ジョイ・ディヴィジョンの1stアルバム『Unknown Pleasures』については、ウィキペディア(日本版)にも項目が立っており、また、このレコードをファクトリー・レコードから発表することになった経緯については、『Unknown Pleasures』コレクターズエディション版のライナー・ノートやドキュメンタリー映画『ジョイ・ディヴィジョン』などで知ることができます。ここでは特に、イアンの詩を理解するため、『Unknown Pleasures』制作過程でのイアンの生活に焦点を置いてまとめてみたいと思います。
『Unknown Pleasures』は1979年4月に録音、6月にリリースされました。イアンが癲癇を発病したのが1978年12月27日、妊娠中の妻デボラのお腹はこの頃にはかなり目立ってきていました。ナタリーが誕生したのが1979年4月16日、私生活において大きな変化があった時期と重なっています。
イアンはまだ公務員として働いていましたが、「後から考えてみると、家族を持ったのは分別のある行動と言えるものではなかった。私たちの経済状態はとても不安定な状況にあったからなおさらだ」(『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』第7章)とデボラが書いているように家計は楽ではなかったようです。しかし、「家族を持ちたいという私の願いはどんな金銭的な困難にも打ち勝つと思っていた」(同)というように、デボラにとっては母となることの喜びが将来への不安よりも勝っていました。イアンはデボラの妊娠を喜び、それは優しく接したようですが、予定日を目前にした4月のある日、突然「僕たちの他にもう一人ここに人がいる状態なんて想像できないよ」と言い出したというエピソードなどから、情緒不安定なところも窺えます。夫としての責任、父親としての責任、そしてバンドのフロントマンとしての責任を重荷に感じることもあったのではないでしょうか。
こうしたイアンの私生活などをアルバム制作のエピソードと照らし合わせてみると、創作と生活の対立がよく分かるように感じました。『Unknown Pleasures』の制作については上記の資料などがあり、語り尽くされているようにも思いますが、簡単にまとめた上で、イアンの伝記『Torn Apart ―The Life of Ian Curtis』と『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』にある、当時のイアンの様子について、記してみたいと思います。前者は創作に没頭する姿が、後者には夫としての姿が描かれています。
『Unknown Pleasures』は1979年6月にリリースされましたが、それより前の1979年1月に、ファクトリー・レーベル初のレコードとして発売された2枚組のEP『A Factory Sample』に、ジョイ・ディヴィジョンは2曲を提供していました。このレコードはトニー・ウィルソンのもとに入った母親の遺産を費用にあてて作られたもので、レコード会社としてのファクトリーの今後は、まだ未知数の状態でした。
その頃、ジョイ・ディヴィジョンは、メジャー契約を取ろうとしていました。1978年4月にRCAレコードで数曲録音したけれども結局契約に至らなかったことは既に記しましたが、この他に、ロンドンにある大手レコード会社ジェネティック(ワーナーのサブレーベル)のオファーを受け、1979年3月にレコーディングを行っています。しかし、結局「ロブ・グレットンは、トニー・ウィルソンのところであくせく働くことのほうが、a)より興味深い、そして、b)よりストレスも溜まる、しかしながら、c)最終的には報われる、と判断したんだ」(ピーター・フック 『Unknown Pleasures』コレクターズエディション版ライナー・ノート収録のジョン・サヴェージのレヴューより)ということになりました。
ジェネティックが提示した4万ポンドの契約金を蹴ってファクトリーと契約したのは、お金よりも独立性を優先したためでした。ロブ・グレットンはメジャーレーベルではなくインディペンデント・レーベルのファクトリーから1stアルバムを出す方が、“パンクの論理”にかなっていると考えた、と『Bernard Sumner ―Confusion』には書かれています(p 68)。『Torn Apart ―The Life of Ian Curtis』は、〈イアンの母と妹はイアンのモチベーションはお金にはないと信じていたが、デボラにとってはそうではなかった〉という書き方をしています。総じてこの本はデボラに批判的ですが、これもその一つです。デボラの方は、ファクトリーと契約したことについての契約金の不満などについては特に記していませんが。
ウィキペディア「アンノウン・プレジャーズ」項には「『メロディ・メイカー』誌には、ジョン・サヴェージによる「この年のどのLPよりも最高のものとなるだろう」という賛辞が掲載されたが、ヒットには結びつかず、グループのリーダーであったイアン・カーティスの死後の1980年8月に、ようやく全英チャート・インを果たす。」とあります。しかし、ここには事実誤認があって、『Unknown Pleasures』コレクターズエディション版ライナー・ノートによれば、地方都市マンチェスターで設立されたばかりのインディー・レーベルからリリースされた1stアルバムは、宣伝費も最小限に抑えられ、しかも初回限定5000枚は即完売したものの、イアンの没後まで再プレスされなかったのです。そのため、ヒットチャートには上らなかったということなのです。
このアルバムは、「前身グループ(筆者注:ワルシャワ)のパンク・ロック色の強いサウンドを内向的な方向へと深化させ、ぎくしゃくとつんのめるビートと覚醒的なギター・サウンド、内省的なボーカルによって、パンク以降のロック・ミュージックの新しい感覚を描き出し」(Web版『日本大百科全書』「ジョイ・ディビジョン」項)、続いて10月に発表されたシングル「トランスミッション」によって、「彼らは一躍ポスト・パンクの方向性を示したグループとの評価を受ける。」(同)ことになりました。こうしたパンク以後の流れを決定づけるバンドとして名を残すことになったジョイ・ディヴィジョンの成功をもたらした大きな要因として、必ず語られているのが、プロデューサーのマーティン・ハネットの存在です。
ドキュメンタリー映画『ジョイ・ディヴィジョン』本編に収録されず、スペシャルエディションDVDに特典として収録されているインタビューで、トニー・ウィルソンは『NME』誌のライター、ポール・モーリィの本『Nothing』(自身の父親の自殺やイアンの死について綴った著)を「モーリィの最高傑作だ」と評し、その中でも特に「マーティン・ハネットは“地球を周る月の音を聴く男”、見事なフレーズだ」と賞賛しています。この「見事なフレーズ」で形容されるにふさわしい、天才マーティン・ハネットが創り出した音とジョイ・ディヴィジョンの融合が、「新しい感覚を描き出し」たといえます。
※『Torn Apart ―The Life of Ian Curtis』からの引用は、特に注記しない限り、第10章「Unknown Pleasures」からのものです。
『Unknown Pleasures』は1979年4月に録音、6月にリリースされました。イアンが癲癇を発病したのが1978年12月27日、妊娠中の妻デボラのお腹はこの頃にはかなり目立ってきていました。ナタリーが誕生したのが1979年4月16日、私生活において大きな変化があった時期と重なっています。
イアンはまだ公務員として働いていましたが、「後から考えてみると、家族を持ったのは分別のある行動と言えるものではなかった。私たちの経済状態はとても不安定な状況にあったからなおさらだ」(『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』第7章)とデボラが書いているように家計は楽ではなかったようです。しかし、「家族を持ちたいという私の願いはどんな金銭的な困難にも打ち勝つと思っていた」(同)というように、デボラにとっては母となることの喜びが将来への不安よりも勝っていました。イアンはデボラの妊娠を喜び、それは優しく接したようですが、予定日を目前にした4月のある日、突然「僕たちの他にもう一人ここに人がいる状態なんて想像できないよ」と言い出したというエピソードなどから、情緒不安定なところも窺えます。夫としての責任、父親としての責任、そしてバンドのフロントマンとしての責任を重荷に感じることもあったのではないでしょうか。
こうしたイアンの私生活などをアルバム制作のエピソードと照らし合わせてみると、創作と生活の対立がよく分かるように感じました。『Unknown Pleasures』の制作については上記の資料などがあり、語り尽くされているようにも思いますが、簡単にまとめた上で、イアンの伝記『Torn Apart ―The Life of Ian Curtis』と『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』にある、当時のイアンの様子について、記してみたいと思います。前者は創作に没頭する姿が、後者には夫としての姿が描かれています。
『Unknown Pleasures』は1979年6月にリリースされましたが、それより前の1979年1月に、ファクトリー・レーベル初のレコードとして発売された2枚組のEP『A Factory Sample』に、ジョイ・ディヴィジョンは2曲を提供していました。このレコードはトニー・ウィルソンのもとに入った母親の遺産を費用にあてて作られたもので、レコード会社としてのファクトリーの今後は、まだ未知数の状態でした。
その頃、ジョイ・ディヴィジョンは、メジャー契約を取ろうとしていました。1978年4月にRCAレコードで数曲録音したけれども結局契約に至らなかったことは既に記しましたが、この他に、ロンドンにある大手レコード会社ジェネティック(ワーナーのサブレーベル)のオファーを受け、1979年3月にレコーディングを行っています。しかし、結局「ロブ・グレットンは、トニー・ウィルソンのところであくせく働くことのほうが、a)より興味深い、そして、b)よりストレスも溜まる、しかしながら、c)最終的には報われる、と判断したんだ」(ピーター・フック 『Unknown Pleasures』コレクターズエディション版ライナー・ノート収録のジョン・サヴェージのレヴューより)ということになりました。
ジェネティックが提示した4万ポンドの契約金を蹴ってファクトリーと契約したのは、お金よりも独立性を優先したためでした。ロブ・グレットンはメジャーレーベルではなくインディペンデント・レーベルのファクトリーから1stアルバムを出す方が、“パンクの論理”にかなっていると考えた、と『Bernard Sumner ―Confusion』には書かれています(p 68)。『Torn Apart ―The Life of Ian Curtis』は、〈イアンの母と妹はイアンのモチベーションはお金にはないと信じていたが、デボラにとってはそうではなかった〉という書き方をしています。総じてこの本はデボラに批判的ですが、これもその一つです。デボラの方は、ファクトリーと契約したことについての契約金の不満などについては特に記していませんが。
ウィキペディア「アンノウン・プレジャーズ」項には「『メロディ・メイカー』誌には、ジョン・サヴェージによる「この年のどのLPよりも最高のものとなるだろう」という賛辞が掲載されたが、ヒットには結びつかず、グループのリーダーであったイアン・カーティスの死後の1980年8月に、ようやく全英チャート・インを果たす。」とあります。しかし、ここには事実誤認があって、『Unknown Pleasures』コレクターズエディション版ライナー・ノートによれば、地方都市マンチェスターで設立されたばかりのインディー・レーベルからリリースされた1stアルバムは、宣伝費も最小限に抑えられ、しかも初回限定5000枚は即完売したものの、イアンの没後まで再プレスされなかったのです。そのため、ヒットチャートには上らなかったということなのです。
このアルバムは、「前身グループ(筆者注:ワルシャワ)のパンク・ロック色の強いサウンドを内向的な方向へと深化させ、ぎくしゃくとつんのめるビートと覚醒的なギター・サウンド、内省的なボーカルによって、パンク以降のロック・ミュージックの新しい感覚を描き出し」(Web版『日本大百科全書』「ジョイ・ディビジョン」項)、続いて10月に発表されたシングル「トランスミッション」によって、「彼らは一躍ポスト・パンクの方向性を示したグループとの評価を受ける。」(同)ことになりました。こうしたパンク以後の流れを決定づけるバンドとして名を残すことになったジョイ・ディヴィジョンの成功をもたらした大きな要因として、必ず語られているのが、プロデューサーのマーティン・ハネットの存在です。
ドキュメンタリー映画『ジョイ・ディヴィジョン』本編に収録されず、スペシャルエディションDVDに特典として収録されているインタビューで、トニー・ウィルソンは『NME』誌のライター、ポール・モーリィの本『Nothing』(自身の父親の自殺やイアンの死について綴った著)を「モーリィの最高傑作だ」と評し、その中でも特に「マーティン・ハネットは“地球を周る月の音を聴く男”、見事なフレーズだ」と賞賛しています。この「見事なフレーズ」で形容されるにふさわしい、天才マーティン・ハネットが創り出した音とジョイ・ディヴィジョンの融合が、「新しい感覚を描き出し」たといえます。
※『Torn Apart ―The Life of Ian Curtis』からの引用は、特に注記しない限り、第10章「Unknown Pleasures」からのものです。