雅藍(がお)っぽさまるだし2。

芝居やゲームやWWEや映画やライブを糧に人生を何とか過ごしてる、そんな雅藍(がお)さんの日々をまるだし。

「可愛い」と「美しい」と「綺麗」について、考察その1

2006年02月07日 | 極私的考察論
昨日の続き。
…の前に、あらかじめおことわり。

この考察は基本的に「極私的」です。
別に検証してるとか、真理であるとか語るつもりはございません。
ので、それを踏まえたうえで、「コレはこうなんじゃないの?」とか
コメントいただけると結構嬉しいです。
この考察は、私の中で長期的にじっくり考えて生きたいテーマなので。


「可愛い」は「感じる」こと
「美しい」は「認識する」こと
そして「綺麗」は「思う」こと。


昨日はこの定義をしてみました。
一つ一つに考察を入れてみたいと思います。

まず「可愛い」。

「可愛い」って言うのは、捉え方で千差万別だと思います。
そして実は結構定義しにくい。
「可愛い子」ってどんな子?と、具体例をなるべく出さずに答えようとすると、
結構表現に困ってしまうのではないかと思うのです。
さらに「可愛い」ってどんなこと?と範囲を広げると、
その回答はどこまでも多岐に渡ることでしょう。
「可愛い子犬」「可愛い子供」「可愛いしぐさ」「可愛いおばあちゃん」
さらには昨日上げた「キモ可愛い」や「エロ可愛い」(…それはないか?)まで、
数え上げたらキリがないでしょう。

つまりそれは、「可愛い」と捉える側の根源的な要素、
例えば「感性」とか「感覚」とか、「本能」とかで「感じる」ものと
いえるのではないでしょうか?
だから、「可愛い」は「感じること」なのです。


続いて「美しい」。

コレは「可愛い」とは逆に、人は固定観念で捉えようと努力します。
端的な例が「黄金比率」。最も美しいとされる構成比ですね。
それ以外にも、「美しい」と言うことに対して人は「努力」をしようとします。
最初から「美しくある」のではなくて、
知恵や努力を重ねて「美しくなる」方がしっくりきます。
「努力」も「才能」のひとつです。
だから「美しい」は「才能」なのではないかと。
そして、その「才能」や「行程」を知るから、
人は「美しい」と「認識」するのです。

「美しい風景」と言うのも、「認識」ではないかと思うのですが、
実はコレに関してはまだ確証がありません。
でも「感じる」よりも「認識する」方がしっくり来ると思うのです。


というわけで、「可愛い」と「美しい」は似ているようで、
ベクトルが全く異なるものだと、私は思います。

そして、最後の「綺麗」ということ。
コレに関しては…、


時間切れ。
また後日。
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