖と言われた尾張徳川家第九代藩主徳川宗睦源明の墓碑を、
徳川家の菩提寺である建中寺(名古屋市東区)から小牧山に移設したものです。


曲輪

堀と土塁を上から見下すのに調度いい平場の曲輪です。


曲輪

ここを抜けて桜の馬場を見に行きたいと思います。


案内看板

桜の馬場前にある案内看板。
桜の馬場を過ぎて、再び大手道を進み小牧市歴史館の方へ向かいたいと思います!


桜の馬場

桜の馬場は公園に整備された際、「遊園地」とされ、遊具やトイレが設置されています。
現在は春のお花見シーズンには特例で火器の使用が許可されている場所で
桜を見ながら大変賑わう場所となっているようです。


小牧山稲荷神社

小牧には多くの狐の伝説がのこっており、その中でもここ小牧山のに住んでいたという「吉五郎伝説」が
寛永年間に創られ吉五郎親分とその仲間たちをめぐる物語が傑作だととか。


鳥居

吉五郎伝説によると、 徳川の世の小牧山は人の入れぬ山となり鬱蒼と茂る原生林の森と化しました。
狐狸の棲家となり、小牧山の狐と正眼寺の狸が化け比べをしたそうです。
天気雨の日は狐の嫁入りだとか、芝居見物に狐が現われたとか噂が広がりました。
その小牧山に住む狐の『伝説・老狐小牧山吉五郎』を小説風にまとめたものが、吉五郎伝説として残されています。
そして伝説の狐吉五郎が、この神社に祀られているそうです。



道は真直ぐ続いていますが、ここから大手道は右に折れて
屈曲した道を抜けて主郭を目指します。


虎口

虎口の、かつて土橋であったところから見ています。
以前訪れた時は、この辺りは木がうっそうとしていて暗くてじめっとした
イメージでしたが随分さっぱりしています。
とても見通しが良くなったのですが、この辺りが例の伐採して植樹したという問題になった場所ですね^^;

ちなみに城域内にはちゃんとこんな看板もたっているのですがね。


石垣

主郭下の石垣が見えて来ました。
ここもよく見えるようになってます。



随分すっきりしています。
転落石がごろごろと浮き彫りになってます。
しかも、小さな石ではなく大きいものが多いです。


転落石

主郭では、石垣から転落した石があちこちに見えます。
織田信長が小牧山城を築城した当時のまま残る石垣と、石垣から転落した石と区別できるように
プレートで表示されています。





主郭虎口

小牧市歴史館は、名古屋市在住の実業家である平松茂氏が
私財を投じて建設して小牧市に寄贈した模擬天守です。


入館案内

JAFの会員証を提示すると入館料金がお得になります。(団体料金で入れます)


小牧城(小牧市歴史館)

小牧城の外観は、京都にある西本願寺の「飛雲閣」がモデルとなって造られています。



以前訪れた時は、この場所に木製のテーブルとベンチがあり、休憩してお茶を飲んでまったりした
覚えがあります。
こちらも少し様子が変わったように思えます。


眺望

目の前の木が伐採されて名古屋方面の眺望だけでなく、真下の様子も見えるようになっていました。


御野立聖蹟

昭和天皇が昭和2年の陸軍特別大演習の視察に訪れた祭、休息されたのを記念して建立されました。


裏込石の仮置き場

発掘調査で出た裏込石が積まれています。
以前訪れた時は無造作に置いてあったのがきれいに積んであります。


主郭地区(曲輪003)

天守のある曲輪から少し下がった場所にある曲輪です。
ここには明治時代一時期県立公園になった祭、「創垂館」が建設され迎賓館として使用されていました。
土塁は削られ、残土は曲輪内に敷均され堀もこれにより当初より浅いものとなりました。


虎口

信長の時代にあった大手道からの虎口です。
天正期の小牧・長久手の戦いの際には土橋が封鎖されました。


西側曲輪地区

ここから搦手口方面に向かって幾つもの曲輪が段をなして形成しています。
しかし、時間がないのでこのまま搦手口へ向かわず、ここで大手道へ繋がる道へ折れます。


さくらの園

さくらの園と空堀の間の道を下って行きます。
こちらもわりと多めの曲輪です。



この道を抜けると真直ぐな大手道に出ることが出来ます。
時間が無いのでこの道を走って下山しました。



小牧市役所へと続く大手道の線を眺めて今回の城さんぽは終了です。


攻城団の団員総会前に続100名城のスタンプをゲットしに寄りました。
集合時間までにあまり時間がないので駆け足で登って行き、前回も入っていない小牧市歴史館に
入ろうとしたのですが、間に合いそうになかったので今回も断念。
名古屋城集合時間にピッタリに到着だったので小牧市歴史館に寄っていたら完全にアウトでした。
今回も城さんぽならぬ城ランニングになってしまいました^^;


平成27年5月5日登城
平成30年12月2日再登城



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石垣山城(神奈川県)

2018年09月18日 | 続百名城
石垣山城いしがきやまじょう
別名石垣山一夜城
構造山城
築城者豊臣秀吉
築城年代1590年(天正18年)
指定史跡国指定史跡
場所小田原市 早川 地図
スタンプ設置場所石垣山一夜城駐車場内トイレ付近
城郭検定出題あり

本来この山は「笠懸山」と呼ばれていました。
天下統一を目指す豊臣秀吉が北条氏の小田原城攻めのために大人数をかけて短期間で築いた
「石垣山一夜城」として伝説を残した城です。
このことから「石垣山」と呼ばれるようになりました。


関白道

ここに到着するまでに「石垣山に参陣した武将たち」という案内看板を見ながら登って来ます。(8人)
以前はとてもひっそりした道でしたが、多くの人が歩いて行き来していることに
驚きました。
続100名城の影響ってすごいですね!


駐車場

以前訪れた時もこの駐車場を利用しましたが、整備される前だったので
こんなに奇麗になっていてびっくりです。


スタンプ設置場所

続100名城のスタンプは駐車場にあるトイレの建物に設置されています。


登城口

石垣山城入口(登山口)です。


大手口

南曲輪と東曲輪の間にある城道で二通りある城道のうちのひとつです。


東口外門

関東大震災により崩れた石垣。
南曲輪と東曲輪は石垣造りでしたが関東大震災によって大手道に崩れています。



崩れた大手道ではなく、整備して歩きやすくなっている東曲輪の中の道を進みます。


二の丸(馬屋曲輪)の石垣

穴太衆を連れて来て積み上げた野面積みの石垣が出迎えてくれます。


二の丸(馬屋曲輪跡)

二の丸から見た本丸。(平成23年6月12日撮影)



とても広々とした曲輪です。(平成30年9月8日撮影)


櫓台跡

現在は木々で下界を望むことは出来ないのですが
当時は木が切り倒されて見通しが良かったのでしょうね。


北口中門

今回訪れた目的の、前回見逃した井戸曲輪跡へ行ってみましょう!


井戸曲輪案内看板

もともと沢のようになっていた地形を利用し、石垣の壁で囲むようにして造られている場所です。
この井戸は「淀君化粧井戸」とも「さざゑの井戸」とも呼ばれています。


井戸曲輪跡

ここに降りて来るまでにこの石垣を見てめっちゃ感動~。
というか、圧巻ですね。
これは凄い!
これを見逃して帰った私はなんと愚かだったことか…。



残念ながら案内看板に書いてあった「今でも湧き出る水を見ることが出来ます」というのは
無かったです。



それにしても素晴らしい石垣です。
石垣に囲まれた風景は石垣好きにはたまらない空間です。


北口の城道

井戸曲輪への道の途中にある北口の城道。
こちらの道を進むと三の曲輪(北曲輪)に出ます。


馬屋曲輪展望台

さあ、ここから小田原城を見下してみよう!!



…と思ったら、以前訪れた時には見えた小田原城は…今回は木が邪魔をしていて見えません!
せっかく晴れたのになあ。残念。


トイレ

二の丸の北側に設置されています。


本丸の石垣

穴太衆による野面積みが見事です。



二の丸から本丸への北側の道を登ります。


北門跡

登りきったこの場所に北門があったと思われます。


本丸(本城曲輪)

眺めの良いところに本丸があります。
ここから見る景色は、確かに秀吉は淀君に見せたいと思うような場所だったに違いない。
かなりロマンチストだったのではないでしょうか^^;


物見台(展望台)

小田原城方面を指し示す方向は…


物見台(展望台)からの眺め

相模湾からは船を使って小田原を包囲していたのが、ここから見えていたことでしょう。
ここからの眺めはいろいろと考えさせられるものがあります。



前回訪れた時の写真です。
曇っていたので少し靄ってますが上下で写真を見比べると新しい道路が出来た影響か、
町の変化が見えます。(平成23年6月12日撮影)


東門

この林の中に塀や櫓を骨組みだけ造り、白い紙を張って白壁のように見せかけ、
周囲の樹木を一気に伐採し、一夜にして城が浮かび上がる様を見て
小田原城では将兵が驚き士気を失ったと言われています。


天守台跡

正面から緩やかな高まりになっていますが、背後は切り立っていて
石垣造りになっています。
どこまでも、とても短工期とは思えない造りです。



この辺りからは年号の入った平瓦が出土されており一夜城と呼ばれるものの、
かなり本格的なものが築かれていたのではないかと思われます。




そして、ふと足元を見ると…マジ瓦!
本物???転がってる?…訳ないよね…どうでしょう。




古そうでないのに何が祀られているのか分からない。
鳥居は無いので神社ではないようです。



東門と中門を繋ぐ道。


西曲輪虎口

櫓台跡ということは櫓門があったのでしょうか。
しかし、櫓台の石垣は崩れてしまっています。


西曲輪跡

櫓台のある門跡を進むと西曲輪に出ます。
天守台の西側真下にある曲輪で、娯楽施設的な山里曲輪のような機能を果たした
曲輪ではないかとも考えられています。
こちらも天守台の下は野面積の見事な石垣が見られます。


南曲輪跡



南曲輪からの眺望

相模湾が青く美しい。
どこの曲輪からも海が見えて、宿泊したくなるような立地です。
総石垣の城で絢爛豪華、聚楽第や大坂城にも匹敵する城で茶会かあ。





南曲輪の石垣

高石垣が良い状態で残っています。


大堀切

南曲輪と出曲輪の間の大堀切は道になっています。


早川石丁場

石垣山城に登城口の前に展示されている大きな石は、
平成17年度に実施された広域農道建設に伴う発掘調査で上記の大堀切の他に
江戸時代の石切り作業の痕跡を示す石が多数確認されました。
江戸城移築用の石垣の石を採取した石丁場があり、
「早川石丁場群」と呼んで、ここにも採取された石が展示されています。



一夜城とは言うものの、実際は4万人で約80日ほどかけて築いた城です。
それでも3ヶ月足らずでこれだけの城郭を造り上げる秀吉の力というものは
現代の技術を持っても凄いことだと思います。
当時にしてみてもこの規模の城郭だとかなりの工期を要すると思うのですがまさにあっぱれですね。



平成23年6月12日登城
平成30年9月8日再登城


7つの魅力でとことん楽しむ! 日本100名城めぐりの旅
萩原 さちこ
学研プラス

村上城(新潟県)

2018年08月06日 | 続百名城
村上城むらかみじょう
別名本庄城・舞鶴城
構造平山城
築城者本庄氏
築城年代16世紀初頭
指定史跡国指定史跡
場所村上市二之町 地図
スタンプ設置場所村上市郷土資料館1階ロビー
城郭検定出題あり

最初に築城したのが本庄氏で、築城当時は「本庄城」と呼ばれていました。
関ヶ原の戦いで西軍が敗北すると上杉氏の家臣だった本庄氏は上杉景勝に従い米沢へ。
上杉氏が米沢へ国変えになると、堀秀治の家臣村上頼勝が城主となり大改修を行い、
本庄城から「村上城」へと城の名が変わりました。
そして、1667年(寛文7年)落雷により天守や櫓を焼失。
以来天守が再建されることはありませんでした。
その後、松平輝貞が上野国高崎より入り、城のさらなる改築を行われました。
1720年(享保5年)以後は内藤氏が代々城主を務め、明治維新を迎えました。


駐車場

七曲り道入口前にも3台ほど駐車できますが、近くにこのような駐車場も用意されているので
こちらに駐車してゆっくり観て周るのがお勧めです。


スタンプ設置場所

村上城跡保存育英会の建物に続100名城のスタンプがあるようですが、ここが開いているのは
月曜から金曜の午前中のようなので他へ行くことにしました。
ここの張り紙に東北電力(株)村上営業所エントランスと村上市郷土資料館(おしゃぎり会館)にも
スタンプが設置されているとの表示があるので後で行ってみたいと思います。


登城口

大手道の入口で九十九折りの山道である七曲り道の入口です。


城主居館跡

現在城山児童公園になっているこの場所には城主居館があったのですが、
幕末の戊辰戦争の最中に焼失してしまいました。


一文字門跡

城主の居館の入口にある重要な門だったため、石垣を高く積み、その上に塀を回し
冠木門を付属させた二重構造の門構えでした。
高い石垣と堀、櫓門と多門櫓でコの字で囲んだ内枡形の強固な造りとなっていました。



守り堅固であった一文字門でしたが、今は堀も埋め立てられ面影といったらこの石垣くらいしか
残っていません。
それでもこの石垣を見ただけで、上にある石垣に期待が膨らみます。


七曲道

七曲りというので実際に数えながら登ってみると…七以上あります。^^;



幾重にも折れ曲がる道はそれほど急でなく、歩きやすい道になっています。


四ツ門跡

七曲り道を登りきったところに四ツ門跡があります。
四方を門に囲まれたちょっと珍しい枡形になっていました。


御鐘門跡

ここにはかつて城下に時を知らせる御鐘櫓があった場所です。
左に折れる枡形虎口になっています。


出櫓跡

本丸入口を守るための最前線となる石垣が見えて来ました。
石垣沿いには登りと下りを区別した道がつけられ、それぞれに門扉のある並門がありました。
出櫓というだけに出張った石垣の上から通る者を見張り、時には攻撃を掛けて
死守していたのでしょう。



この出櫓の石垣は特に奇麗な積み方で角もしかっり出ていて
石垣の絶好の撮影スポットとなっています。
美しい石垣です!



発掘調査中の箇所もあり、これからの発見も期待されます。



とにかく圧巻の見事な石垣。
石垣の上に石垣と言った二段になっている本丸の石垣です。


平櫓跡

ここはあまり手入れがされていません。
もしや、この真上にある本丸にあったとされる平櫓のことをさしているのでしょうか…。


埋門跡

ここを下ると四ツ門跡に出て周回出来ます。
中世散策コースは搦め手側の本庄氏家臣団の屋敷跡と思われる腰曲輪や
竪堀、土塁、虎口や、井戸、「馬冷やし場」といった水場も見ることが出来ます。


腰曲輪

本丸を囲む腰曲輪で、一の門である冠木門の前が一番広く、
武者が溜れるような空間が見られます。


冠木門跡

本丸入口の一の門となるのが冠木門です。


枡形虎口

櫓門があったとされる最後の砦となる枡形の虎口です。
ここを突破するといよいよ本丸です。


眺望

この眺めは最高です。
ゆりが沢山咲き誇り、そよ風に香りがのってやってきてずっと眺めていたい気分になりました。


本丸跡

本丸広場越しに見える景色を見ると、登って来た疲れも吹っ飛ぶ感動です。
心地よいそよ風も吹き、体感温度も下がるのでとにかく晴れ晴れする気分でいっぱいです


天守台

ここにはかつて三重の天守がありました。
落雷により焼失してから天守が再建されることはありませんでした。
ここに天守があったなら…さぞかし良い眺めだったでしょうね。
しかも海が見えるなんて最高!!!(妄想の世界へ突入)


眺望

村上市街の向こうには日本海が見えます。
この眺めはやっぱり最高です。
暑さに負けず頑張って登った甲斐があります!


舞鶴城跡碑

舞鶴城とも呼ばれていた城祉碑。
ここから本丸虎口の御門櫓、多門櫓へと続く長い続櫓で本丸を囲んでいました。


鳥居

本丸北側を見ると、二重の鳥居があります。
しかし、本丸にありがちな神社の社はここにはありません。


秋葉神社碑

二つの鳥居の先にあったものは拝殿や本殿などの建物ではなく、この石碑でした。



下に見えるのは出櫓多門跡です。
更に下には四ツ門から続く本丸への道が見えて、登って来る人が
ここからまる見えです。


四ツ門跡

本丸から下って再び四ツ門跡までやって来ました。
今度は三の丸を散策してみたいと思います。


調練場跡

三の丸は主に戦の訓練をする場となっていて武器蔵や北側には二つの櫓を配していました。


玉櫓跡

ここには玉櫓とありますが、月見櫓のことです。



靱櫓跡

そして、この櫓は武器保管庫として使われていました。
ここにも石垣が見え隠れしています。
木が無ければ眺めも良さそうです。


東北電力(株)村上営業所

村上城跡保存育英会の建物に張り紙があったのでやって来ました。
駐車場をお借りしていざ、スタンプを押しに!!


スタンプ設置場所

この日は張り紙の時間より早く開いていたので助かりました。
※24時間開いている説もあります(自分の目で確かめていないので不確かです)



中にはスタンプだけでなく有り難い事にパンフレットもあります。


村上市郷土資料館

こちらが公式にスタンプ設置場所とされている村上市郷土資料館です。


スタンプ設置場所

公式に知らされているスタンプ設置場所にやって来ました。
ここで東北電力では品切れになっていたパンフレットを入手することが出来ました。


朝、涼しい時間帯は麓から本丸まで何回も登り上げるランナーや健康のために何度も昇り降りする地元の方々が
多くいます。
城めぐりをされている人はほぼすれ違うことなく、下山する頃にやっと1組とすれ違いました。
スタンプを押す時間のタイミングで登城されているのでしょうか、この暑い時期は早めの登城をして
スタンプも東北電力であれば朝でもスタンプを押すことが可能なので涼しい時間帯を選んで
登城することをお勧めします。
村上城周辺にはいろいろ見所が(城下町の様子など)いっぱいあるので
散策するには時間が足りません。
それでも紹介できるものは後ほどブログにしたいと思います。


それにしても良い城跡でした。
ゆりの花が調度見頃で、城中至る所に咲き乱れていました。
本丸の石垣やいろいろな石垣の間からも咲いていて、ユリの城と言った感じでした。

ずっと本丸に居たいと思うほど、気分が良くなる景色でした。
「来て良かったあ」と連呼するほど私の中ではかなりお気に入りの城跡となりました。


平成30年7月21日登城



続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス

滝山城(東京都)

2018年07月06日 | 続百名城
滝山城たきやまじょう
別名武蔵滝山城
構造山城
築城者大石定重
築城年代1521年(大永元年)
指定史跡国指定史跡
場所八王子市高月町 地図
スタンプ設置場所加住市民センター・滝山城跡中の丸・道の駅八王子滝山
城郭検定出題あり

滝山城は武蔵守護代の大石定重が築城し、大石氏の養子となった北条氏照が改修したと伝わります。
北は多摩川に浸食された断崖と、南は谷が入り組んだ複雑な地形で形成されています。
滝山城・高月城・根小屋城(戸吹城)の三つの戦国山城を総称して、「滝山三城」と呼ばれる山城が
加住地域に残っています。


駐車場

この日は駐車場開場15分前に到着。
滝山城の周囲にここ以外で朝8時前に駐車出来る場所はないかと探したのですが
どうやら駐車場はここしかないようなので8時を待っての駐車となりました。


登城口

駐車場から民家のある路地を歩いて登城口へ。
途中案内看板とパンフレットがあるのでそちらで情報を入手します。


天野坂

脇には堀も見えて良い雰囲気です。
そしてここが滝山城の大手道になります。
この先小宮曲輪と三の丸の間には枡形虎口が設けられていましたが車道により消滅しています。


小宮曲輪枡形虎口

この辺りは複雑な形状をしていますが、枡形虎口であった名残が見てとれます。
北条氏照の家臣に小宮という人物が居て、小宮曲輪は屋敷があったことから
この名が付いたとされています。


三の丸

道上に三の丸があります。
小道を登ってみるも…このように草が生い茂っていて中に入って行くのは拒まれます。
しかし、三の丸を囲む堀が見事なので堀を覗きに行って来ました。


コの字形土橋

車道になってしまっているのでS字のコーナーのようにしか見えないのですが、
当時は狭い土橋で、身体の向きを4回も変えさせて側面から攻撃するという仕掛けが
された道でした。


千畳敷

こちらは草刈もされていて良い広場です。


弁天池跡

千畳敷から見下す弁天池跡。
池跡があるらしいが草でよくわかりません。
当時は池に小舟を浮かべて宴を楽しんでいたようです。


二の丸

二の丸の中も草だらけです。


中の丸

本丸の次に重要な場所で、本丸とは木橋で繋がっています。
中の丸にはトイレやあずまやが完備されていて休憩ポイントとなります。


国民宿舎滝山荘

滝山荘は平成13年に廃止となりましたが、現在は情報発信の場として使用されています。
ARのポイントがあちこちにあるので活用してみよう!


スタンプ設置場所

滝山荘に置いてあるスタンプです。24時間いつでも押印できます。
しか~し!、建物で試し押しとはけしからん
どうしてこーゆーことをするかなあ。
落書きするのと同じことです!
これ以上建物を汚すようであればスタンプ撤去もいたしかたないな…。



滝山荘はお寺か神社のような和風な建物。
だからこの部分は残されたのかな。


本丸への木橋

本丸と中の丸の間の大堀切に架けられた木橋は
本来もう少し下に架けられていたそうです。



滝山城のシンボルとも言える木橋ですが、この橋の下から撮った構図の写真がよく見られるので
行ってみたら、蚊が凄いいっぱいでカメラを構える手がブレまくり
良い写真が撮れませんでした^^;


本丸

本丸は二段に渡り造られています。
虎口も良好に残っていて枡形が見られます。


井戸

覗き込むとけっこう深そうな井戸です。


霞神社

下の本丸広場から石段を登り、上の本丸へ。
正面には霞神社が出迎えてくれます。
~明治三十七、八年戦後(日露戦争)に武勲を樹て散華された英霊を奉斎せん為
明治四十五年五月一日に当時の在郷軍人會加住村會の首唱によって
史蹟である北條氏照の居城滝山城址本丸跡に神社を創建して霞神社と称した。
というような内容が隣接する石碑に刻まれています。


金毘羅社

霞神社を過ぎて奥へ向かうと、今度は金毘羅社があります。
ちなみ搦め手道から登ってくると木橋より手前に石段があり、そこを登って来ると
鳥居をくぐって直接金毘羅社に行く事が出来ます。
本丸への近道にもなります。
金毘羅社は先ほどの霞神社より歴史は古く、二百年ほど前に村民が造営したとのことです。


眺望

本丸も中の丸も眺めが良いです。
搦め手側、多摩川がよく見えます。


東馬出

本丸を後にして尾根伝いに信濃屋敷方面に向かって歩いて来ると東馬出が見えて来ます。
正面の草むらが東馬出しですです。


行き止まりの曲輪(ふくろのねずみ)

ネーミングがが印象的な曲輪ですね。
両端は狭い土橋になっていて行き止まりような場所で、ここに敵を引き寄せて
堀を挟んで二の丸から横矢を掛けることが出来ます。


信濃屋敷

この辺りは屋敷跡が続きます。
この奥の草むらが信濃屋敷になります。


刑部屋敷

こちらも草が生い茂り屋敷の仕切りとなる低い土塁などは草に埋もれて
なんとな~くしかわからない。


カゾノ屋敷

ここまで来ると道から覗き込むだけで、中に入ろうという気が湧きません。


木橋(引き橋)

ここからARを使って屋敷側を見ると、上から橋に向って防御しているのが
見えます。


まだまだ散策しつくしていませんが、とにかく広いので今回はここまで。
やはり、来るならあまり草が元気でない時に訪れた方が良いですね。


加住市民センター

さて、続100名城のスタンプを求めて加住市民センターへやって来ました。


スタンプ設置場所

建物を入ってすぐの場所にスタンプ設置場所があります。
ここでは「滝山三城」というパンフレットを入手しました。
というわけで、この後行ってみることに。


道の駅八王子滝山

更に、続100名城のスタンプがあるという道の駅にやって来ました。
しかしここはとても混んでいて駐車場が満車で列をなしています。
駐車場への車列に並んでいる間に私だけ車から降りて、そそくさとスタンプ探しへ。


スタンプ設置場所

ありました! 滝山城のスタンプはこれで3ヶ所目です。
どこで押すかは…気分次第。
加住市民センターと道の駅が閉まっていたら滝山城中の丸へ行けば取り逃し無しということです。
100名城に比べて、続100名城はスタンプ設置個所が多いのが特徴ですね。
知りうる限り、見つけたらブログで紹介していきたいと思います。


娘の通う大学が八王子にあったので4年間通ううちには来られるだろうなんて思っていたら
あっという間に4年が過ぎ、いつも行きたいと思いながらもいつでも行けるなんて思っていて
なかなか訪れることがなく、やっと今頃の登城となりました。

城内外、至る所に案内看板とパンフレットが用意されているのがありがたい。
こんなにパンフレットが入手しやすい城郭は他では見たことがありません。
ただ残念なのは、二の丸、三の丸をはじめ、曲輪の草が散策を阻んで土塁や虎口がよく見えないこと。
よく草刈ボランティアを募集して草刈りなどの手入れをされているのは知っていたので
さぞかしきれいなのかと期待して行ったせいか、ちょっとがっかりしてしまいました。
とはいえ、手入れの努力は昔からどこよりも力を入れていることは知っているので
この規模、この広さを草刈するのはやはり多くの人の協力だったり、費用だったり大変なことと思います。
これだけの立派な遺構が残っているので、東京都ももう少し予算を割いていただけるとありがいのですが。
というか、ボランティアに参加しろって話ですね^^;
そしてこの日も職員の方?が見回っていたのをみると努力はとってもしてることが
わかるんです。
こうして続100名城に選ばれ、見学させていただけることに保存されている方々には深く感謝です。


平成30年6月30日登城



続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス


笠間城(茨城県)

2018年07月02日 | 続百名城
笠間城かさまじょう
別名桂城
構造山城
築城者笠間時朝
築城年代1219年(承久1年)
指定史跡市指定史跡
場所笠間市笠間3616 地図
スタンプ設置場所かさま歴史交流館 筒井屋(9:00~18:00、休館日は月曜日、月曜日が祝日の場合は翌日)

佐白山に笠間時朝が鎌倉時代に16年の歳月をかけて築いた笠間城は
戦国期に蒲生郷成が入城すると、関東の山城では珍しい石垣を多用した近世城郭へと改修されました。
天守曲輪には二重天守が築かれ、谷や断崖を生かし堀や土塁で造られているが天守曲輪は
石垣で形成されているのが特徴です。


井筒屋

続100名城のスタンプ設置場所の「井筒屋」です。


スタンプ設置場所

スタンプは良好です。



こちらでは、笠間城についてパフレットや地図で親切に見所を教えてくれました。
この辺りには造り酒屋さんも多くあったそうです。(今は2軒)


駒場丸(千人溜り跡)

この広場はいざ出陣というとき武士が集結した所です。


駐車場

千人溜りには駐車場が設けられています。
こちらに車を停めて徒歩で本丸を目指します。


登城口

この先はあちこちに石垣が見られるので、遺構を見ながら進んで行きます。


大手門跡

大手門跡には石碑があり、石垣も見られます。
この大手門は櫓門で手前には木橋(大手橋)がかかっていたようです。


大手門跡上

車が直角に曲がれないのでこのような道を造ってしまったのでしょう…。



道路を歩いて行けば楽ですが、もちろん遺構の残る古道を進みます。


中門跡

古道は石段で出来ていて階段になっている場所には門が構えられていたと思われます。
そしてここは中の門跡です。


二の門跡

石段を登りきったところに二の門があったものと思われます。


玄関門跡

この石垣が玄関門跡の石垣です。
ここには石垣からすると、櫓門かそれに近い門構えだったと思われます。


二の丸

笠間城築城750年祭の記念碑があります。


本丸

二の丸から見た本丸。
ここには御殿が築かれ、居館とされていました。


宍ヶ崎櫓跡

足元をよく見ると礎石?っぽい石が見えます。


八幡台

八幡台に登ると、あずまややベンチがあります。
そして本丸の中が一望出来ます。



本丸にある高い土塁のようにも見える高まりが八幡台です。
そしてこの高くなっている場所に八幡台櫓がありました。


八幡台櫓跡

ここにはかつて八幡台櫓がありました。
平時は武器庫として、戦時は物見として使用されていました。
現在八幡台櫓は麓の真浄寺に移築現存しています。


案内看板

この案内看板を見ると、沢山の城門があったことがわかります。





笠間城跡碑

この説明文がとてもわかりやすく、笠間城のことがまとめられています。
笠間城になる前は、この山には正福寺と徳蔵寺勢力争いが盛んでした。
そのため、藤原(笠間)時朝がつかわされ鎮圧し、笠間城を築城したことが記されています。



天守曲輪入口

石段がつづき、ちょっと空気が変わる気がします。
いよいよって感じ!
ちなみにここにもひとつ門がありました。


天守石垣

石段を登って行くと間も無く石垣が見えて来ます。
東日本大震災により石垣が崩れてしまったため、立ち入り禁止になっていますが
見事に石垣が残っています。


天守台

崩れかけていますが石垣を多用して天守台が造られています。
こちらも東日本大震災により崩落し、立ち入り禁止になっていたようですが
現在は開放されています。
しかし、石段の間隔がかなり広くなってしまい高低差があるので
十分気をつけて昇り降りして下さい。


手水

岩を刳り抜いて造られた手水。
手や口を濯ぐ気にはなれないのですが^^;
機能はともかく、なんだか珍しくておしゃれな感じ。


佐志能神社

ここにはかつて二重の天守が築かれていました。
明治初期に廃城令によって建物が取り壊されたのですが、天守の廃材を使って
この神社は造られていると伝わります。



裏手に廻ると本殿の周りは瓦で塀が造られています。
この瓦も天守の瓦だったと伝わります。


崩れた石垣

更に裏手に行くと大きな石が意味ありげにいくつも見えます。
加工したような石ではないので庭石のような装飾用か思ったのですが
天守台の石垣が崩れたようです。
ここは自然の石を使って積まれていたのでしょうか。


笠間城の散策はこれにて終了。下山します。




大黒石

道路の途中にあるこの大きな石は、むかしむかし
徳蔵寺の僧兵が攻め込んできた時、この大きな石が転がって来て徳蔵寺勢はつぶされまいと
ちりじりに逃げて戦力を失い引き上げて行ったそうです。
正福寺のピンチを救った石だそうです。


大石邸址

赤穂藩の大石内蔵助良雄の父と祖父が暮らしていた屋敷跡です。
笠間藩主の浅野氏が赤穂へ国替えとなり、浅野氏の家老であった大石氏も赤穂へ。


大石良雄の銅像

「忠臣蔵」でおなじみの大石内蔵助良雄の銅像です。


真浄寺

こちらのお寺に笠間城八幡台櫓があるというので見に来てみました。
ここはカーブになっていてお寺から出る時は見通しが悪いので事故を起こさないよう
注意して出入りして下さい。


笠間城八幡台櫓

現在は真浄寺の七面堂として使用されている八幡台櫓。
かつては笠間城本丸にある八幡台にあった櫓ですがこの地に移築し、現存しています。



ここではちょっと異色な佇まい。



櫓としてみれば格好良いですよ。



九ちゃんの家

おまけに、井筒屋さんで聞いた坂本九さんの旧家がこちらです。
日航機墜落事故現場にも遠からずの場所からやって来たので何かの縁と思い立ち寄ってみました。
夏が来ると日航機墜落事故を思い出してしまいます。
なんともさみしげな風景です。


雨が降ったりやんだりの中での訪問となりました。
草が生い茂っていますが比較的よく遺構が見える良い城跡でした。
ちょっと道路が遺構を破壊してるのかなと思いますが要所要所は残っているので
雰囲気も楽しめたし、このままの状態であまり手を加えず保存してもらえたらなあと思います。


平成30年6月23日登城


 おぼえておこう!



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菅谷城(埼玉県)

2018年06月27日 | 続百名城
菅谷城すがやじょう
別名菅谷館
構造平城
築城者畠山重忠
築城年代不明
史跡指定国指定史跡 
場所比企郡嵐山町 地図
スタンプ設置場所埼玉県立嵐山史跡の博物館展示室受付(9:00~16:00)月曜定休
城郭検定出題あり

都幾川と槻川の合流地に位置し、断崖上に堀と土塁を築き
兵馬を置ける広い郭を備えた雄大で技巧性の高い城館です。
鎌倉時代の畠山重忠の居館として伝わる菅谷館跡ですが、現在残っている広大な菅谷城跡は
戦国時代(1487年~1505年)の上杉氏によって再整備されたものと考えられています。



駐車場

搦め手から入った「史跡の博物館」前の駐車場。
パンフレットは史跡の博物館でもらえます。


史跡の博物館

城址はけっこう広いので、まずはこちらで資料をいただき、博物館を見てから
周るのが良いと思います。
ちなみにJAFの会員証を提示すると入場料が割引になります。


スタンプ設置場所

続100名城スタンプはこちら。
菅谷館のスタンプは、博物館の展示室受付に設置しています。
入館時間(捺印できる時間)は、9:00~16:30(入館は16:00まで)です。
ただし、7月1日~8月31日は、9:00~17:00(入館は16:30まで)です。


重忠ロボット

博物館入口から入るとすぐに重忠ロボットが出迎えてくれます。
菅谷城城主の畠山重忠さんです。
ここで説明が流れるのですが、約2分と表示されていますがもっと長い事話してくれます^^;


畠山重忠の生涯と人柄

こちらのコーナーでは畠山重忠の生涯と人柄を紹介しています。
重忠は戦国期に宇治川の合戦や一の谷合戦、奥州攻めなどで功績をあげた鎌倉御家人でした。
しかし、菅谷から鎌倉へ向かう途中1205年(元久2年)北条氏の策略によって
二俣川にて生涯を閉じています。


比企城館跡群

比企地域には69ヶ所の城館跡が確認されていて、その中でも代表的な4城館が
菅谷城・杉山城・小倉城・松山城で国指定史跡になっています。
ここではその4城が紹介されています。


甲冑

学習コーナー脇に飾られている甲冑。


三の郭

郭は広く、搦め手から入ってすぐの位置にあり武士や騎馬の集合場所として使われていたのでは
ないかと考えられれている。


蔀土塁

円墳を利用した目隠しの土塁で中の様子が見通せないように造られています。


正坫門跡

三の郭の出入口で、西の郭より1mほど高く土盛をしています。


木橋(復元)

復元された戦国時代の木橋は防御のため奥(西の郭)から手前(三の郭)に向かって
上り坂になっています。


西の郭

この先が鎌倉街道が通っていた跡があったことから大手門があったと思われます。
また、オオムラサキの森やホタルの里が隣接しています。


オオムラサキの森

菅谷城に隣接してオオムラサキ活動センターがありオオムラサキの森の中を歩き、ホタルの里から
再び菅谷城南郭へと入るルートで散策しました。
この時期(冬)なのでもちろんチョウの姿はみられませんでした。


ホタルの里

小川が流れ込んでいて湿地帯になっています。
夏になるとホタルが見られるのでしょうね。


南郭

本郭より南側にあり、一段低い場所に位置します。
どのように使われていたかは不明です。



本郭と南郭との段差(土塁)はかなりあります。


水堀跡

当時はもっと深くて水が張り巡らされていたようです。



見事な堀と土塁です。
土塁の保護のために登らないよう注意書きもされてあります。


本郭

戦国時代に拡張され、畠山氏の居館もこの郭の中にあったものと考えられています。






奥の土塁の切れた部分が「生門跡」と伝えられています。
本郭への出入り口の一つです。


土橋

本郭の土橋と虎口です。
出枡形になっていて横矢をかける構造になっています。


二の郭

本郭北側を囲むように長く広く二の郭が配されています。
そのさらに北側に三の郭、西の郭が囲んでいます。



長く広い二の郭です。


出桝形土塁

横矢かけの構造で、本郭への侵入を防いでいます。


あずまや

公園のあずまや。水道もあります。


畠山重忠公像

竹を心にした竹筋コンクリート製で鎌倉の方向を向いて建てられています。


門跡

この辺りは複雑な構造になっています。


若い頃は別の目的でよくこの辺りに来ていたのですが、畠山重忠さんを見るたびに
また「畠山重忠像だあ」なんてよく言ったものですが、今となっては畠山重忠像(置物)が
欲しかったなあと後悔。
クイズラリーもっとがんばっておくんだったと思う今日この頃です。^^;


平成29年1月7日登城
平成30年6月17日再登城


続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
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要害山城(山梨県)

2018年06月19日 | 続百名城
要害山城ようがいさんじょう
別名要害城・積翠山城・丸山城・石水寺城
構造山城
築城者武田信虎
築城年代1520年(永正17年)
指定史跡国指定史跡
場所甲府市上積翠寺町 地図
スタンプ設置場所甲府市藤村記念館(9:00~17:00、休館日は月曜日、祝日の場合は翌日、年末年始

要害城と呼ばれる武田信玄の父信虎が築いた山城で、武田家三代にわたり躑躅ヶ崎館の背後の守りとされた詰城です。
そして武田信玄はこの城中で生れたと伝わります。
南東尾根上には支城である熊城があり、厳重な防御態勢になっています。




訪れたこの日の気温は30度を超えていました。
入口まで様子を見に来てみました。


駐車場

登山口には駐車場が完備されているのでここまでは車で来られます。
ちなみに公共のバスを使うと午前中にはバスが1本しかないそうなので逃すと
甲府駅から徒歩で来るかタクシーを使うしかないようです。



この先に登山口があります。
目の前を団体が通過し、要害山へ登って行くようです。
城跡目当てなのか、八ヶ岳・秩父山系 山梨百名山に指定されているのでガチ登山か
いずれにせよ、日曜日の昼間の要害山は賑やかなようです。


積翠寺温泉要害

明治27年から続いた温泉宿で「信玄公ゆかりの湯」として親しまれて来ました。
残念ながら2017年1月31日をもって閉館となっていました。
人の出入りがあったので営業しているのかと思ったら、現在は障害者施設になっていました。


案内看板

登山口に案内看板があります。


登山口

ここから登城するようです。
しかし、今回は登城する体力が残ってないので草の生えていない涼しいシーズンになったら
登城しようと思います。
本日はこれより、甲府市藤村記念館へ向って続日本100名城のスタンプを押しに行ってまいります。


甲府市藤村記念館

甲府駅にやって来ました。
以前、武田神社で見かけた藤村記念館は駅前に移築されていました。
なんだか外壁の色も違う気がします。



だいぶシックな色に塗り直されています。


スタンプ設置場所

中に入ると早速スタンプがお出迎え。
受付の方から要害山城への行き方など教えていただきました。


模型

中には少しばかりですが躑躅ヶ崎館や要害山城についても模型やパネルで案内されています。


パネル

躑躅ヶ崎館や要害山城の位置関係がわかります。


教室

藤村記念館は、明治8年に甲斐市亀沢に建てられた睦沢学校校舎です。



この建築様式は、山梨県令藤村紫朗が奨励したとされる擬洋風建築で、山梨県内では藤村式建築と呼ばれているそうです。



左側には甲府城が見えます。
このあと、もちろん甲府城へ行きました。
暑さMAXでもうクタクタです…(暑さに弱い)


時間が無いのと暑さで要害山城登城はおあずけ。
既に熊目撃情報もあるとのお話しで、これから要害山に登られる方は熊対策が必要です。
それでも、登城する人が増えたので賑やかに登って行けば熊も近付かないかな?
甲府駅からの交通手段が少ないので武田神社、要害山城と歩いて往復する人も少なくないと
藤村記念館の受付の方から聞きました。
運動不足の私にはとても無理な話です
冬になったらトライします!


平成30年6月3日登城



 おぼえておこう!



続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス



ほうとう3,4人前と桔梗信玄餅10個入りのセット
隠し湯の里からの贈り物大森館
隠し湯の里からの贈り物大森館

新府城(山梨県)

2018年06月06日 | 続百名城
新府城しんぷじょう
別名新府中韮崎城・韮崎館
構造平山城
築城者武田勝頼
築城年代1581年(天正9年)
指定史跡国指定史跡
場所山梨県韮崎市中田町中條 地図
スタンプ設置場所韮崎市民俗資料館(午前9時~午後4時30分 午後4時頃までにご入館ください)
城郭検定出題あり

織田信長、徳川家康連合軍に備えた完成をみることのなかった武田勝頼の築いた武田氏最後の城と言われいます。
武田勝頼は1581年(天正9年)に新府城へ移ったのですが、翌年3月には織田軍に攻め込まれ、
自ら城に火を放ちわずか68日目で廃城となりました。



駐車場

東出構向かいにある駐車場
ここに車を停めて県道(七里岩ライン)は車の通りが激しいので県道を歩かずに、首洗い池の方を通って
大手口の方へ。



鳥居のある階段から登らずに、まずは大手口の方から本丸を目指すことに
しました。


大手口

ここは桝形になっていて、二ヶ所に木戸を設けられていたようです。


三日月堀

武田の城らしく丸馬出しがあり、その外側を三日月形の堀が巡らされています。


西三の丸

三の丸は東と西と隣り合わせで二つに分かれてあります。


二の丸

二の丸の奥には馬出しが構えられています。


植込み

植込みの中に二の丸から本丸に抜ける近道のように造られた土橋も見えます。


蔀の構

蔀は本丸馬出しと本丸の間にあり、植込み、土居、塀の構えで
城内を見通せないないように出来ています。


本丸

昨年の大河ドラマ「真田丸」のロケ地となったため、真田丸の旗がはためいています。



築城するにあたり、この標柱にも記してあるように着工からたった8ヶ月の突貫工事で入城。
昼夜の堺無く工事を続行してほしいとの要請に人集めをし、工事を急いだようです。
工事にあたった人たちはかなりの負担と疲労にみまわれたようです。


武田勝頼公霊社

武田勝頼公を供養する石祠を建立。
両脇に長篠の戦いで討ち死した大塚と小塚があり、家臣14将ひとりひとりの霊位が建てられいます。


甲斐国主武田氏四百年追遠の碑

昭和57年に新府武田氏400年の記念祭に合わせて建てられた碑で、
内容はところどころ読める字を見るかぎり400年間の武田氏の歴史が書いてあるように見えます。
(本当はどうかな?)


新府藤武神社

勝頼が自ら火を放ち城とともに焼け落ちたが、神社だけは再建された。
「お新府さん」と呼ばれる藤武神社は武田庄と藤井庄を見下す場所にあることから
この名が付いたとされています。


神社の鳥居



乙女坂

階段を登らずに行ける階段脇に小道があります。


東出構

東西二つの土手のような張り出しがあり、この間には堀が発掘されています。
「出構」は鉄砲のような新鋭兵器をもって敵の攻撃に備えるものであったようです。


西出構

このあたりは湿地帯で地面がじめっとしています。
靴が泥だらけになります。
湿地帯を横断しようとして私も滑って転びそうになりました(>_<)


水堀

水堀と湿地帯で構成される堀は滑りやすく、ぬかるみに足が取られてしまいます。
湧水が水源となっており、水堀と湿地帯とセットの二重の防御となっていたようです。
廃城後に水田となり堀の深さなどははっきりしなくなってしまったが、深い堀などもみつかっています。


桝形虎口

水堀を土橋で渡り桝形の虎口に到着します。こちらが搦め手側になります。
土塁に囲まれ一之門、二之門が構築され桝形内部はわりと広い構造である。


二之門

ここで発掘された礎石や炭化材からこの門は燃えて倒壊したことが明らかになりました。
礎石の上には焼けた柱の跡がのこっており、柱の太さが判明している。
奥行きのある門があったことは分かったのだが建物の形までは判明しておらず、まだ復元には
至っていません。今後の調査に期待されます。


七里岩

城の西側は断崖で自然の要害によって守られています。
西側はこのような岩肌の崖が続いています。

わずか68日間の在城にしてはかなり造り込んだ城のように思えるのですが
織田、徳川軍はそれ以上だったということなんですね。




韮崎市民俗資料館

韮崎市内の民俗資料や考古資料を中心に収蔵展示しています。
駐車場は20台ほどでここからの眺めも抜群です。


続百名城認定証

新府城が続百名城に選定され、スタンプ設置場所として韮崎市民俗資料館にスタンプが置かれる
ことになったのですが、新府城のスタンプ設置場所はここだけなのでなんとしても
ここが開館してる時間に来なくてはなりません。


スタンプ設置場所

受付前に設置されています。
最近どこの続百名城スタンプ設置場所で言われるのが城郭協会さんから頂いたスタンプ帳を
「初めて見た、見せて下さい」と言われます。
一般的には続日本100名城公式ガイドブック に付属しているスタンプ帳を持って巡っていると思います。
私も最初はそちらを持って巡ってましたが、城郭協会の会員さんには城郭協会のオリジナルスタンプ帳が
もらえます。
しかも作りも内容も実は城郭協会オリジナルの方がしっかりしていて良いです。
最近百名城も城郭協会のスタンプ帳を持って再び巡り始めています。(まだ制覇はしていません^^;)


ロビー

ロビーには新府城の模型が展示されていて、二階には民俗資料や考古資料が無料で展示されているので
覗いて行きました。


武田の里コーナー

武田に関しての資料は少ないのですが、そのほかの資料としてはそれなりに面白い。


猫の膳箱

こんな時代から猫と共存、かわいがられていたことがわかる資料です。
でも、ちょっと猫がこわい^^;



私の幼い頃にはこんな家の風景がわりと残っていたような気がします。
(ちょっとオーバーかな^^;)


古代の展示物

出土した土器の大きさにびっくり。
どれもわりと大ぶりでこれを焼く窯を想像するとかなり凄いことではないのか!と
得意分野ではないながらも驚きでした。


今回は続百名城スタンプを押すために訪れた韮崎市民俗資料館を書き足すため、
再編集致しました。


平成29年2月18日登城
平成30年6月3日再登城



続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス