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サーサーン朝ペルシアの文化 その①

2008-09-07 20:25:06 | 読書/中東史
 ベストセラー『ローマ人の物語』(塩野七生著、新潮社)の影響により、古代ローマの歴史や文化は一般の日本人からも関心をもたれるようになった。しかし、ローマと覇権を争った古代ペルシア(現イラン)は殆ど知られず、学者もかなり少ない有様。先日、サーサーン朝ペルシア時代の文化を記載した本が読めて、とても面白かった。

 サーサーン朝ペルシア時代には絢爛たる文化が花開き、東西にそれが伝播する。パフラヴィー語(中世ペルシア語)起源の単語がかなり欧州に流入していることから、ローマ帝国を通じて中世欧州の生活にも深い影響を及ぼした。これを同じアーリア人同士で共鳴するところもあったと推測する学者もいる。のちに中東を席巻するイスラムも、サーサーン朝の影響なくしては成立しなかった。そして中世欧州ほどではないが、中国や日本にもシルクロードにより王朝文化が伝わる。

 サーサーン朝ペルシア帝国は出生により、神官、軍人貴族、農民階級に分類され、己の所属階級からは容易に抜け出せぬ階級社会でもあった。その固定化された社会に君臨したのが、シャーハーン・シャー(諸王の王の意)の称号を持つペルシア皇帝であり、各地に分封された皇族王、7大貴族、一般貴族。また、帝国内での知的活動は識字階級であるゾロアスター教神官団により独占された。この史実のみに注目すれば、サーサーン朝は自由なき抑圧的封建社会の典型となる。
 だが、広大な帝国の富を集中した皇帝や貴族の宮廷、ゾロアスター教神官団を中心として、莫大な財力を背景に華麗なるペルシア文化を育成したのも事実である。その事情はローマ帝国も同じなのだ。王朝時代の音楽、絵画、料理、女性観、娯楽などは現代人にも通じるものがあり、興味深い。

音楽 当時使われた楽器としてチャング(ペルシア風竪琴)、ヴィン(ペルシア風弦楽器)、タンブール(ペルシア風ギター)、バルブド(ペルシア風ツィター)、ドゥンバラグ(ペルシア風横笛)、チャンバル(タンバリンの語源)、ウード(リュートの語源)などが知られている。これらの楽器を用い、宮廷の宴会で催される歌舞音楽が発達する。ターゲ・ボスターン(ケルマーンシャー州)のレリーフには、ホスロー2世(在位590-628年)時代の宮廷雅楽の様子が彫られている。楽器の中でもチャングを奏でソプラノで歌う美姫が最高の演奏者とされ、皇帝や貴族の寵愛を受けたという。

 以上の楽器を用いて演奏された音楽はホスロー2世時代、宮廷音楽家バールバドが「ホスラヴァーニー調」として集大成したと考えられている。彼が編集した360種類のメロディこそ、西アジアで完成された最古の音楽理論とされるも、現代はそれが再現する術はない。そして本来はメロディと対になって踊られたはずの舞踏については、何の資料も残っていない。サーサーン朝滅亡後、それを嫌うムスリムの迫害もあったのか。唐に亡命したペルシア人の踊りを中国人は胡旋舞と呼び、音楽にあわせて激しく旋回したらしい。

 ゾロアスター教には現世の享楽を悪と見なす発想は無く、逆に適度な享楽こそ善と捉えるので、音楽がゾロアスター教神官団により排斥されることは無かった。それどころか、サーサーン王朝宮廷では芸術家・技術者の中で音楽家の占める位置が最も高く、尊敬を受けていたらしい。従って、宮廷で洗練された歌舞音楽が、そのまま地方貴族の宴会で再現されたと考えられている。
 イランがイスラム化した11世紀に書かれた『カーブースの書』にも楽師の記載があった。蛇足だが、ズービン・メータフレディ・マーキュリーといったパールシー(インドのゾロアスター教徒)の著名人はいずれも音楽家である。

 一般にオーケストラといえば西欧発祥と思われがちだが、既にサーサーン朝時代、洗練された宮廷音楽団がいたのだ。美貌の歌姫や踊り子が人気を集めるのは現代も同じでも、今のイランではそのような者は望めそうもない。音楽さえ制限され、欧米のロックなど論外。対照的にインドは今も音楽や踊りが盛んな国だが、古代アーリア人は現代のインド、イラン人の祖先にあたる。イスラム以前のイランが歌舞音楽を重視していたのは興味深い。
その②に続く

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