『Unknown Pleasures』のレコーディングでのマーティン・ハネットとイアンについて、『Torn Apart ―The Life of Ian Curtis』第10章には、次のように記されています。
フッキーは、マーティンとイアンの間には、バンドには分からない、ある理解があったと断言する。「特に注意していた訳ではなかったが」と彼は言う。「僕たちはただマーティンがイアンの神経を和らげようとしているんだと思っていた。イアンはスタジオでかなりナーバスだったから。二人は2、3回パブに行ったと思うよ。そして再開するんだ。まあ、マーティンはただ飲みたかっただけかもしれないけど。多分両方だったと思う。ただ、マーティンがそこである種の親密さを構築したことは明らかだった。僕たちはその時はたいして気にしていなくて、ただただレコーディングが大嫌いだったけど、それはたぶんレコーディングの一環だったんだと思う。たしかにイアンはその後リラックスするようになったから。」
リンジー・リード(筆者注:トニー・ウィルソンの当時の妻)もまた、プロデューサーとシンガーの間のつながりに気付いた。「私はイアンとマーティンには特別な親密さがあったと思う。それはイアンが死んだ後のマーティンの悲しみを見て分かったことよ。」彼女は言う。「でも当時は特に気にしていなかった……それは彼らの間のプライベートなことだと思っていたわ。」
ハネットはカーティスにアイコンとしてのスター性を認め、それを歓迎したようだった。そしてそれはカーティスにとっても同じだった。ハネットがもたらしたカーティスの声と歌の成長は、彼の天才性を証明しただろう。ヴィニ・ライリー(筆者注:ファクトリー・レーベル所属のバンド、ドゥルッティ・コラムのボーカリスト、ギタリスト)は後にこう語っている。「僕は天才という言葉をあまり使わない……それは、使い古されていてしまりのない言葉だ。だけどマーティンに対しては、僕は天才という言葉を全くためらわずに使うよ。僕は彼と非常に密接に仕事をしたことがあり、彼の影響力を正確に見た。地球上に彼みたいな人はいない。マーティンに近いプロデューサーさえいない。天才だよ、実に……うん。」
ピーター・フックもまた、マーティンは天才だ、と語っています。『Unknown Pleasures』コレクターズエディション版ライナー・ノート収録のジョン・サヴェージのレヴューから引用します。
問題は、彼が人をどうしようもないバカだとしか思っていなかったことさ。彼のおかげでそこに居ることができるんだ、と。それはドラッグのせいだと思う。デレク・ブランドウッド(筆者注:1970年代後半にマンチェスターで活躍したバンド、サッド・カフェのマネージャー)は常々言っていたよ。マーティン・ハネットと一週間を過ごせば、何年も続いたバンドでさえもすぐに崩壊してしまう、って。彼は事を荒立てるのが好きだったんだ。とんでもない奴だったよ。だけど“天才”だった。
リンジー・リードは、「マーティンは狂ってると言われるけど、そうではなかった。マーティンは職人よ。彼はそれはそれは几帳面で、そして自分が何をしているか分かっていたわ」(『Torn Apart ―The Life of Ian Curtis』)と語っていますが、マーティンがその才能をフル稼働して仕事に没頭する時、異様なオーラを醸し出していたらしいことは想像されます。バーナード・サムナーやピーター・フックはマーティンにかなり反発したようですが、イアンとは互いに引かれ合うところがあったようです。
イアンがマーティンから受けた影響については、デボラの『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』第7章に次のような記述があります。
イアンがマーティン・ハネットの仕事ぶりに感銘を受けたと言うなら、それは控えめな言い方だろう。彼は、グラスを叩き割ったり手拍子を入れたりするサンプリングに熱狂しながら家に帰って来た。ハネットはすでに、変わったサウンドや雰囲気をレコーディングすることにかなりの経験があった。またジョイ・ディヴィジョンのドラムの処理は彼の素晴らしい能力で彼らの音楽に不可欠な要素となった。彼らの考えや必要なことを共同芸術作品を作るように翻訳してしまうハネットの能力は、ジョイ・ディヴィジョンにとって必要不可欠な触媒役となった。イアンは新しいプレイメイトたちととてもうまくやっているように見えた。
『Torn Apart ―The Life of Ian Curtis』には、「ロブ・グレットンは、イアンの音楽への集中は揺るぎないものになったと感じていた。」とあります。このレコーディングのあたりからイアンには明らかに変化が見え、「前に出てくるようになり」、そして「強く自分のアイディアを主張するように」なった、というロブの言が載っています。
「イアンは実際には曲を書かなかったけど、優れた編曲家だった」とバーナード・サムナーは言う。「僕らに指示を与えていたよ。そんな時の彼はとても熱心だった。イアンは『アンノウン・プレジャーズ』の楽曲で存分に本領を発揮していたと思うよ。」(『Unknown Pleasures』コレクターズエディション版ライナー・ノート収録のジョン・サヴェージのレヴュー)というような音楽への姿勢、そしてボーカリストとしての、作詞家としての才能はマーティンの影響下で大きく変わりました。
こうして創作の世界へ没入する一方で、家庭では妊娠中の妻をいたわる良き夫として振る舞っていたようです。
フッキーは、マーティンとイアンの間には、バンドには分からない、ある理解があったと断言する。「特に注意していた訳ではなかったが」と彼は言う。「僕たちはただマーティンがイアンの神経を和らげようとしているんだと思っていた。イアンはスタジオでかなりナーバスだったから。二人は2、3回パブに行ったと思うよ。そして再開するんだ。まあ、マーティンはただ飲みたかっただけかもしれないけど。多分両方だったと思う。ただ、マーティンがそこである種の親密さを構築したことは明らかだった。僕たちはその時はたいして気にしていなくて、ただただレコーディングが大嫌いだったけど、それはたぶんレコーディングの一環だったんだと思う。たしかにイアンはその後リラックスするようになったから。」
リンジー・リード(筆者注:トニー・ウィルソンの当時の妻)もまた、プロデューサーとシンガーの間のつながりに気付いた。「私はイアンとマーティンには特別な親密さがあったと思う。それはイアンが死んだ後のマーティンの悲しみを見て分かったことよ。」彼女は言う。「でも当時は特に気にしていなかった……それは彼らの間のプライベートなことだと思っていたわ。」
ハネットはカーティスにアイコンとしてのスター性を認め、それを歓迎したようだった。そしてそれはカーティスにとっても同じだった。ハネットがもたらしたカーティスの声と歌の成長は、彼の天才性を証明しただろう。ヴィニ・ライリー(筆者注:ファクトリー・レーベル所属のバンド、ドゥルッティ・コラムのボーカリスト、ギタリスト)は後にこう語っている。「僕は天才という言葉をあまり使わない……それは、使い古されていてしまりのない言葉だ。だけどマーティンに対しては、僕は天才という言葉を全くためらわずに使うよ。僕は彼と非常に密接に仕事をしたことがあり、彼の影響力を正確に見た。地球上に彼みたいな人はいない。マーティンに近いプロデューサーさえいない。天才だよ、実に……うん。」
ピーター・フックもまた、マーティンは天才だ、と語っています。『Unknown Pleasures』コレクターズエディション版ライナー・ノート収録のジョン・サヴェージのレヴューから引用します。
問題は、彼が人をどうしようもないバカだとしか思っていなかったことさ。彼のおかげでそこに居ることができるんだ、と。それはドラッグのせいだと思う。デレク・ブランドウッド(筆者注:1970年代後半にマンチェスターで活躍したバンド、サッド・カフェのマネージャー)は常々言っていたよ。マーティン・ハネットと一週間を過ごせば、何年も続いたバンドでさえもすぐに崩壊してしまう、って。彼は事を荒立てるのが好きだったんだ。とんでもない奴だったよ。だけど“天才”だった。
リンジー・リードは、「マーティンは狂ってると言われるけど、そうではなかった。マーティンは職人よ。彼はそれはそれは几帳面で、そして自分が何をしているか分かっていたわ」(『Torn Apart ―The Life of Ian Curtis』)と語っていますが、マーティンがその才能をフル稼働して仕事に没頭する時、異様なオーラを醸し出していたらしいことは想像されます。バーナード・サムナーやピーター・フックはマーティンにかなり反発したようですが、イアンとは互いに引かれ合うところがあったようです。
イアンがマーティンから受けた影響については、デボラの『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』第7章に次のような記述があります。
イアンがマーティン・ハネットの仕事ぶりに感銘を受けたと言うなら、それは控えめな言い方だろう。彼は、グラスを叩き割ったり手拍子を入れたりするサンプリングに熱狂しながら家に帰って来た。ハネットはすでに、変わったサウンドや雰囲気をレコーディングすることにかなりの経験があった。またジョイ・ディヴィジョンのドラムの処理は彼の素晴らしい能力で彼らの音楽に不可欠な要素となった。彼らの考えや必要なことを共同芸術作品を作るように翻訳してしまうハネットの能力は、ジョイ・ディヴィジョンにとって必要不可欠な触媒役となった。イアンは新しいプレイメイトたちととてもうまくやっているように見えた。
『Torn Apart ―The Life of Ian Curtis』には、「ロブ・グレットンは、イアンの音楽への集中は揺るぎないものになったと感じていた。」とあります。このレコーディングのあたりからイアンには明らかに変化が見え、「前に出てくるようになり」、そして「強く自分のアイディアを主張するように」なった、というロブの言が載っています。
「イアンは実際には曲を書かなかったけど、優れた編曲家だった」とバーナード・サムナーは言う。「僕らに指示を与えていたよ。そんな時の彼はとても熱心だった。イアンは『アンノウン・プレジャーズ』の楽曲で存分に本領を発揮していたと思うよ。」(『Unknown Pleasures』コレクターズエディション版ライナー・ノート収録のジョン・サヴェージのレヴュー)というような音楽への姿勢、そしてボーカリストとしての、作詞家としての才能はマーティンの影響下で大きく変わりました。
こうして創作の世界へ没入する一方で、家庭では妊娠中の妻をいたわる良き夫として振る舞っていたようです。