雅藍(がお)っぽさまるだし2。

芝居やゲームやWWEや映画やライブを糧に人生を何とか過ごしてる、そんな雅藍(がお)さんの日々をまるだし。

おやすみ、そして、Good luck.

2006年05月28日 | それでもナントカ生きてます(日記)
5月に入って、見たい映画は結構あったんだけど、
モチベーションがなんとなく湧いて来なかった。

それはちょっとまずいと、私の中の何かが訴えたので、
ホントはうちでウダウダと片付けなりインナーワークなりを
こなそうかと思ったところを無理矢理動かして、
ちょっと久々の「TOHOシネマズ六本木ヒルズ」へ向かう。

どうしても見たい映画があって。

「Good Night, And Good Luck.」

コレは私の生まれるずっと前、1950年代にアメリカで起きた実話。
そして、今も我々が知らず知らずに抱えている問題。

アメリカで起きた「赤狩り」に立ち向かい、
正義を貫いたキャスター、エドワード・マロウとその仲間達の物語を、
全編モノクロで、まるで観客がこの事件当時のTV視聴者に錯覚させるかの
ように描いている。

割と短い映画で(正味90分程度)、しかも「物語」としての盛り上がりは
ほとんどなく、実に淡々と描ききっている。
多少の脚色はあるだろうけど、実に淡々と、あるがままに、
この話は進んで、終わる。
わくわくするクライマックスも、ニコニコしながら劇場を出るような
ハッピーエンドもない。
そんなもの必要ないからだ。


だって、この映画の根底に潜むテーマは、いまだ完結していないのだから。


「報道」と言うものは常に何らかの疑問と問題とを我々に問いかける。
「報道」は正しいのか否か。
本当に「真実」が伝えられているのかどうか。

新聞が出来て、ラジオに変わって、さらにテレビがそのメインに躍り出ても、
そして、インターネットで誰もが「報道」の真似事を出来るようになっても、
そのことはずっとずっと、変わらずに問い続ける。

幸か不幸か、私は東西冷戦の時代のことをそれほど知らずにすごしてきた。
青春時代の半ばでベルリンの壁は崩れ、レーガンとゴルバチョフは握手をした。

だけど、どうやら世界は今、あの当時よりも複雑で厄介で、
そして哀しい状況に陥ってるような気がする。
そう感じるのは、きっと私だけじゃないはずだ。

そんな中で、誰もが何かを伝える手段を得た今、
「報道」はどうあり続けるべきなのか。
「真実」を伝えるためには何が必要なのか。

「報道」の時代は、1950年のこの映画から、
ちっとも変わってないのではないだろうか。

朝日新聞のあのCMじゃないけど、
「言葉」は凄く繊細で、ちっぽけで、無力で、
だけど「言葉」は乱暴で、強大で、恐ろしいことを知っている。

我々は「言葉」の力を信じている。いや、信じたいのだ。
だからこそ、「報道」には誠実であって欲しい。


「中立」と「正義」は似ているようで違う。
私たちはどちらを求めるべきなのか?
そして、娯楽にまみれたまま、時として「真実」を忘れ、
「真実」をあざ笑い、そして「真実」から目をそむけようとする我々は、
「報道」とどのように向き合えばいいのか。

これは、「報道」に携わるものたちだけに向けられたメッセージではない。
「報道」と関わりを持つもの、「報道」を受け取る我々にもむけられた、
エド・マーロウのメッセージなのだ。

劇場を出るとき、私は笑顔にならなかった。
現在現実を考えると、笑顔になれるはずはなかった。


「ホテル・ルワンダ」、「マンダレイ」と、
「グッドナイト・アンド・グッドラック」。
今年になって、根底に同じテーマを掲げる映画を立て続けに見ている。

いつも考えるのは肩がこるけど、時々は、考えなくてはならないということ。
何も考えずに引き篭もったりセックスと享楽だけ追いかけていたりしたら、
あっという間に「赤狩り」は再開されるだろう。

世界はやっぱり、我々が思う以上に、混沌としているようだ。
何を見つめ、何を想い、何を叫ぶべきなのか。

我々と、我々の子供達が、「きちんとした世界」で生きていけるために。


真実と正義と平和を追い求める人たちに、
この世界で生まれた全ての人々に、
Good Night, そして Good Luck.
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