雅藍(がお)っぽさまるだし2。

芝居やゲームやWWEや映画やライブを糧に人生を何とか過ごしてる、そんな雅藍(がお)さんの日々をまるだし。

「可愛い」と「美しい」と「綺麗」について、序章。

2006年02月06日 | 極私的考察論
大学の時、サークルノートに雑記みたいなものとして、
「美しいは才能、可愛いは本能」と言う文章を書いたことがあります。
結構真剣に2ページぐらいにわたって書いた記憶が。

暇だったんだね、きっと。


どこに「可愛い」と言うのを見出すのかは千差万別で、
ある人にとっては「可愛い」と感じても、
別の人から見るとそうは感じないと言うことが普通にあります。
その端的な例が「キモ可愛い」って言う表現。

一方、「美しい」って言うのは結構共通認識化しやすくて、
大体意見が同調出来るのではないかと思います。
「美しい人」「美しい心」「美しい風景」というものを考えると、
案外誰もが納得できる要素を挙げられるのではないかと。

その根本的な違いはどこにあるのかというと、
「可愛い」と言うのは、認識する側の「本能」に基づくもので、
「美しい」と言うのは、認識される側の「才能」に基づくものではないかと。

「可愛い」と言うものはあまり意識して作れるものではないし、
逆に意識しなくても可愛いと感じることが出来る。
一方「美しい」ということには意識的なものが介在されるのではないか、
「美しくある」「美しくなる」って言う行為には「努力」とか「技術」が
確立されやすいのではないかと。

そんな内容です。
割と若気の至りに満ちてますね。今思うと。

でも、そんなに間違っているとも思いません。

で、コレは私の中で極私的ながら結構重要な基本思考だったのですが、
最近とあることがきっかけで、ちょっと変化が生じてきました。

もう一つ、重要な表現があるのではないだろうか。
それは「綺麗」と言う表現。

「可愛い」「美しい」「綺麗」。
この3つの表現は似てるようで、実は全然別のベクトルを向いているのでは
ないかと思うのです。


「可愛い」は「感じる」こと
「美しい」は「認識する」こと
そして「綺麗」は「思う」こと。


さて。
最初に定義をした段階ではございますが、
時間切れのために今日はここまで。

この話はじっくりと考えたい話なので、
今後散発的に続いていきます。
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