その一、その二の続き
「アレッサンドロ六世とサヴォナローラ」は、タイトル通り2人の対立を描いている。法王の秘書官の1人バルトロメオ・フロリドの日誌とフィレンツェの薬種香料商人ルカ・ランドゥッチの年代記を交互に載せるかたちで作品が成り立っている。この両者が語り部となり、彼らの見たアレッサンドロ六世とサヴォナローラ像が描かれる。
ただ、前にこの作品を読みながら、バルトロメオ・フロリドの日誌に出てくるアレッサンドロ六世の台詞は創作くさい……と感じた。法王の発言は実は作者の意見ではないか?と思ったら、案の定最後の「付記」で完全な著者の創作である、とバラしている。
フロリド、ランドゥッチ共に実在の人物で、前者は法王の側近でもあった。しかしボルジアの側近には主人を見習ってか、日誌の類を書き遺した者は1人もいなかったという。書く方もそれでは困るので、当時の年代記や各国大使の本国への報告書、法王庁に送られた報告書などを材料にして創作したとか。
ランドゥッチの年代記も事件以外は簡単すぎるため、サヴォナローラの説教集や著書から引用したり、当時のフィレンツェの人々の手紙などを材料にして、その年代記を軸にして大幅に膨らませたそうだ。半分は著者の創作、と正直に語られていて笑ってしまった。
創作であっても、サヴォナローラの死を聞いたアレッサンドロ六世の台詞、「まじめだが、未熟な一人の男の生涯が終わった」は言いえて妙。実は著者によるサヴォナローラ評だが、その神権政治は僅か5年で終わる。5年でも欧州の先進国でルネサンスの中心地だったフィレンツェが、まじめだが未熟な一人の男による神権政治を熱狂的に支持したのは興味深い。
「ローマ・十六世紀初頭」で、初めてレオーネ十世という法王がいたことを知った読者が大半だろう。遊びと祭りに熱中していたおバカ法王ではなく、メディチ家の出自に相応しく鋭い政治感覚も持ち合わせ、陰謀を未然に防いだこともある。陽気であっても、これだけ派手に散財した法王に、カトリックのトップらしくないと違和感を覚えた読者は少なくなかったと思う。
『神の代理人』は後に新潮社からも出版され、その時の「読者に」というコラムが電子書籍でも見られる。その「追伸」には作品を書いた動機が述べられているので是非引用したい。
「宗教でも哲学でもまたあらゆる思想でも、中心から辺境に行くにつれてなぜか純度が高まって伝わる。キリスト教世界では辺境になる日本では、だからおかしくなるほど純粋でまじめなキリスト教になっているようです。その原因のもう一つは、日本のキリスト教信者には上質な日本人が多いという事情もあるかもしれません。
しかし、それゆえか、日本人の考えるキリスト教は、またキリスト教に限らず他の一神教であるユダヤ教やイスラム教に対しても、一般の日本人は尊敬の念をもって対してきたようでした。自分たちとはちがってまじめな信仰を持っている立派な人たち、という感じで。
ところが私は、キリスト教の本山のあるローマに来てしまったのでした。しかも、ルネサンスは創り出したけれど宗教改革はしなかったという、宗教的には少々不まじめな、それだからこそ人間性の現実を直視する能力には優れているといえなくもない、イタリア人を知ってしまったのです。
その私がキリスト教的なるものへの憧憬を持ち続けているまじめな日本人に向けて、そんなものじゃないのよ、という想いでぶつけたのがこの『神の代理人』。信仰を尊重する気持ち自体は十分に持っているのですが、尊重するのとその現実を直視することは矛盾しないと思っているからです……」
日本のキリスト教信者には上質な日本人が多い、と云う著者だが、下等な日本人キリスト教信者も劣らず多いのではないか?著者の知っている日本人信者は上質なタイプが多かったのだろうが、ネットには下劣極まるクリスチャンが徘徊している。キリスト教を批判するサイトにHNを色々変えて攻撃する者、昼夜問わず連投する者もいて、その類は拙ブログにも湧いて出たことがある。
有名掲示板に張り付き、殆ど引き籠りかニートとしか見えないクリスチャンもいた。ネットでは良くも悪くも他国の一神教徒の狂信性が知られるようになり、まじめな信仰を持っている立派な人たちどころか、キチガイや土人呼ばわりすることも。
キリスト教的なるものへの憧憬を持ち合わせてはいなくとも、大半の異教徒日本人はローマ法王に悪い感情は持っていないだろう。関心がなく、殆ど知られていないこともあるが、宗教指導者というのは何となく高潔で俗世に塗れていない人物というイメージが日本人にはある。そして宗教人が政治に介入することを極度に嫌う。
『神の代理人』に登場する法王はこぞって、多くの日本人がイメージする宗教指導者とは正反対なのだ。建前は政教分離のキリスト教だが、現代まで政治に介入しないことはなかった。
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