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星亨-明治の巨悪 その③

2010-06-13 20:21:15 | 読書/日本史
その①その②の続き
 さらに、国内問題についても政府に反対するだけではダメだという雰囲気が高まりつつあった。代議士たちの選出基盤である地方豪農(名望家層の動向)がそれで、彼らは道路、鉄道、治水などへの国家投資を待望するようになっていた。星亨は早くから、「議会が開かれた以上は破壊のみに努力することをやめ、国民の利益となるべきこと、特に商工業の問題の注意しなくてはならない。そうしなければ政党は国民に倦まれ、その信用を失墜するだろう」と考えていた。それゆえ、星は多くの人が唱えたかった藩閥政治との妥協・協力をはっきり言い、行動に移したに過ぎないと解釈もできる。

 しかし、星の行った政府との協力は多くの政党政治家の憤激を買った。藩閥政府を苦しめるのが彼らの願望でもあり生きがいでもあったし、それを簡単に変えることは人間にとって難しい。それに第4議会では政府は財政が苦しく国内への投資を殆ど増やすことが出来ず、ただ軍事費の膨張だけが目立った。星への反感が強まるのも当然だった。彼は第五議会のはじめ、明治26年の晩秋、ついに議長を不信任され、それは法的におかしいとして頑張るが(この点、星の側が正しい)、議員を除名される。こうして星は挫折、駐米公使としてしばらく日本を離れる羽目になった。

 それでも、政党が変化しなければ日本の政治はどうにもならないという事情は変わりなかった。極東に勢力を伸ばしてきたロシアに対抗するため軍備の拡張が必要となったし、そのための産業、交通・通信などの基盤整備が行われなくてはならなかった。世論もロシアに対抗するための軍事拡充を支持するようになった。だから、自由党の掲げてきた“民力休養・政費節減”は全く現実性のない綱領となっていた。
 だが、他に有権者に訴える政策を持たない既成政党は、地租増徴案に反対し続ける。明治31(1898)年、伊藤(博文)首相が地租増徴の必要を説き、それが受け入れられねば、「議会の解散を重ね、場合によって憲法の一部を中止する」という威嚇を行った。それに対し、自由党と進歩党は合同して憲政党を作り政府に徹底反対する構えを示した。その結果、大隈板垣に組閣が命じられ、政党党首が首班となる初の内閣となった。

 しかし、“隈坂”内閣は4ヵ月と極めて短命であった。それには陸海軍が望む軍拡を行わざるを得ず、内閣として地租増徴を回避し続けることは困難だった。さらに党員から政府のポストを要求する運動が強まり、内閣のそれを巡り、旧自由党系と旧進歩党系が反目するようになる。
 その夏、星亨は日本に戻ってきた。そして憲政党を分裂させ、“隈坂”内閣をつぶすために行動し、明治31年11月に成立した山縣内閣と協力し地租増徴を行った。この時の星の行動は「おしとおる」のあだ名通り、強引そのものだった。例えば地租増徴の賛成を得るため、相当の利権斡旋と宮内省の機密費を使った買収が行われたし、もちろん、京浜銀行ホノルル支店の資金も使われた。

 星は増税を認めて政府財政を増やすと同時に、それを公共事業や学校の設立などの形で使い、地方利益の増進を図った。それが党勢拡大の基本戦略となったのであり、日本の政党政治の体質を形成した。そのような体質こそ、国の近代化や文明開化を成功させるとともに、数々の疑獄や金権政治も行われる危険性も含んでいた。
 大正時代に入ると、実際に選挙にかかるカネは大きく膨らみ、格段にカネのかかるものとなった。それを集めるのが党首の最も重要な仕事だった。汚職が発覚するや、政治家が政治的に利用しないはずもない。互いに攻撃しあい、政治が利益化しているため、虚偽でも誇張でも宣伝は有効となった。当時の新聞もまた議員の醜聞を取り上げぬはずもなく、虚報やでっち上げでも紙面に載せる始末。

 大正時代も末となれば、星も結成に関りのある政友会と、そのライバル政党・憲政会は互いに反対政党のスキャンダルを暴き、足の引っ張り合いをした。かくして、政党は党利党略に走り、国民の間には腐敗しているというイメージが強まっていく。政治に権力闘争はつきものではあるが、政党間の政争と無原則は激しさを増していく。政争が無原則になる場合、国益が大きく損なわれる可能性も高まるのだ。
その④に続く

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