細川ガラシャといえば、戦国時代に一途に信仰を貫いた敬虔なキリシタン女性の印象が強い。その悲劇的な死は彼女に貞女のイメージも植え付ける。だが、陳舜臣氏の短編小説はガラシャが信仰に救いを求めたことやその死も、全て夫の嫉妬が追い詰めた結果によるものと描かれている。
お玉(ガラシャ)は15歳で同じ年の細川忠興のもとに嫁ぐ。忠興も美少年と謳われたほどなので、さぞこの若夫婦は雛人形のように美しかったろう。忠興はお 玉を熱烈に愛する。当時の大名は多くの側室を持つのが普通だったが、忠興にはいなかったらしい。お玉は幸福な結婚生活を送っていた。嫁して4年後、父が謀 反を起こすまで。
戦国時代、謀反人の一族は尽く謀殺されるのが掟だった。忠興はお玉を殺すのは忍びなかったが、そのままにしてはおられ ず、細川家は彼女を丹後の三戸野の寺に幽閉することに決める。お玉には三戸野まで付き添ってきた小侍従という侍女がいた。小侍従はマリアという洗礼名を持 つキリシタンだった。熱心な信者だった彼女は悩み苦しんでいるお玉に天主教の教えを説く。苦労知らずのお姫様育ちだったお玉が初めて味わった逆境で、信仰 に耳を傾けたのは無理もない。
お玉は2年後に赦され細川家に戻る。だが、今度は夫・忠興の過剰な愛情という別の苦悩が待っていた。比類 なしと謳われたお玉の美貌は二十を過ぎたばかりであり、2年間の幽閉生活を経て精神的な美しさが加わり、どんな男も魅了するほどだった。忠興は妻の魅力が 男たちを惹き付けるのを恐れ、妻が男の目に触れぬよう隔離、幽閉状態にする。男の目に触れること以外なら、忠興は妻にどんなことでも赦し、戦国武将の夫婦 には珍しく出来るだけ妻の話し相手にもなった。
忠興の嫉妬について様々なエピソードがある。いくら男の目から遮断するといっても完全に 出来るものではない。妻の無聊を慰めるため贅を尽くした庭が造られるが、その手入れには男の庭師が必要だ。その庭師に妻が「ご苦労様」と声をかけたため、 血相を変えた忠興が一刀のもとに斬り捨てたと言われる。
また一説では、屋根瓦を修繕していた職人が足をすべらして庭に落ちたところ、「おのれ、奥に見惚れて足を踏み外しおったな、汚らわしい!」と斬ったとも。
天主教に関心を持つ妻のために、忠興は親友であるキリシタン大名高山右近のもとに行き、キリシタンに関する知識を仕入れて聞かせたりしたこともある。だ が、教会に行くことだけは赦さなかった。信徒になることよりも、異国の男の前に姿を晒すことなど論外だ。それでも強い信仰の力は、お玉に力を与える。小侍 従の手引きで変装して館を抜け出し、教会に向う。神父に接見中に彼女は踏み込んできた家臣により連れ戻され、以降外出はほとんど不可能となった。お玉が教 会に行ったのは生涯でただ一度だけである。
お玉の死も助けようとすれば脱出計画がいくらでもあるのに、あえて行わなかったのも、夫の嫉妬心ゆえだった。小説から抜粋したい。
「(お玉を失うのか。…)そう思うと、言いようもなく寂しい。だが、彼女が死ねばこれまで彼を苦しめてきた愛欲のしがらみから、解放されるのではあるまいか、との期待感もあった。ガラシャも夫の過剰の愛に悩んでいたが、夫の方も悩んでいたのである。嫉妬する男の心の中は地獄といってよいだろう。地獄から釈き放たれる」
夫の嫉妬心から細川ガラシャを描いた小説の視点も面白い。さすが、嫉妬では日本人の比でない中国人らしい発想だ。男と女でどちらが嫉妬心が強いか、意見は分かれるだろうが、これがより陰険なのは前者ではないかと私は思う。女性作家の永井路子氏はガラシャを生真面目で一本気な女性として描いていたが、運命に翻弄される薄幸な美女というのは男の作家好みのテーマだろう。
宮城県にこんな諺がある。「亭主が焼くほど、がが(妻、母の方言)はモテない」。戦国武将も現代の男も嫉妬の情には変化ないということか。「男は最初の男になりたがり、女は最後の女になりたがる」と言われるが、男の本音は最初で最後の男になることだろう。
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お玉(ガラシャ)は15歳で同じ年の細川忠興のもとに嫁ぐ。忠興も美少年と謳われたほどなので、さぞこの若夫婦は雛人形のように美しかったろう。忠興はお 玉を熱烈に愛する。当時の大名は多くの側室を持つのが普通だったが、忠興にはいなかったらしい。お玉は幸福な結婚生活を送っていた。嫁して4年後、父が謀 反を起こすまで。
戦国時代、謀反人の一族は尽く謀殺されるのが掟だった。忠興はお玉を殺すのは忍びなかったが、そのままにしてはおられ ず、細川家は彼女を丹後の三戸野の寺に幽閉することに決める。お玉には三戸野まで付き添ってきた小侍従という侍女がいた。小侍従はマリアという洗礼名を持 つキリシタンだった。熱心な信者だった彼女は悩み苦しんでいるお玉に天主教の教えを説く。苦労知らずのお姫様育ちだったお玉が初めて味わった逆境で、信仰 に耳を傾けたのは無理もない。
お玉は2年後に赦され細川家に戻る。だが、今度は夫・忠興の過剰な愛情という別の苦悩が待っていた。比類 なしと謳われたお玉の美貌は二十を過ぎたばかりであり、2年間の幽閉生活を経て精神的な美しさが加わり、どんな男も魅了するほどだった。忠興は妻の魅力が 男たちを惹き付けるのを恐れ、妻が男の目に触れぬよう隔離、幽閉状態にする。男の目に触れること以外なら、忠興は妻にどんなことでも赦し、戦国武将の夫婦 には珍しく出来るだけ妻の話し相手にもなった。
忠興の嫉妬について様々なエピソードがある。いくら男の目から遮断するといっても完全に 出来るものではない。妻の無聊を慰めるため贅を尽くした庭が造られるが、その手入れには男の庭師が必要だ。その庭師に妻が「ご苦労様」と声をかけたため、 血相を変えた忠興が一刀のもとに斬り捨てたと言われる。
また一説では、屋根瓦を修繕していた職人が足をすべらして庭に落ちたところ、「おのれ、奥に見惚れて足を踏み外しおったな、汚らわしい!」と斬ったとも。
天主教に関心を持つ妻のために、忠興は親友であるキリシタン大名高山右近のもとに行き、キリシタンに関する知識を仕入れて聞かせたりしたこともある。だ が、教会に行くことだけは赦さなかった。信徒になることよりも、異国の男の前に姿を晒すことなど論外だ。それでも強い信仰の力は、お玉に力を与える。小侍 従の手引きで変装して館を抜け出し、教会に向う。神父に接見中に彼女は踏み込んできた家臣により連れ戻され、以降外出はほとんど不可能となった。お玉が教 会に行ったのは生涯でただ一度だけである。
お玉の死も助けようとすれば脱出計画がいくらでもあるのに、あえて行わなかったのも、夫の嫉妬心ゆえだった。小説から抜粋したい。
「(お玉を失うのか。…)そう思うと、言いようもなく寂しい。だが、彼女が死ねばこれまで彼を苦しめてきた愛欲のしがらみから、解放されるのではあるまいか、との期待感もあった。ガラシャも夫の過剰の愛に悩んでいたが、夫の方も悩んでいたのである。嫉妬する男の心の中は地獄といってよいだろう。地獄から釈き放たれる」
夫の嫉妬心から細川ガラシャを描いた小説の視点も面白い。さすが、嫉妬では日本人の比でない中国人らしい発想だ。男と女でどちらが嫉妬心が強いか、意見は分かれるだろうが、これがより陰険なのは前者ではないかと私は思う。女性作家の永井路子氏はガラシャを生真面目で一本気な女性として描いていたが、運命に翻弄される薄幸な美女というのは男の作家好みのテーマだろう。
宮城県にこんな諺がある。「亭主が焼くほど、がが(妻、母の方言)はモテない」。戦国武将も現代の男も嫉妬の情には変化ないということか。「男は最初の男になりたがり、女は最後の女になりたがる」と言われるが、男の本音は最初で最後の男になることだろう。
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